仰 月斗先生

松本島春

 

 

月斗先生と私

 

平成十年は、青木月斗先生の五十回忌に当たる。春星舎には、戦後の水禍で幾ばくかは失ったが、月斗先生の書かれたものが、それこそ、句会での筆跡(選稿の朱はもう薄れている)とか、封筒も、戦後間なしの往信を裏返して使われたもの(墨の部分はよいがもう触れるとぽろぽろする)や紙質の良い茶袋を使ったものなどまでが保存してある。

もう先が短いからと言って、正氣庵ならあとは島春が居るから散逸しないだろうと、三原へ送って寄越された古い同人の方もいる。紙切れを尊ぶのではない。そこに全人的な師弟の在りようを見る。

父正氣宛ての二通の電報も残っていて、「センセイヒビ ニスイジ ヤクセラルメメ」が、昭和二十四年三月十七日午後七時二十分受付で受信は十時四十五分、世を去られた十分後にこれが着いたわけだが、時間外なので翌朝の配達である。もう一通はウナ電で、十九日午前九時三十分の「ゲ ツトシス二○ヒミツソ」メメ」である。

その二十日の大和大宇陀での密葬には、急遽父正氣が駆け付けてお別れをした。大そう冷える日だったと聞く。そして生前遂にお帰りにはなれなかった大阪の、四天王寺での本葬には、高校生の私も父に同道した。四月十七日で、本坊の庭園にその年は遅れた桜が舞っていたこと、ずいぶん多くの弔辞があったこと、それと菅裸馬先生の風貌の記憶がある。

その以前、先生の病篤しということで、三月五日、筑前の阿部王樹さんと入れ違いに、大宇陀一泊のお見舞いに父と中学に入る前の男兒君が行った。先生に句を見て頂いたらしいから、若しかして、先生が句を閲せられた最後かも知れない。

今思えば、私が先生の温容に接した最後の機会は、その前年の昭和二十三年五月、女々夫人とご一緒に我が家にいらしたときになる。瀬戸田耕三寺での写真がある。男兒君文武君も写っている。

戦前から、先生は、西国俳句行脚の途次きまって我が家にお立ち寄りになり、気軽に泊って下さっていた。父は大阪で師事した学生時代そのままに、生涯、先生を敬い、先生に甘えていた。われわれ子供たちは、先生をお迎えする両親の様子を見て、とにかく偉い先生だと、幼い胸に刻み込んでいたのである。

終戦直後の水害で我が家が半壊し、近くの善教寺の裏の文字通りの陋屋に移っていた昭和二十一年夏も、その翌々年も、歯の治療も兼ねて往路と復路とお泊り頂いた。

寺の本堂で句会をするので、雨中みんなで手分けして案内に回ったりした。『同人』復刊第五号に、犬塚春半(春径長男幹夫)阿部春鳥(王樹二男東吉)共々、先生が「三俊三春」と題し、「正氣の長男の島春は父の大音声の雄弁に似ず、静かな、女にもせまほしき温厚な、もの言はずの中学生である。家にあっても句会でも父の命をよく奉じて、よく立ち働く。句もすなほで中々うまい。島春は本名である」とあるのは、二十一年夏の句会である。

幼い私が父と栗原季観さんと、大阪の子規忌に行ったことがある。安田万十さんご記憶の私の乳歯の前歯金冠は、技工士の悪戯だが、それが気に入って外させなかったというから、幼稚園の頃だろう。天王寺動物園がお目当てで、句会の席では周囲の誰彼かまわず、おい、あおきげっとをしっとるか、すいかあたまど、と前歯を一本光らせた小さいのが騒いで宗田千燈さんに叱られたりし、当時は「もの言はず」どころか、こ生意気でお喋りだった、らしい。
 先生は島春のゴッドファーザー(名付け親)である。トウシュンと読む。父は届け出る際に、先生が書かれた通りにルビを振ったので、私の歯科医籍もルビ付きである。大勢の中で例の大声で「おい、トウシュン!」と呼ばれる少年は、ある程度の歳月はそれが負担であった。ついでだが、ずっと湯室月村さんだけはシマハルはんと呼んでいた。

私の生まれた日は、満州国建国の間近で、第九師団が上海に上陸の最中なのだが、講談社の週刊『日録二十世紀』で見てみたら、この日の日録は「小学校の洋服普及目的に子服材料会創設」とつまらない。

『文藝春秋』第拾巻第四號が残っていて、誌面は、普選、満蒙新国家、上海事変、団琢磨暗殺などが目に付く。窓欄の歌人は、前田夕暮が「ひとりのわかものを、上海に送るといふのだ、亢奮した朝の村の娘達」以下、土屋文明も「上海のいくさの写真今日みるは柳萌えし水に兵一人立てり」と始まる。ところが、俳人は月斗、句佛であるが、句佛のほうは「梅晴るる信濃は蠶飼用意して」という風な近詠五句で、俳句は俳句であるといえる。

月斗先生のほうは、「消息三四」と題して、「備後横島にある正喜。長男を挙げて撰名を乞ひければ島春と命じて 島の春魚寄り波の寄するなり」以下前書付きばかりの十句で、いかにも先生らしい。先生のネームだけが欲しい俳句外の向き、見る目を持たざる向きには大体こうである。

このいわば高踏的な態度、それは当時の改造社『俳句研究』に応対する場合にも見られる。雑誌もそうだが、特に『俳句三代集』の選にあたってのあれこれに、その見識を知ることが出来る。己を知るものを相手にするのである。そして一切の評価は百年後の知己に委ねるのである。

前身の『桜鯛』が戦時廃刊し『春星』が出る前の戦中戦後、半紙に筆で出句を認め、それに先生が印しをして選の上返送していただくという時期があった。その形のまま『春星』の月斗選に引き継いだ。

その頃の私の句稿に「風邪の父気侭が多くなりにけり」というのがあって、その脇に、朱筆で「これで句としてはよいが、父を批判する如きは予は採らない」とある。中学生の私に対って「予は採らない」の語は、月斗先生の俳句に対する態度、人格的な取り組みが表れているではないか。

父は、「春秋の彼岸の前の忌日かな」と、月斗忌も秋の子規忌も共に欠かさず修して来た。生前最後の四十三回忌句会は、桜が咲くのを待っての四月七日であった。米寿の祝いを兼ねてのことで、鼻管酸素吸入に車椅子の身ながら、父の気力は十分であった。

月斗先生を語ることは、決して単なる追慕、追善にとどまるものではない。そして語れる過去を持つことを幸いとしたい。

(平成十年三月)

 

 

魂の継承者

 

月斗忌月である。五十年前の一周忌に当たり、菅裸馬先生に『月斗學』という珠玉の文章がある。故翁の豊かな自然愛人間愛を称えるとして、「世にも境にも親しみ、自然には謙虚に、人事には純真に正しく、澄み、徹し、泥まぬを目標として、此方向に向かって一歩でも近く進み寄る工夫をせねばならぬ。句は人を示し、人は句を示す」と、魂の継承者としての志を述べておられる。爾来、そのはもとより、作家としての手選者としての眼は、月斗先生と同じく、一頭地を抜く存在であられた。

昔、多分鋭い警句を吐く秋田の五空という人だと思うが、月斗は小学校教師のようだと言ったらしい。その本意は別としても、格段に優れた作家であるのに加え、育て導く存在であるという面で頷ける。裸馬先生は、投句雑詠欄は誌の心臓部であり生命線であり、結社の選者として、ほかならぬ自分の選を目指す者に応える、と日夜これに渾身の情熱を注がれた。まさに教化者の生き方である。

昨秋、大和路を明日香へ辿った際、東に連なる山の向こうが月斗先生の没せられた大宇陀かと見やった。弟の男兒は、父正氣に連れられて、病篤い先生のお見舞いに参じたが、私はこの地を踏んだことがない。敗戦後のご不自由な最晩年を暮らされ、遂に終焉の地となるのが、大阪でなく大宇陀であった先生のご無念を察すれば、その気持ちにはなれぬ。

父正氣の大宇陀行きが三月五日だから、その直後の

三月八日の

臨終の庭に鶯来りけり  鳴きにけり

臨終の庭鶯の玲瓏と

沈丁を達磨にしたり春の雪

水取も半ばとなりぬ春の雪

が、先生の句帖に記された句としては最後という。病苦の中、死を前に何とも澄明な作品ではないか。

 十七日の忌日は、奇しくも師子規の秋のそれと同じく、彼岸の入りの前日に当たる。お水取りは一日から十四日まで、山里にも春暖の兆しは犇いている。庭の沈丁花は蕾ひしひしと、床に活けた紅梅は開いてまるで桃の花のようだ。やがて鶯も来鳴くであろう。端唄の「梅はさいたか、桜はまだかいな」である。

句が人の真の姿であるならば、晩年を語るそくばくの紙片は手元にあるが、家庭のこと生活のことの如何は、史家評者はともかく、実作者の問うところではなかろう。末を求め影を逐うこと勿れ、である。

(平成十二年三月)

 

 

「月斗墓」

 

大阪の俳人、青木月斗の墓は、蕪村の墓がある京都金福寺にある。蕪村の、芭蕉への思いである「我も死して碑に辺せむ枯尾花 蕪村」は、この寺の芭蕉庵蹟である。蕪村の句に同ずる発想の所以であろう。だが、「木曽殿と塚をならべて」の芭蕉は芭蕉らしく、「碑にほとりせむ」の蕪村は蕪村らしくと、事の次第を思いやるとき、このお墓、月斗師らしくというか、月斗弟子らしくというか、魯庵和尚らしくというか、そんなふうに思いが深まる。

戦争末期の空襲下、やむなく先生は大宇陀へ疎開されるに至った。大阪へ帰ることを生前どれほど望まれていたか、察するに余る。そして、以後の先生は、人も句も、まさに旅人であったと感じる。身辺を詠まれた最晩年の句のほとんどは、これを旅吟として解すればよいと、今私は思う。

先生の句帖で、ご辞世を含む最後の句作は三月八日であるが、その一週間前に「臨終の庭南天と沈丁と」の句が記されていた。「南天と沈丁と」とは現在の仮寓の時空である。はや淡々と大宇陀での死を肯うて居られるかのようで、何かホッとするが、よけいに涙ぐましくもある。

三月二十日密葬と電報がきて、最後のお別れに急遽父は大宇陀へ向かった。五日に男兒と泊まり掛けのお見舞いに参じてより僅か半月後である。末期の水を捧げ、「花の旅夢見て在す仏かな 正氣」の句がある。

思えば、昭和二十一年に『同人』が復刊、先生が戦後初の中国九州吟旅へと発たれた時の紀行に、「三原港より小汽艇にて大三島詣を企つ。大三島の大山祇神社は伊予一の宮といふ。中国より四国の領分へ来て居るなり。島は厳島位か。町をなしをれり。旅館も数あり。神社参拝。国宝館見物。金福旅館に上りて昼食す。」の文字がある。港から神社までの道沿いの宿で、後で父から聞いたところでは、「金福旅館」の看板を一見された先生が、「やあコンプクやな」と仰ったそうだ。ほんとは金福(かなふく)旅館というのだが、先生には、蕪村の金福寺のそれであった。

墓碑は、一周忌の年の昭和二十五年秋に建立された。川瀬一貫氏の配慮尽力が大きい。「月斗墓」は先生の字で、裏面の「大阪の人 青木新護 同人社建之」は裸馬筆である。お墓の点眼法要には、その年大学へ入って枚方住まいの私も、三原からの父と共々に参会した。もう五十年を越えたことになる。

この金福寺の地、先生のお眠りにはよい。

(平成十三年三月)

 

 

世に問はず

 

既述のように月斗先生はお亡くなりになる直前まで春星俳句の選をして下さった。半紙に清書したものを朱筆で選句添削され、返送されるのである。表3に掲げた「埋火」の正氣句稿は、三巻一号(昭二三)掲載の句で、中学以来三十年の句歴を経ての感懐である。敢えて孤高をよしとするのではないが、これは自信を以て自分の道を進むという姿勢であろう。

昭和二十七年の月斗忌席上、正氣前主宰は、月斗先生から頂いた古い葉書を紹介された。「改造社が三代集を出してから、余は縁切りにした。俳句研究の選も断った。未だにいうてくる。出句もせぬ。塵捨場のやうな処に互するのは堪へぬではないか。百号に是非というから一句やった。午後四時の菖蒲の風呂や百艸湯。百艸の屑を入れた湯を百艸湯といふ。午後四時、昼とも夜ともつかぬ時間だ。のせている」。この祝句?は大胆不敵というか。

きっかけは『俳句三代集』の審査方法だが、かくして『同人』は俳壇から遥か遠ざかる。戦時廃刊の際の『このみち』よりの統合(編集発行人)辞退も、事態は異なるが、結社のリーダーとしての当時一つの見識であろう。

それが現在のような社交機関としての俳壇ならともかく、こと結社の俳句理念に基づく場合ならばである。もっとも、止むなきリーダーとしての発言を、うまくその真意に添うものとする、目の開いた、心の届いた弟子の存在の必要は言うまでもないことも前主宰は言っていた。

 文淵堂や俳書堂、改造社、輝文館等いずれかより世に出ていたことであろう先生の、その著書なき理由の「予は句の神様が今日不在明日不在なのだ。又昨非今是といふ語があるが、予は昨非今非尚今非明非を恐れて」を、いつまでもその文字面だけを見ていたのでは、先生の古稀を機に刊行された『月斗翁句抄』も有り得なかったのである。生前間に合わなかったのは残念であったが。

 座右宝刊行会の森川静男氏の春星舎の古短冊取材を機縁に、『俳人の書画美術』第七巻「子規」(昭五四集英社)に和田茂樹先生執筆で、鳴雪、為山、極堂、青々、霽月と共に月斗先生の書や画も付される事になったのは、没後三十年、何よりの報恩であった。

以来、近時、月斗研究を散見するのは嬉しい。特に『うぐいす』の編集、のち『あじろ』を主宰しての角光雄君のこの方面の尽力を多としたい。

(平成四年三月)

 

 

月斗四十六回忌に

 

誌上、福田清人先生に『俳諧徒然草』を連載して頂いて居り、これは既に明治書院、宮本企画より刊行されているが、旧冬お目を悪くなされた由で暫くの休筆は淋しい。

その昨年十一月号「月斗句鑑賞」の文中で、林火、楸邨による月斗作品評釈の句の出典が不明とされているが、これはどちらも昭和四年の改造社『現代日本文学全集』第三十八篇所載(二頁ランクで計六十六句)に拠るものと思われる。この本の序に、句の選択は「現存俳人にあっては自選を乞ひ」とあるので、それ迄の一応の代表作と見られるが、林火、楸邨両氏ともごく初期の月斗句にとどまる鑑賞ということになる。

成書としての月斗句の集約としてもう一つの『月斗翁句抄』は、類題の『同人俳句、第二、第三句集』よりの全句再録である。第一句集である昭和六年の『同人俳句集』は、改造社の歳時記など同人派の例句に引かれているが、月斗句は主に昭和五年の作から採ったものに過ぎず、第四句集『時雨』の晩年の句もこれに入っていない。

句誌や類題句集からの抽出は面倒であり、単行本にまとめていない作家の評価は、縦に言い伝えられては行くが、不要と言えばそれまでだが、横には、いわゆる世間的には難しいようだ。師の遺風の顕彰とはどういうことであるのか。

その創刊した『同人』は今年通巻八百五十号を迎えるが、月斗師評価につき、かつて、正氣は、各地句会で先師を慕い祀る行事がありながら、春の歳時記に「月斗忌」を逸していることを嘆じて、「生前の輝かしい月斗の名は、現俳壇では淋しくなってしまってゐる。それにはいろいろの要素があり、今ここでは略するが、われわれ門下としては、門下のうちより傑れた作家が多数現れることである。先生は地下より、正氣、そんなことはどうでもええやないか、と申されながらも、内心期待してゐらるゝ気がしてならぬ」と言った。

月斗先生ご在世時、主宰する『同人』の他にその発行をお許し頂いての月斗題字のものは、戦前は岐阜大垣の高橋金窓の『新樹』と正氣の『桜鯛』、戦後では『春星』と筑前の阿部王樹の『小同人』がある。『春星』の題字はそのまま使っているが、原本が逸失し、古い謄写からの複写なので残念ではある。

先生の忌を修することも、俳誌の継続も、門下作家の傑出を期してのことであるのは言うまでもない。良き作家の輩出を『春星』は念願する。

(平成六年三月)

 

 

師に倣う

 

先月は月斗忌号なので、表紙裏に古い時代の肖像画を掲げた。「擬月斗兄」の戯れ書の軸の方は内藤鳴雪で、その本名素行からの鳴雪を更にもじって迷拙と記している。短冊の方は赤松麟作画伯の筆で島道素石、青木月斗、三好風人、秦菰聖窟の四人の顔を描いたものの上半分である。大正七年暮だから『同人』創刊の二年前である。素石の右手は例の蕪村の句を刻んだキセルか。月斗の左手はまさしく酒盃である。この十年前の文に、「下戸とはいへぬやうになった。これは全く友人の御陰である。曰く鬼史、曰く北渚、曰く墨水、曰く素石……」と。

第五十巻の記念に、先生の古い時期の筆跡を少し載せてゆくことにする。明治四十年四月以前は月兎と号している。序でだが句会での先生の名乗りはゲットーと語尾を上げての力強いものであった。昨今の句会の名乗りのかぼそさは、自句への責任不在である。

これまた余談だが、兎から斗への改号に当たって、月斗の他にいろいろとト、トウの音の字について検べられていて、その中でも東、豆、兜ほか二字には印しがあるが、その字義の上でも字形の簡明さでも「斗」がべストである。同じ頃芦田秋窓も秋双と改めた。やはり字画の単純化であろう。なお亀田小蛄さんは小古を肯わなかったとか。

字も言葉も重んじられた時代であった。昨今、釣瓶も見なくなっての秋の「つるべ落し」とか、齢は満で取り正月行事も寂れての「数へ日」等々頻出するのも何だか変だが、あの「俳枕」の語を見かけなくなったのは良い。うたまくらのパロディとしては秀逸だが、麗々しく口にされると困る。はいまくらで思い浮かぶ語は灰神楽ぐらいだ。

 さて、月兎時代の短冊「我庭は梅の落花や初桜」「其棚に泣きかたりたる雛のぬし」と下村為山画伯の釣鐘の絵に「彼岸会や南に霞む天王寺」を掲げる。「初桜」は明治三一年(二十才)頃の書という。

史的な意味云々よりも、信じる師の寸簡断墨をも尊ぶ弟子としての心情を言いたい。学びの道、師弟の道は縦型であることをここに見るのである。弟子は横並びで、ただ前を向いて疾走するのである。

譬えは悪いが、あばたもえくぼになるほどに好ましく見つめることである。これも前主宰の言を借れば、惚れて通えば千里も一里会わず帰ればまた千里というもので、その方が楽な師事行路でもある訳だ。月斗、正氣を月々に述べる所以である。

(平成七年四月)

 

 

俳句は味と姿

 

月斗先生には申し訳ないが、今月掲げた先生の短冊の中の一枚は、実は、裏面に「酒さげて伏見の桃に遊びけり、の書損也」と記してあるものである。

 ちょうど一年前の『日経』夕刊に書家の榊莫山さんが、「墨の美十選」の内に、これは色紙だが「酒さげて伏見の桃に遊びけり 月斗」を載せて、「この書には春の風もナノハナ畑も浮かんで楽しい。そして酒の香りに酔わされる」と言って居られるのを、さっそく男兒君か切り抜いて送ってくれた。先生の名がマスメディアに出ることは希なので、皆懐かしく嬉しいのである。

酔後一睡の後、先生は、古梅園の『紅花墨』をとろりと磨ったなかに、平安堂の『龍眠』の穂を浸し、短冊の揮毫に掛かられる。ふうっと息をして何枚目かの上短冊に「桃」と一宇書かれたところで、筆を止め大きな息をつかれて……。筆継ぎの見当がつかないのでこうして置こう。以下「提げて伏見の戻り夕月夜 月斗」と、一日の興を尽くしての帰り道の句に見事に変身している。再び莫山さんの文をお借りすると「和服のコートのえりをたて、"せった"を足にひっかけて、ゆらゆら歩く月斗の姿が目に浮かぶ」ではないか。

 句集『時雨』の序文の結び「現代の俳句、滔々として、新月並に堕してゐる。百年に通じる句はない。味と調を提唱する所以である」から、月斗先生のいわばモットーとして調べがよく挙げられるが、これら短冊の句に見るところでは、お亡くなりになる前年の淡路行の際の「春の月俳句は味と姿かな」を持ち出したい。姿とは、調べとか字面とか用語用法をも含んだ表現のあり方であるから、月斗俳句とは姿の句であると申した方がよいようだ。ここらは掲げた短冊の句で解していただきたい。

 月斗先生が、その著『子規名句評釈』の序文で、子規の書について、「居士在世中は、誰も彼も、模倣したものである。碧梧桐の書など、最も似てゐる。格堂なども似、瀾水なども似、挿雲なども似、似ざるものもことごとく匂ひを持ってゐた」と述べられる。「ことごとく匂ひを持ってゐた」という部分に注目する。すべて師事ということでは同じようなことが多い。

俳句と書と、鑑賞については違うのだろうが、味と姿とでは似通っているかも知れない。そして、句を作り、その味と姿を解するためには、学ぶ、真似ぶという過程を経ねばならぬようである。

 更に思う。所詮、良き句とは短冊に書ける(そんな句という象徴的な言い方で)ということであろうか。

(平成九年三月)

 

 

味解する

 

前月号掲載の短冊の句「山里や」については、珍しく発表誌に月斗先生の自解がある。初の『同人俳句集』が成った昭和六年三月半ばの句会題詠で、ちなみにこの月の誌上に発表された句は、二十回程の句会吟に贈答句など加えて約百五十句にも上る時期である。

  山里や日が暮れてより春の闇     月斗

「山里の句、説明ならずやといふあり。予曰否。淡々平叙味解にまつものなり。「山里や暮れて宵より春の闇」「山里や宵の程より春の闇」等試作せしが、初案の「山里や日が暮れてより春の闇」を出句せしなり。遅日も終に暮れて、山里の夜は静寂そのもの、春の闇の濃かさ墨の如きを想ふべし」と付記されている。

『去来抄』の凡兆の「雪つむうへのよるの雨」に置いた「下京や」、さらには『葛の松原』にある「古池や」「山吹や」のことなどにも連想が及ぶが、この「山里や」も、なお釈然としなければ、将来の味解し得る日の来ることに俟つのみである。

 「春の闇」は「春の夜のくらやみ」である。と言えば、梶井基次郎の『闇の絵巻』(昭五)を思う。その冒頭では、闇の暗黒の中に一歩踏み出すのに「裸足で薊を踏んづける」情熱が必要なのだが、その意志を捨ててしまうと、闇の風景は安息となり、結びでは、「今ゐる都会のどこへ行っても電燈の光の流れてゐる夜を薄っ汚く思はないではゐられないのである」と、三十歳直前の彼の闇への感覚、感情を展げる。

 春の闇を、改造社の虚子編『俳諧歳時記』春の部では、「月のない春の夜頃の湿んだやうな暗さ」で、「幽かな情感をさへ包んだ柔らかい、なつかしいうすら闇」とまでホトトギス同人の解説にある。季題の解釈とは、古今東西の句に表れた季節の言葉の持つ観念のいわば最大公約数だから、梶井の闇のように恐怖から安堵まで一寸気を変えただけで動いては厄介だ。一方で、そのことが又闇、暗黒のもつ属性かも知れぬが。

 余談ついでに、麗も長閑も春の季題で相似た感じである。季題解説(同前)のは「天地万象悉く明るく朗らかに美しく見えわたる有様」、長閑は「おだやかに和暢な天地風物の相」である、と苦労している。

 古い『同人』誌の窓か何かに、これがあった。

  もつは麗もたざるは又長閑也     月斗

麗のほうは光っているのですね、と誰かが言った。

 味解に俟つとは、俳句味を解せよということであろう。俳句味なるものに、五百読八百読にして行き着き、やっと味解し得たといえるのであろう。

(平成九年四月)

 

 

末梢神経の動き

 

熱時熱殺の銷夏であった。春星舎跡の一部屋に、これまで移して置いた古いものを整理収納しようとしたのである。

蔵書類は最小限にし、ポケットタイプのファイルに、昭和二年の『句鐙』から『春星』の現在までのバックナンバーを入れて並べた。俳誌は句集と違って、世間に通用する格式張りはないが、始原の個々の体温が保たれているのがよい。原稿・書簡は、月斗、西望のほぼ全て、古くは寒楼、麦門冬、中島菜刀、車春、月村、伏兔、涼斗や『桜鯛』以来の表紙絵の王樹、近藤浩一路、三允、福田清人などがよく保存してある。あと葉書は、壱銭五厘から2円までの時期が大部分で約五百枚、うち師月斗は百四十余枚を数える。5円(昭26)以降分は年代を追ってファイルに整理中である。

数度の転居の中、胸を借りた師や先達の筆跡を、正氣は、紙片としてではなく大事に収蔵し続けてきた。よく見ていると、句の魂が句の魂によって育てられ成長する過程がよくわかる。

この部屋に月斗題「俳句道場」の額を掲げた。もう古びて煤けた色になっているが、仰げば心身が締まる。句は句の魂の所産である。

月斗先生の俳句観の一か条に、「健全である事。病的でない事。ごまかしでない事。末梢神経の動きはとらない」がある。先生の言葉は、一語一語分析して解釈せず、包括したかたちで認識せねばならない。理解ではなく、実践的な方法である味解を要する。

末梢神経の箇所を見て、写生を排し脳髄での観念や空想を尊ぶのか、など考えたりすると難しくなる。健全な五官の感覚で生きた対象を捉えるのは当然のことである。ただ幻視、錯視みたいな実体のない際物には、うんと首を振らないのである。前号の岡屋教授の文中引用の総合的で全体的な意のコモン・センスに通じるかも知れない。ともあれ、期間限定食品ではなく不易の真味を目指す句作りを唱導したのである。

さらに一か条、「明朗である事。明歴々。露堂々である事。男性的である事。裸で行く事。ぼろを隠した人絹の美服は纏はない事」も同様である。明歴々に引かれる露堂々は、麻三斤と共に月斗先生のお好きな語句である。俳句は露堂々麻三斤だといっても、まるで見当がつかないが、小手先のごまかしや絵空事であってはならないのだと思う。

先生は「句は人なり」と説かれた。健全、明朗の俳句観はまさに先生の句、先生のお姿そのものである。

(平成十二年九月)

 

 

俳句のゆくえ

 

街なかに鴉が増え八百屋さんが消えたが、この時季になると、イチゴやサクランボやミニトマトがパックに入って大規模スーパーに勢揃いする。

今の飽食の時代にあって、これら、消費者に広く賞美される農作物が備える条件として、小さくて可愛いこと、すぐ食べられること、腹にたまらないこと、を佐賀の農民作家の山下惣一氏は挙げられる。

その特徴のそれぞれは、トッピングして目に楽しいし、包丁の技も要らないし、ヘルシーみたいで、多くの人に好まれて当然だと思われる。ところが、生産者である氏の口調には農の行方への嘆きがこもる。

切って皮を剥くなり、種があったり、すこし渋かったり酸っぱかったり、歪で曲がって、一口には頬張り難く、噛んで飲み下し、いつまでも腹持ちのいいのは、今風の好みでないから売れないのである。

しかも、そうした時流が人為的に速くなってきている。常に何か変化していないと、品物として商業ベースに乗らないからである。そしてじっくりとでなくビビッと瞬間のフィーリングで勝負だ。スマートでなくてはならぬ。手間暇は要らないでアイディアだ。一個一個の個体差はあっては困る。商品の量が優先する。農の人にとっては不本意なことだろう。

頃日、そうした広大な食料品売り場を歩いてみる機会があった。草木の果実たちは、整然とグループ分けされて人工光にきらきら輝いていた。光源にも一工夫があるのだろう。イチゴもサクランボもミニトマトも、共通したところの街中の夏季という感じである。ただ昔の八百屋さんのトマトや夏蜜柑や枇杷の印象に比べ、明らかにそれぞれの属性は弱まっている。

消費者のニーズではあるが、マンモス店舗の商品やテレビのような大メディアの扱う題詠もそうである。本来、俳句は微妙な間合いを尊重する。広く大きくスピーディになれば、差が判じがたい淡彩では人目を引かない。くっ付くか離れるかどちらか、微妙な間合いの見切りが出来ないのである。

月斗用語のなかに「背触」というのがある。明治末の中川四明のドイツ美学に拠る論考から来たものである。四明は、不離不即(不即不離)が芸術美の本体であるとここで述べている。羊羹を切るのに、刃を当てれば触(即)、一続きである。当てたままでは切れないのである。刃が離れるのは背、二つに分かれる。両者が同時に存在する、この間の消息である。

イチゴらしいイチゴ、サクランボらしいサクランボ。(平成十三年六月)

 

 

離俗のかたち

 

月斗先生は、「秋」という字体でなく、火偏に旁が禾の正字を用いられた。『同人』誌面にまでこれが及ぶのは、昭和十年代のことである。戦前の『同人』旧冊が地震やら何かで今不明なのだが、『同人第二句集』(昭九)は「秋」で、『第三』(昭十七)は正字が用いられている。雑誌で秋季の句の頃ともなれば当時の印刷所は活字が大変だったろう。

さすがに戦後はそうは行かなかったが、『春星』では当時正氣主宰が鉄筆で切るガリ版刷りだったから、月斗先生は、文章にも活字では使えぬ正字を使って寄稿された。「間」の、「暮」のはいいが、「居」「隣」「雷」「杯」の古字正字などまであった。

秋の正字は、ワープロのIBMの文字セット一覧にも無いが、ウェブの『今昔文字鏡』から取り込み、諸橋『大漢和』の秋の正字の番号24941で試みれば表示できた。仕組みはわからないが、これが通常のフォントの「豹」の字に当たる。(ちなみに、試みた文字鏡フォント「島春」の代替漢字はなんと「文忘」だ!)

何ゆえここまでと思う。さきのIBMの文字セットでは字体を新、旧、本、古、俗、誤、別体と分類している。新、旧というのは当用漢字のものだから俗に類するが、それぞれの状況下でのこれらの使い分けだろう。たしかに俗字は崩れた形だから、短詩形で、文字を尊ぶことからは遠いかも知れない。だが先生の秋の正字の使用は何だったのか。

正字、正統として認められている字体、これは時代を超えたものである。古字も時を停めている。意識して、この季節を表す語の使用を俳句の中で行うということは、俗界の時流に触れじとする態度というべきだろう。また、俳句の評価において、時間のスケールが強拡大の目盛りで行うことでもある。

文芸としては、形が一行のスペースの俳句だから、それはメリットではあるけれども、新聞雑誌などのコラムに便利、放映の場合でも具合がいいから使って、ブームにもなり易い。短詩形では、安易とか便宜とかが惹き起こす、俳句性の希釈拡散を常に惧れていなくてはなるまい。

俳諧師として異端、と富山奏先生が言われる芭蕉、やはり離俗の蕪村、月並を排した子規、新月並を嫌う月斗と、俗塵にまみれぬ系譜がある。先生の秋の正字は、離俗を表明する一つの形であったろう。

『春星』は師のひそみに倣い、心して跡を踏むつもりだ。

(平成十四年十一月)

 

 

不離不即

 

私はいわゆる文学青年であったわけではないが、それでも講談社の文芸雑誌『群像』を、成人前後の二年間購読したことは以前にも記した。最初買った号に「現代文芸家名簿」という別冊付録があった。そんなに詳しいものではなく、たとえば稲垣足穂も『一千一秒物語』の作品名による記憶であった。

この作品の初出は大正十二年だが、その後埋れ、筑摩の『現代日本文学大系』に収録されたのは私が学校を出た後である。私は『世界文学大系』のほうを揃えていた。その程度のことではあるが、そのタルホと月斗の美学、をここでは記しておく。

「背触、出離。自由の消息を得べく努力してゐる」とは、月斗先生が『同人』のモットーを述べた締めくくりの語である。まるで禅問答だが、背触(触背)は以前にも書いたが、出離も境目での迷いから離れるのだから、生死の境に居て自然体であるように、物理的に剪断しても、より以上に繋がるものがあることだ。

中川四明『触背美学』の扉に、首山和尚の「喚作竹箆即触不喚作竹箆即背」とある。竹を削るとは、刃が当たるときを人は削っていると見るのだが、竹に刃を当てるだけでは削れないのだから、当てた刃が離れることもまた削っているのである。二にして一、紙の裏表のようなものであろう。

稲垣足穂は、昭和二年に、『形式及び内容としての活動写真』を発表したが、「その後、京都の俳人中川四明の触背美学を知ったことによって、改訂の必要に迫られた」として『僕の触背美学』に改めている。

四明の『触背美学』は、前著の『俳諧美学』の五年後、明治四十四年の発行であるが、俳壇的には、碧梧桐の新傾向、そして虚子が句に復帰する時期である。月斗は、主宰誌『車百合』と『カラタチ』のはざまで、四明を含め俳人や多くの文人画家との交遊を通じ、その俳句観を深めてきた時期である。四明の論は、たとえば実物うつしの蝋人形を芸術とは似て非なりと述べる。四明がいう、芸術美の本体は不離不即、は月斗俳句の一キーワードである。

映画を「臭素加里の匂いがした偽時間と偽空間」だとする足穂は、映画では、時間は歯車の回転にまで抽象されるから、内容である空間もそれだけの様式化を要するとし、それに最もふさわしいのは笑いであると、どたばた喜劇を挙げた。チャップリンのそれでないのが興味深い。ここらがらみの点で、月斗俳句に触れ得なかったので、また述べる。

(平成十五年四月)

 

 

触背美学のこと

 

「蛙更けつ触背美学読み飽かず 正氣」(昭二三)は、中川四明の『触背美学』(明四四)のことで、「読み飽かず」は師月斗との所縁によるのである

四明は独文学者で美学者、「京都俳壇の親」「慈父の如き四明翁」(月斗)であった。その提唱する美学は、芸術でこれまで賤しまれてきた幻想(錯覚、官錯)こそが美の本体であるとし、それが不離不即のものであるのが芸術で、「知らず識らず模倣のために欺かるるの幻想なり。故にその作品は、唯だ自然に即くを以って目的とし、離れて想化するを好まず。()不離密着を以て主眼とする」のが非芸術だと云う。

稲垣足穂は、この本の表題を取り込んだ映画論『僕の触背美学』(昭三十)で、「四明は、夙くも活動写真の瞞着性を指摘している。触背とは即離のことだが、彼は映画の特質として、それが不即不離ではなく、あくまでも不離密着にあることを読み取っている。即ち不易でなくて流行そのものに立脚しているから、到底芸術的鑑賞に堪うべきものでない」と、四明を敷衍する。

大正九年創刊時の月斗『同人』の句は、当時の『ホトトギス』の純客観写生をここで持ち出せば、これが唯だ自然に不離密着する態度ではないとしても、比べて『同人』の句は、より強く、離れて想化するほうを好んだと云える。

月斗忌での正氣挨拶にも、「大正末期になると、ホトトギスにあらざれば天下にあらず、碧梧桐の新傾向が下火になってから、写生、写生」という結社性の中で、自分が句作を始めた頃は「写生を軽視することがちょっとオーバーした」との言い回しがある。

また、月斗著『子規名句評釈』(昭十)の中で、居士の句の特色の一つとして、「絵画的である。絵画も写生である。南画の墨画ではない。彩色の写生画である。墨画は主観的のものであるが、絵の具の写生画は客観であり、平面的である」とも評している。

求めるところは、四明の「絵画は一方に形似模倣の努力を要するも、他の一方に之が為に生ずる非芸術の幻覚を排斥するの工夫なきを得ず。想化は即ちその一手段にして模倣に相反したる努力なり。故に自然に即くに非ずして自然に離るるなり。」の、想化という離即であったろう。

想化の語は、新傾向俳句を論じる中にもあるが、ここでは狭義の季題趣味乃至は俳句趣味をいうのではない。題詠という形の句会吟が殆どである月斗俳句において、想化とは、句のに結ぶことになろう。

(平成十五年五月)

 

 

俳句の幾何性

 

「活動写真は、現実に類したる活動ありて現実に類したる空間を欠く」と、中川四明は『触背美学』の中で、活動写真と立体視鏡とを比較している。この「活動」と「空間」を、タルホ(稲垣足穂)のいう活動写真(映画)の「代数性」と「幾何性」に照応させてみた。

タルホのいう活動写真における代数性とは、「友達の手をふったり、ボートの中で唄を歌ったりする」ように「何人にも肯かれやすいもの」であり、幾何性とは、「或る夜のふとしたとき、巷の反射を受けてとおい街角をまがってゆくボギー電車」のように「自然界を通してただ吾々のみが感じているもの」である。

タルホは、機械を使う活動写真に相応しい内容とは、人間に専属の「笑い」、つまり喜劇であり、人間の悲哀をユーモアやセンチメントに紛らす役者から一歩進んで、どたばた喜劇を幾何学にまでもたらしたと、ラリー・シーモンの名を挙げる。無声映画の『オズの魔法使い』(邦名、笑国萬歳)の監督主演者である。

では、ジュディ・ガーランドがドロシーを演じるあの想い出の映画の、かかしとブリキの木こりとライオンの場面から、一切の情感の流れを取り除いて、オートマチックに演じたと想像できるならば、タルホのいう映画の幾何性が判るかもしれない。

我々が映画を観て泣くのはその場面々々が現実であることに依ってであるというトーマス・マンの言を、タルホは引用する。今、「おしん」が再放映されているが、観客が涙するのは、芸術云々という前に、いじめられてばかりのおしんの日常によるのだということ(随所に光る幾何性を無視するならば)になる。

俳句の鑑賞も同様であろう。作者の生い立ち、置かれた境遇、素材である病や貧や戦争とか、愛や恋など人倫の情そのものへの共感と、俳句そのものの感動とはイクオールではない。

タルホの俳句観は、『新歳時記の物理学』(昭三七)の冒頭の「相手の眼だの耳だの、口許だののちょっとした癖やひずみの印象に惚れているのである。決して先方の面立ちとか心意気とかに対してではない。まして何が人格や思想であろうぞ」を挙げて置く。

月斗、四明の縁にタルホを連ねて、その映画での見地を使い、実作者として、俳句の不易流行を考えた。

タルホは、「芸術家がよって立つ根源的瞬間」に立つのである。俳句も、日常に流れるストーリーの「等価値的に置かれた空間的瞬間」から取り出すのではつまらないことになる。

(平成十五年六月)

 

 

歳時記の例句 

 

句作の方法として、昭和初期に、それは詩ではなく遊戯であるとまでいわれた題詠が、近時、季語と呼称されながら、季題という姿での復権傾向にある。

季題とは、季節から取り出してくる季語と同じものではなく、それを俳人が次々と践んで用いることにより、熟成し安定し、やがて象徴的な意味を持つに至った漢詩における用典の如く、養分豊かな、季語の中でもいわばビンテージものを指す。

歳時記での季題の例句の在りかたについて、「初心者の指針となり、歳時記の実際的価値を左右する」(虚子『新歳時記』)の見識もあるが、昨今の個人句集という媒体の簡便さで、作家別アンソロジーを季語により仕分けたような例句の採用が今は多いようである。そして、いわゆる現代俳句の季語分布は、季寄せ向きとはいえず、かなり狭小なように見える。

戦前、同人派の句は、その殆どが結社の類題句集から引用された。月斗先生の句も、僅か二つの成書からのみ語られており、物足りなさは否めない。

『現代日本文学全集第三八篇』(改造社 昭四)中の自選による月斗俳句六十六句と、それに続く十年間ほどを収めた『月斗翁句抄』とを見てみると、後者の千二百八十余句(類題句集からの採録のせいで季題は六百四十もあるが)の内、得意らしい題は、菊、花、雪、太閤忌、桜人、冬籠という句数の順となる。以下も勘案し、このアクセントには意味がある。

歳時記は、その季題の幾つかの属性をしっかりと捉えた数の例句が存在すれば、解説文のあれこれは要らないことになる。類題句集の形で済むのである。そんな歳時記の例句となる句を目指し突き詰めてゆく、求道者的な句作りもあると思う。

歳時記の例句に相応しい句は、コーナーをつかず、直球で季題の真中にしっかり通したものである。病的でなく、ごまかしでなく、末梢神経の動きをよしとせず、健全で明朗で強い句であるべきだろう。因みにこれは、月斗先生の句の主張である。

季題別にして、作家の仕分けができるのも厳しい。子規の俳句分類を見よ、その季題の範疇で、古今東西の俳人の力量も、句の良し悪しもありありと判る。題詠は、この仲間内に入りこみ競うことになる。

月々、題詠一句を募集することとした。これぞこの季題の句といえる句を求める。常に光明に近づいて行こうという句作の本道と一致するものと思う。題詠は、我等が山頂へ登るルートの一つである。

(平成十五年七月)

 

 

浄瑠璃と落語 

 

月斗著『子規名句評釈』(非凡閣、昭十)の中に、子規居士に就いて、「浄瑠璃などの歌曲をあまり好かれなかったと聞く。その代わりに落語が好きであったそうだ。首肯される点がある」という件がある。子規の句の傾向と思い合わせ、「歌曲より話の方が、現実の調子である。写生的、即興的である。内容から云っても、浄瑠璃は涙であり、落語は笑である」という。

すでに三十三回忌となり、月斗は、師子規の句をやや客観できるようになったとし、子規の句における情味の乏しさを次のように言っている。

子規に恋を詠んだ句は多いが、「切々として、内在的に悩んだもの、現になったもの、夢路を辿っているようなものは乏しい。仄めいているような、恥じらうているような、幽かなもの、又は、恨み骨に徹するようなもの、死より苦しいものと云った沈痛、深刻なものは尠ない」とまで述べる。

情味は浄瑠璃であり女流的であろう。例えば月斗と同年の歌人登美子の作品である。「山川登美子は、挽歌を詠むために生まれてきたような歌人だと思う」(竹西寛子)は至言である。生の情念また死の意識など、俳句は深刻にはなれず、情味は滴らすほどしか入らない。

子規(竹の里人)の短歌は、俳句寄りというか、客観的な歌材を万葉調に詠じて単純素朴である。その根岸派の短歌は、子規没後暫くして明星派に覆われる。歌でも作ろうとする若い人はみな晶子らの歌に向かうような、空想、情熱を賛美する社会状態にあったと、斉藤茂吉は展望している。明治三十六年から四十二年に至るトレンドである。華麗な女流歌人が輩出した。

一方、女流俳人のほうは至って少ない。例えば、『現代日本文学全集』(改造社)所載の、明治大正の俳人百七十家のうち、僅かにあふひ、より江、久女、かな女を数えるのみである。4T(鷹女、多佳子、汀女、立子)もまだ登場しない。

思うに、当時の女流俳人はその悉くが文学少女であり、縁あって俳句に繋がったのであろう。文学少女はやはり短歌タイプだろうから、その俳句には覚悟があって、女流俳句たり得ている。女流全盛の社会状態で女流俳句は消えたような昨今だが。

少年正氣は4Tにやや後れの生まれだが、前号で述べたように、親の目を掠めて句を作った。文芸の中でもとりわけ俳句には、そんなこそっとしたところがあった。王国だなんて俳句タイプの言い方はない。こそっとしたところに、句のある種の風味が出る。

(平成十五年九月)

 

 

有意識の美 

 

 「末梢神経の動きはとらない」という月斗先生の提唱は解しがたいかもしれない。当然、求心性の知覚のことで、言い換えれば、中枢神経、つまり大脳の働きのみの句作りになるように聞こえるからである。五官で以ての写生を身上とする俳句がと戸惑うだろう。

 その前の「健全である事。病的でない事。ごまかしでない事」から察するに、正常な感覚を平凡と思い、錯覚の奇異を愛でることを戒めるのである。遊園地の曲面鏡に我が姿を覗き込むのはちょっと面白いが、その愉快さは、そのための仕掛けだと判るからである。三度目となると愉快さはさほどでもなくなる。

 前にも述べた中川四明『触背美学』の「非芸術の幻想は無意識の幻想なり。知らず識らず模倣の為めに欺かるるの幻想なり」とは、大脳がごまかされて、ガラス片がダイヤに見えることである。美の幻想は有意識の幻想でなくてはならぬから、およそ「末梢神経の動き」に左右されてはならぬのである。

  踏青に北する鶴を見たりけり   月斗

  花の瀑牧童これを顧ず      同

 大脳と言っては身も蓋もないので、正氣前主宰の言から、「俳句は、胸中の山川を創造し、これを最も純粋に表現すべき」を持って来よう。実見または想像による山川の創造とはいえ、誰にもある心の奥の山川の原型に基づくものであり、これを純粋に表現するというのは、同じく、恣意的に言葉を歪曲しないという俳句態度である。

 月斗俳句の「句は人なり」のフレーズは、修養論のような解釈でよく使われるが、文芸論として、上記の俳句態度の行き先を示しているのである。

伝統の美、味と姿を深化させるプロセスでの句は、一見、平凡で旧套、無表情で没個性、同質でモノトーン等々ではあるが、その向こうに別しての光があれば、それは句格、句品と呼ぶべきものであろう。これは「句は人なり」というよりほかに解き明かし難い。題材とかスタイルとかをただ真似していても、なかなかに及ばないのはその故である。

 映画『七人の侍』と大河ドラマ『宮本武蔵』の冒頭シーンとの類似が話題になっている。分類して、パロディでもなく、リメイクでもないから、盗用か、いや、オマージュ(尊敬)だといった具合だ。

 月斗門下の句の場合はオマージュである。書もそうだ。正氣も一字では月斗の筆と見分けのつかないのがある。これ、師への全人的な傾倒である。

(平成十六年三月)

 

 

漢語・漢詩・漢画 

 

 正氣忌はお盆だし残暑だから、例年、直近の土曜句会で、「春星居士」に野山の花を持ち寄り、仏壇に線香をあげ、献句をする。

 居士の呼称が、秀吉の太閤のようにぴったりなのが子規たるところである。虚子に『子規居士と余』『漱石氏と私』の文章がある。鼠骨の『子規漱石両先生』での本文は、子規居士と漱石先生である。虚子は、はじめは「戒名通りの名で子規を呼んだ」(子規雑記)が、後、歴史上の人になってきたので、却って重きを置く心持で「子規」と呼ぶようになったと言う。

で、正氣の忌という五文字の数合わせはいやだし、「春星忌」はというと、戦前の『桜鯛』を『春星』と改めて再出発したときに、蕪村を意識しなかったわけはないので、冬の春星忌を措くわけにもいかぬ。

その春星だが、碧梧桐は、画の蕪村は「四明」に芽生え、「朝滄」に枝を張り、「春星」「長庚」に花を開き、「寅」に到って結実した」(『画人蕪村』中央美術社、大一五)、とうまく総括している。長庚とは金星のことだから、春星も又画壇の明星たらんとする意か。

碧梧桐は、蕪村の句が旧を破り、平気で自己の感興のままに漢字を使い漢詩の調を模しているのは、気取りではなく「彼の心からの逍遥游」(『画人蕪村』)だと、それが漢画憧憬に通じることを述べる。

中国の文人画が持つ内面性と描写法を規範として生まれた南画だが、蕪村は、その水墨で画いた山水と同じく、句もまた漢字や漢詩の境地に遊ぶのである。

文人画とは職業画に対しての称である。世間の好みに応じない画であり、人品骨柄が表れる。句も同じで、蕪村宗の月斗俳句は、胸中の俗塵を去れば自ずと現出するところの景を写すという作句態度である。

日々是好日や樟若葉       月斗

  乍雨乍晴や今年竹        同

 「日々是好日」は『碧巌録』第六則雲門十五日の語だが、「乍雨乍晴」は欧陽修の詞「乍雨乍晴花自落」からで、これを「今年竹」の季題で句にした。詞は抒情詩なのに、この文字は禅林のそれに似て面白い。句は、どちらの場合も、それが手法としての象徴的な働きをし、句の内容を風景画的なもの以上に持ち上げる。このように、書幅・書物・字典に恒に親しめば、胸中の気が豊かになり、句品を高くすることになる。

月斗先生は簡野『字源』を座右に、漢字の正俗の別に厳しかった。戦後の占領軍政策に便乗した当用漢字、現代仮名遣いを拒まれた。離俗の表れである。

(平成十六年十月)

 

 

大正明治の月斗の句 

 

俳句人口という言い方があって、それが少なくとも百万、多くて一千万とは愕く。こんなご時世では、日々発表される句のすべてを見回して云々するのは困難である。茫々たる森林では、大きな群れを成すか奇声でも挙げないと気が付くまい。

メディアで、先刻話題のNとAだが、Nでは、たぶん趣味の俳句番組の視聴率からはじき出し、基盤を一千万から二千万と見ているのだろう。Aでは、千五百万とし、「俳句A」は「週刊A」の六分の一の部数だ。俳句も商いが入りこめる分野となった。

A紙の第一面にある詩人によるアンソロジーは最初啓蒙的で評判だった。アンソロジーの面白みは、その編者の眼力如何にかかる。時々これが電池切れして、手に触れる個人句集などに頼る省力化から、急に貧相になるのは仕方がないのかも。

成書という語は、もともと内容充実した標準的な専門書のことだが、「成書によれば」というのは気になる言い方だ。ペーパーやマガジンでなくブックともなれば、権威ある中身に見えるらしい。

ただ個人の句生涯を縦に見るには、句帖から雑誌に発表したものが、一本に纏まって居れば便利である。

月斗五十年余の句歴の内、唯一の個人句集『月斗翁句抄』と、前後を補完する改造社『現代日本文学全集』と同人句集『時雨』とで、昭和期はほぼカバーし得るだろう。

いわゆる成書に欠落している明治大正期の月斗句について、かねて角光雄君から電話を貰いながら、月斗句を語るにはすでに充分だろうし、『春夏秋冬』以後の句を一々拾うのは、当時発表の新聞雑誌も散逸しているから、どもならんぞと答えていた。

それが正月休みに、或るアンソロジー的な書名が閃いて、古書肆を探り、今井柏浦編の句集で月斗句の幾つかに初対面した。子規没後の二十数年間、当時の主な新聞雑誌の俳句欄から選び集めて編んだ、一連の季題別句集である。

句の総数は、量的には子規の俳句分類の十二万句に相当する。その中から、月斗(兎)の名の行を拾うことに勉めている。私は研究者でないから、一俳人の手と目を通した句からの孫引きという、サンプリングの粗さは仕方がない。

父正氣は、師月斗の筆跡を大事に保存していた。形而下のものを尊ぶわけではない。月斗句を遡って蒐集する営みも、その意は父と同じである。

(平成十七年四月)

 

 

続・正氣句のルーツへ

 

 大正十年暮の月斗、翌年春の虚子と、両者の長崎行のことは以前に記したが、中学生正氣が出られなかった虚子歓迎句会の席題句について見ることにする。

  春の灯や波のしぶきのかかる草    西 居

  賑やかに緞帳下りし春の灯よ     対楓楼

  春の灯やどこも淋しき濱邊町     侍 中

  春の灯の明るさ今は暮れにけり    王 春

  春燈下額集めて読みにけり      紅 々

  春の灯やうしほさしつつ日の暮れず  侍 中

  遥かに春の灯のつづく町へ下り行く  田士英

がその選句で、虚子の出句は次のようである。

  春の灯をおっかぶさりてともしけり

  春の灯を今ともす人闇に立つ

  暁の春の御あかし消ゆるまま

 虚子は、挨拶で「俳句は十七字という事を根底の信条としている」と言った。一時新傾向にあった田士英の句では、「感銘の強いことは言葉の上に求めずに、句の内部に潜在するように心掛くべき」と、癖をなくし厭味なく素直に平坦に光景を写す叙法を述べる。碧梧桐に賛同と虚子に追従とに二分された時期はすでに過ぎていて、続三千里』以来の地方の句に影響を与えた肥前への旅だったといえる。

 遡ってその新傾向のことだが、長崎で碧梧桐とその家族に月斗が会したのは、明治四十三年春である。

  松の藤田に散るを雉子夕鳴きす    月 斗

  磧石飛び草模様行く雉子       碧梧桐

と句作もしている。新傾向調だが、直接の俳句的には、特段に月斗と碧梧桐との関係を言うことはない。当時の一般風潮である。この時期の輪切りで、後に『同人』に拠った西国の人たちの句を挙げてみる。

  磯暑き汐かぶり草花のある      蒲公英

  廃垣残礎五月雨るるものに蕗もあり  鎮西郎

  干場跡掃くべかりしを夕立てる    王樹垣

  雁行の又游鴎の泳ぎかな       飛 雨

この句調は、大正に入るや自ら薄れ、やがていわゆる同人調が出来上がってゆく。前記の人たちはこれに随いた。虚子が客観写生を説いた時代である。句の月斗はこのあたりから語り始めればよい。

子規以後の碧梧桐、虚子の流れに組み込まれない俳人たちの内でも、月斗という存在は、その人間味によるところが多い。すべてが人そのものに帰一する。なお月斗俳句の評価については、かつて裸馬先生が総括されている。正氣は全人的に句を学んだ。

(平成十七年六月)

 

 

月斗畫「初日」

 

七百一号を踏み出す決意を込め、発足時の雑詠選者である月斗先生の初日の出の画幅を表紙絵に使った。この七月で創刊満六十年になるが、昔に何度か合併号を出したせいで、ラッキーな数になったのである。

見覚えがあるかも知れないが、この絵柄は、『同人第三句集』(昭一七)の見開きの月斗画「伊豆山にて」の裏表紙、東向きである。父が、昭和十八年に先生が見えた際にお願いして、何描こか、先生あの伊豆の初日、あああれ覚えとる、という具合だったようだ。

先生は、「俳畫漫談」(『俳画講座』昭三)の中で、「文人画と同じやうに、表現技巧の練習が専門的に足りなくても、俳句的に出来上ってをれば」と、子規居士のスケッチが面白いのは、忠、不折、為山らの病床での絵の話が手引きで始めたのだが、その人格、俳句で鍛え上げた境涯の表れであるためだとされる。

先生の俳画は数少ないが、子規同様に写生が主で、その絵が危うげなものでないのは、親しい友人の画家が多く、画賛の役で会得したものと画人王樹さんは言う。麟作、九浦、恒富、鳳山、楯彦、大更、木它などである。

先生の書画を世に示し得たのは、『俳人の書画美術』7子規(昭五四、集英社)である。和田茂樹先生が編者で、この巻に鳴雪、青々、霽月、月斗、為山、極堂のものが付された。月斗の掛幅四、色紙二、扇面一、短冊三点で、父と福田清人との縁が生きたのである。

先生の短冊藝術だが、肉太の滋味に富んだあの書風の成立は、大正の初め頃かと思われるが、実は詳らかではない。所蔵する細身の書体で月斗落款の短冊からは、句で時期を特定できないでいる。書について、梧竹、良寛を語られることが多かった。

大正二年十月、宮武外骨が『日刊新聞不二』を創刊、三百号で月刊雑誌に代わったが、その新聞の文芸美術欄を先生は担当されている。大阪に文人書家画家と各界の援助者による市井のサロン的なものが存在し、これに外骨が目を付けたのであろうか。

ここで言っておけば、月斗句が「民衆共通の感情を詠嘆する人生肯定、楽天主義の詩人」「哲学的思想的を払拭」(裸馬)で人々に受けたのは、衆に好まれる人柄に合致するそうした風土性のせいもある。これは揮毫の書にも通じるところである。

句も書画も人柄の表れである。昨年来、明治大正の月斗句一千句を蒐めてみたが、あの句のスタイルが定まってきたのもやはり大正初期頃のようである。

 (平成十八年一月)

 

 

句は人を示す

 

師事していた菅裸馬先生の忌月である。俳句には作者自身の分相応な人生観ともいうべきものが必ず含まれるとされる先生であった。戦前の「草焼くや眼前の風火となりぬ」の「眼前」の措辞にも感じられるところであって、裸馬『同人』につながる。

 月斗『同人』の類題句集の、ステレオタイプ風の句が陳旧と見られるのは、いわゆる新よりも深を求める句作の道では仕方あるまい。「句が出來れば人が出來、人が出來れば句が光って來、韻の傳はり來るなり」(月斗)の、光と韻を見定めねばならぬ。 

月斗俳句が哲学的思想的なものを「払拭」(裸馬)するのは、大阪町人である月斗の人生観である。「句の品格といふものが高からねばよくない。句品は自ら人にあるものである。人格の顯はれである」(月斗)の俳句態度は、東洋の文藝にみる求道の姿である。

よくその人の代表句という場合には、最大公約数的な句とは少し違った体のものが多いものである。虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」は、虚子がいう棒の如くとは変哲もないということだろうに、「貫く」が望外に哲学的思想的だったのだろうか。

月斗の「春愁や草を歩けば草青く」の句が別して好まれたのも、西洋的抒情にやや似た色合いを感じ、かくあらまほしと念じて肯うゆえだろう。

昭和初期、秋桜子は、「自然の科学的探査」に過ぎない客観写生から、主観(自然に対する作者の感情)の輝きを主とすることで、「調べ」を重んじる西洋的抒情を導入した。抒情的がこれを意味するのならば、月斗俳句はその詩人性に欠けるものと見られていた。

月斗俳句が平明、写生に忠実、現実的なところを以て、平俗浅近、題材が日常茶飯事過ぎて興味本位だとし、詩人性の不足を指摘するのである。これを裸馬先生は、そうではないのだ、逆に詩人性の過剰、感激性の過剰によるものだと切り返す。

人みなが、あまりにも幼稚すぎて普通すぎて見過ごしてしまう物や事でさえ、嬉しくて楽しくてたまらないのだと言う。人間が大好きで自然が大好きで、民衆共通の感情そのままに詠嘆できるのだと言う。健康快適、人生肯定、月斗俳句は月斗その人である。

句即人の基本は裸馬俳句でもずれない。裸馬俳句は歌うことをしない。抒情の質、句の調べの質において、西洋的なそれと異にして哲学的思想的であり、形は締りより俳句的である。『春星』のモットーである「和而不同」も、まさにこの句即人の態度に他ならない。

(平成十八年二月)

 

 

モンロー主義

 

米国のモンロー主義は、大正十二年暮、西欧列強の新大陸への干渉に対する、モンロー大統領の拒否宣言に基づくが、後に独尊という色合いが出てくる。月斗『同人』の「モンロー主義」(裸馬)は、軽妙な言い回しで、一部関西の鎖国主義を指したのである。

いわゆる俳句人口の増加は、俳句文学の持つ属性として肯うところだが、商業が入り込んでくることを可能にした。俳句愛好者向けの雑誌が、内容が第二者的な態のもあって、何種類か売れる時代である。

戦前の改造社の『俳句研究』は、なかなかの権威と襟度を持っていたが、正氣宛の私信にせよ、「三代集を出してから、余は縁切りにした。選も断った。未だにいうてくる」(月斗)の語気の激しさは、それが、俳句の価値認識の問題だからである。

『俳句三代集』への採録方法だが、審査員として、月斗・青畝・蛇笏・亜浪・句佛・風生・石鼎・東洋城・秋桜子・水巴の十名が就いた。虚子は別格で『ホトトギス』から東西各一名である。それに加えて、著名人の自選、推薦句、知名人の出句数増も先ずはよしとしよう。

問題は、採録を十人中三人以上が選んだ句にしたことにある。一般と知名合わせ二万余名、三十四万句より三人以上の選では、実際には句数が足りず、二人以上の選に変更された。二点と呼ぶ量の領分である。ゲームならともかく、句の評価はそのにあるのに。

点数の多さは、それを要せぬほどの名句か、或いは、昨今ポピュリズムと呼ばれる類の句だ。一般に指導者が臨む句会は、その選に入ることを皆が的とした。選句眼という指導者としての資質に託すべきを、複数選者の合算は、信を置く選者に対して非礼と思う。

『同人』は当時の俳壇と縁を切り、結果的には縁を切られたことになった。また戦時下の大阪の俳誌統合では、初号に発行人青木月斗と印刷した後の脱退である。いずれも清を保つ矜持というものであろう。

『荘子』(原富男 昭三七)に、秋水で黄河が漲り、河伯は北海まで来て初めて海を見た。その広大さに驚き、今までの己を北海の若(ジャク)に嘆く。若は、井の中の蛙が海を語れないのは居る所に泥むからだ、夏虫が氷を語れないのは時に拘るからだと言う。

その若は、まだ自ら褒めたことはない。天地万物を知るからである。量にきりはなく時は止まらないので、大小古今は比べようもない。されば、井の中の蛙だの大海だの言っても詮方ないのである。

(平成十八年三月)

 

 

蕪村・子規・月斗

 

子規らにより旧套を脱した俳句は、文学青年たちには新体詩、和歌などに比しても、魅力的であった。

月斗(月兎)が、番頭の政七を連れた初めての九州の顧客廻りで、鳥栖駅で汽車を待つ間に『九州日日』(熊本)の俳句欄を読み、興味を深めたという。向後家業を担うその胸中何かが動いたのだろう。漱石が松山から熊本に赴任して来て句を作っていた時期に当たる。

今年、その漱石の『坊っちゃん』が世に出て百年になる。子規没後四年目、その全文一四八ページを付録とした『ほとゝぎす』第九巻第七号は、加えて露石による『太祇句集後篇』が三一ページと、平生の五倍の大冊である。一三二ページの本文には『吾輩は猫である()』も入っていて、鳴雪、碧梧桐、浅茅の選による募集俳句が、分量的には六ページ弱である。

月兎が東都へ投句して暫くして、『ほとゝぎす』の発行が松山から東京へ移った。募集俳句は、子規ほか二名の選者で、季題と字結びと交互の出題であった。これに月兎が初入選したのは、第弐巻第弐号(明三一)の鳴雪選「駕(秋季結)」とされるが、やや厳選の子規選に入るのは第七号の「木芽」である。

子規は、選後の『募集句「木の芽」に就きて』で、「木の芽は狭き題にして変化し難し。故に募集句も過半は類句又は剽窃句なりき」と言う。「桐の古株に」「知らぬ鳥が来る」「焼跡に」「枯れたりと思ひし枝」等々の趣向は、複数あることによって退けている。三座は、

椿落ちて桐芽をふくや庭の隅    北州

頬白の目白と語る木の芽かな    三子

木の芽ふくと女の語る湯殿かな   古桐

という趣向である。趣向とは素材の配合であり、字結びの出題も、子規の俳句分類乙號の発表と連動した題材で、この時期、新時代の新趣向を求めたのである。これは横の方向へ広がる新といえる。

伊東静雄が卒論で、子規は旧来の知識・陳腐の句を排するために、芭蕉の句の主観・象徴に代えて客観・写生の態度を取り、蕪村の句を取材の広さと模倣技術の巧妙さの視点で推したが、これは子規の写生主義が、芸術的直感を排した「没主観的な機械的形象模倣」の主張ではないかと述べた昭和の初め頃、正氣は『同人』の月斗に師事していて、当時の『ホトヽギス』の純粋客観写生を肯んじていなかった。

子規の推す蕪村を尊ぶということでは、文人画のそれの如く、胸中の山川を陳べる態度、深浅という縦の方向を探ったのである。

(平成十八年九月)

 

 

「句は人なり」

 

平成三年十月号を正氣追悼号として刊行、以後、島春が継承して『春星』は七年を経過した。算盤の数的にはともかく、又節分の豆の数的にはお互い春秋を高めてもいるけれども、俳誌の生命というべき雑詠欄の巻頭あたりを、大海を知らぬが、手許で試しに比較してみて、余命はなお十分といわねばならぬ。

 正氣前主宰につながる縁で、富山奏先生には、昭和五十四年九月号よりの二十年にわたる長い年月、文字通りの小誌にご考究を発表下さり、その学恩は言葉に尽くせないものがある。生前の正氣前主宰も青鼓氏も楽しみに「熟読玩味」していたことを思う。

芭蕉俳句について、その俳諧としての見地よりの解義のことや、伝統的な風雅心に基づく軽みの境地など、われら子規党としては、尚更にまなこ開く感があるが、昨今の俳句界の様相よりして、芭蕉の人と藝術に、われわれの学ぶところは大きい。

冨山先生は、松尾芭蕉を「異端の俳諧師」と称されている。文藝的な純粋性と世俗的な名声とは、あい入れざるものがある。当時の点取り俳諧は、師と弟子というよりも店と顧客の関係に堕していた。芭蕉が、かかる商業的なものを拒絶し、あえて隠栖漂泊の境涯に身を置いた姿を、富山先生は、蕉風俳諧と人間芭蕉とは一体であり、異端孤高と呼ばれるのである。

「句は人なり」と月斗師は申された。全人俳句は『春星』の目指すところである。幸いにもお仲間がいる。桶の中の芋こぎでお互い切磋するのである。春星作品欄は、古参大豪といえども同じ枠内で、同じ活字サイズで終始している。特別欄を置けば、選者も投句者も楽ではあるが。

句の選について、嘗て月斗師の曰く、「作者が知れてゐると、釈然として採れる句がある。よい句である。作者が知れてゐると、中位の句、或いはそれ以下の句でも採る。親切か、不親切か、それは分らぬ。作者が分ってゐる為捨てる句がある。彼にしては拙なりと捨てる。親切か、不親切か、それは分らぬ」と。

親切と受け取るか、不親切と受け取るか。選者の言葉としての「分らぬ」の真意が分らねばならぬ。それも教わらずに自得するのである。

良ェに「洞山和尚偈」という書がある。「山白雲父 白雲山兒 白雲終日傍 山總不知」とある。つまり、青い山は白い雲のおやじさんで、白い雲はそのこどもだ。日がな寄り添うこどもの雲に、いっさい知らんぷりをしているのが、おやじさんの山だ。

(平成十年十月)

 

 

一句の主

 

「春星」は本号で通巻第五四七号を数える。創刊の時期、昭和二十一年から二十二年にかけて、当時の俳句年鑑によると、出ていた俳句雑誌はおそらく四百か五百種と推定されている。そのなかで今も残っているのは、やはりそれだけの理由、単にブランドとしての形骸に近いのから一貫した流れの必然の継承まで、色々あるからなのだろう。現在の数は知らぬ。

明治三十三年の『ホトトギス』で子規は、「普通の人が俳句隆盛など申すは、或いは俳句作者の増えたること、或いは俳句団体の増えたること、或いは俳句を載する新聞雑誌の増えたることを申すげに候。これが俳句の隆盛ならば、俳句の隆盛ということは文学上より見て一文半銭の価値もなきものに候」と言っている。似通った時勢ではある。ちなみに月斗の『車百合』発刊の翌年に当たる。

春星大会で展示したように、『春星』は戦前その前身が数々あった。前主宰は若い頃から出していた俳句雑誌で小俳誌主義を標榜していた。演劇の新しいうねりを華々しく生んだ築地小劇場が、当時理想であっておかしくない。俳誌の創刊とは理想への方向にあるものである。

展観に、その頃寄稿を受けた俳人の書簡、短冊、原稿を少し並べた。田中寒楼、土生麦門冬、久世車春、大橋菊太、花木伏兎、絵の中島菜刀等々。共に今の俳句史の表にはいないし、個人句集とてないのも多いが、近来希少になったほんものの俳人といっていい。正氣の周囲にはそんな人達が集まった。

合わせて、月斗先生のものと、その原点に近い俳人の北渚、鬼史、月村、井蛙、秋窓などから青々、露月、四明さらに華水、静堂、素石、宋斤などと、あと『同人』諸選者の短冊を展観した。『春星』に伝わる本物の系譜、俳人の魂というものを感じ取って頂きたいと思ったからである。

「一句の主」とは、前主宰がよく口にした語である。せっかく句を作るからには、唯の社交とか趣味に留まっては惜しいではないかという。

三原市の老人大学の俳句部の講師として依頼された折りも、設けた側の意には必ずしも添わなかったかも知れないが、これを真剣に指導していた。その人でなければ出来なかった句を残すためである。

消えてしまわぬ楽しみ、自分だけのものでないそれを俳句としてこの世に残す、それは春秋高き者でも熱心にやれば出来ることを教えたのである。

(平成五年三月)

 

 

心の富貴

 

この号の冒頭に、月斗先生の句信、奈良県大宇陀佐多山荘よりの五月八日付けの葉書、を掲げる。佐多山荘は、町を見下ろす山の上、佐多稲荷の社務所の二間の部屋を修繕しての年明けからの住まいで、水も不便で石段を百五十段下って二軒の家で貰い水、薪の配給も四里の道を女々夫人が大八車の後押しをしてという有様。夏が来ても「山寒うして古布子」である。

こうした中で既に『同人』が改名する事なく東京で復活、六月中旬、月斗先生戦後初の西下にお立ち寄りの際、許しを得て戦前の『桜鯛』から『春星』として再出発する。

 敗戦翌年で物の乏しい時代であった。前年の風水害で家を失っての仮寓に、先生ご一行をお迎えしても十分なことは出来ない。魚島を過ぎた鯛と麦藁蛸と茂木枇杷のささやかな食卓を大きく喜ばれた。この時の「春酒満酔尚も許さず鯛茶漬 月斗」の短冊が、春星舎の庭の句碑になっている。九州よりの復路もしばらく滞在された。先生は句会へとばかり思っていたその日の母が、「お弁当を差し上げなくて」と、汽車で急に発たれた先生のあと、父に泣いたのを思い出す。

初号は、正氣師が歯科技工用のペーパーや金ブラシで中古の鉄筆や鑢を整えて、暗い燈下で原紙を切り、家族して粘る黒インクで指を汚しながら、西洋紙八十枚ほどの裏表を乾くまで時間をかけて刷った。失敗すれば重ね刷りするほど紙は貴重だった。

戦前の土曜会は各自専用の墨壷と筆を備えたが、戦中戦後、句箋は持ち寄った反故の裏を使った。置屋の線香代の用紙などまであったりした。決して句を粗末に思っているのではないが、句会で紙を大事にする癖は今に続いている。春星誌もそうである。後記に「俳句そのもののやうな」と記してあるが、素朴であって内容豊かな雑誌は、今も期しているところである。

 句会とても同じで、手作りの味こそが望ましい。今年五十巻、来年は五十周年と云うことで訊かれる事もあるが、いま特にイベントを考えてはいない。ホテルなどでの華々しい句会では、心の富貴はむしろ失われる気もしないではない。

 ぼたぼた濡れの拭巾はぎゅっとしぼって使うべきであろう。昨今、本や雑誌などを燃えるゴミと呼ぶのには、胸が痛む。元来書物は、机の上少なくとも膝の上に置き、直に畳に横にするものではなかった。捨てられないから永代保存されてもいた。春星誌のこれまでは、誌友共著の一巻の書物と心得ている。

(平成七年七月)

 

 

春星第六十巻

 

『春星』の前身の『桜鯛』は、昭和十五年九月で廃刊した。母誌『同人』は、大阪八俳誌を一誌に統合する運びの中、昭和十九年四月号で廃刊する。当局の意は、非常時に紙が勿体ないというのであろうが、一方で文学が持つ力を知悉したものともいえる。掲載句「アネモネや飲むものもなき食堂車」について、『桜鯛』発行人正氣は警察に呼ばれた。厭戦と解するか、花一輪に心富ますかではあるが。

全体主義体制とはいえ、統合が統制の紙節約のためというのでは難しい。『倦鳥』(古泉)『山茶花』(木国)『早春』(南畝)『琥珀』(砕壷)『俳林』(峭木)『青嵐』(胡蝶)『火星』(圭岳)『同人』(月斗)の内、発行兼編集人に推された青木月斗の『同人』は、発表の場を失うのを覚悟で直前に統合辞退した。

 正氣は、「何か妙案なきや」と月斗の命を受け、謄写代用の非売品を会員頒布する『桜鯛』後の便法のままで、九月に「中国同人会」を設け、月斗の選評や添削を経た稿からガリ版刷りでその句を発表した。戦後、この形で『春星』となる。米占領軍情報検閲局の許可を要した。

米国メリーランド大学のプランゲ文庫は、日本占領下時代に収集された資料が、検閲終了後も、プランゲ博士によって一括保存されていたもので、終戦後の四年間に発行されたすべての出版物(図書・雑誌・新聞・パンフレットその他)を収蔵する。

昭和二十一年七月創刊の『春星』も、『同人』や王樹『小同人』共々、検閲雑誌一万三千余タイトルの資料に含まれている。権力は、ある目的の方向へ国民を誘導する手段として、それに都合の悪い伝統文化の排除にかかる。国語改革はそれに便乗した。

戦後の人たちは食べ物にも文化にも飢えていて、プランゲ文庫で見る三原の出版は約三十タイトルと、地方では多いほうだが、殆どが会社労組関係の発行で、地域や学校が少し、概ねは一、二号で改廃刊しての数である。俳句はそれらの文芸欄にあったはずだ。『春星』の場合は、個人の発行だから自在で、最小限の体裁だからただ実作専一、月々待っていて下さるから立ち止まれなかった。

昨今では、俳句も、人生を美化し生活を装飾する手段という欧米的芸術観の側に立つように見える。しかし『春星』は、いまだに、句作りは「句作第一義」の求道であり、発表の場である俳誌は「和而不同」の道場であると、標榜し続けるのである。

(平成十七年一月)

 

 

紙は神に通ず

 

 茶色くなって崩れそうな紙の『一茶八番日記』(信濃郷土誌出版社 栗生純夫校訂) という文庫本が出てきた。高校のとき私が買ったのだが、ほとんど読んだ形跡がない。だからこの紙質でも残っていたのだろう。

奥付の部分が取れているが、昭和二十一年一月の前書きがあり、表紙の書名が左から綴られている。余談だが、本誌も『星春』と読まれたりするが、扁額の文字のように一字で改行の縦書きなのである。本や雑誌で、本文が縦書きでありながら、表紙が左からの横書きでは見苦しい。

そこで何でこの本かというと、天才太郎と呼ばれた長谷川太郎さんを三原の町を案内した折に、一茶の句が良いと聞いたからである。私の場合、杉山飛雨での蕪村、湯室月村での太祇ではなかったわけだ。

つまり、「その昔、飛雨、活堂の二者、我に向って曰。俳句の捷徑如何。我曰。先づ蕪村を讀め、蕪村を暗んぜよ、その時自ら悟性あるべしと。二者共に專念蕪村を耽讀して句帖爲に手澤にKし」(木月斗)である。手垢ではなく手沢である。気をつけて本をめくりながら、感慨は紙にも及ぶ。

戦中戦後はひどい紙不足で、学校で使う帳面は、鉛筆の芯が引っ掻かると破れるし、それも手に入らず、書類の裏面を折り返して綴じて使っていた。いまだに片面が白いままの紙を捨て難い思いが抜けない。

戦中の書物の欠乏といえば、本は何度も繰り返し読むものであったし、一冊の本は、互いに活字に飢えた五人の貸し借りで五冊に相当した。書物を、人が踏む高さ、例えば畳に横にして置くには躊躇するものだ。それが、昨今、「新聞雑誌は燃えるゴミ」という文字に慣れて来ている自分に気づく。

紙がふんだんに使われ、紙に印刷された文字までも軽くなってしまっている。もともとは、文字を鉛に物質化した活字を、一個一個文選工が棚から拾って、それを植字工が並べて組んで行くという、すごい練達の手作業から生まれていたのである。消耗品の範疇に入るような内容ではバチが当たるというものだ。

戦後、『春星』は手作りの孔版から発足した。そこには正氣前主宰の鉄筆による楷書の筆圧が篭っていた。紙を尊び、印された一字一字を重しとすることは、当時から今日までその気持ちに変りはない。

一行の空間をも惜しんで使った。俳句を、作者でランク付け、その文字サイズで差別する奇妙な習わしは取らない。紙も文字も俳句も大切に扱いたい。

(平成十八年十一月)

 

 

「あそぼう」

 

NHKの朝のドラマのけたたましいテーマ曲の、半分ほどの詞はよく聴き取れないが、むかし「よく学び、よく遊べ」と聞かされていたのを思い出す。

あそぶは、能力があるのに働かないでぶらぶらしている意味だが、この無為が意図的であったり、更に歌ったり踊ったりともなるのである。そのうち、次のように、好きな分野をゆったりと泳ぎ回るに至る。

冬籠心は雲と遊ぶ也         月斗

蕪村忌の心遊ぶや京丹後       同 

喜寿の春六十年を句に遊び      正氣

句に遊ぶことに懸命老の秋      同

前主宰があそびごころと並べて言うまことごころまこととは、うそでないただ一つきりのことの意であろう。試しに「まこと」を人名辞書で転換してご覧になれば、誠、真、実、信はじめ多くの漢字が列挙されていて、意味の最大公約数がわかるだろう。

嘘は口に虚で、虚は墟、むかし城か館があったというくぼみであるから、「実」がありのままということならば、これは幻影の棲家である。文藝は虚に居て実を行うのだから、俳句作りには、いわば正氣前主宰の「うそを上手につく」必要がある。「実」の場に立って嘘を言うのは、これは虚偽であって、文藝のまことからは最も遠い。また「虚」に在っても、文藝における「実」を践まなければ、これは贋物である。「上手に」とは、また「句に遊ぶ」とは懸命の業なのである。

誤解ということで、思い出したが、

たかが俳句されど俳句や獺祭忌   鬼烽火

の自句自解を読んで、俳句を「たかが俳句」と軽んじている、頭にコチンときたと去られた某が居た。忿りで、「されど俳句や」は見えなかったのだろう。

「初心の頃も老いを拾うた今も、子規を大切にする心に変りはない」と、鬼烽火の自解はこのように始まる。そして「たかだか一俳句のことであった。たかが一酒のことであった。老いた今でもまだかくあるのがおかしい。 句の鬼はこの指たかれ獺祭忌」と結ぶ。

自羞という語があるかどうか、常に含羞なくしては自己表現が出来ぬという性格の持ち主でないと理解し難いのかも知れない。ここには、生涯かけて酒を愛し、何よりも俳句を尊重した句の鬼、窪田鬼烽火がある。句を作るもの、鬼として虚空にあらずして、世俗に堕すことの何と多きぞといわねばなるまい。

さて、句の「この指たかれ」は、いみじくも子供のあそび言葉である。

(平成十一年三月)

 

 

一句立ちの俳句 

 

夢の中でのことを、それもこまごまと語られては、聞く側はいとあじけなしである。が、朝夢に、月斗何々館と読める赤煉瓦の建物があるのを見た。東京の街中のようだが、心当たりがない。坂を下るうちに、館の姿は青葉繁れる太い幹の樹木に変容した。

ところで、月斗代表作一句の提示となると、すっと腑に落ちないものだ。句集『月斗翁句抄』にも連なるが、先生の句業とのずれである。それは、「春愁や草を歩けば草青く 月斗」の叙情が愛誦されることにもある。先生の作風に対しての弟子のあらまほし的な辺りを覚えるのだろう。

一句の俳句には、桑原教授に衝かれたような部分を含め、ちょっとそうしたあやうさがある。連作という形式や、前書きなどの外にも、補完する何ものかが一句の周りにはある。たとえば、短冊に記されたことに因るある種の感じである。一つは、限定空間による自立感、完結感だろう。落款の存在をも含めて。

余談だが、保存資料用はともかく、一般鑑賞用の句集ならば、一頁一句がよい。句集の印刷には、最適規模の行数があり、何句かで頁を埋めているので、鑑賞には、それが良き句揃いならば困る。

正氣前主宰は、生を終える三日前、枕頭の私に「辞世の句は島春一任」のあとで、句集は、「句集は要らん、句碑がええ」と言った。百年後の知己を待ち、一句主義、一句の主を期したのである。自認する老懶で果たせなかったが、もともと短冊にした句を集めての句集を考えていた。一ヶ月ほど前から、筆と硯をベッドに持って来させて短冊を残した。「短冊百枚書いて涼しく倒れたし」と詠んだが、そんなに書けなかった。

短冊の句には、も一つ筆跡という補体(コンプリメント)の作用を見る。前主宰は戦中にあって古短冊の収集に努めた。古人の手書きは古人に最も近しと尊んだのである。短冊は形だが、そんな作用は、さまざまの状況下でも見られる。句会席上、或る月の雑詠欄、前後の句並びなど、時空の中で微妙な揺れがある。そしてそれはさざ波の下の魚影ではない。

月斗先生の短冊を誌上に掲げるのは、月斗俳句は、一枚の句短冊、一席の句会吟のかたちで、実体を味解すべきとするのである。手書きの字でなく、活字になり、製本されて、ずいぶんと働きを持つように見えたりするのは俳句に限らない。そういうことではない。俳句の特質としてである。詩や短歌よりも形の小さい俳句の持つ、この危うさ加減がまた面白い。

(平成十一年六月)

 

 

味の俳句

 

後記で編集子が世紀の替わり目を言うて句作を鼓舞してくれている。正氣前主宰は晩年「老の春二十一世紀を夢に」という余命での意識をしているが、百年前の子規は、暮れの二七日付書簡を見れば、「併しそれにしても今年もどうやら過ぎて私も間もなく卅五歳に成候事うれしく候」とのみ病苦の中で記す。太陰太陽暦からグレゴリオ暦に移行して三十年にも足らぬ当時、新世紀は生活実感になかったのであろうか。
 生活行事に日にちの数字が干渉するのを、「吏に倣ひ正月新ンにす農弱し」(昭四)と正氣はいう。敗戦後の国語改革以前に創刊の『春星』だから、漢字制限や現代仮名遣いという人為も、同じ思いだったろう。それにつけても、七月初めに七夕さんをする幼稚園では、梅雨明けが遅れたら園児も親御さんもたいへんだ。
 京都文化から江戸文化へ、東京への遷都、明治五年の新暦施行という具合に推移して、大まかな辺でくくって落ち着いていた歳時記を、昨今、世間の実態に応じてきちんと春夏秋冬の季題の所属を見直すという話も聞くが、デジタル時代とはいえ、揺れやぶれを嫌っていじるほど味気なくはならないか。
 同じく作句本位に季題の取捨、四季の分別、季の決定を目論んだ虚子の『新歳時記』(昭九)は、季題の排列は月別で、陰陽五行説による季の区別をする。季節ごとの挿絵は冬、春、夏、秋、冬と五枚になるが、一月の冬は、芋銭が餅花を描いているので、何となく従来の新年春夏秋冬方式である。索引も、音順のほかに、三省堂の発意でと季題分類索引を付している。1月のア行を取るか、新年の時候を取るか。
 月斗先生は、俳句と暦法について「季の俳句ではないか。味の俳句ではないか。数字の俳句とは違ふ」と言われる。とは、季題が含んでいるような、俳句の伝統的な美意識である。大方の人に通じる価値観であり、近代感覚のビルを建てるのに盛り土して鍬入れを行ううちは大丈夫だろう。
 逆の言い方では、俳句は俳句の味を持つ詩の一つのジャンル(正氣)ということになる。昨今は短歌風味の飲み口の俳句も多いようだが、発泡ワインをお猪口に注いでも酒ではない。俳句の国際化も、俳句の味の国際化であらねば、芭蕉、蕪村、子規が共通されるのでなければ、それは別のジャンルの短詩であろう。

人為がゆがめるのは環境だけではない。企業やメディアが作り上げる隆盛も同じだ。ひらめきや思い付きだけでなく、じっくりと煮込むことの意義を思う。

(平成十二年十二月)

 

 

漢語と俳句

 

味気ない漢字のお仕着せ使用から、やっと漢字復権の声がする世の中になった。ワープロが出てタイプライターが消え、かなもじやローマ字論者による漢字制限の立場の一つは失われた。大相撲の四股名の漢字みたいに、一般的に文化が夏炉冬扇というのもなんだが、書き言葉にも、遊び、潤いが出ることだろう。

芭蕉、蕪村、子規に倣い、俗を排することの強い月斗先生のことだから、簡野『字源』を愛用されて、正字俗字の別にけっこう厳しかった。だから、敗戦後、占領軍とその権力を利用する者によって曲げられた国語国字の問題、漢字制限と現代かなづかいのことを慨嘆され、正氣も正の活字ではまるで別人を見るようだと嫌ったものである。当時、謄写版印刷の『春星』は、その点では恵まれていた。

しかしこれは、字体のことというよりも、文藝が何者かに支配されることへの嫌悪というべきだろう。『同人』派の、戦前のいわゆる総合雑誌が作り上げた俳壇に対する軽視や、戦中の国策による俳誌統合への拒絶反応にも見て取れる。

ケータイ、そう表記したほうがいいのだろう、電話は、音声という聴覚だけでなく、文字という視覚でも情報を伝えることができるようになった。掌中の、名刺の八掛けぐらいの表示面積は、俳句の如しである。だから、これにたくさん意味を詰め込むために、ワープロ変換の漢字が頻用される。やまとことばでいうと、しきりにもちいられるのである。漢字の熟語に何かの記号をつけるだけでも意は通じるらしい。メールの文章そのものが、「○オクレ」の電報文よりも激しく変容してくるのは当然だろう。

そうした便宜性では決してなく、季題もそうだが、俳句自体の属性として、漢語の使用は、俳句の成り立ちに力を付与した。それは名詞として、句の姿と調べを整え、象形として味わいを生んだ。固体であり、つまりは結晶であるから、定型詩に相応しい。

 香木をけづりて春夜ただならね    月斗

 こぼす酒に春の燈走る朱卓哉     同

前句の下五は「ず」の已然形の結びである。『月斗翁句抄』の「ただならぬ」の誤植をここで正しておきたい。

読み物がない戦中の少年島春は、遂には父の『字源』を出してきて、その巻末の図譜と字訓索引を眺めて居た。訓よみで長いのに酉へんに爵、サカズキノサケヲツクスを父に教わった。それに「や桜鯛」を付けて四文字の父の句がある筈だ。

(平成十四年三月)

 

 

楽しみと上達

 

 総説の『小日本』新聞研究の連載をしているが、往時の新聞社の立場は一般への啓蒙という形である。現在は俳句ビギナーのニーズを追っかけて、A新聞社からも俳句雑誌が出るそうだ。パソコン雑誌の方は広告があるが、これは俳句人口のうち何%かの「楽しみながら上達」したいシェアの獲得に頼るのだろう。

明治大正の頃の新聞は、芸術面にまでも社主の見識が色濃く出ていて、月斗は日野酔来の不二新聞(社主は宮武外骨)の文学・美術を受持った。車春がその下にいた。俳人の文章や野田九浦や近藤浩一路ら知友の画家の絵を載せた。この時代の俳句は、文芸美術の中に本格的に組みこまれ、俳人は文学人であった。

余談だが、廿チ頃の月斗(月兎)が俳句雑誌発行を空想している。「三日月」が誌名、本文予定は北渚、月兎、鬼史、麟作らで、なんと序と跋の予定には当時の歌人、作家、書家、画家の一流の名を網羅している。戯れとはいえ、明治の俳句青年の理想が見えるようだ。

 一方、月斗の『日本』、正氣の『長崎日々』もそうだが、新聞を通じて句の師との縁が結ばれている。兼崎地燈孫は月斗師の思い出として、家人が連載の「挿雲太閤記」のため取っていた『大阪新報』で、明治三九年月斗選に試みに出したのを多く採られたのが句作の始めと書いている。のちに中でも最も厳選だった碧梧桐の『日本俳句』の新傾向に拠ることになる。

 掲げた月兎書簡は、和歌山県二郷村竹内琴涯宛で、その追伸に、友人の荒木井蛙が『紀南新報』に居ることや、奈良の新やまという新聞にも自分が選を依頼されていることを伝えている。「大阪俳壇一口に申せば沈める方にて活気乏しく先輩後輩共に寝むれるさまに候大阪新報小生受持をり侯御誘道投稿願候」は、子規没直後の状況だが、『車百合』も廃刊になった頃で、俳句雑誌の運営が難しかった時代の新聞俳壇の役割も分る。『不二』のように四頁のうちの一頁を文学美術で占めるという新聞の読者層は、現在とは違うのである。

 新聞の話になってしまったようだ。さて、添削で選者に抜けるこつをつかみ、数多く活字になるのが楽しみという楽しみ方では、小さい、小さい。そこで前主宰の語録を再掲する。

 「我々は、多かれ少なかれ、俳句に依って救われてゐる。俳句は、少しづつでも上達してゐると楽しいものである。少しづつでも上達するには不断の精進を要する。俳句は、生涯精進を続ければ、生涯上達するものである。俳句は、我々を生涯楽しませてくれる」。

(平成七年五月)

 

 

俳句の大きさ

 

 墨痕淋漓の、聖旦や蒼生の賀に 月斗、の短冊を春掛にする。学生の頃、最初の下宿先の主人が、「月斗サンの字は、歌をやる人の字とは違ってますナ」と言ったのを思い出す。戦前の関西の新聞は、こうした文人の書などを正月の付録にしていたので、世人の目に触れる機会も多かったようだ。

この句の読みは「せいたんやアオヒトグサのヨロコビに」であるが、これを誰かが苦心の挙げ句、「せいたんやソウセイのガに月斗(ばか)り」と、落款までこめて五七五に読み下した笑い話がある。

この句は八文字だが、このように漢字が使われると、十七音の俳句は十二から十四文字が大体のところだろう。十七音イクオール俳句として、携帯のメール文、例えば「お正月は何して遊びましたか」に置き換えると、一句は一視点で足りるし、一句は一読で足りる大きさである。言葉にして一句は七から八ぐらいの語数で成り立っているから、一ブロックとして意味が容易に脳の奥まで入り易い。

これが俳句である場合はどうか。「蒼生の賀に」はよく判るとして、「聖旦や」のは、一般には「場面を提示し詠嘆をこめる」わけだが、俳句ではさらに微妙で、このぴょんと飛び越す部分で時がたゆたうが、俳句はそれも許される程の丈である。「聖旦」のような、俳句における漢語の使用のことと季題のことと、ここで触れておこう。

俳句は、全体がすぐに脳の奥に入らぬときは、視点を移動しなくても再読三読できる。全体が見えていて、再読は途中からでも部分的にも容易である。俳句はいつもこのように読み下している。意識した再読でなくても、一読にして且つ何度も読んでいるのである。一つ一つの俳句はそういう微少な持ち時間を貰っている。小さい詩型のメリットであり、これは俳句の本質につながっている。

マンガ雑誌の『少年ジャンプ』の北米版が発行されたそうだ。ページ数でいえば『春星』の十数倍はゆうにあって、同じ五ドル程だから、俳句を作らぬ人には、『春星』と比べて、マンガ雑誌ほど廉価なものはなかろう。これは何十万部の発行というスケールメリットのせいである。

それでもしっかりと読み取る者には、『春星』は何とも分厚くなる。五度披見する二十六ページは、算数的に百三十ページに相当するが、述べたように、俳句的にはさらに増えるはずなのである。

 (平成十五年一月)

 

 

俳句を読む

 

 大正九年創刊の月斗『同人』は、三十年の流れを経ての創始者没後は、継承者の理念のもとに、裸馬『同人』として新生したといってよい。私はその過程を通り抜けた一人である。

昭和二十一年四月復刊第一号の月斗選に、「種痘メス置きたる皿の真白き」「藁しべで釣り上げにけり烏貝」が入選している。十四歳であった。

裸馬選は昭和二十四年十月号からで、「人類史読むに火蛾来て几をめくる」「火蛾つまむ指にづるりと毛の剥けし」が入選、以来裸馬選への投句は絶やさなかった。この二月は裸馬忌月である。その理念は、私の俳句形成の上で根幹をなし、今日の俳句スタイルはおおむねここに由来する。

 菅裸馬句集『玄酒』(昭三三)は、石田波郷が跋文を記しているが、その中で、「句境の停滞、叙法の類型化を常に破ろうと努めている現れ」としながらも、それにしてもと、「先づ槙に曇れば枝蛙訴ふ 裸馬」のような句の「破調感からは、私はどうしても、よりよき明日の俳句を想見することはできない」という箇所があった。そのことについて述べる。

 波郷は、俳句は「生の証の歌であり境涯自照の詩」であるという立場であるが、「句」は「歌」や「詩」と違って、うたうと訓ずることはできない。だから、俳句は歌や詩と違って、いわゆる字余りとか句またがりについて、そんなに潔癖である必要はあるまい。一つには、聴く句である以上に見る句である場合のほうが多いことである。巻き物のサイズではないから、俳句は、目で一句全体を額縁に入れ読了しているのである。

 も一つ、俳句は、味でいえば、ナッツ類のように少時口の中で咀嚼して味わうものだし、口当たりでいえば、破調も調の範疇にあるから、俳句(定型たる)を作るということの意識付けにより、その句は、五七五向きに、内在律のコントロールがなされている。同じく「雲の峰のかさむに傍観者たり 裸馬」は、いかにも傍観者的な内在律で表出した句だけれども、読み手は、この十七音を外在律で包むようにして嚥下する。

思うに、句を発しようと構えるとき、自ずとした形がそこに現れてくるらしい。元始あたかも唱和問答歌を仕掛けられたときの「カガナヘテ、ヨニハココノヨ、ヒニハトヲカヲ」のような具合である。「筑波を通ってから何日目かね」は十七音だが、これにはそうした構えの答えはしないだろう。ものを読むときも同じで、俳句は、俳句を読むという構えで読むのである。

(平成十五年二月)

 

 

俳句の構え

 

昭和初期の「教科書俳句として推薦する一句」についての学者、教育者、文藝人の答えを見るに、肯い難いものが多い中で、萩原朔太郎は、常識、歴史、哲学、情操の見地から、「夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉」を挙げている。

月斗先生は、「鶯の声遠き日も暮れにけり 蕪村」を推し、客観と主観のいずれにも片寄らず、深い風韻を持ちながらも誰にでも解る句であり、再三再四誦して醍醐味が出てくる句であるとする。このあたりは妥当なものといえる。

当時の教科書俳句は、収録句数で見ても大きく偏り、子規、一茶、蕪村、芭蕉の順である。省令に、「国語ハ普通ノ言語、日常須知ノ文字及文章ヲ知ラシメ正確ニ思想ヲ表彰スルノ能ヲ養ヒ兼テ智徳ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス」とあるからで、日常普通とはいえない俳句の教授は難しかったろう。

正氣の息子や娘たちは、見様見真似の言葉の形で俳句の中に入った。指を折り、文語体で、や・かな・けりを附するなど、俳句という伝統的な言葉の形を模倣したのである。形にすることが主眼であった。親から子へ俳句なるものの刷り込みがあって、呟きが自ら俳句になったわけではない。

俳句は、字数の多い他のジャンルの韻文や散文よりも強めに、自然体でなく、俳句を詠み又読むという身構えをして、詠み又読んでいる。

防犯監視ビデオは、第三者が見れば、カメラレンズの枠内の映像がリアルタイムに流れるだけの装置である。ところで、被写体である人のほうが、何かのはずみでカメラを意識してしまうと、とたんに身構えて動作がぎこちなくなる。枯尾花が幽霊となるように、レンズは監視者の眼差しに変わる。同じように、花鳥風月のほうも、俳句の対象として俳人に見つめられるとどぎまぎするらしい。そんな句がよくある。

俳人の眼差しで捉えられ、俳人の言葉に置き換えられ、俳句に仕立てられる過程で、俳句を詠むという構えが常に存するものだから、構えの芯にある原型に即した形で俳句が出来上がるのである。

その構えは伝統という立場を踏まえて居り、その骨組み設計を用いて俳句は形となる。今という前衛の部分には原型は当然無いので、句作りの立場というものは一方的に伝統の側にある。俳句は、無からでなく一から出発し進むのであって、前衛と伝統との中間点という立場はない。

 (平成十五年三月)

 

 

俳句とHaiku

 

 「そんなことはないでせう」というペン書きでただ一行だけの、宮森麻太郎宛の虚子の葉書がある。英文学者で近松物の翻訳家である宮森麻太郎(桃潭)翁は、戦時疎開中で、よく父を訪ねてきて俳句や俳人や俳諧史の話をしていたので、その折に俳壇の噂か何か直接に照会したことへの返答のようだ。談論風発、戦後初めての月斗西下吟旅の際、正氣記に、句会後の「質疑は桃潭翁が例の元気で独占した」とある。

 ある会社の男子寮での講話に、鞄持ちでお供したことがある。戦後は誰もが食べ物以外にも飢えていて、とりわけ英語圏文化への憧憬が強かったが、秘蔵する上村松園の画軸を見せて、日本の良さをとうとうと語るのだから、主催者の期待には反しただろう。

 夜、市民向けの英語教室を開かれていて、私も時々出席したが、その授業で板書される英会話の内容は、日本の鶯のことをナイチンゲールといっても、君、あの鳴き声はうるさくて鶯のように優雅なものではないよ、といった具合だった。

 その著『英訳・古今俳句一千吟』(昭五、同文社)は、それまでの外国人による俳句の外語訳が「俳句の精神を伝えていない」ことから、外語訳は日本人の手によらねばならぬとし、含蓄と余韻が生命の「簡潔そのものである俳句の姿をそのまま如実に英文に移」した。訳が簡単に過ぎて外国人には十分に解らないとしたら、彼らが俳句を知らないからで、翻訳のせいではない。

 そして俳句のような詩形は西洋文学にはないからと、Haikuとローマ字で綴られたが、このHaikuとは本来の俳句を意味する。本著より、例として、「英文学専攻者たる著者の趣味に適するものを採」った月斗五句を掲げて置く。(英訳略)

  元日や一舟行かず川静

  白雲の峰つくりすや月の前

  虫の中に寝てしまひたる小村かな

  帯長し京の舞妓は金魚かな

  ことりとも庭木動かぬ暑さかな

 外国語部門を設けて国際俳句大会と銘打つのが近頃流行だが、外国語で作ったHaikuを翻訳して鑑賞したのを見ると、日本語に置換する際、俳句的な思い込みによる変質が起こっているような気がする。

 外国語俳句であるHaikuは、やはり外国語文化で鑑賞すべきだろう。つまり、簡潔と省略の点では同じでも、日本の俳句文化を解せぬものは、俳句とは別のジャンルになるといえる。

(平成十六年六月)

 

 

文人精神

 

画賛は、今でいうコラボレーション(共同作業)で、絵を描く人と句を書く人との組み合わせが、何らかの付加価値を生み出すことになる。

例えば、山口誓子・直原玉青共著の『俳画入門』(保育社 昭四六)は、南画家である玉青の俳画に、誓子が俳句を賛したものを内容とする。ところが、玉青の俳画に、誓子がその代表作を以て賛に持ってきたから、コラボとして今ひとつ面白くない。

誓子の賛の句が、俳句として完成されて隙がないこともある。自由律の人たちの短いのが、賛として使い勝手がよいのはそこらだろう。書のこともある。しかし大きな理由は、誓子が、南画と俳句との「共通の精神基盤」は「象徴化」、つまり全体を部分で、無限を単純で表現することだとするのと、南画を文人画だとする画家玉青の立場との違和にあるようだ。

玉青が、この本の総括として、若い頃句に師事した青木月斗の『俳画漫談』を、「ある時、ある書物」の掲載より「メモの中から拾い出して、参考に供し」たとしているが、メモにしては全文で、それでいて多少の有意の修正も見えるので、本誌に原文を収録した。

集英社の『俳人の書画美術』(全十二巻 昭五五完結)の資料集めにみえた森川静男氏からの提供で、『俳画講座』(小川芋銭・森田恒友監修 昭三)第一巻に収録されたものである。玉青の「ある時、ある書物」がこれで、本格的に絵を学んだ時期に当たる。

文人画という言い方は、職業画家の絵画と区別するものであった。飯の種としないので、心を高く保つことが出来る。評価に於いては、心が主であって技は従であるとする系譜である。文は人なり、画は人なりがその態度である。

月斗俳句は、西欧的な写実ではなく、東洋文人の自然観照の句である。画と句の蕪村を尊重した。昭和初期には数少ない専業俳人になっていたが、昨今のそれとは違い、多言せず、商業俳誌を遠ざけ、時流に媚びることもなかった。月斗俳句は文人俳句である。

俳画は、技法としては減筆であるから、題材として蘭竹を描けば、形状的には誰のものでも相似する。見掛けでは平凡とか陳腐とかいわれる。近代アートでは申し難いが、こういう南画的な俳句態度に於いては、その内容の深浅を「人なり」という外はない。

紛らわしいものに、昨今のいわゆる有名人たちの俳句ブームがある。筆や口が立つのでメディアに重宝されているが、これを云っているのではない。

(平成十九年三月)

 

 

人と句品・句格

 

古河風可の遺句集『道無量』(昭十七)は、三回忌に当たり、その句二千余を集めて、知辺に頒たれたものである。太田晦巌老師題簽の帙入りで、上質和紙に二色刷りの和装の句帖二冊(各青木月斗題簽)に、畳紙に収めた肖影と画帖と色紙の複製を添えるという、菅裸馬のもとで茂野冬篝による編集と装丁は、大戦中という時世(以印刷代謄写とある)を超越している。

体裁だけではなく、月斗序、裸馬後記とは豪勢であり、本誌にその序文を載せておく。後記のほうは、先生の随筆集にある筈で、俳人風可としての人となりが、幾つかのエピソードで語られている。

「花」の選者吟五句のため、七十句余を作られたのに、「真夜中に上野公園を彷徨して夜桜の真を探られ、挙動不審とあって巡査に誰何せられた」古河虎之助男爵であった。巡査の恐縮振りを思いやればおかしい。

 雷が曇らす山の花の冷       昭和四年

 ぬかるみを社へぬける夜の花

 花散るや昼を鐘つく東海寺

 提燈について下山す落花かな

 畑中や一重の花の照り曇

裸馬先生は、「風可子の句生活はもともと禅と並行せられた、謂ふ所の俳禅一味である」と述べられる。「兀々として只管打坐し、工夫弁道に没入すべし」とする態度である。「天地の正に居り、大自然の真に面りして直観直視を期され」たのである。

真面(まとも)という言葉がある。人は、さいころのように、幾つかの面の人生を同時に営んでいて、そのどれもがその人を表してはいるが、総括して示すものとして、ここでは俳人風可であろう。

句の巧拙を超えて滲み出る句品・句格なるものは、まさに「人なり」というほかは無い。「その句を知って未だその人を見られたことのない」大牟田の土生麦門冬は、持病が進んで、「富士山と風可子を見てから死にたい」と覚悟して東上したという。

裸馬先生は、「向後百年にして尚且つ最もよく、最も正しく、又最もありしがままなる故人を伝ふる」のはこの句帖ではあるまいかと結ばれる。古河財閥三代目の「最もありしがまま」の姿が、句の風可とは。

句での名利を求めないから、容易にその境地に直入できたのであろう。そうした句風であった。思うに、世上の姿はともかく、俳句作りの中に本然の自分が現れる、そんな句を作る俳人こそが、月斗、裸馬、正氣に連なるわれらが目指すべきところである。

(平成十九年四月)

 

 

同人于野

 

 『同人俳句集』(昭六)の月斗序の中の「同人干野」の語は、「同人于野」の誤植か、たぶん誤用である。ウばねカンぼうで間違い易いが、白川『字統』に、干はタテ、フセグの意、于は助詞的に…ニがある。

易に、「同人于野、亨」を、「どうじん、やにおいてす」と読み、志を同じくする者相携えて行くに良しとする。創刊に関わった中島華水あたりの語だろう。

 日洽し三々五々にき踏む    月斗

初の結社句集の序に代え、この句を以てその意を示している。

「日洽し」は、まさに同人としての結実であり、広々とした野面に「三々五々」は、暢々としてよい。それぞれが孤ではなく、といって決して隊列を組んで行進するわけではない。

 名利を競い合う街中にあっては、こうは歩けないから、本当の俳人にとっては、心を置くに都城よりも田野がよい。名利は句作の鼓舞ともなり得ようが、それでは俳句が淋し過ぎよう。七月、第六十二年に入った『春星』もまた、創刊以来、「日洽し」であり、「三々五々に」であり、「き踏む」である。

 暑くなる前に、春星居士の十七回忌を修することにした。五人の子供たちが集まり、父を語れば当然俳句のことにも及ぶ。正氣門下の相弟子ということになるわけだ。島春や男兒は、加えて裸馬俳句を身に染み込ませる時期を経ているが、その後は皆『春星』という同じ釜の飯を食っている。

 童謡の赤い小鳥は、赤い実を食べたから赤いのが詩の真実だが、人体の構造は、昆布を食べたら髪が黒くなるというものではない。申から申までのきょうだい五人が顔を見合わせればよく分る。といってその形が不動のものでもない。実に長い年月をかけて入れ替わっていながら目に付かないのが構造である。

 俳句も、俳句の仲間も同じことである。諫早の句碑の四人が、その例であろう。中学生の俳句仲間、正氣、里鵜、丈義、青火は、その後それぞれ句作の道を異にしたが、縁有って、晩年、同じ野において再会し、生涯その歩みを共にした。

 俳句の世界は曠野である。私意も私欲もなく、明るく大らかなものである。真の句作者はどこか似通っていて、すぐに仲間になってしまう。

しかし、句作り仲間は、視野の中に皆の姿がはっきりと認められるぐらいがよい。『春星』ほどの規模は、お互いの句の消息が通じ合えるからちょうどよい。

  (平成十九年八月)

 

 

俗を去ること

 

俳句作りは言葉を使うのだから、土や肥しや苗を手に取ってやって見せるようにはゆかない。老人大学の俳句教室などでは、初心の人に、季題とその例句を示して、先ずは指折って五七五を作ってもらう。

その際、例句には、半世紀以上経った句でないと取り上げない。そのくらいでも色褪せない句は大丈夫である。古典は規範である。照準を定めるのに、ごく目の前の一点を以てしたならば、大きな誤差を的に生じるからである。

JR西日本の隔月刊の広報誌『ブルーシグナル』に、金魚玉に聚まる山の翠微かな    月斗

の句が載っている。シリーズ「うたびとの歳時記」の今年は許六(灸と春風)、言水(菜の花)、芭蕉(蛍)だから、月斗句も今や古典のうちに入るらしい。

この句は『同人俳句集』(昭六)収載だから、五十歳頃の作である。文章は無署名だが、月斗句のキーワードとして平明至味明朗簡明直裁を挙げ、調べを唱え、人柄の豪放磊落さが人を集め、句作第一主義の態度をとったと作者を紹介している。

このページの照影として提供したのは、正氣庵に来駕の際に撮ったもので、先生が還暦のお誕生日当日の温容である。ただ豪放磊落とは浪花人としてのニューアンスで、と言いたい。

昨今、〈句は人なり〉が月斗フレーズとして一人歩きしている感もあるが、従来から、画は人なり、書は人なり、文は人なりと云われ、職業画家に対する文人画家の系譜の藝術態度である。これを言うならば、オリジナル重視の現代への対抗にまで論旨が及ばねばなるまい。

『芥子園畫傳』には、俗を去るには別に方法はなく、「多く書を読めば、書巻の気が上升して、市俗の気が下降する。畫を学ぶものは此事を慎まねばならぬ」とある。〈句は人なり〉とは脱俗である。

筆墨には滞、覇、市の三気を忌む。覇気とは、烈し過ぎて落着きがなく為に品位を欠くを云い、市気とは、巧みに過ぎて媚態を呈し脱俗せぬを云う。「寧ろ覇気があっても、市気あらしめてはならぬ」とは、「市なるときは俗気が多い」からである。

何やら大会とか、何とか賞とか、二句一組が幾らで何組でも可等々の俳句イベントが流行である。ほぼお決まりの点者により、かつての雑俳の興行よろしく、市気満々ではないか。「現代の俳句、滔々として、新月並に堕してゐる」(月斗)ような気がする。

(平成十九年十一月)

 

 

あとがき

 

二合五勺が量れる古い桝がある。五合枡の対角線の一つを薄板で区分して、五合の半分(こなから)が量れるのである。クォーターの区分だ。これまで、百号単位の節目は意識してきたつもりだが、春星通巻七百五十号という三クォーターもと、あたかも月斗忌号でもあることから、怱忙の内に綴り合せて形にした。

表紙裏の先生の句の色紙、

   島春君

 俳諧の座に浴衣著の寧馨兒    月斗

の私は十四歳。金の色紙だし、面映いので掲げることはなかった。もうこの齢になったから良かろう。