松本正氣俳歴(前篇)
『春星』より改補
昭和六年(二十八歳)
一月五日渡辺ツユ子と結婚。
月斗葉書
祝句「備後横島にて松本正喜島の女を妻を迎へしと云ひ越すに 汝が妻は椿の花の島乙女 月斗」「菜の花の香に酔ふやらむ春の海 寒楼」「九州も島横島も島しほ麗ら 王樹」「魚島の海よりふかき御ちぎり 麦門冬」「紅白の椿生けたり一瓶に 車春」。
鯛細見物と備後俳句大会に田中寒楼,土生麦門冬,中島菜刀が来島。
「駅へ自動車で駆けつけた時は既に列車は停車して降客の姿も見えなかった。僕は改札掛に大牟田からの切符はないかと尋ねた。深夜ではあり,急行だから,糸崎駅に降りた切符は僅かですぐに判った。僕は駅から走り出て「バクモンドー」と叫んだ。「オーイ」と返事があった」。
鯛網見物
半紙に正喜謄写で「魚島」を発行。横島,田島,尾道,糸崎に句会を作る。十一月王樹来遊。
正喜と王樹
初凪や海の公園回遊す
初凪や賽銭舟の艤
壷網の浮キに止りぬ乙鳥
つばくらの翻る海渡りけり
傘を明るくしたり梅雨の月
大鯛をしめる手鈎や青嵐
裸よし遮莫巡査の眼
夏痩や鏡裏の我しと相対す
蛾が襲ふ田風が襲ふ燈哉
蚊の夕となる迄左官働けり
長雨に腐りし藺田や雲の峰
(宮島弥山に登る)
瀑堂に昼寝の僧や鼻に蟻
足を冷せば頭に応ふ清水哉
不消火のお茶をいただく土用哉
満干石覗いて見んか土用潮
夏痩や髪を大事にする男
沖膾おこぜに指を刺されけり
磯曳の鯛子貰ひぬ酢にせん
長雨によき雑魚湧きつ土用東風
泳ぎゐて花火の殻を拾ひげり
蜻蛉や泥潮満ちし川の上
空濠の草に遊べる蜻蛉哉
柿未だ青さよ九月十九日
豪壮のホ句こそよけれ獺祭忌
非写実非理想の句や獺祭忌
欄を這ふ蓑虫や夜の秋
朝顔を三十年も作りける
月明に湿りて甍遠き哉
山陽忌遺墨数々橋本家
(西野)山陽忌この梅林の虫時雨
潮騒に島の旅籠の夜寒哉
秋風や職を求めて街歩く
秋の海小島鼎に澄みにけり
秋の海水縦横に澄みにけり
秋風や日々に癒えゆく手術口
晴耕に秋の夕となりにけり
里の灯を見て茸山を下りけり
打瀬の灯打ち連りて澄みにけり
北大阪霧と煙の朝かな
稲筵神嘗祭の日昭々
かがなべてよむ鐘の音の澄みにけり
針の如き遊魚澄みたる汀かな
散りにつく柳の下のポスト哉
胎動を感じつつ縫ふ夜長哉
心摘んで明るくなりぬ菊の燭
(王樹子を迎えて阿伏兎吟行五句)
火鉢の火作りに出たる舳かな
昼酒の酔に眠たき小春哉
短日の闇に上りぬ盤台寺
かしの実の入りて賽銭箱古し
炭買いに炭斗提げて行きにけり
店頭にラヂオを鳴らす足袋屋哉
磔像に日の輝きや返り花
(諌早旧藩主邸)鴛鴦遊ぶ芝生や躑躅返り咲
巡査志願して渡鮮すや暮の秋
暮の秋支那へ干海老送りけり
行く秋や晴耕雨読庵主無事
牡蠣船の柱鏡に化粧ひげり
牡蠣船の帳場にひきし電話哉
牡蠣船の揺れて酔歩を危くす
牡蠣船を見下して橋渡りけり
牡蠣船に臨検に来し巡査哉
牡蠣船の灯に引き汐の遠さ哉
猥らなる舞こそよけれ里神楽
里神楽神代の神の色ごとを
菜刀が描きし備後神楽哉
寒楼や備後神楽の舞の真似
木枯や汲み出し切れぬ舟の阿伽
木枯や色失うて棚の鯛
汐引きし磯に探しつ茎の石
家宝にもあらず在りけり茎の石
茎の石をかかへしが悪し流産す
農学校の水菜を買うて漬けにけり
(二日神棚に魚介を供ふ,これを若魚といひ,同暁これを漁るを若魚迎へといふ)
若魚に掌程の鰈哉
提灯に雪散る若魚迎へ哉
若魚を迎へて戻り火燵哉
改造社版「俳句歳時記」新年の部
切干や娘見に来し家の庭
高麗犬の影切干の筵哉
蕪汁も藷の御飯も吹く熱さ
初鶏や舞踏会より帰り道
足の先に潮満ちて来つ日向ぼこ
初鶏や灯台守の住むばかり
風邪に伏せば恋の病と云はれけり
碁の友が俳句の友が風邪見舞
つまづきし電気火燵のコード哉
火燵出て一文菓子を売りにけり
寒さ骨に巡航船の一時間
初日赤し潮汲む島の乙女達
冬の雨傘の柄もりのわりなさよ
初風呂にふぐり大きな翁かな
初東風の野辺の小川の小魚哉
狐に似し犬に遇ひたる枯野哉
風花や窓に放ちし書淫の眼
池に浮く百羽の鴛鴦や牡丹雪
汐騒や島の旅館の冬構
屯田や冬構して七八戸
舞猿が格子戸開けて入り来たり
舞猿に投げし銀貨の光り哉
猿回し練兵場を横切りけり
碁を打つや襖一重に歌かるた
かるた果てて女と帰る深雪哉
卯飲や博多の宿の河豚汁
昭和七年(二十九歳)
二月島春誕生。祝句「備後横島にある正喜。長男を挙げて撰名を乞ひければ「島春」と命じて 「島の春魚寄せ波の寄するなり 月斗」を、『文藝春秋』四月号の月斗近詠に収載。
月斗命名 島春宮参り
水曜会,海鼠会,蛸壺会など。久しぶりに上阪。麝香会歓迎句会。「魚島」は再び活版に。月斗,小蛄,王樹,麦門冬,田士英,朝冷,圭岳寄稿。
勅額を仰ぎ畏み初詣
初詣なかなか読めぬ苔の句碑
門松や降る程の雪積む夕
炭斗に鋤焼鍋を下しけり
この雪に宵寝の町や寒念仏
(春月君を見舞ひて)
枯木の如き手に尚通ふ脈を診る
薮入や母校の前の胸騒ぎ
霜柱自動車学校練習場
たで船の煙に逃げぬうかれ猫
池の中に落ちたる音や豆を撒く
楼脚に遊ぶ家鴨や春の潮
飄々と空流るるや吉書揚げ
汐騒に宵寝す島の余寒哉
(島春日々生長す)
春睡や乳豆鳴らして吸ひながら
春睡や己の顔に爪立つる
桜鯛しめらるる尾や天を搏つ
鯛網の鬨がきこゆる端居哉
鯛凪の海遥かなる端居哉
鯛網の遥かに見ゆる端居哉
貰ひたる鯛見せに来る端居哉
鯛しめに来よと呼ばるる端居哉
(島春初節句に)
王樹子の賜ひし軸の五月鯉
薬狩蓬莱島へ発ちにけり
神農の像の古びや薬の日
蘭湯や錦に包む玉の御子
明易き大渦小渦鳴門越す
肥汲が来て臭はせり明易き
茄卵に添えし真塩や藤若葉
烏賊冠者に墨かけられぬ海月冠者
鯛網に産倒しけり侘び住居
桜草咲かせてゐるや蚤の跡
捕へたる蚤を火熨斗にくべにけり
風蝕の戸に一線や蟻の道
我が昼寝起待ち筆硯用意あり
一トしめに烈火となりつ桜鯛
先づ客に見せて料るや桜鯛
往診に昼寝の車夫を起しけり
昼寝起らしき声して答あり
ぎっしりとつまる往来片陰り
この村の早き蚊帳に泊りけり
釘ながら蚊帳の釣手が抜けにけり
盗売する五平太船や星月夜
舟虫と昼顔と墓地荒廃す
西瓜盗んで大蛸海に逃ぐる哉
牛に乗ってかけくらす子や花野原
蚤起して草の露踏む土用哉
祭の夜、半歳の島春と
雷を封じし井戸や庭茂り
雨乞の浮立の布令に回りけり
星月夜宇宙に遊ぶ心かな
疎んずる筆硯の秋暑き哉
遊船のあゆみ恐るる女かな
ビヤホール気味悪き客我を見る
離さじな守り袋と腹当と
腹当の子が馬にする磁枕かな
化けに去んでしばしさびるる踊哉
八朔の神楽が果つる迄ゐたり
秋の朝帰帆群蛾の如き哉
さし連れて雨月の傘や俳門
(仙酔島)吸霞亭仙酔室の月見客
同人を百五十冊書架の秋
糸瓜忌の案内状や二百枚
句碑建つる申合せす子規忌哉
秋風を起しゐる空高き哉
奉天のラジオ楽しや夜の秋
柿の皮ついて離れず靴の底
ポケットに鹿の煎餅欠け残り
島春がやがて破らん障子貼る
コスモスに漂う朝の嵐気哉
結界を立って夜食の座につきぬ
夜学の師感銘の詩を朗吟す
膝打って古人讃ふる夜学かな
岩走る水を欄下に紅葉茶屋
浮島の影の澄みけり秋の海
(蕪村百五十回忌)我が足袋も九文七分よ春星忌
蕪村忌や毛馬の堤の枯茨
蕪村忌や蕪村と並ぶ誰かある
魚島の客手土産に新茶かな
到来の新茶に鯛の茶漬かな
道八の急須に走り玉露かな
足袋の裏二銭銅貨の程の穴
(治療室)金屑がぬかってゐるよ足袋の裏
秋光の空の底より浮く星や
つと立ちて夜寒の燭奴鳴らしけり
提灯に闇払ひ行く夜寒かな
野の錦遊ぶ小鳥も金と銀
裁り断ちし山の錦と相対す
明治節の式の戻りを菊見哉
茶を飲みつ菊の月旦旺ン也
飛びこみし碁石を捜す火鉢かな