松本正氣俳歴(中篇)

『春星』より改補

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松本正氣俳歴(中) その13

昭和四十一年(六十三歳)
 二月大阪日展にご西下の西望翁御来駕。三月月斗忌。千萬子の卒業式に上京。幅を出品した松阪屋の「四大文豪展」にて福田清人、楠本憲吉氏と逢い、一夕の約。彩子来。翌西望先生アトリエ。太郎宅訪問。翌同人社訪問、南隣、籌子さんと。その夜『築地の灘萬へ。部屋に通されて待つほども無く、福田、楠本、池上浩山人の三氏入来。四大文豪展の打ち上げをしてきたとのこと。お御馳走になりながら話は当然四大文豪と俳句。酒と話がいよいよ佳境に入った頃合を見て、福田君がこれより一同新宿へ行こうと誘ひ出し、ぽんたといふ酒場に案内した。塩田良平氏もやってきた。看板まで杯を交はして、表へ出ると雨が本降りになってゐた』。
 翌晴れて、妻とみえと共に鎌倉行、裸馬句碑へ。
 『仮寓に戻って、みえが夕食の支度をしてゐるところへ男児が顔を見せた。二十日。千萬子の卒業式。茶話会の会場で文学部長の中島斌雄氏へ挨拶。男児が千萬子の卒業祝ひの杯を挙げやうと材料をたくさん携へてきた。みえと千萬子が腕を競った。二十二日。お彼岸の中日である。子規居士の墓に詣でた。田端の大竜寺は、四年前に根岸の子規庵をzねた折よりも分かり易かった』。


 四月西望翁と対馬へ旅行。
         

 『小生の近来の作品はほとんどが旅行吟であるが、小生には旅中での作はほとんど無い。旅中句を忘れてゐる訳ではない。嘱目吟を多数得たい欲よりも今後の作品に広さと深みを得たい欲を出してゐる訳である』。『旅中は写真を盛んに撮る。スライドに8ミリに。写真は五十過ぎての手習ひで、器械の取扱ひ方がなかなか頭に入らぬが、数十年俳句で鍛へた頭には一つの自信をもって撮影してゐる。対象との対決にはこちらが足を使わねばならぬ事が多い。お蔭で足が非常に達者になった。また、旅行地の記憶など同行の妻の数倍である。小生は旅行より戻って、幻燈や8ミリを映写して句想を練る補助にしてゐる』。『また記念スタンプにも忙しい。小生の句帳は集印帳を兼ねてゐる。名所のスタンプや神社仏閣の朱印は句帳の挿絵代りになり、句帳が早くいっぱいになり、後日旅行吟を作るときに旅中の印象が解明になるなどの効果がある』。『幻燈や8ミリは小生に、も一つ目的がある。それは小生がもし中風になって足腰が立たぬやうになったら、幻燈や8ミリを見て楽しみたい。その用意である』。
 七月姫路俳句会十周年大会に出席。九月子規生誕百年の子規忌を尾道千光寺で開催。今秋の西望翁との旅行は十一月に東海道から伊豆、上京。鬼烽火来一泊。尾道へ。

  年の豆子規百月斗八十八

  落ちても落ちても椿の花減らず

  (千光寺)就中かげろふ子規の句碑に佇つ

  (四大文豪展)須く四吟興行春一夜

  (彩子さんへ)時は六年髪膚一年振りの春

  (大竜寺)子規の墓彼岸の香華待たれけむ

  春の旅対馬の地図にルビを打つ

  翔つ雉を撮るやフロントガラス越し

  両岸のつつじ咫尺に瀬戸を航く

  鋸割のその面ン光る春の雨

  桜老いて石垣塀がつづきけり

  春や昔百船泊てし津を偲ぶ

  蕨狩島の長者の庭山に

  限界の空飛ぶ旅に春疾風

  花時の臨時列車を拾ひげり

  卒業写真櫂のよに脚揃へたり

  墓参り父のかたみの袷着て

  (因島白滝山)カメラ取っ組むクルス観音若葉風

  (清水寺舞台)限ればいよいよ青し青嵐

  (音羽滝)善男の手として滝へ杓伸ばす

  (野呂庵)この庵の雰囲気満点冷奴

  (竜安寺)薫風に生動す「方丈」の額

  五月晴枯山水と衆目と

  京は銀閣に炎昼を一ト時す

  寺山の路止めてある蝮かな

 (千光寺)「文学のこみち」百叟子規と露踏まむ

  露じめりしてゐるうちに句碑摺らむ

  句碑を撮る足な滑らしそ露の岩

  バスの窓を雷雨が襲ふ花野哉

  運動会地球儀賭けし孫必死

  (「南畝言志」)燈下親しまれこの著者親しまれ

  小春日に甘えて老の旅続け

  (日本平)富士撮るに淡し小春の晴つづき

  (三保松原)天小春天女撮る幸運を期し

  (石廊崎)落輝撮ると崎へ急ぐや暮を早み

  (新宿御苑)残菊を詠み且つ撮りに来し御苑

  (長島温泉)寄せ鍋や尾張の畠伊勢の海

  (修善寺温泉)岩風呂に妻と泳ぐや小六月

  わさび田に黄落のはえ見せにけり

  (堂ヶ島)秋興や舟路貫く島の腹

  (神辺夕陽村舎)頼春水の長子も掃きし黄落か

  (去来墓)長崎の今昔を墓と語らんに日短し

  野の宮で買ふ竹筆や年用意

 

昭和四十二年(六十四歳)

新春句会。月斗忌。三月文武結婚。四月西望先生と日向、天草旅行。五月クラス会に上阪、
『四十二年間に三分の一が物故者となった。生存者の半数が集まったが、誰もが白頭か禿頭かの何れかにし、黒髪の松本は同級生らしくないので除名しようといふ提案者があった次第である』。

八月千萬子と多年の願望の富士登山、『小生は千萬子の勧めで翌の征頂に備へて馬を借りた。四十余年前の学生時代の乗馬を思ひ出したりした。六合目から路は追々急になった。頂下へかけての視界はよくなった。登山隊の彩りがジグザグにうごめいて美しい。馬上から8ミリに撮ったりした』。『富士は遠望して秀麗、登攀して峻厳。小生が十年若かったら、富士登山に成功することは容易であったらうと思ひ、同時に、富士の偉大さを斯く迄感得できなかったであらうと思ふのである』。
 九月みえを伴に萩の寺のうぐいす社子規忌に参会。十月月村翁の米寿祝賀会に上阪。
『月村さんは小生より二回り上の辰年生れ、月村説の「辰年生まれは俳句が上手」に加へて辰年生れは長生きをするといふ伝説を作りまへうやと祝詞を述べた』。

帰途を王樹さんと同行、三泊して頂いた。十一月三原忠海組で御年代古墳吟行。

 

  恵方道老妻連れて歩を緩く

  ゴンドラに飛行心地や初霞

  (小蛄老著書出版)「子規時代の人々」親し冬籠

  (悼小蛄老)新刊の忽ち遺著や梅寒し

  (魚山華甲)魚の句を大漁したり赤頭巾

  道場と思へ鶯忌の句会

  先生の名乗りに倣へ鶯忌

  月斗忌やバックボーンを失はず

  月斗忌や遺墨に埋れ暖し

  (中川弘君長女誕生)ソプラノで産声あげし麗に

  (高千穂)岩戸より覗く紅きはつつじ哉

  鶯や天の安河鳴き渡り

  カッポ酒神より伝へ里長閑

  千早振る神々とピクニックせむ

  根子岳の稜線の鋸がひく春天

  天岩戸神社の春雨傘笠借りし

  (飴の缶を開け給ふに)手力の西望ノ命汗仄と

  (オランダ坂)朧夜の大きな歩幅丸山へ

  (ダイハツ六十周年)大凧の糸の天まで揚がる斜線

  (川井竜太郎君新婚)河内野の蛙大合唱に祝ぐ

  裸にて写真撮影同窓会

  鵜のまなこ植物を映さぬひかり

  孫の角力に飾り軍配借るとせむ

  暮光しばし8ミリに撮る梅雨出水

  けふ替へし池を喜ぶ夕立かな

  白雨過ぎし水を味はひゐる金魚

  (天彦君挙児賛)白雲のここにつくりし第二峰

(終戦日旧作)けふの句は帖にしるさず蚊帳に泣く

  (富士登山)霧涼し馬子は馬の尾掴みつつ

  登山者が彩り雲上界の視野

  登山袋の煙草出すこと無かりけり

  山小屋や薦を織るごと寝せられし

  山小屋や鼾の中に寝そびれし

  小屋の灯に雪片のよな蛾や八合目

  短夜や富士の稜線太刀の反り

  雲海の沖や日輪いざよへる

  御来迎正氣ノ歌を口号む

 (須走)単調に疲るる下山侮らず

  道外れて雪を掬しに行く若し

  登山馬雲海に落つる崖に沿ひ

  八台目の小屋の厠に用を足す

  短夜や胸突八丁励まし合ひ

  焼き印を乞ふのみ甘酒ひさげども

  御来迎娘の征頂を折りけり

  登山杖にまつはる雲や岩に腰

  登山靴偏平足を叱りけり

  富士登山再挙の計句を練る如く

  鯊釣りに孫と余生の時間割く

  妻と呼ぶヲンナよ露と呼ぶミズよ

  (音戸)橋架けしと瀬戸つくりしと角力はせば

  (萩の寺)秋の声は即ち斗翁碑に佇てば

  (悼刀子女史)身に入みてかなしきをみなとぞ思ふ

  (月村老米寿)百二十一歳二十一世紀菊の酒

  黄八丈のネクタイの老菊に佇つ

  凩に逢はず湖底に沈む樹々

  (湯原ダム)大山の証に雪を輝かす

  富士踏んで死にたる爪や冬籠

  萬金の洋酒到来冬籠

  我か紫煙かくもの煤となれり掃く

 

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