松本正氣俳歴(後篇)

『春星』より改補

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その15

 

昭和四十五年(六十七歳)

三月で俳句生活満五十年を迎えた。「而して正味五十年」と言っている。四月末娘千萬子(句作せぬ不肖の娘亦涼し)結婚準備のため横浜行。喜一「うぐいす」新主宰披露、同人新選者祝賀会には島春が代参。五月横浜行に万十を訪問。六月「太郎さんの訃報はショックだった。早速思ひ立って灸を据ゑた。臍の緒切って初めてのことである。かねてから灸をすすめられてゐた王樹翁へ報告したら、褒めていただいた。天明の几董の句に「二日灸花見る命大事なり」があるが、実に新しい句だと思ふ」。八月大阪万国博行。九月うぐいす二百号記念大会。十一月春星舎新築。二十三日庵開き句会。喜一、光雄来。

 喜一、正氣ら

 

  死は近く或ひは遠し己が春 

  かりそめのホ句は作らず老の春

  (王樹句碑)石に刻む俳句即ち桜人

  (万十居)庭案内落花明りに歩の確か

  老歯科医寒し背骨を曲げつづけ

  落椿鮮度甲乙丙丁に

  夏帽の同じサイズや君と吾

  不審紙に先考偲ぶ曝書哉

  夏帽被って外で外出待つ子なり

  (悼太郎居士)何事ぞ長谷川太郎薔薇に埋もれ

  病名も年齢も返上して泳ぐ

  玉虫の金矢網しつ孫を呼ぶ

  盆休宝石のよな洋酒飲み

  墓参り父のかたみの絽袴に

  うつせみに死神せまる秋の風

  秋色を充たす余白や十七字

  (鳥取)パーティや月の砂丘の風入るる

  (うぐいす二百号を祝して月村前主宰と喜一主宰に)芋名月栗名月もよく晴れて

  (奥様を亡くされし黒洲翁へ)この秋の最も淋しき翁かな

  (悼雪心和尚)漆硯に蓮の露受け給ふらん

  (勲一等菅礼之助翁へ奉ぐ)菊大輪閑日月のありにけり

  (岡本圭岳居士を偲びて)鶴の声の披講が耳に五十年

  山茶花の一輪毎に裏む金貨

  句碑据ゑに石屋が来たり小晦日

 

昭和四十六年(六十八歳)

菅裸馬先生逝く。「四天王寺月斗忌の翌朝、旅館の先生のお部屋に適していただくと、女々さんが見えてゐて月斗先生自筆の墓碑銘数葉を並べて選択中だった。側面の文字は月村老へとおっしゃったが、小生は月村老の書は月斗先生と間違はれるおそれがあるので裸馬先生へとおすすめした次第であった。その席で先生は小生に対して青少年俳句作家の育成を命じられた。その後御西下の折りに御面談の機を何回か得た。月斗居士があの世で笑ひながらくさみをされるやうな話もよく出た。島春が大学を出たら東京へ出せ、大家になるには東京がいいとおっしゃって下さったが、小生は島春に後継を託してゐるので、先生の温かいお言葉に添えなかった」。三原月斗忌に魚山、寒旦が遠来。「小生も月斗先生の北山荘時代にはその年頭句会に出席してゐた。大晦日の仕事を片づけてから夜行で上阪し、句会後の年酒の座にも列して夜行で帰ってゐた。先生に引き止められて一泊して二日の句会にも出席することもあった。その頃は正月と盆に三日づつの休診、平常月は朔日と十五日だけの休診だった。大阪子規忌が九月十五日に当たる年には夜行上阪夜行帰三の強行軍で出掛けたものだ。当時それが何よりの楽しみだった。遠来の労をねぎらふ言葉を述べつつふと旧い頃の自分を思ひ出した。シンから俳句が好きな者のみが知る幸せである」。

『同人』は一貫主宰に。「一貫さんは、月斗先生には俳句を習ふと同時に人としての生き方を学んできた、そのお陰で、今日まで過失なく日を送ることが出来たと、よく話される」。

米寿の西望先生が新居へ御来訪。八月万雲(凡雲)来。喜朔来。楠本憲吉氏来、小集。九月田島内浦句会に出席。十月立山黒部アルペンルート上信越紅葉の旅。帰途みえ、千萬子宅。西望翁を訪問。彩子、男児来。信子(紫好)と同人社を訪ひ南隣、籌子氏と会う。十二月長崎行。来崎の西望先生と夜々雑談。諌早の青火、柳人来訪、懐旧談。

「人生ながいきすることが何よりの事業だと思ってゐる。蒲柳の質だった小生が夢想だにしなかった蕪村のよはひに達して感無量である」。

 

 御降に小賀玉の木の茂り哉

 凩や島々が一かたまりに

 とんび着てとんびになりて枯野人

句の味も関の東西初刷の

(春星舎月斗「春酒満酔」句碑)ほのと朱を帯びたる面や句碑の春

 春酒満酔尚も許さず鯛茶漬 月斗

 

(月斗先生から聞いたこと)餅のよに肥えし月兎へ子規嫉妬

若死の友がき思ふ日向ぼこ

梅発くや夕べの星の殖えゆく如

脚下照顧ものの芽其処に此処に哉

苗札にヂゴクノカマノフタとある

芽がすでに一人静であることを

我が牡丹咲きたり吾とカメラへ向く

(太郎句集「天の霜」)君が句や彩りの妙薔薇に及く

耳語交し合へるヒメマツヨヒグサよ

(楠本憲吉氏を迎えて小集三句)

  何も知らず詩歌も知らず夏痩も

  南船北馬の夏服きちっとして句座へ

  九時からの句会夜北風が予期以上

   楠本憲吉、正氣、島春、文武ら

  傍観することにせん蓼食ふ虫を

  夏休の孫美しき文語を知らず

  事泳ぐことにかけて祖父を恃む

  鷺草の鉢を机上に留守居せり

  (小園)蹲る吾に竜胆集まりぬ

  (西望先生米寿賀)新米の粒輝かし寿(イノチナガ)

  コスモスも日曜知って楽しさう

  菊作るその事を第一義とす

  (野母崎にて)崎の冬蛇紋岩割る道普請

  蕪村忌を修す六十八の吾

 

昭和四十七年(六十九歳)

初句会「正気の短冊が欲しい方は今後春星舎の行事に参加して特選に入ることである」。二月兄弟会(一男四女)で別府行。「近頃小生の体の故障のことを毎月書いてゐるが、これは誌友各位への公約数的私信である」。

三月月斗忌。四月かすみ、杯南来訪。胃生検「小生は小生の指向してゐる俳句の道が満足すべきものであったことを体験した。生死に関する事態に直面して、俳句精進の有難さをしみじみ感じた」。春星舎小園は着々と整う。八月孫と海水浴「潮に入ったら正気未だ老いずと自他共に許した」。

八月、万十他界後十日の投稿あり、「未亡人が、生前最後に書き置いてございましたと付記して居られた。何と崇高な投稿ではないか。万十さんの句稿に頭が下がった。小生の理想としてゐる春星誌友である」。

「小生は休み無しで半世紀を過ぎる俳句精進を続けてゐる。そして現在のところ誌友諸氏の手本になるやうな作品を示し得ない。ただ一生懸命に小生のまことごころとあそびこころの奇しき調和を、時間を惜しまずに努力してゐる次第である」。「小生は小生の俳句作家としての菲才を自任してゐるが、五十年年間の勉強の仕方も反省してその拙をも覚ってゐる。その経験を生かして後進に参考として頂きたいと切に念願してゐるのである」。「春星に仲間入りして春星人になりきったら、あなたの生涯にきっと幸せをプラスします…といへるだけの春星にしたいと念じてゐる」。「執念に欠けて句作を中絶するやうな作家は真の句才を持ち合せてゐなかったのだと思ってゐる」。

 

  我が庭や百花を綴ぢし初暦

  霊芝描く墨色得たり筆始

  長生きをする勉強や冬篭

  孫が来て連珠いどむや冬篭

  白衣着て吾尚老いず初仕事

  (文武次男を挙ぐ)子年人日我が孫一人殖えにけり

  胃カメラに診られたる腑や春酒断つ

  指の股ともして抜くる蛍かな

  当百の穴もて欠くや蜷の尻

  どんな草も名を持ってゐる春日かな

  (悼鶉衣居士)句の道をただ一筋に花の旅

  (前書略)時は命也午睡程々に

  (春星舎小園)水打って昨是今非や庭造り

  

  抜き捨つるものが雑草庭茂り

  今宵句会あり月見草たんと咲け

  行水を好みし師なり句碑に水

  傘重ね合うて師走の雨の街

  (三原ヤッサ踊)御用提灯寄せ来る如き踊かな

  大橋でヤッサ踊を待ちにけり

  日三竿牡丹の客を案内す

  出臍押への硬貨逃げをり昼寝起

  見えぬ庭が鏡に写り秋の立つ

  露の夜や宝石のよな短詩あり

  (悼万十居士)星の仲間に入って涼しき夢見るか

  秋風や我が髪霜を置かしめず

  酔えば筆を持つ癖のあり老の秋

  鉢巻を締め韋駄天や夕立中

  この井戸に及く井戸は無き帰省哉

  「老の秋」てふ便利なる下五ある

  城濠を渡ることあり穴感

  向日葵がつっ立ってをり秋出水

  冬凪の磯沈吟の句女史は絵

  冬凪に石風呂を出し湯文字かな

  海苔ひびの数その影の数と一致

(春星舎月斗句碑)句碑小春酔毫に師の躍如たり

(春星舎西望句碑)句碑小春金龍文字を作る哉

 合歓の花しばしまどろむ夢の夢 西望

 

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