松本正氣俳歴(前編)
『春星』より改補
昭和十八年(四十歳)
二月、作品集「菖蒲」発行。前記に加え村上霽月、島道素石、中島菜刀、皆吉爽雨など。
また無記名清記による月斗選「俳句道場稿」を謄写配布。
前年来、俳諧史を勉強、古短冊蒐集を始める。五月十三・四日、月斗を迎う。京の洛中、黄櫨が随伴。
師走、王樹来。
囀りに恍惚鳥語解しゐる
春はものを大観すれば霞かな
陸軍記念日二三歩あるく我なりし
古き三原を語り顔なる柳かな
ふらここや鶴の港を眼下にし
春燈下鼎座す君と酒壷と我
就中柳と水に風光る
花の寺のスタンプを捺す句帖哉
釣釜やモンペを着たる客あるじ
春潮に遊ぶすなめり鯨かな
搦手や老松花をこぼしけり
碁笥の蓋とれば春の蚊たちにけり
遠祖より伝はれる種井哉
春天や日の輝きの長へ
桜鯛浮くてふ八十八夜哉
片栗を掘るや鶯老を鳴く
煙草盆汝慇懃尾篭也
(斗翁来庵)魚島の鯛に師翁を迎へけり
鯛を科りし鱗地に敷く庭若葉
夏服にゲートルや師の旅姿
夏座敷師に脇息を参らする
俳句道場の額を懸けたり夏座敷
五月鯉躍りて山河正氣あり
百年のいくさ継ぐ子等五月鯉
元帥の御魂につづけ五月鯉
寒山によきもの見せん落し文
乾坤の正氣呑む也五月鯉
(生間)鼻鳴らす烏賊面白し玩弄す
烏賊の甲削って貼りぬ歯の痛み
若竹の雨声愛して茶を淹るる
新俳句春夏秋冬蟲払
雨上りの冷き淵に泳ぎけり
向日葵や待避壕掘る老夫婦
(暁天動員)神苑や蝉も雀もまだ起きず
夜釣人畠を踏んで叱らるる
涼しとて腰掛けゐるや梯子段
青田風に羽織孕ませ来るは誰ぞ
昼寝起師翁の句信嬉しさよ
配給の指図をするや昼寝起
(宮島)肘枕千畳閣に昼寝哉
アルバムの第一頁裸の師
うつし絵や師翁の裸ふくよかに
青木月斗
先生の句を読みかぬる扇かな
提灯に句碑見る庭や天の川
宿望の短冊得たり獺祭忌
くさぐさの秋果供へて子規忌哉
案山子曰ク汝徒食ヲ恥ザル矣
菊の宿女あるじのもんぺ哉
掛稲や沼田千町の夕日景
貝おほひの若き日もあり桃青忌
(伊賀上野)木枯や鍵屋ケ辻の夕間暮
木枯や夕日の中の天王寺
犬取りが来し木枯の在所哉
蕪村忌や我が道場の句精進
十二月二十五日ぞ狐鳴け
十二月八日擬戦の子らの鬨
飼鳶を呼んで餌やるや日向ぼこ
臀ふって急ぐ家鴨や夕霰
寝ねんとしてこなから酒や炉の主
過ちて鉄奨壷覆すゐろり哉
落葉踏むや正氣の歌を吟じつつ
昭和十九年(四十一歳)
戦時下毎週句会継続、皆熱心なり。一月「千萬子」誕生。
「三原の歯科医松本正氣。「何かせぬと気がすまぬ男」の句帖より
アルバムの第一ページ裸の師 正氣
うつし絵や師翁の裸ふくよかに 同
東京の碧梧桐庵で湯上がりの裸を縁に撮ったのは万十だった。それを金窓が雑誌に掲げた。一と昔前の事だ。十八貫位の時だ。今十四貫位の老骨で見るかげもない。
先生の句を読みかぬる扇かな 同
予は分りよき字を書いている筈だ。読みかぬるは失敬した。
昼寝起師翁の句信嬉しさよ 同
筆不精だが、時に酔余の葉書を飛ばすことがある。予は先方の住所を大方忘れてゐるので、側に人か居ればとにかく、予の覚えてゐるのは、筑前植木とか備後三原とか、肥後山鹿とかで、此頃のやうに何県何郡何町字何々、何百何十何番地と書かねばならぬのでは一切書けぬ。妹や息子や娘の番地も忘れてゐるので、葉書一枚出したことがない。我ながら困った頭だと思ってゐる。
提灯に句碑見る庭や天の川 同
句碑専門家。句碑病者は皆春を最とす。皆春は自分の家だけでなく、佐世保界隈に恥さらしの拙書を多く碑に樹ててくれた。それが伝染して大分方々に広がってゐる。
宿望の短冊得たり鰯祭忌 同
短冊を祀るや九月十九日 同
くさぐさの秋果供へて子規忌哉 同
正氣は古人今人の短冊を集めてゐる。近く子規居士のを得て得々としてゐる有様がうかかはれる。この中富竹雨庵で短冊帖を二三冊千燈に見せてゐたが、今人のものが多く集まってゐる。我輩曰。「こんな反故同然のものを集めるのは無用のわざだ。」富竹雨は「買ったものばかりです。」と云ってゐたが、「買わない方がよいではないか」と云った。」とある。
月斗よりの書信に「同人廃刊、何か妙案なきや」により、「中国同人会」を作る。その規程「第三条 会員ハ毎月十日迄三脚自作品ヲ十句本会ニ提出スルモノトシ本会ニ於テハ同人会本部ニ送付シ青木月斗師ノ選評又ハ添削ヲ経テ会員ニ返却ス。第四条 作品句稿ハ成ルヘク半紙ヲ使用シ二ツ折両面ニ楷書ニテ清書シ俳号ノ外氏名年齢職業ヲ付記スベシ云々」の案のお伺いに対し,「中国同人会をよしとす。正氣庵を会所とす。姫路の山夜、平福の楽丈、千峰、赤穂矢野の士白、呉の二京、その他貴方の諸子を幹事とする」と云うことで、九月作品よりこの選句を「道場稿」として正氣筆謄写にて配布。
曾て見ぬ大初日かな海の上
斯くて八紘に洽き海の大初日
城白く松翠なり初霞
(三女誕生)寒凪や産屋の空に鳶の笛
(一貫六十匁あり)寒凪や大きなお艦進水す
霜焼がつぶれたる手で穴一す
下宿屋の青海苔汁にもう飽いた
夜なべして入歯作るや窓の雪
(西野)茶山の詩山陽の詩や梅林
撃ちてし止まんの御製畏し紀元節
辷るよな絹座布団や梅の宿
古文書を読んで貰ひに梅の宿
半日に春泥乾く天気哉
御堂の屋根のやうに反りたる畑を打つ
佐保姫の裳に蝶のそばえけり
土地改良の暁天奉仕淡雪に
雛の顔ととのひ過ぎてつめたけれ
蒼天に蒼海に風光る也
(灯火管制)春の燈の一ト間にうからやから哉
春の燈をひくく下ろしぬ写し物
春の燈を消しぬ玄関も廊下も
雨の音春の燈下の親しまれ
春月を賞むる句会の戻り衆
未だ敵機を写さぬ水や葦の角
防火砂補ひに来ぬ葦の角
ふらここの子か山火事を叫びけり
ふらここや水兵多き遊園地
佐保姫に唱歌習ひぬ春の鳥
麗かや丸刈り頭囃し合ふ
麗かや遺言状にホ句の事
(我れ生来蒲柳の質)教練に耐え得て嬉し麗かに
一億民の士気の如くに草萌ゆる
入学や広野の中の仮校舎
土筆摘んで日に酔ひにける女かな
城下町を一望すなり花の寺
むし歯抱えて箸置く花見弁当哉
花の酔石段下る覚束な
バスの窓青麦の香が磯の香が
句座の燈の眩しき花の疲れ哉
師の自筆うれし子規忌の案内状
子規庵の蕪村忌偲ぶ子規忌哉
子規居士の像に供へぬ柿二つ
句短冊和歌短冊や獺祭忌
筆跡の老いたることよ獺祭忌
野分やんで蝿いと多き昼食哉
千早振る神鷲出でて勝つ秋ぞ
読書の我に夜なべの妻に一時打つ
月渓の案山子我にも描けさうな
酒酌むに寄り来る蚊あり菊の宿
待避して耳を澄ませば時雨哉
大根引歯を抜くやうにゆかぬ哉
炭斗の下より碁石拾ひげり
菊枕や師翁と酌める夢覚めつ
漱石忌坊ちゃん号と短冊と
蕪村忌や牡丹の発句就中
額も下ろして俳句道場の煤掃きぬ
茶の花や忍び足して吹矢の子
髪結うて来て寒がれり置火燵
床の梧竹にひるみてならじ筆始
昭和二十年(四十二歳)
「中国同人会」は四、五月作品まで謄写、以後も作品の月斗選雌黄は、終戦、九月枕崎台風水害による家倒壊、北へ半丁の東町四六二に転居という、その僅かな時期を除き、翌年「春星」発行まで継続。また土曜会も同様に戦中戦後も開かれていた。
乾坤に桔樺動く若井哉
畏みて恩賜の煙草年の朝
梧竹掛けし床を背に初写真
弁当持参の客に粕汁すすめけり
二階から厠遠しや冬篭
母の忌や雪袴を着けて僧来る
(千萬子二歳)顔つかむ氷のような千萬子の手
この朝や鶯の初音師の句信
春の闇驚破待避の鐘がなる
春の闇飛鳥の如く壕に入る
梅の宿に集ふや郷土史談会
梅の宿刀所望に訪ひにけり
梅漠々心の武装整へん
(悼冬篝子)死灰の号を嫌ひし友よ梅寒し
(二十年前の思い出、不鳴博士の医化学に)答案にホ句書き添へぬ大試験
大試験登校前の茶一煎
春雨や古俳書読むに眠うなる
芽柳や敵機遥かに群烏とも
鳥山の霞震はし高射砲
春潮や神功皇后の舟師
大君の辺に死す誉桜人
禁足の書楼に活けし桜かな
二階から見暮す花も過ぎにけり
膝抱いて膳を待ちゐる端居哉
端居酒鯛貰ひ来し海を前
夕端居橘のよな月出づる
竹植うる日よ蔵澤の竹掛けん
学生や箒を持たず蚤と住む -
十人の患者に昼寝起さるる
(警報発令)脚半巻くや襲ひ来る蚊を払ひつつ
梅雨の蝶書楼に入って来りけり
紫陽花や紫陽花に似し梅雨の蝶
庭の壕を埋めて大根蒔きにけり
疎開より戻りし調度庵夜長
久々に句会開くや庵夜長
句座夜長指折り直し折り直し
(数年振りに横島、田島を訪問)渡舟侍つや夕日の秋の島の情
(再び広島へ救護に出動して 三句)
秋霜に蘇り芭蕉玉を巻く
彩雲に夕空澄める焦土哉
秋風や魔病憑きたるみとり人
朝霧に煙草しめりて消えやすく
文化日本を興す秋なり獺祭忌
子規宗の我等の九月十九日
獺祭忌何か趣向をこらさばや
霖に秋果乏しき子規忌哉
非を駁す筆端の火や獺祭忌
(子規賛)短冊の書の熟したり柿の如
夜学する三人の子の傍にあり
夜学子や新日本を双肩に
敗戦の悲しみに耐え夜学哉
芭蕉蕪村子規と連る道の秋
(九月十七日夜、連日の豪雨と台風の影響にて湧原川氾濫し、大橋破壊して小庵を倒壊す)
秋出水畳はぐ間もなかりけり
秋出水仏壇運ぶ畳浮く
梯子段もげて恐し秋出水
橋折れて家揺がしつ秋出水
はらからと死を決しけり秋出水
屋根にゐて雨風寒し秋出水
秋出水我が家つぶるる音す也
四十二の厄と思ふや秋の風
(罹災生活)書き留めず忘れし句惜し秋の風
藷畑流れし藷や出水跡
秋の蚊帳つぶれ残りし部屋二つ
秋の蚊帳月の明りの有難き
もの音に寝覚め勝なり夜半の秋
秋雨や折々落つる屋根瓦
騒ぐ子を戒め泣くや秋の雨
蟋蟀や煙草に飢えて眠られず
六旬の秋霖嘆き今日もあり
敗戦を秋の雨伯の自棄降りか
秋の夜の気を腐らすや雨の音
棚に黴畳に茸や秋ついり
もの流しもの盗まれて身に入みぬ
裏の家の火影がさすや秋の蚊帳
筆硯の塵を吹くなり秋の風
秋風の満ちて虚ろの心かな
仙人は凡そ痩せけり秋の風
秋風や医師が部屋の解剖図
流れし田焼けし巷や秋の風
闇買ひも飢うるに如かず秋の風
秋風の渡りて星の数尽くす
尚見ゆる雁や汝と視力の差
雁夕書楼の客は我が長子
残月や一天拭ひたる如く
(半夜老に示す)熟柿もぐ命鴻毛より軽し
(残る孫一人をも亡ひし燈古老へ)身に入みてゐましむる言の葉も無かり
秋や昔親しみにける思想の書
餅焼こと思えど炭火覚束な
指程の実が生り芭蕉しぐれけり
俳諧の伊賀の時雨に濡るる果報
五六子と時雨ききつつ忌を修す
布団にてもの読む肩の冷ゆる哉
日向ぼこ抱く子が鬚を弄ぶ
天明の蕪明治の糸瓜哉
いぶり炭に泣かされてゐる主かな
(十一月二十日、第六十七回の誕辰を迎へ賜ひし師翁へ。六年前のこの日、今は洪水につぶれし大橋橋畔の正氣庵へ師翁を迎へ、その記念写具を眺めて)
鷹の題で鍛はれにける夜ぞ思ふ
菊の香に祝杯挙げし夜ぞ思ふ
-前編 終-