松本正氣俳歴(前篇)

『春星』より改補

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 松本正氣俳歴(前) その2

 

昭和二年(二十四歳)

長崎市稲佐町にて松森松本合同歯科医院開業。一月、正喜編集俳句小誌「句鐙」を発行。寒楼、圭岳、伏兎、草牛が寄稿。諌早に開院。七月「夕立」第一号発行、年内四号まで。里鵜、種衣、紫石英編集。月囚、圭岳、草牛、圭史、鳴子、月斗、草人星寄稿。

                    上は小柳種衣

 

  からすみと南蛮漬で年酒哉         正喜

  冬籠柱に古き角帽が

  上海のラヂオを聴きつ扇風機

  踏切で汽車送る間に落ちし秋日

  木枯や波を離れし大日輪

  かりそめに旅愁描きつ枯野行く

  悪鬼翔るや枯野の天を驀

  露西亜人毛布を売りに来りけり

  猟犬が風を嗅ぎゐる冬日哉

  ストーブを離れてジャズに踊りけり

  水仙を活けて仕舞へば用事なし

  淡雪のかかりし馬の睫哉

  春の夜や俳句作る妓ありやなし

  大試験解剖学に泣きにけり

 

昭和三年(二十五歳)

  「夕立」第二巻(前期)は合併号で第三号まで、第三巻は第四号。寄稿は前記以外に百艸、蒲公英、九皐、麦門冬、田士英、秋海棠。

 元日           月斗来(文)

 

五月、月斗諌早入り。句会翌日種衣の案内で雲仙行。

種衣の文中「斗翁曰く、大阪の俳人の半ばは麦を知らぬ。いや日々食う麦は知ってその麦がこの美しい麦畑から取れることを知らぬのだ。俳句を作る田舎の君らは実に恵まれている。然るに都会の俳人に地方のものが遅れを取っているのは努力が足らぬのだと。また曰く、然れども王樹、麦門冬は九州俳壇の第一人者であり、正喜は異才なり奇才なり、正喜を持つは実に誇りである、彼正喜が今のまま進んで大成するか或いは彼の個性を凡俗に終わらすかが今後の問題であると」。

八月、九州吟旅中の田中寒楼が来訪。

 

 月斗葉書     八月、寒楼翁と

 

 初句会披講に澄ます耳二百

 先生の選に入りけり初句会

 薮入やいそいそとして九十九折

 岩清水の黄金の戸樋や初日影

 三竿の初日や淀の二渡し

 破魔弓の濃き彩色や野の初日

 双六をしませうといふ舞子哉

 双六の盤抱え来る舞子哉

 我が前に盃たまる年酒哉

 羽子板の紙屋治兵衛の雁治郎

 地球擬す手鞠の中の日本かな

 連れありて歩いて帰る朧よし

 春の日は午なり起き出て漱ぐ

 町川や城山の落花流るる

 夏川や夜の瀬音の親しまれ

 寒紅の唇歪め笑ひげり

 苗代寒樟脳風呂を出でにけり

 一尺の蚯蚓這ひげり五月闇

 扇風機の音の暑さに耐えられず

 歯を以て麦酒の栓を抜かんとす

 トランクとバナナの籠と提げにけり

 羅の袂をどるやヴァイオリン

 一口飲んで妓が返したるビール哉

 泳ぎ上りてチャールストンや岩の上

ミルクセーキ上海卵用ゐけん

納涼園宝捜しのある夜かな

登山杖の影が短くなりにけり

卯飲の裸二匹に秋立ちぬ

澤正の熱演よろし夏芝居

物差の刀と衣紋竿の槍

くるぶしに吸ひつく蛭や爪弾き

舟虫の髭をつまんで捨てにけり

町残暑なゐふるはすは雲仙か

寝ていねず夜半風鈴が寂しくす

清澄の空より湧きし蜻蛉哉

孟秋や虫が熟らしし柿の色

なにがしのみことの生み給ひける島の秋

(斗翁と正喜)十八貫十三貫の裸かな

 (露月山人逝く)糸瓜忌の前日にして秋の風

みちのくに千草の露やしぐれけむ

八朔の潮の澄めるに眼鏡橋

 (奉祝)天皇陛下万歳菊の酒

 旅衣鹿の抜け毛がつきにけり

 時雨忌や襟正すべき翁の句

 煩悶と疑惑に寒し我が句観

 (阿蘇登山追憶三句)

 須叟にして咫尺に霧や登山杖

 火口近き鳴動に霧震ふ哉

 澄み透る湯にひたり居り外は霧

 十月の風這ふ土に葉鶏頭

 秋風や南門前の古着市

 肥汲みが中抜大根くれにけり

(結婚式の日を待つ種衣に)

旅にある結びの神が待ちどかろ

我しを信じて強く生きれど寒さ哉

若くして世に拗ね寒き師走哉

焚火して校長室に呼ばれけり

掛取を捨て置いて碁を打ちにけり

(祝種衣新婚)

あれを見よ諌早様の池の鴛鴦

 

昭和四年(二十六歳)

「夕立」第四巻第一号消息欄に「「私儀去る一月十一日故郷を立ち果て知らずの旅に出で候目下備後国横島に避寒致居候又二月十七八日の頃この島を去り二年半振りに大阪俳壇を訪問しそれより四国高松市に当分滞在の予定に侯小生の居所は移転度に紫石英氏に通知致置侯「夕立」は必ず継続致し侯へば」云々と記している。それが次号では「小生予定変更当地にバラック診療所を開設し滞留に決し候島には交友無之無聊に苦しみ居侯へば精々御通信願上候」となる。多感の青年時代であった。「夕立」第四巻第三号以後、四年夏から六年春迄の句散逸多し。

 

 月斗葉書3月   同5月

 

  吏にならひ正月新ンにす農弱し

  (高松行の途中岡山下車車春子を訪ふ)

  冬朝や俥を止めし見山居

  (草人星君新婚に)鴛鴦に交りて遊ぶ心かな

  (圭岳氏新婚に)鴛鴦やホ句に遊びて暖に

  髪に落つる灰気にしつつ火を吹きぬ

  かがなべて入学の日を待つ子哉

  梅二月ホ句に遊べぬ多忙よし

  いぶり炭吹いて燃すや吸殻も

  いひにくきやうに春愁訴へぬ

  東風の浦からからと帆を捲き揚ぐる

  島は打瀬に出でて人居ず木の芽晴

  歯を病んで腫れたる頬や木の芽風

  火鉢投げんとしたる酔狂抱止めし

  歌反故のしばらく燃えし火鉢哉

  手を付けぬ歯の型幾つ冴え返る

  春寒や一本折れし椅子の足

  (厳父を失ひし里鵜へ)

  早春の愁傷ホ句に癒すべきぞ

  (叔父の訃報到る)一室に籠り泣きけり春の昼

 

昭和五年(二十七歳)

久世車春の後を継いで糸崎の「蛸壷会」の指導。

「同人」月斗の「西行記」文中、昭和五年四月二七日「広島句会。本田屋楼上、正喜参加す」とあり。

 

 

 

  白靴を提げて歩きつ足に豆

  夕端居気を腐らして女待つ

  打ち連れて歯医者に通ふ日傘かな

  悪友に髭落とされし午睡哉

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