松本正氣俳歴(前篇)
『春星』より改補
松本正氣俳歴(前) その1
明治三十七年(一九○四年)
明治三十七年三月二十七日、長崎県北高来郡諌早町乙四一番地に長男として出生を届出。長崎に旧元日の生まれということで、正喜(まさき)と名付けられた。俳号の「正氣」はその音読である。
現在の諌早市東本町、当時は片町のあたりは、本明川沿いに宿場があり、有明海に入る下流は干潟が広がり、漁獲が多く秋口など賑わっていたという。昭和三十二年の諌早大水害により生家の辺りは流出、のちの道路拡張により、現在では昔の面影はほとんどない様である。
諌早は俳句も盛んな土地柄で、明治中期には、寧斎、梅渓、一一などの旧派の俳人も多く輩出したが、地味な土地柄であり、いわゆる日本派の風潮に応じる事もなく、大正に入ってからは衰退している。
『生来蒲柳の質であった私は、少年の日父に連れられて、大雪の中を産土神に徴兵検査迄是非命を授かるやうにと祈願し、願成就の大幟を奉納した記憶がある』。
大正六年
諫早町尋常小学校より、長崎県立大村中学校(玖島学館)へ進学、諌早の仲間達と汽車通学する。精神主義の気風の中学であった。
俳句関係では、第二四回卒(大正十一年)の同級に桜井、冨田ほか、其の後も文学の道に進んだ者として、一級下に福田清人(作家)、山口柳人(寒雷系)、二級下に赤司里鵜(馬酔木系)、三級下に野中丈義(万緑系)、市川青火(ゆく春系「矢車」主宰)などがいる。強く句作をそそのかされた連中である。福田清人の少年小説『秋の目玉』には、当時の中学生達が教室で俳句を作る情景が挿まれている。大村中学には、国漢の教師にホトトギス系の「なまこ」句会の豊田鳴子がいたが、直接手ほどきを受けた様子ではない。伊東静雄は二級下だが、後に名を成した詩人も当時は句作に誘えるようには見えなかったらしい。
後列左から三番目、左肩に鞄の紐が正氣
大正九年
田士英、活堂らの長崎俳壇では、明治三十年代に医専、中学、師範などの青年に新俳句が興り、其の後、「続三千里」の碧梧桐の来崎を機に日本派から新傾向へと移ったが、それが行き詰まってきた頃がこの時期に当たる。前述した諫早の文藝土壌の上に、長崎俳壇にかなり遅れて、当時の中学生達により、新俳句の芽が育って行くのである。
『小生が初めて出席した句会(大正九年春)でも互選をした。その頃出席した旧派の句会でも席題は互選をした』とある。俳句は、町内の文学好きの親友小柳種衣と共に始めたようである。種衣の生家は製綿店で、県立諫早農学校に進学したが、ここに教師として、中谷草人生(蛇笏門)が居た。初めての句会(三月十三日と記憶)はこのあたりであろうと推定される。近所に旧派の宗匠古賀九皐が住んでいた。九皐がその兄弟中で一番貧乏していたのを知る父親から、俳句に関わることを叱責されるため、隠れて句を作っていたという。
この頃より近隣や中学の同級、下級生の誰彼を半ば命令的に集めて句会を興している。中学生十人ばかりの句会は「お四面さん」と呼ぶ神社で、種衣宅では大人と一緒だった。「長崎日々俳壇」などへも投句していた。俳号もいろいろ替えたが、「筍外」「赤甕子」が記録に残っている。
なお大正九年は後に生涯の師と仰ぐ青木月斗(大阪の俳人、子規門)の「同人」創刊の年に当たる。
大正十、十一年
柿友吟社第二回俳句集(酉年卯月)という、古賀九皐撰による和綴じの「散桜の巻」が残っている。天位の聖灯扉(福田清人)の句「ちるや桜詩人黙して筆握る」で巻いたものである。
地 春雨や三十六峰茫として 筍外
人 母校を訪へば桜の花の盛り哉
そのほかの当時の句に、
踏青や理想の友と連れ立ちて
色変えぬ松ばかりなり相対す
家あれば柿あり鶏の声もする
山里なればとて干鮭を叩きけり
大正十年夏、福田清人を諌早に迎えて、城山で句会を開いた。その折りの句、
福田清人を偲んでの文中、『大正十年だから六十六年になる、夏休みで君が諫早に遊びに来たので,早速,会員を十余名集めて城山公園の頂上の広場の大橋の樹陰で歓迎句会を開いた。その時、蝉の題で作った句である。林間学校を誰も知らなかった。僕は前年の秋、修学旅行で鹿児島の城山で夏の林間学校の跡を見たのを思い出して句にしたのである。漢字ばかりの句になったのが自慢だった。
この句は、後に人にすすめられて「ホトトギス」雑詠に投句する時、一年間の作句の内から規定の二十句(或は十句?)の中に選んだのであるが、大正十一年三月号に
蝉時雨林間学校参観人 肥前 赤甕子
と入選している。』
その年の冬、長崎での青木月斗歓迎会に出席した。月斗は、家業の薬の商用で、年二回の九州行きをしていた。「福岡日々」の俳句選も担当し、福岡、佐賀、熊本、長崎と、殆ど俳句の旅であったといえる。この句会では、月斗選に、
『それは僕が中学(長崎県大村)五年のときだから大正十年だったろう。軍艦土佐の進水式(長崎三菱)の前日であった。
長崎で青木月斗氏の歓迎句会があるということを新聞で見た。当時僕は同級生や下級生を集めて句会を主宰していた。中でも熱心だった桜井、冨田両君が僕に長崎遠征をすすめた。新聞を見たとき胸が高鳴りしたのだが、俳句を作ることさえ嫌っている両親が、句会に長崎へ行くことを許すはずかないので諦めていたのだった。桜井君等に勧められて煩悶していたとき、妙案が浮かんだ。それは土佐の進水式を見に行くという口実である。(叔父が当時三菱の技師をしていた。)この妙案は成功した。
会場は商工会議所。僕等が参じたときはすでに数十の会者が居並んで、席題枯柳、冬の海、火鉢を沈吟中だった。今東京にいる箕谷老が幹事長格だった。締切時間も迫って堂々たる二人の紳士が会場に見えた。それが月斗氏と彦影氏だった。実に月斗先生にお目にかかった最初である。
僕は句ができていたので、月斗氏の句作のポーズをじっと見つめていた。
互選。披講。先生の名乗りの特異なアクセントに大音会場に響き渡るのにたまげた。先生の句で記憶にあるのは、
電車火花を散らして闇の枯柳 月斗
そして月斗選七句のうちに
参考書を伏せて火鉢に手あぶりし 赤甕子
が見事に入選した。当時僕は赤甕子と号していた。
披講が済んで、月斗氏の俳話。先生は僕等の方へ視線を与えられ、今日は中学生も見えるが、俳句をやって学校の成績が落ちるようなことはない。もし俳句をやって学校の成績が落ちるような者があったとしたら、その人は俳句をやらんで他のものをしてもやはり学校の成績が落ちる人である、……興奮して傾聴し、意を強うした。学校で俳句が隆盛になるにつれ、俳句は功成り名遂げてから作るべきで、中学生なんかが指を染むるべきものでないと、我らを罵倒する連中もいたからである。
桜井君も富田君も興奮していた。僕一人別れて叔父の家へ泊まりに行くのが非常に惜しくて、僕もその夜両君と一緒に泊ったと記憶する。』
自動電話の燈に人寄りぬ枯柳 赤甕子
翌十一年の虚子の来崎は、しばらく不振の長崎俳壇にとり、定型復帰へのきっかけとなったといわれる。この虚子との対面を、ホトトギス雑詠入選に力を得たのであろうか、少年は計ったのである。
『さて、高浜虚子の「肥前の国まで」の大旅行はこの大正十一年三月であった。長崎の俳句大会へは行けなかったが、新聞で雲仙行の虚子の旅行日程を見て、帰途本諫早駅(島原鉄道)通過の虚子の姿を二タ汽車探したが果さなかった。後で一ト汽車前だったと知った。この事が小生の句生涯をすっかり変えて仕舞う結果になったのである。縁とは実におそろしいものですね。』
この年上阪し、月斗の膝下で学ぶこととなる。
九州から本土へ渡る船うらら 正喜
大正十二年(二十歳)
勝山通りの木本方から、当時学舎が生野にあった大阪歯科医学専門学校に通学。青木月斗に師事し、各句会に出席、「同人」に投句した。俳号を本名の正喜とする。
学生時代は水上部、乗馬部、蹴球部、囲碁倶楽部。俳句は「猫間吟社」を主宰。
右から五人目
天満橋をくぐる燕と団平と
いつまでも柿もがぬ家の筧かな
鯊の串柱のひびに挿しにけり
大正十三年
大正十四年
我服をはへる羽蟻や爪はじき 正喜
梅雨穴にまひまひが輪をかきにけり
この驛にもの売居らず虫の声
反古捨てしあたりとおぼしちちろ虫
温泉の町や夜寒となりし玉撞屋
渡り鳥風に吹かるる旅ごろも
茶の花や人を怖るる池の鴛鴦
火の番の丸く着込んで出たりけり
大正十五年
袂糞捨つれば浮いて水温む
鳩麗四天王寺の人出哉
句座に燭入りて花の冷にある
時鳥潮の満ちたる目鏡橋
時鳥朝となりたる田の蛙
朝の如く夕の如し昼寝起
ストローの黄一線やソーダ水
わだつみの日向日陰や秋の風
朝寒の日向に干しぬ味噌麹
秋の日や芝枯れ急ぐ三笠山
十三橋朝鮮人と涼みけり
朝寒の句は、『昭和一萬句』(今井柏浦編、昭二、修省堂)に収載。
江口喜一の文より。「その頃の句会の会場は南区の御津幼稚園だった。僕も月斗門に入ったばかりの俳句書生だったし、雅兄もまだ歯科医専の学生服のままだった。句会の席で、煙草のバットの箱を剥いで裏返し、それに作句を鉛筆で書きつけたりしていた雅兄の制服姿が今も眼に残っている。月囚、圭岳、伏兎、宋斤、南畝、朝冷、涼斗師等の諸先輩が正面に綺羅星の如く居並んでおられる中央に、どっかと座を占められている月斗先生もまだ四十代の若さだったが、ひときわ大きく輝いてみえた。諸先輩の句論句評の応酬も辛辣で盛んだったが、雅兄も勇敢に先輩の説に反駁するひとかどの論客だった。最後に先生が立って句評の判を下されるのだが、諾々と説かれる句評が楽しくて皆熱心に聞き入ったものだ」。
『同人』各地句会報欄(圭岳)に、「正喜君、披講後遅れ来たりて気焔当たるべからず」とある。大正14年暮れは、学校改革の時期で、修業年限3年半(以降は4年)の最期の学年にあたり、翌年夏期休暇まで毎日1時間の補講を行い、9月が卒業試験ということに定められた。
猫間吟社(大正15年3月)、和服姿が正氣。
『同人』6月号より。
ソーダ水底から吸ひし甘さかな
首を振る扇風機の風ソーダ水
顔を歪めて笑ふ女やソーダ水
ソーダ水九階から見る人は蟻
大正十五年二月二十三日、母ミツ逝く。享年四十六歳。
十月二十六日、歯科医師免許取得、第13168号。