松本正氣俳歴(中篇)

『春星』より改補

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松本正氣俳歴(中) その14

昭和四十三年(六十五歳)

一月、みえと水門楼の初句会へ。

 王樹翁と

 

二月伊勢、南紀旅行に妻とみえと。 

文武長男「正彦」誕生。三月月斗忌弘君参加。三月上京、千萬子修士卒業式、西望、清人、太郎、同人社他お礼言上に訪問。十月みえ挙式、中島斌雄、楠本憲吉氏御出席。

この年は、『数年前から胃を悪くして余命に自信を失ってゐるが、健康管理を上手にして一日でも永らく裟婆で動き且つ遊ひたいと思ってゐるが、心中の賊へ弱い小生を神仏は加護し給ふかどうか』『以上の記事を読んだら筆者は老人の如く、筆者の生マに接したら青年の如しか。以上の記事を読んだら筆者は病人の如く、筆者の生マに接したら元気溌剌たる如しか』『この夏には海水浴に二度行った。いざといふ時には人並に泳げる自信を再確認したことである。ところが八月下旬から五十肩に悩む身となった。五十肩は三度目で二度目から数年振りである。ベテランであるから唸るやうな目にあふ事は滅多にない』『数日の休養で得たものは、角力通になったことである。折柄九州場所で、そのテレビを落着いて現ることができた。アナウンサーに答へる解説者の言葉をほとんど予想できるやうになった。角力も分かれば分かるほど面白さを増してくる。アナウンサーも解説者も毎日同じやうな事を繰り返してゐる。同じやうな事を毎日毎日繰り返し繰り返し聞いてゐると一日一日深く分かってくるやうである。感心するのは土俵上の微妙な技を解説者が見逃さずにゐることである。これは解説者か嘗て土俵に上がって名力士と讃えられた人達だからであらう。俳句指導の参考にせねばならぬと思った』。

 

   輪飾や富士の焼き印連らねし杖

  (水門楼)小桝もて主客献酬庵の春

  庵の春大公孫樹に譲られて

   寒燈に浮く渦杢や松の盆

  (浩山人華甲)臍の垢明治の春を失はず

  (参宮)東風をつよみあふる御幌や初詣

       

  (二見か浦)夫婦岩寒涛如何に襲ふとも

  (勝浦)春一番洞窟の温泉を鏡とし

  島は常春湯の華の線吃水線

  (那智の滝)妻に腕を貸して降りけり磴の凍

  熊野路や初旅の顔皹きらし

  月斗忌や叱られ役の吾なりし

  (命名正彦)山彦が正彦を呼ぶ山笑ふ

  (西望翁)花の旅を誘ひ給ふや矍鑠と

  (熊坂邸)春吟ヘビカソの鉛筆借りて見たし

  あぢさゐの彩のドレミファソラシドよ

  (明治村)夕端居曾て鴎外が漱石が

  (悼子角氏)京の祭を詠み尽したる翁かな

  久々に寒山詩読む暑気払

  (有竜島)な獲りそのなめくぢうをに潮涼し

  (漁師町)田井に嫁ぎ和知に嫁ぎて踊る姉妹

  句に歌に文に書に画に獺祭忌

  且つ作り且つ論ひ獺祭忌

  わが長子糸瓜仏より年長や

  (みえに与ふ)嫁ぐ娘に両親揃ひ菊匂ふ

  色直しに起ちたる席を守る菊

  この壷にまづ菊活けよ新所帯

  (国技館にて)垂らし髪にいにしへぶりの角力哉

  柏鵬の三段構雅楽裡に

  待ったなき角力や尿こらへ観る

  勝ち角力菊菊菊とつづきけり

  (久井岩海吟行)岩海や太古の匂ひ秋風に

  岩海の大秋晴や撮りにけり

  亀甲のひび走らせつ岩の秋

  裂けし岩剥げし岩秋風瀬をなせり

  藤の実を海幸に擬し岩海より

  宣なる哉「見えずの川瀬」爽に

  冬籠老懶の面ンつけてをり

  おもふ顔かんがえる顔日向ぼこ

 

昭和四十四年(六十六歳)

三月『春星舎月斗忌は春分の日に営んだが、これに先んじて十五日の土曜会に広島から佳以、砂恵両女史が打ち連れて唐突の参会に驚かされたが、これは二十一日に来会できぬので急に話し合って三十棒を受けにきたとの殊勝な心掛であった。続いて万十老から月斗先生の短冊の文字大の文字で献句五句が到来。また季観君は業務上、小苑女史は健康上参会できぬとて献題句を郵送。忠海句会の御連中は石見路吟旅の車中にて句魂を一刻春星舎へ参じて作句、その句稿が郵送されてきた。光雄君からも献句が着いた』。

四月千万子の為名古屋行。五月の大阪、九州行の予定は体調で断念。七月横浜のみえの居へ。三十何年振りの万十居訪問。

 万十と

名古屋で千万子、共に帰三。『みえ達も千万子達とりレーに来三、小生も海水浴にそれぞれ一回同行し、六十六叟の泳力テストをして自ら安んじた』。

八月四天王寺月村居士本葬に参列(うぐいすに追悼文)、前夜は凡水庵泊。『小生は思ふに酒は「帰愁箒」では非生産的で須く「釣詩鈎」であるべしと。凡水庵主人如何に』。

 凡水と

 

十月学会で上阪、『午から枚方のかすみ居へ向かった。我が長子島春は大阪歯科大在学中、かすみさん宅で御厄介になった。月斗門下の誼みで、食料難時代の遊学生をお世話下さったご恩は生涯忘れてはならぬのである。川井家は枚方での旧家で文化財にもせまほしき邸である』。「アイタカリシカオミタカリシカリノコエキ一」赴いたうぐいす本句会が変更で喜一新主宰に表敬出来なかったのであるが、その事のお詑びの電報である。

 

 川井家にて

 

  初空や地球と月の道ひらく

  (尾張大県神社)女陰として祀れる磐や神の春

  (尾張田県神社)な撮りその奉納へのこ神の春

  田県より初鶏叫ぶ大県へ

  屠蘇の盃黄金の重みうべなへり

  屠蘇風呂や寿シの香に浸り

  (楠本憲吉誌創刊)野の会のうた声寒の星となれ

  大寒の水の密度へ手を入るる

  熱型アルプスの如し風邪と侮れず

  風邪見舞花籠のよに句女史達

  一日の時間たっぷり風邪館

  風邪籠して老醜を恥ぢ恥ぢず

  無縁墓として集められ陽炎へり

  七変化の山と謂はれて陽炎へり

  陽炎や海賊寄進と大蘇鉄

  陽炎ひて平和祈念像の左手右手

  秀句もて荘厳とせん鶯忌

  味の出し八朔蜜柑鶯忌

  わが淹れしお茶を召されよ鶯忌

  明治三十年と昭和二十三年との短冊鶯忌

  (西望翁日展会長)日の本の花の主となられけり

  葭の芽が水破り居る朧かな

  (東山動物園)花人にゴリラの手形売切れし

  花の酔短冊百枚書きとばす

  (竹里逝く)こなからの肺薫風を吸ひ止めしか

  春や昔汝が艶福を羨みし

  我が耳に君が辞世や時鳥

  (横浜マリンタワー)探し得し鉞程の五月富士

  花火待つや異人の匂ひ満つ中に

  (方十老訪問)ビール注ぐ君が明おぼつかなしも

  このビール友情の味最高に

  蹲踞にぼうふらわかすこと勿れ

  島は麦秋とろりと眠たさうな海

  (城ヶ島)寒涛の相をして磯や炎天下

  (悼翠西居士)俳諧の足枷解かれ涼しかろ

  (悼月村居士)月よりも遠き旅路や健脚に

  夜を起きて日を寝る禽に露の朝

  白雨が洗ふや平和祈念像

  (有竜島)潮干いて竜のよな洲や女郎貝

  須く蛸の枕は返すべし

  (凡水庵)午よりの酒を続けて夜の秋

  古き写真の誰彼若し身に入みて

  直会や祭壇降りし子規は下戸

  菊の秋松下翁神国を説く

  (かすみ居)ねもころに欄間の煤を掃き伝へ

  情景を失ひし秋色かこつ

  (みえ長女を挙ぐ)菊の香の最も高き日なりけり

  (西望先生を訪ふ)酒夜長八十六叟夢語る

  東京見物ゲバ棒そして熊手をば

 庭椿

 

『春星の仕事は小生の業余の仕事である。今年より松本歯科の経営は島春に譲ったが,小生は体調の許すかぎり歯科診療に従事する。それは小生の生き甲斐である。春星の仕事は業余であっても小生にとってはこれも生き甲斐である。これらのことを理解してくれる家族達に感謝して自分の幸福をしみじみ思ってゐる小生である』。                           (中篇 了)

 

 

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