松本正氣俳歴(中篇)

『春星』より改補

松本正氣のページへ戻る

松本正氣俳歴(中) その11

 

昭和三十六年(五十八歳)

三月光雄来。金福寺の月斗十三回忌に出席。上阪して淀屋橋のダイハツ分室の月斗先生遺墨、王樹俳画展で王樹、一貫氏等と逢い、文武のアパート泊。翌京都野呂庵へ見舞。

『それから金福寺へ車を飛ばした。三十数年振り二十数年振り十数年振り数年振りの御遺族や同人諸氏と久闊を叙した。御静養中と聞いてゐた月村老も回復近き元気さで「正喜さんには生きてゐる内に逢えぬかも知れぬと思ってゐたか逢うことができて嬉しい」と、手を強く握っていただいた』。

三原月斗忌には西望筆の月斗画像を祀り、仙台から虎年子来。王樹が京鎌倉の帰途来舎。四月凡水別府の帰途を寄る。

『十二年振りに杯を交わす。酒では大関凡水と幕下正氣なれど、月斗部屋の兄弟弟子の俳談は夜が更けても尽きなかった』。

姪の結婚式で一週間長崎滞在。五月忠海勢を加え仏通寺吟行。六月夫婦で北海道観光旅行、東京でみえと会う。七月姫路俳句会五周年記念句会出席。忠海納涼句会。十月佐渡観光旅行、東京でみえと。西望先生を訪う。十一月忠海句会と木曜会合同で尾道千光寺吟行。

 

 千光寺 文学の小道 子規句碑

 

  みちのくの旅のアルバム除夜の炉に

  月明にかげるふ神の井華水

  両腕に受け取る孫や初湯殿

 (寒山集裸馬先生より戴く)読初や蕪村の寒山笑ひに来

  十三年月斗俳句を霞ませそ

 (鎌倉句碑)句碑の春裸馬翁にしてこの詠あり

  鶯忌椿満開春星舎

  春火燵長生したく暇つくる

  児筆だに法度の昔山笑へ

 (自註 諌早にゐた小生は小、中学の頃は毎年休暇には長崎へ行き稲佐町の叔父の許で過ごした。その或る日、山を写生してゐたら、通りがかりのオッチャマから、山をかくのを憲兵さんに見つかったらひっばられて行くハイ、と戒められて子供心に驚いたのを、四十年振りに稲佐山に登って撮影してゐる時にふと思い出したのである)

  ハタの空不易の故郷ありしかも

 (故郷が発展して行くことは嬉しいが、故郷の変貌に比例して故郷と自分との縁が遠くなって行く気かする。長崎の市街地か近代化して行くのは勿論、稲佐山にもロープウェイが出来たり頂上にテレビ塔が出来たりして今昔の感かある。陽春四月に帰郷したのは久しぶりであるが、凧(ハタ)が沢山空に揚がってゐた。凧の図柄も昔と変ってゐない。「ハタの空」だけが全く「不易の故郷」だと感じた)

  横文字の寝墓な踏みそハタ揚げに

 (悟真寺にはオランダ墓地やロシヤ墓地などがあってハタ揚げに手頃の場所である)

  ハタ揚ぐる裔絶え原爆禍の墓石

 (稲佐は原爆の被害がひどかったさうで、十数年後の今日尚倒れたままになってゐる墓も相当にある。これ等の荒れ果てた墓に眠ってゐる仏達は一家全滅になった人々であらう)

  天つ風星児の五月鯉に聚り来

  五月鯉逸る力や揚げにけり

  五月鯉海より吹けば南向く

  太白な呑みそと鯉を降ろしけり

  象潟や青螺を縫うて田を掻ける

  (温海温泉)温海朝市の畑の大蕗の大

  青嵐樹海に雪嶺浮遊せり

  (摩周湖)六月の湖霊の不興霧を罩め

  (阿寒湖)我か夢とマリモの夢と明け易き

  (昭和新山)山齢十六の体臭夏湖へ

  (ビール工場)ビール瓶横列に一歩一歩せり

  雪渓やバス鋭角に曲がるとき

  (蔦温泉)古桝の湯桶よし梅雨の漏もよし

  (美幌高原)枯原は熊笹やこの六月の

  (白老)踊見る日傘に熊の髑髏触れ

  寛ぎて塩煎餅とサイダーと

  秋天の高さと色を追ふ紫苑

  (姫路城)白靴を提げて百間廊下かな

  箒目に溜る秋風また動く

  秋光や緑前紫後に佐渡ケ島

  (相川)秋海原に日沈む獅子岩侍り

  (信濃川)霧の突堤薮作る釣竿の数

  (佐渡鬼太鼓)金風切って撥構へつつ面ンを振る

  (会津飯盛山)三尺の秋水時代身にぞ入む

  安達太良を忘れじ山毛欅の黄葉を

  撮れぬ青さの遠嶺は蔵王秋晴れて

  (那須殺生石)石原や遅るる妻に霧まとひ

  (西望翁を訪ふ)閑談にカステラの色菊の色

  (妻を撮る)嵐峡の秋に点じつ旅衣

  島眠り双眼鏡に我が手中

  面り紅葉散るすなわち拾ふ

 

昭和三十七年(五十九歳)

初句会。二月忠海句会。千萬子の為上京、同人社、子規旧居、太郎居訪問、東京同人の歓迎句会。

 子規庵

 

五月王樹翁を迎え、松永、鞆の浦へ。八月うぐいす社吟行で月村、一央、喜一、二月堂、井耳、翠西他大挙来三、一泊で仏通寺、耕三寺。

 仏通寺 上段中央に正氣、その前々列に月村

十二月九州観光旅行。

『大正九年に中学の修学旅行で阿蘇登山した折は、宮地で汽車を降り、宮地嶽神社に詣で、それより溶岩と火山灰の径なき径を、やがて濃霧に襲われて前後へ声をかけ合いながら上り、その内に霧が晴れて眺望もよくきいた。火口の少し下に小さなお宮があってその横にささやかな茶店が一軒あってお婆さんが一人ゐた。そこでサイダーを飲んで二十銭置いたのを覚えてゐる。下りは草原の緩やかな路を飽く程歩いて栃ノ木温泉に泊まった。便利になることは結構ではあるが、味か抜けてしまっては困る』。

『熊本で緑雨君に逢えたことはこの旅行の収穫だった』。

 

  御降の波紋を染むる金魚かな

  初湯殿八丈島のフェニックス

   金盃に歯形をつけつ孫の春

  齢数ふに改元二度や年の豆

  (黄櫨逝く)年の豆五十九数へしは昨夜

  春星を点ず雲量零の天

  春雨や生簀見に行く宿の傘

  (裸馬翁健在)月斗忌の我等へ曾て月斗学

  枯芝や雀吹かれて反故の如

  (子規旧居)かの椎の蘖が巳に一樹成す

  我が庭や蝦夷の黒百合芽を立てし

  銅像へお辞儀して過ぐ金魚売

  (悼浩一路画伯)古墨もて卯月の闇を塗り給ひ

  阿伏兎遥か海士の柏手南風に乗り

  (祝うぐいす百号)谺して鶯の百声連らね

  文科の姉理科の妹水中花

  子兎の如しグラウンドボーイ涼し

  地を這ふ秋風松の影磨く

  (仏通寺)おのがじし秋風聴けり羅漢どち

  手を伸ばし大空に秋の字を書け

  (耕三寺)秋園の美禽濁声放ちけり

  秋園に紅羽碧羽拾ひたり

  若者の減り行く島の踊かな

  (白滝山)蒼穹に蟲八畳岩に寝転べば

  穂薄がまねくよ島にあつまるよ

  (佐世保)立冬の日箭や艨艟消えし港

  (伊の浦瀬戸)渦巻くやけさ冬潮の名に於て

  (別府)冬晴や血の池地獄の色を撮らむ

  阿蘇の霧に包まれ妻を咫尺にす

  手袋を手摺の火山灰に汚したり

  焔つかみつかみ手袋乾かしつ

  長崎鼻の突端に冬潮を掬ふ

  (宇佐)宮の丹に惹かれて撮るに暮早し

 

昭和三十八年(六十歳)

初句会。三原月斗忌。翌金福寺の月斗忌へ。

『挨拶し、感想として、各自の俳句に使用する文字は伝統の正字だらうが当用漢字だらうが各自の信ずる文字を用ひるべきだと思ふ。どちらでもよいといふのではない。よいと信ずる方を用ひるべきだと思ふ。但し、先生の句を引用する場合は必ず伝統の正字を用ひて下さい。皆さんご存じのやうに先生は俗字や当用漢字を用ひることを非常に嫌れてゐましたから、と述べた。大阪同人の暖かきサービスで京の底冷えを忘れた』。

翌日妻と娘達と在阪の文武と奈良へ。

 四月「春星舎例会は小生が三原に卜居以来続けてゐる。昭和八年四月第一土曜日に第一回を開き、爾来三十年間毎週一回、その間昭和二十年春から空襲警報が頻繁になって句会が開けなくなり、やがて終戦、子規忌を修して句会を復活したが、その数日後枕崎台風で湧原川が氾濫して大橋が小庵に流れこんで小庵は半壊流失し、数旬後にようやく湧原に陋屋を得て一応落ち着いたので句会を復活し、昭和三十年二月に現住所へ転居、相変らず暖い雰囲気で厳しい精進を続けてゐる。回を重ねること千五百、これは全国的にも誇りに足るものではないかと思ふ」。 五月伊豆箱根旅行。六月忠海勢と山陰旅行、萩女の文に『空席が多い車中一同興奮状態の喋舌にいとまない。先生は早くも「つゆ子つゆ子」と愛妻家振りを適当に発揮しておられる。「僕はステッキが付いていないと一人旅は出来ないんでね、一人は苦手でね」と。成程それで「つゆ子タバコ」「つゆ子ハンカチ」との訳がよくわかりました』と。

七月裸馬先生大阪歓迎句会に馳せ参じ、

『阿杏秘書におたづねすると、特急かもめで三原駅を御通過になるとのことだったので島春、星児を連れて三代で御送迎に出かけた。駅でたづねると、一等車は3号と8号で離れてゐるとのこと。しかも当日は約三十分延着になってゐるので停車時間も三十秒しかないとのことである。島春と部署を別にして待機。助役さんの協力もあって瞬時ではあったが三代が揃って先生に御挨拶ができた』。

裸馬先生文に『正氣君の元気な顔を見て嬉しかった。「春星」を二十年来経営し続けて倦むことなき熱意は我等にとっても模範的なことである。この翌日岩国への往路、島春君とその嬰児をも伴って駅へ見えられた。子宝に恵まれた正氣君の一家に、更にもう一人の俳人を加えることになろうと直覚した。寧馨児よ、おじいちゃん、お父さん、叔父さん達に負けなさるな』と。八月胃潰瘍との診断。

『わたしは中道の養生法を採った。或いは左傾し、或いは右傾するのも、わたしの臓器がよく知ってるやうだ。その後も胃痛は当分続いたが、いつしか忘れがちになり、検便の潜血反応も陰性になった。わたしは相変わらず中道の養生法を続けてゐる』。

九月子規忌を大久野島で修す。二年振りに西望先生を迎う。島春に次男誕生「桂児」と命名、「久方の月かがやきて菊薫る 西望」。十一月竹原勢と兜山古墳吟行。

 

  六十の貫禄無かり初鏡

  老懶を恣にす三ケ日

  錦帯橋三々五々に春着の娘

  花束の如く春着の児を抱けり

  句に於て絵に於て艶ン老の春

  月斗忌や親子四人の加朱句稿

  月斗忌や満円の月微笑して

  春潮や昨夜の雪に島白し

  日食を囀りも怪しみ出せり

  (崇福寺「山河正氣」)胸中の春塵払ふ額は即非

  (金福寺)囀りや大魯の墓は屈む蹲み撮る

  (大仏殿)春日浴びてはしゐの賓頭蘆尊者撮る

  (潮音山)桜人酔臥す如く句碑寝せられ

  (献三允句碑)薫風を呼ぶなり君が十七字

  (修善寺)妻と泳ぐ温泉プール五月雨

  (頼家墓)我がたきし香に咽びつ梅雨の墓

  (十国峠)五月富士容す正氣の為

  裏富士の梅雨雲を脱ぐ気配なし

  夕餉待つ端居に展く大干潟

  (鳥取)風紋鮮かに入道雲稚し

  貸駱駝に夏至の太陽仰ぎけり

  砂崖降りる可能へ梅雨晴の日赫く

  日本海親し裸足を濡らしけり

  (裸馬翁)拡大鏡に縋り汗ばみ給ふらん

  (圭岳老)老涼し賞の短冊うなじに差し

  (三次)フラッシュランプをぷすぷす飛ばす鵜川哉

  (五十肩)片手もて泳ぎ見つ老いてはならず

  撮られたる月の兎に似る我が胃

  次男も洗ひ三男も洗ひ墓光る

(西望翁)眉寿翁の抱負を聴く秋高し

  幻燈に旅語り合ふ夜の秋

  まろうどを映画に誘ふ夜長哉

  (大久野鳥)軍国の恥部たりし過去島の秋

  としよりの日子規忌居士は九十六

  爽かな声直感し受話器とる

  (桂児と命名)七夜の児桂男の声を聴け

  (祝裸馬先生八十賀)先生の閑日月へ菊の盃

 

 

晴雨間日中篇戻る

松本正氣のページへ戻る