俳人・俳誌

松本島春

 

ものを見る

 

  竹切れを一本立てて雪残る    菅 裸馬

 この空間にあって違和を感じる物体である。竹切れが一本、残雪に突っ立っている。仙人が飛来して、杖を忘れて行ったのでもあるまい。

作者自注によれば、庭上に「わざとらしく竹を一本立てておいた人間のしわざが生々しくて」、当初は「一本立ちて」だったのが、どうしても「一本立てて」と言わざるを得なかったとある。

裸馬俳句は、同じく自注より取り出せば、即事であり、実景であり、純現実であり、発見であり、印象であり、現実であり、時に空想(考へる葦一連や十三夜)であり、小事実であり、実見であり、虚実相半ばした描写であり、見聞であり、スケッチであり、スナップであり、嘱目であり、寓目の作であることが分かる。その多くの句に作者眼前の状景や身辺の場面が存在している。

この句の年の夏、私は富士登山した足で上京し、荻窪に仮寓の菅裸馬先生をお訪ねした。与謝野鉄幹・晶子夫妻の旧居で、母屋は昔の明星編集所だと伺った。当時は大勢の子たちが走り回って居たことだろう。

題詠の場合は、月斗俳句に見るように、季題より演繹した胸中の山河が展開するが、裸馬俳句では、心動かされた即事即景より句に帰納するのである。荻窪の庭上の作品を挙げてみる。

返り花日和崩れし後知らず

鵯が来てをととひの雪庭にあり

炎天になほ開くともせざる百合

向日葵はうつむきがちの獣なる

草に凝る露日が干さず風が干す

 実景の中から、日常よりも密度の高まっている部分を剔出し、句にしている。

実景の描写にしては禅語のようでもある。今風の西洋詩的抒情ではないから、後に、波郷が裸馬俳句の破調感を肯定しないのは当然だった。推敲という、目撃者がモンタージュ写真を作り上げてゆくに似た作業の終点で、形の上で句またがりも忌避しない。これが極短詩としてはより本質的であると思う。内容にしても、俳句の抒情は東洋詩のそれであろう。

「作者には作者自身の分相応な人生観とつながりのない句というものはありようはない」とやはり自注に述べられている。入矢義高注『寒山』(岩波書店中国詩人選集5)は、父正氣が裸馬先生から頂戴した本である。寒山詩にも先生の見る目を思う。即景即心、景の中に自己を求めるという立場である。

(平成十七年二月)

 

 

剣心一致

 

 大河ドラマが、「二天一流」の宮本武蔵から、「天然理心流」の近藤勇に替った。そう云えば、…俳句をなさっているそうで、ところでどの流派で…と、とんと訊かれなくなったなと思う。結社の外にも、出版や会合や顕彰などを行う、協会とかがある今の世である。

 勇と同時代の『大菩薩峠』(中里介山)の机龍之助は、「甲源一刀流」である。御獄山の試合から四年後、通りがかりに竹刀の音、気合の声を聞き、たまらず武者窓から覗いて、「緊張した道場内の空気、先生の態度、弟子の作法を見て自ずから他の町道場と選を異にするものあるを知って」、案内を乞い、主座の人物が「直心影流」島田虎之助と知る。門人と手合わせの後、一手ご教授をと懇願するが、主は閉眼沈思取り合わない。

 小説で、土方歳三ら新徴組に加わっての清川八郎襲撃の際、駕籠を取り違えた相手がこの島田虎之助で、呼吸も変えず十三人を斬るのを、龍之助は呆然と立って見ていて、「我遂にこの人に及ばず」と結論する。島田虎之助は土方を抑え付け、「剣は心なり、心正からざれば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」と訓える。

 剣に加え人間の先達である道場主の下にあって、剣術は自得である。大石進は、愚に近い鈍根で、試合に出ては必ず負けていたが、天井より糸で毬を吊るし、それを突くこと三年間、遂に天下無双の突きを発明した。「大石神影流」である。

 わが句会場の壁に月斗題『俳句道場』の額を掲げている。昨今は、縄暖簾をくぐって入るかのように、軽々に何々俳句道場とか俳句塾という語が使用されているが、私にとって、俳句道場は、俳句教室とは違った耳への響きを持つ。それは、青木月斗、菅裸馬、松本正氣の名の響きに通じる。

 ついでに、歩行者天国とは嫌みな文字だが、テレビ番組欄に見る『俳句王国』は、あれは愛媛県のことで、名称の理由が、句碑が三百以上あることと子規ゆかりの構築物が多いことだというのが面白い。内容は知的エンターテインメント番組だと、N局は謳う。

 子規は、趣向を立てて人の目を惹くことが好きで得手でもあったが、「これらの俗な方面の仕事は僕が受け持とうと言って」(虚子)いた。そんな事に頭の働くのを俗としつつも、俗にならぬのが子規である。

 勝海舟の剣の師が島田虎之助。今どき皆がやりたがる型ばかりの剣術でなく、折角ならば本物の剣術をやれ、そう島田虎之助に言われて入門を決意する。道場で日夜剣術の鍛錬を積むと同時に参禅を勧められる。

本物の俳句をやるべし。折角ならばである。

(平成十六年五月)

 

 

ステレオタイプ

 

あの頃の野を席巻したセイタカアワダチソウのように、昨今、外来語がめっきりと増えてきて、その言い換えが検討されている。もとの文化の違いがあるから、インクとかペンとか、柔道のYUKOやWAZAARIなどを思い合わせれば、言葉に人の手を加えるのは至難のことである。一方、濃い黄の円錐花序は、花粉症の原因だと目の敵にされたりしたが、今ではすっかり落ち着いて沿道の風情になっている。

国語研による外来語の言い換え提案の最終報告を見ると、三十二語の中に「ステレオタイプ」が入っていて、これを「紋切り型」、文脈によって「類型」「固定観念」「画一的」と言い換えることとし、その一般の理解度はA(二五%以上五十%未満)だとしている。実用例は知らぬが、カタカナを無くして漢字を使っただけでは、言葉としてぜんぜん面白くない。

ステレオタイプは、印刷するのに紙型に鉛合金を流し込んで作る原版のことである。以前にも述べた高橋義孝は、能という芸術が、徹底的な形式主義、類型性を根本原理としているとし、能面のこと、三十余の動作の型で成り立っていることを述べる。天才が現れても、一つの型を加えるに過ぎぬ。だから「一曲の能は全体として一枚のステリオタイプ」である。かくして能は、個性にも一回性にも欠けて、近代芸術には最も遠いものだが、そうした再演が人々に深い感動を与えていることをいう。

俳句はもちろん再演芸術ではないが、題詠の句を見ていると、その季題におけるステレオタイプとも呼べるような句を仮定し、それに限りなく近づいて行くという句業の方法があるように思える。文人画の墨梅や墨竹を思い浮かべていただきたい。月斗俳句はほとんどが句会詠であったが、このことは即ち題詠でもあった。後者が要点であるが、また考究したい。

文語で五七五なのに、昨今は、俳句の足腰を鍛えるための、めん・どう・こての修行では慊らないらしい。様式化ないしは類型性の不自由さが好まれない。そこで、制服廃止で、気軽に思いつきの言葉をリズム感でコーディネートするという句作りが流行る。

俳句作りは、遠き道を行く所業だと私は思うが、時に爪先立ったりしながらも、大方は左右交互の二足歩行を不随意運動のようにこなしているものだ。これは反復練習で体が獲得したものである。この能力を五輪のランナーたちは、究極まで練磨している。俳句が持つステレオタイプ面と、独創とか自由等の面とは紙の裏表で、同等の価値としていい。

(平成十六年十一月)

 

 

藍染の話

 

 この夏なくなられた横綱審議会の独文学者高橋義孝氏のことだが、文学評論家としての技術批評という語の印象が残っている。「異邦人」論争の頃の文芸雑誌でのことで、その後まとめて読む機会がなく、それにこれは小説というフィクションの世界のことではあるけれど、俳句を見る上でも、表現こそが評価の対象になるものであって、素材そのものを云々すべきではないと、特に人倫、生活に関わることなどは、それに溺れて終わってはならないと、当時の私の解釈で、思ったものであった。当然のことだが、案外曖昧な箇所なのである。

 親子の情愛や幼児の仕種とかは、それだけで胸打たれるが、たとえば母もの、孫ものの句は、作品として提示する場合、自分だけの母や孫に留まらず、母なるもの、孫なるものへ普遍さるべきだろう。ただ幸いなことに、俳句は定型なので、句にしようと身構えたとき、自らそれに救われているところがある。

戦争や震災を詠んだ俳句を募集するなんか新聞雑誌的な感覚だが、たとえば、三十七度の発熱時の病状を句にするのと四十度の発熱とでは、高熱のほうが切実に響くのは、何かハンディを与えているみたいだ。それでも名句ができれば、それこそ技術であろう。機を得て機を生かすには、日ごろの練磨を要する。

極端な例では、生を終わる間際になお名句を作るが為の精進である。月斗先生の辞世の句は「臨終の庭に鴬鳴きにけり」だが、正氣は、句帖最後に記された、庭に雪が降っての「沈丁を達磨にしたり春の雪」もいいなと言っていた。「達磨にしたり」はいかにも沈丁花で、春の雪で、明るくて純な月斗先生らしい。

 NHKの「染色紀行」の藍染めは、限りなく黒に近い濃紺が藍染めの基本であると信念する阿波の人の技であった。最も染料の勢いがある二ケ月ぐらいの若い液を用い、その藍の力を使い切るという方法である。一年ほど前に同じものを見たが、これは藍染めでも、もう一人宮崎の人の最も薄い藍をしっかり染めるもので、六ケ月ほど経って古くなった年老いた液を使うのが、一緒に紹介されていた。今回の放映は前者だけにして簡明になっていたが、しかしどちらにしても、自分の目指す極へ向かって、ぎりぎりのところを見定めて、その技術を突き詰めている点で共通する。

 それと、前の人と後の人とに年齢差があるわけではない。藍染めかくあるべしと自分の信ずる道を行くのである。若者は若者の句を、年寄りは年寄りの句をと云うのでなくて、常に自分の句をと云うことであろう。加齢についてもまた「和而不同」なのである。

(平成七年十月

 

 

水の音 

 

 「芭蕉の存在論」とある新聞の切り抜きが出てきた。宗教学者の中沢新一教授が「古池や蛙飛びこむ水の音」の句を通して、日本人の持つ存在感覚と今の日本の社会構造との違和について省察されている。一昨年の三月二十日付けのもので、その文末が「この一匹の蛙をもって、世界をくつがえすことはできないものか。」とあって、ぴったり一年後の日付のオウム事件を思えば不気味である。

その内容は、この句の英訳の蛙が複数形になっている事に発して、蛙が一匹と感じる、存在が無底に向って開かれている日本人の感覚と、複数の蛙で、存在の閉じられている堅固さを強化する西欧の感覚と対比して語ったものである。

 従って直接には芭蕉や俳句の話ではないのだが、実は切り抜きを頂いたときは、蛙の数の論かと思いつつ一読した。それは、多数の古池が象徴的に浮かび上がる、英詩人の野口米次郎の鑑賞(昭7)が記憶にあったからだったが、これは私の思い違いで、再読すれば,「作者が古池やと呼びかけると、恰も魔法便がもろもろの霊を呼出すやうに、私共の眼前に苔蒸した古い池が顕はれる…」とある。そこへ読者が(詩人ならば)飛びこむのだろう。

 だいぶん難しいことになったが、訳がある。散髪に行く度にそこの主が「わたしもぼつぼつ」句を作ってみたいのだがと話しかける。旅行したりするとそう思う齢になったそうである。でも旅先で俳句の碑など見て説明されてもその善し悪しがさっぱり分からないという。あげくは、俳句はその中に「何か深い意味のある言葉が要るんでしょう」である。この種の、俳句に何か深遠な意味を持たせる、世間の思い入れは根強い。

 それよりも、世はカルチャー時代で、俳句も、従来酒席の書生が唄った「バイロンハイネの熱なきも、石を抱きて野にうたう、芭蕉のさびをよろこばず」のイメージから、けっこう現在は明るい装いになってきている。作家とか随筆家とかが自他の句について語るのを散見するが、句一筋でないだけに肩の力を抜いているのか、軽妙多彩な読み物としての語り口の流暢さが、博物誌や人生観などに及んだりして、かえって俳句を何やらものありげにしているようだ。

 前月号に子規の『俳諧大要』のことがあるが、俳句の、寓意なきものは俳句に非ずという時代を経ての、明治の復活である。またまた百年後の今、旧派とは姿を変えた現代風の月並俳句宗匠俳句傾向を惧れたいと思う。本誌で芭蕉、子規を学ぶ所以である。

 古池の句の鑑賞の視点については、冨山先生がかつて述べられているのを再読していただきたい。

(平成八年四月)

  

 

簡にして要

 

  司馬遼太郎氏追悼『週刊朝日』のグラビアに、歴史について「勝手なことを書くのは公園を汚すようなものだ。可能な限り、よく調べてきちんと書きたい」との言葉がある。驚くほどの量の「よく調べて」の蒐集史料と「きちんと書き」の推敲し抜いた原稿用紙の写真も見える。

 近頃は視力のスタミナ切れで、長編 (若い頃は乱読で、たとえば『大菩薩峠』の、最終のほうは少々あやしいが、河出書房の八巻(昭三一 )、作者のいう「壱万頁」の「五百万」字に目をさらしたものだ) のものは敬遠せざるを得なくて、まとまったものとしては、『ひとびとの跫音』と『空海の風景』を通読したに過ぎぬ。

 前作は子規、正岡家に係わる人々の生涯だが、その中央公論社版下巻(昭五六)の最初の頁の文章の「拓川居士」の章は、次のような書き出しである。

  「正岡子規が、大学予備門の受験準備をすべく上京したのは、すでに幾度かくりかえしてきたように、明治十六年六月のことである。船で神戸まできてそこで一泊し、布引の滝を見物した。さらにべつの船で横浜に到り、あとは汽車で新橋についた。荷物のおもなものは本で四十余冊あり、そのうち経書詩文といった漢籍が多かった。

  子規は十七歳である。

頼らるべき若い叔父の拓川は、二十五歳であった。」

「荷物の」以下、勝手に傍点をつけた部分の三十数文字について、何気ない記述のようだが、新資料として講談社『子規全集』最終回配本 (昭五三)に追補収載された、『蔵書目録』より採ったのであろう。『春星』に筆跡を載せたが、このことは、和田克司先生の『正岡子規()』(第三五巻六号)に経過が記されてある。叔父加藤拓川の招きで松山中学を中退しての急遽上京という、青年子規の内面、志が的確に浮かぶ文字ではないか。

 俳句のように短い形が帰納であるとすると、長編のものは演繹であるから、鉛筆をなめなめ粘ってしまったら展開し兼ねるだろうと思うのだが、しかし改めてこう細部まで緊密に吟味された上での大構築を見させてもらうとき、短詩型に身を置くもの、一つ一つの言葉にさらに心を致すべきと思った。

 俳句は、季題と短くても凝縮した意味を持たせ得る文語、漢語の使用により、十七字でも独り立ちができた。川柳は、自然や人事よりも通用し易いシグナルのある人倫を扱うことにより、それも必要がなくなった。

 言葉の用法を尊びたい。説明は棄てて、ものことがそれ自体で自由に語る事ができる言葉を選択することであり、また句は韻文であるから、その排列である。

  (平成八年五月)

 

 

映像 アトランタ・賢治童話 

 

 今年は宮澤賢治ブームということだが、文学としては、私の場合、新潮文庫の古谷綱武編『宮澤賢治集() (昭二四)であった。いわゆる博物、天文や鉱物か好きだった小学生時代の延長である。ジョバンニと鳥捕りの話の鳥の味は、なぜか勝手に酒の粕の味を想像していた。

 花巻の宮澤賢治記念館には、先年、旅行の途次の連れを強引に誘って短時間立ち寄った。伊達政宗ブーム、みちのくブームの年である。館内は混んでなく、天象儀みたいなものはともかく、展示は充実していた。

 引き換え、昨今のテレビのあれこれ賢治童話の映像化には困る。賢治自身、童話は文学の形式をとった心象スケッチであると言っている。その心象を映像に、それもそれらしく解釈した映像に換えている。動く映像に余白はない。それに視覚は強い。形になれば夢ではなくなる。これは、たとえば天の川の鷺や鴨に酒粕の味がすると決め込んで言い触らすようなものである。

 映像の時代で、情報を映像の形にして流せば、文化を商品化するのに便利だろう。時間の形にしてそれを切り売り出来るのである。いったん素材を粉砕してまた成形することによって成り立った食品産業が、ある程度の質を維持して広汎に供給し、世に役立っているようなもの.だといえる。啓蒙というものだろう。

 ファーストフードもよいが、それで満腹してしまうし、それが、松茸の香りがする蒲鉾だったりしては困る。昔になるが、市川森一氏の『新坊ちゃん』は面白かった。放映中伊予松山に所用で行った際、土地の人には悪評判だと車の運転手から聞いた。まがいものではなかったからであろう。パロディとか本歌取り、これはほんものである。両立し、もとの作品を崩さない。意識して別の形にするのは、作品に仕立てることである。市川昆監督の作品『東京オリンピック』は、競技に臨む選手の内面を多く描いて、政治家は不満を言ったが。

 アトランタオリンピックの開会式での映像。ゆらゆらと奇抜な衣装の金色の仮面をかぶった五色の踊り手が乱舞する。そこに仮面でなく人の顔の一団が登場する。少女らしい表情のあるそれは、現実で親しみがありほっとする。感情を内側に籠めて何かを象徴する仮面よりも、この世の顔は、真率に明快に訴えるものがある。仮面は静止した場面でないと効果的でないようだ。

 仮面は、外面をかくして内面を見せる。短歌は人の顔で、俳句は仮面のほうである。俳句は、より小さい姿だからこそ、包み込まなければ存在価値はないし、少ない言葉だからこそ、よけいに表情を切り捨てなければなるまい。

(平成八年九月)

 

 

写真とビデオ 

 

 連休にとつぜん関東から義兄がやってきた。「ふるさと」の課題で写真を撮るのに、急に思い立ったのだという。初めの日はあいにくの雨だったが、それでも車を借りて大きなカメラを何台も積んで、県北の三次辺りから忠海の海岸まで一周りしたらしい。翌朝は快晴で、妻と同道した。アマのカメラマンとても、句案推敲に同じく、撮影の妨げになってはならぬので、その間の駐車の番というつもりだったが、あたかも渓谷は山藤の盛りで、それと微妙に違う色合いの桐の花などもあり、若葉の輝きに紛う小花の漂いを卯の花と見ると、消閑の朝刊なんか読めない。他に持参のスコップとポリ袋は、春星舎の庭に野の成分を加えんとするのである。

 兄妹の故郷に入る。はやくに父を失ったふたりの、ここでの記憶は幼き頃の何年かのものである。あのよじ登った石垣はたったこれだけの高さか、流され溺れかかったという小川は何と一またぎではないか、と。幼き頃のふるさとは、身辺の何もかもが巨きく、日もゆっくりと永い。日を経るにつけそれは小さく短くなって行くのだろう。その現実をやはり持参のカメラとビデオカメラで記録の役目だが、カメラは専ら「もの」、ビデオのほうは「こと」である。

映面なんか見ていて、1つのシーンを複数のショットで組み立てているか、家庭ビデオの「こと」の記録は1シーン1ショットである。子どものかけっこの有様など、その動作とビデオを見ているこちらと、きっかり同じ時間が流れているから、現実感が強いのである。

ビデオ時代の前の8ミリ映画は、正氣師も、年とって動けなくなったらゆっくり思い出に浸ろうと撮り貯めていたが、何しろフィルム一本が3分なので、当然撮り流すわけには行かない。ビデオのような散文ではなくて、その一シーンは短歌ぐらいになろうか。一方で、写真は、一枚で時間空間を切り取るのだから、俳句に近い。100m走と200m走とは違うジャンルなのである。

 写真家は、しきりに「島春さん、俳句は出来ましたか」と言う。否否、サングラスは掛けているけれど、今日は「俳句眼鏡」を持ち合わせてはいない。写真家の風景撮影が、事実の再現(記録)ではなく、ある見方で風景を自分の枠の中に入れている有様と、句作りは一緒である。共にその風景に落款を押すことでもある。ただ、俳句は風景を言葉で翻訳するのだが、一方、その作業で見つけた言葉が、今度は風景を言葉の方へと向けさせる。

 そんな作業は今日はもったいないと思っている。自然よりの滴りが「胸中の山川」を豊かにしてくれる。そんな一日でありたいのである。

 (平成九年六月)

 

 

虚に遊ぶべからず

 

 少し前だが、ボストンに住む妻の姪から英語版の「たまごっち」をもらった。最初は、あれこれして、日本ののびたっちとやらに変身して十三日目に天使になってしまった。次はやはりのびたっちから、或る日忽然とエルツイン大統領みたいな顔になって闊歩していた。夜は大きな鼻をした外人が布団をちゃんと着てZzz…だから笑ってしまう。これは二十日間在世した。食事や遊戯や排泄やしつけなどに喜怒哀楽を率直に返すものだから、後しばらくは何がしかの情が残る。

いわゆるバーチャルリアリティ、仮想現実が流行語だが、ゲームなどの仮想の世界に奥深くはまり込んでしまっているうちに、現実の事象とシュミレーションの世界での事象とが、判別できなくなるようになってくるのだという。

 句作りでは、季題を踏まえて天地を見渡すか、胸中の山川にこれを探るかと言うことになる。文芸上での虚実は、バーチャル・リアリティかリアル・バーチャリティかこんがらがるが、かの「虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶべからず」であろう。

  踏青に北する鶴を見たりけり   月斗

  花の瀑牧童これを顧ず      同

 かつて、どこかの秘境の国を描いたドキュメンタリー番組で、N局のやらせが問題になった。事実そのものの再現が記録であり、もちろん、でっち上げは虚偽だから論外だが、その間にいろんな程度の段階のいわゆるやらせがあることになる。あの時論じられたのは、そこらの善悪判断のようだ。なお虚構とはドラマの世界、虚に居て実を行うのであるから問題はない。

当時、映画評論家佐藤忠男氏の、やらせは難しい問題で、カメラが向けられているからこそ或る行動をとるということもある、と言う発言に興味を持った。カメラを向けるほうの立場にも言えそうだ。さらに、作品としての写真を撮る際を考えると、カメラを構えるというのは、俳句作家の、俳句にしようと思う、文字に表す、定型に仕立てる、という動作に相当する。

 裸馬先生のお宅(旧与謝野邸つまり明星発行所跡の頃の)に伺ったのは、二十歳前の事だった。生意気にも「先生、俳句は作り物でないといけないと思うのですが」とお尋ねすると、即座に先生は「君、人間が作れるのは自分の身体ぐらいのものだよ」と仰った、と記憶する。

記憶すると記すのは、「秋田の江戸っ子の秋田弁」(先生曰く)の早口なので、とっさには、語尾が、自分を「作れぬ」のほうかとも思ったのである。でも、どちらであっても瞬間私は合点したから不思議だ。

(平成九年十月)

 

 

位置のエネルギー 

 

私が苦手とすることの話である。数学では、代数よりも幾何がいやである。大学に入って、図学という投射図の線引きをするのよりは、美学で石膏のトルソーのデッサンするほうがまだましであった。

そのころか、井上靖の「漆胡樽」を雑誌で読んだ。再確認もせずに述べるが、正倉院御物の現実のそれにまつわる西域の時空の話として、その空間感覚を、その後の将棋戦の作品と関連して、記憶している。飛車が、その位置にあることによってその縦横の枠を支配する、存在の力を持っているという辺の感覚である。磁場、重力場などはべつに神秘的なものではないが、記号体系の幾何を好まぬ私は、却ってある種の畏怖に似た関心を空間に持っていたのであろう。

昨今は、軽薄短小の時代で、俳句でもそんな言い方で表現するのが多い。身辺というか、手軽に手元にことばを置くのである。高い棚の上に置けば、落ちてきて頭にたんこぶを作るだけの力を持つのだが。

ビデオに流れる時間も等身大の時間である。コピーされた時間といえる。これをカットして編集し、さらにカットを重ねるモンタージュの手法などで作品となる。

俳句は、等身大の日常をただスキャンニングするような言語表現には適さない形をしている。圧縮して重さを持たせ、ある高さに言葉を置いて力を与えなければ、十七字の切り取りではうまくない。粗雑な云い方だが、言葉を切り詰めて、場を創る。これによって言葉は、空間をゆがめ、時間をゆがめて、そこに緊張を生み、エネルギーを満たす。

圧縮された大きな能力を持つものに季題がある。このものは先人の蓄積、伝統を内包する。句に応じてそれ用のその幾分かが展開してくる。あたかも、京都や奈良という名所旧跡の地名の如くである。

父正氣が久世車春から句会の指導を引き継ぎ、その縁で沼隈横島より三原へ、当時山紫水明の湧原川畔に居を卜したのが私の満一歳の時だが、これが、デジタル風に「私は北緯34度21分東経133度17分の小島に生を享け、一年後に北へ3分、西へ11分ほど移動した」では、なんとも味気ない。

しかし、数字列が8888だったり、1234だったりしたら如何か。海野十三だったかの、針金があるかたちの立体構造を持つとき、それが生物としての現象を現わすというSFを思い出す。好きな車のナンバーが貰えるので、希望の多い数字列は抽選だということだ。数字の羅列次第で人心が動くのだから、俳句の言葉は、その中で持ち上げて、より働くようにせねばならぬ。

(平成十年六月)

 

 

奥行きの深さ 

 

終戦直後の昭和二十年九月十七日夜半、枕崎台風で、大橋河畔の正氣庵は倒壊した。上流よりの流失物が大橋の橋脚に掛かって、水流が川底をえぐり、出水が引くとともに、岸辺の石組みを崩したのである。

青年正氣が、諫早を出立して後、備後横島の暮らしから、三原に移ったのは、昭和八年の春であった。岡山在の久世車春より引き継ぎ、指導していた糸崎句会の請いによるようである。東町の大橋の袂から望む桜山や和久原川の山紫水明に、居を決めたという。

和久原川は湧原川で、上流は、干川(加羅加波)の地名のように川水は伏流水として地下を通り、清水橋あたりから湧き出して流れる。この伏流水を井戸で汲み上げて旧市内の水源としていた。

戦争が始まり、小学上級の私たちは、菊水の幟を掲げながらの勤労奉仕で、その川原に畑を作ることとなり、もっこで土運びをした。石ころだらけの川原の東側に堤はなく、山の傾斜面へ移行していた。所々に叢に隠れた逆円錐の窪みがあり、澄んだ水を満たしていた。野茨、犬酸葉、野葡萄、草苺、それにヨードチンキの汁を出す竹煮草が印象にある。石ころを手で投げ入れて窪みを均し、その上に土を盛る作業である。

山寄りの堆積した石を少し取り除くと、その下から冷たい清水が湧いてきて、腹ばいに口をつけて飲むことができた。今では両岸とも住宅地になっている。市の水道もほかの大きい川の水を引いて賄っているらしい。生水を飲むことはなくなった。街暮らしに、水の味はペットボトルのラベルで判るしかない。

初期の『同人』の句を外から評して、あれは白湯の味だと放言した人が居たそうだ。茶の葉を入れない、味も素っ気もないというのであろう。裸馬先生は、創刊当時の同人俳句が、「概して云えば月斗風のおおらかな穏健な作風が基調をなし、奥行きの深さを価値判断の基準とする傾向であった」と述べられている。

 麗さを見てゐる面曇りけり      百艸

 炎天を来て病院の臭哉        王樹

 囀りの中から何か水に落つ      宋斤

 麗らより覚めじと眼伏せてゐる    伏兎

 囀りや売地見にゆく松の中      朝冷

 朝の海へしゃぼん玉吹き晴るるかな  月囚

大正末と違い、今では万事が複雑化した。だがそれは表面の皺である。底までは届かない。

つけ加えるが、『菜根譚』の「只是れ淡」、「只是れ常」は、奥行きの深さを問うのであろう。肥甘、奇異を避けるといっても、蒸留水を飲用するわけではない。

 (平成十一年九月)

 

 

日本定着種 

 

下葉は黄色くなっては来ているが、ベランダの鉢の朝顔がまだ花をつけている。二年前、義兄が浅草入谷の朝顔市から送ってきてくれたもので、大輪の白に桃色が滲み、その種を採っては育てているのである。

朝々、茎や葉を押し分け自ら新しい空間を創り出していた花弁が、咲いて咲いてのこの時期ともなると、挟まれた莟には、十分にほぐれて開ききるという力はない。指で隙間を作ってやって、やっといびつな漏斗の形に整う。手入れ甲斐があり、愛おしい。

園芸種のそれと違い、季節の野山の花々に惹かれるのは、人の手の及ばぬ自然の姿が持つ力である。土曜会では、子規忌の句座に各自が秋の草花や果物を持ち寄り、それを席題としていた。いかにも子規好みの趣向である。自分のお供えは乃ち自分にとっての兼題で、重複しないようにと気も使う。春の月斗忌も加わった。どちらもお彼岸の直前で、花の彩りは豊かである。その中に、春星舎の小園が産む花たちが見られないのは淋しい。

今も、句弟子が折々に持参してくれる花々は、おおむね仏前の花にもふさわしいものである。それで紛れてはいようが、お位牌の春星居士には申し訳ない。

橋際に住んでいた戦前、家の裏手に花畑があった。アメリカ帰りとかの大家さんのもので、その下でビー玉遊びができる程度の空き地に、春は盛大に散る桜が一本あり、草花としては、煉瓦で区切った中に、チューリップとかヒアシンス、サフランなどの記憶がある。

それらとは別に、一隅に小屋掛けして、幾つかの桶に花を束ねて浸けてあった。百日草や千日紅、千鳥草、水仙、金盞花、著莪など。当時荷車を引き、仏さんの花に売り歩く者が近所に居たのだろう。

花畑の端っこの木戸からが我が家の裏庭(戦時中防空壕にした)だった。小池を囲んで紫苑、矢車草、ダリヤ、立葵、罌粟など。此処から潮が差す川原へ下りる石段があって、夏は白粉花と数株の赤カンナ。

さて、これらどこの庭にもお馴染みの、丈夫で長持ちする花々の多くが、ここ三十年間であまり見受けられなくなったという。見回してなるほどと思う。懐かしく列挙できるだけでなく、今も好もしく見入るこの花々への想いは、この世代に普遍するようである。

その激減した理由を、湯浅浩史氏は、庭が狭くなり、ヨーロッパ風な花壇作り、庭の花を仏前に供える家も少なくなったこと、生け花の花材に洋種の希少さが好まれ、種苗会社も次々売るために栽培技術の点で高価なものや一代雑種の新種を追う、などを挙げて居られる。

商業化、消耗品化は文芸だけではないようだ。

(平成十一年十一月)  

 

 

俳句用語 

 

芸予地震では皆さんにご心配かけた。深いスラブ内での出来事で、揺れの加速度は地中で最大100ガル程度が、地表では局地の地層の要因で増幅され、三原市は最大加速度652ガルだったという。ジェットコースターに騎乗しない限り、加速度は通常は体感出来ないので、この言い方ではよくわからない。

震度5強という言い方は、デジタルな計測震度ではなく震度階級を示し、人間では「非常な恐怖を感じる。多くの人が、行動に支障を感じる」とし、屋内、屋外、木造、鉄筋、水道電気の状況もそれぞれ事細かに、例えば、棚の食器類の多くが落ちる、テレビが台から落ちる、鉄筋造の耐震性の高い建物でも壁にも亀裂を生じる、給水管の被害等々の基準で分類されているようだ。それでも5はまだ実感的でない。これが、昔風に漢字の強震とか烈震とかになるとよく判るのは、用語の熟成の具合なのか、もともと数字と漢字の属性の違いなのか。

上の5と言えば、歯科の関係者たちは、上顎第2小臼歯をイメージする。それが在る部位、色や形や感じ、「辺縁隆線が良く肥厚し、そのために中央溝が短縮し、他の諸溝が合流してここから放線状に発することもある」特徴などである。ここでは、歯列の正中から数えて5番目の5の数字は薄らいでいる。専門職の領分のTPOで、「第2小臼歯」と「5」は重なるのである。しかしこれを日常に持ち込むことはない。第2小臼歯は句になるかもしれないが、5では句にならない。

俳句社会の業界用語、「芽木」はメギノオカという風に使うらしい。葉になってしまうとさすがに葉木とは言わないで、近頃は茂れば「青岬」のように使う。青半島では収まりが悪いのだ。下五に収めるには「春燈ハルトモシ」、中七用には「釣瓶落とし」がある。情報量を増やすのに便利な言葉のニュー製品が、当座は垢抜けた感じで使われる。その感じの為だけにも使われる。それが俳句人の領分を出てもずっと使用に堪えるようだったら、ほんものになるのだが。

俳人は言葉のシラブルを定型の中に収めるのに苦心している。判ればよいのでは電報文だ。一口話『倹約』…昔。木屋瀬宿場の若者たちが俳諧をやった。 木屋瀬エゲウラ梅で鶯鳴く 「エゲウラとは何だ」「永源寺の裏を倹約した」(王樹『小同人』より)。

季題も同じくだが、十七音の容器に盛る情報の量の点で、短詩型の俳句を成り立たせているのは、漢語の存在であると思う。一句は、喉へ流し込まずにそのまま一口に収まって、口中にあるから咀嚼し、語を咀嚼してから味わうことになる。俳句でこのことは大事だ。

 (平成十三年五月)

   

 

着目する 

 

播州赤穂の街でお昼を食べるのに、まだ暖簾が出ていなくて、それまで、近くの花岳寺のあたりをぐるり廻ってみた。梅雨台風が九州の西の海を通り過ぎている頃で、時折に力ある風が身を押し付ける。

花岳寺には、義士の遺髪を納めた墓が身分の順序に並んでいる。その俗名を判読するのに、歳月を封じ込む地衣や苔は、白緑色というか、今の時季がいい。戦後十年間の仮寓は、裏手が墓地で、そこでよく遊んでいたので、墓石の古びに親しめるのである。

屋根にぺんぺん草が生えるというのは、芭蕉の「よく見ればなづな花さく垣ねかな」の三味線草のことだが、私はずっと他の植物(名前のほうはもっと後で知った)をイメージしていた。お寺や古い家の屋根によく生えていたツメレンゲという多肉植物である。

戦前の家で、二階の座敷から手摺りを跨いで中庭を囲む屋根に下りては叱られていた。春先、瓦の隙に、鱗を丸めたようなこの草の小さな鞠が生じ、やがて鱗が開いて鼠色になり足のように伸びる。どこか怪物的な感触が灼熱の太陽と共に、小学生の脳を刺激したのである。口に溜めた唾を緑の鞠に与えたりした。

さらには、風呂にくべる薪が噴き出す白い泡を丹念に集め、理由はないままその液を掛けて観察した。当今流行りの木酢液の私は元祖だ。以来、古い屋根などがあると何となくこの植物にセンサーが働く。

寺塀に沿う狭く曲がった道を前後して歩いた折りに、Aが、この細い道の脇の溝蓋が実にきちっとしていると、赤穂の街に感心して呟いた。目の付け所が違う。Aには地元で都市改造とかのお役目があるのである。私はといえば、とある表札の「牡丹」という苗字が物珍しかったぐらいなのだが。

主婦グループがグルメしに来ていて、板場さんの、新じゃがの千切りを茹で木耳を何とかいう話し振りに呼応して、箸の先を操り、溜め息のような声を出し、いっせいにゆっくり首を上下に振っている。

過去の来歴や現在の立場によって、自ずとピントを当てて人は物事を見聞きしている。ほかは見れども見えずで、そうでないと疲れ切ってしまうのだ。

写生とは、見聞きしたことをありのままに写し取るというが、俳句作りの前に、これから俳句を作ろうと心に構えなければなるまい。連れが、ああいい景色だ、一句浮かぶだろうと言いたがるのだが、吟行でもない旅行では句にならない道理だ。

それでも、覚えずして瞬時瞬時に俳句的「よく見れば」の構えの自分が存在するとき、俳句が出来る。

(平成十四年八月)

 

 

当たりのおよろしさ

 

石ころのことを書く。三原バイパスのトンネルが、既に我が家の北西に見える桜山を通り抜け、今年からは湧原川を越えて東側の米田山の掘削工事が始まった。その岩盤のかけらを拾ってきたのである。

桜山と米田山は、国民学校の高学年のとき、十二月八日の朝に分かれて登り、「大詔奉戴!」「米英撃滅!」と大声で叫び合った山である。また学校の裏手の桜山は、T先生が担任の放課後、いっせいに頂上まで往復させられた。遅いほうから何人かは校庭に正座である。それが今や横腹を貫通されてゆくのは痛ましい。

その茶褐色を帯びた灰色の岩片だが、まだ表層で、面は平たく稜も直線的、三角や四角なので卓上に置いても据わりがいい。堆積岩であり、砂岩と見当をつけた。桜山トンネルの岩片も持っているが、より深部のものらしく、青みを帯びて硬堅で、砕石によさそうだ。

戦前から砕石工場が米田山にあった。クラッシャーにかけると、天空に、ボッボッと蒸気機関車(C62よりは以前の)のような響きがして、やがてガラガラと大量の礫が墜落する音が遠くまで聞こえた。宮澤賢治の銀河鉄道は軽便鉄道だから静かなのだが。

宮澤賢治は鉱物好きで、花巻の記念館には鉱物標本展示があった。少年の私も、袖珍なモノクロの鉱物図鑑を宝箱のように開いては眺めていた。学校に市内で採取した岩石の展示があり、中でも戦時中採掘されていた紫色の蛍石は、含有率別に木箱に収められてあった。道端にこぼれたのを拾ってきて、勉強の電燈を消し火鉢にかざして火箸で叩くと、炭火や熱い灰に散った石の粉が、焼夷弾爆撃みたいにチカチカ蛍光した。

この図鑑は岩石には詳しくなかったが、名前の漢語に快感があった。曰く花崗岩、閃緑岩、斑糲岩、橄欖岩、斑岩、玢岩、輝緑岩、粗面岩、安山岩、玄武岩、蛇紋岩、礫岩、砂岩、頁岩、粘板岩、凝灰岩、結晶片岩、片麻岩と、その字面は少年の想像に余った。

次々思いが浮かんでスペースがなくなったが、俳句という十七音の言葉の塊は、膠着語である日本語の故か、両掌に収まるこの岩片に似ている思いがする。

俳句は、風に韻く葉のように詩ったり歌ったりしないでよい。昨今に見る句調は口当たりがやさし過ぎる。俳句は、固体や結晶ともいうべき名詞が主成分である。文語体には自ずと五七五という劈開があるから、十七音感の一塊にしっかり密度を与えてよい。積む歳月が人と作句を熟成させ、やがて圭角や粗面は削がれてゆく。

裸馬『同人』に学んだ者として、「真直に行くが為この道の寒さ 裸馬」の破調を肯う所以である。

(平成十五年十二月)

 

 

植物図鑑から

 

 牧野富太郎は「図鑑の生命は全く図版にある」と述べているが、カラー写真でなく線画を使った図鑑の、草花の細密な描写は見飽きないものである。

 その説明文も、牧野の学生版図鑑では十七字で最大五行、たとえば「はこべ」は、目いっぱいに「路傍田間。越年生草。茎は叢生上部傾上一側に毛道。葉は対生無毛、無柄下葉有柄。春茎頭葉腋の花梗に白色小花つく。五片。五花弁。弁端二深裂。十雄蕊。三花柱。春の七クサの一、ハコベラ」である。やや窮屈だが、ハコベの仲間の分類に当たっての要点は尽くしてある。

 ここで記述を主とする他の図鑑を参照すれば、たとえば、その茎十三字相当分の説明は、「茎は下部から多く枝を分かち、下部は地につき上部は斜上して高さ十から二十センチ、片側に軟毛がある」となる。

 見比べて、文字を省略し圧縮した前者の書きぶりは、術語の羅列のようでも、局方「食塩」とは違った天日塩のような良さを私は感じる。まず、文言はお経みたいでもあり詩的でもあり快い。象形文字の効用もあってか、図版の場合と思いを同じくする。「一側に毛道」は、「片側に軟毛がある」よりも、かのモヒカン刈りみたいな短い 軟毛の行列への感嘆が篭っているではないか。

 先発の図鑑には、実物に即してよく視よく観じ組み立てるという、手作業の跡が感じられる。だから、整った内容の近頃の図鑑よりは、造化の神への畏敬が濃く滲んでいるようだ。意味ある一線一線で、ハコベ属の各種を描く図版の作業(下部の葉に柄があるか、葉と花柄の毛の様子、葉に毛の有無、萼片の頭は鋭か鈍か、種子表面の突起はどうか)は、写生派の俳人が、対象の文藝上のデテールを言葉に置き換える場合も同じであろう。

 バルザックは、人間の「社会的な種」を図鑑のごとく網羅し、それぞれの生態を、精魂込めた筆力で造型しているが、植物も、花弁は、底のほうは淡褐色だがしかし段々に色が変わって、微細な切れに分れたその先端では緑に成っていた。各弁は互いに押し合って区別がつかないように見え、一群の美しい薔薇模様を産み出していた。ここかしこ、この花蓆の上には金糸で縁取られた白い星があがり、その星の中から蕊のない真紅の葯が出ていた」(『セラフィータ』)と、想像上の花を描写する。これはノルウェーのフィヨルドを見下ろす高処で、天界に昇る者が少女に摘ませた神秘な花である。

 今年の月斗忌句会では、恒例で皆が持ち寄る春の花卉と、床の軸の句に因んでの春愁と、題を課した。実見と想像、写生と造型の句作り、けだし俳句は「神業とフィクションと」(正氣)である。

(平成十六年四月)

  

 

少数の言葉の羅列

 

コンピューターの西暦2000年問題が喧しい。日付データーの年を月や日と同じ2桁で済ませ、2個の数字が使うバイト分を節約したためらしい。俳句は十七音だが、漢字を使用するので、春星作品の場合は十五字を標準の桁数に当てている。十六字(促音がなくてかなばかりだと十七字)が割付で収まる。

俳句が一行でスペースを要しないというのは、平面幾何の見方である。これでは貧弱と、主宰や主要作家の句を活字のサイズで区別をするのは、『春星』は取らない。創刊時の世相に基づく誌面の節約と解してもよい。

活字文化の中で、短い一行で完結するという作品形式は、いわば重宝がられている。かつて前主宰が、たとえばPTA会報の編集で、ページの端のスペースがカットにはやや大き過ぎれば、ここは俳句でも、ということになると苦笑していた。

当時の新聞の地方欄も似たようなことで、正しい漢字、かな遣いなら、と応対していた。新聞は、とくると、いわゆる大作家の文章にかな遣いは原文のままと括弧してあるのはなぜか、である。その答えがあって、文章と俳句とは、に行き着く。そこでの用字、用法の尊重の度合いを主張したのである。

朝のNHKで講談師が出てきたが、ドラマの中で小南陵の本物のそれの短いシーンがあり、昔々に理髪店のラジオで聞いたのを思い出した。西行法師の「伝へ聞く鼓ケ瀧に来て見れば沢辺に咲きし白百合の花」の、以後の肝心の部分は楽屋のシーンに切り替わってしまったが、ほぼこんな具合のはずだ。

「鼓ケ瀧」に咲く「白百合」は鼓の音の「たんぽぽ」にせよ。ならば「伝へ聞く」は「音に聞く」、「来て見れば」は「打ち見れば」として、「沢辺」は当然鼓の皮の「辺」ではないか、かく言葉を添削して「音に聞く鼓ケ瀧を打ち見れば川辺に咲きしたんぽぽの花」。

短詩形では、たとえば連歌連俳などの付句で、言葉と言葉との関係に、いわゆる縁語といい、寄合といい、細かく心を用いている。やがては、言葉のイメージは重層しながら重合するまでに深められるのである。しかし、これも、今ではパターン化して、やはり遊戯のレトリックとなってしまっているかもしれない。

季題は、過去よりの句に纏わる多くのイメージを内包していて、それが、僅かばかりの語からなる俳句の世界を成り立たせている。しかし、その美意識を硬化させないで、常に瑞々しい伝統たらしめるためには、本号所載の岡屋昭雄教授の論考にもあるように、折に触れ、対面しつつ、自然に問いかけるほかはあるまい。

 (平成十一年五月)

 

 

易しいと優しいと

 

前号の月斗扇面、どう読むのかどういう意味かと聞かれる。「たがためにかたちづくりすとうかけん」と、実は、蔡伸の「為問桃花臉 一笑為誰容」の五七五訳?であろう。メならまぶただが、ニクヅキだからかおである。桃色の美しい顔である。近頃、美白とか顔黒とかの価値観もあるようだ。

およそ、人が病気をするのはいいが、人が病人になってしまってはならない。世間にその病人が増えて、「癒し」の医学医術医道が改めて唱えられるのかと思へば、生活にも「癒し、ヒーリング」という言葉が流行っていて、テレビコマーシャルに癒し系のタレントSYが重用されている。よくはわからぬが、癒しとは、ここでは、ほっと心を明るく和ませる、かのアルファー波の脳波を出させる、ということらしい。

職場に流れるBGMは、いわゆるイージーリスニングで、曲の調子を考え、音の大小や高低の上下限を設けて、仕事の邪魔にならないようにしてある。苦い胃薬をオブラートに包むように、音楽が、仕事のザラザラした面をそっと被っている。親鳥が餌を噛み砕いて、仔鳥が易しく嚥みこめるように口に入れてやる、そのイージーである。

それが、見て居て親鳥の愛情が感じられるため、やり上げる困難さが標準以下の状態という意味の易しさを、優しいと錯覚してしまう。口当たりがよくて快いイージーリスニング俳句が、即、心を豊かに満たす俳句とはいえないのである。

『春星』には、春秋高くしてなお真剣に精進されている方も多い。そして「見たものだけの赤ちゃんのやうな句ばかりでございます」、「今日まで生きてこられたのは俳句のおかげでございます」と申し越される。俳句は創る営みであるので、先ず、これまでの生が句の形として存しているという事実は重い。その上、終の一句へと、日々月々取り組むという意味ある生き方が、ここでは肯われている。

句としての存在はペーパー上にではない。ほかならぬ自分の句を作ること、で足りるのである。ではあるが、その結果のためのプロセスとしては、一句でも多く抜けようと、大いに欲張らねばならぬ。量は質を問わぬが質は量にかかわる場合がある、のである。

もう一つ、「だれに見しょとて」という思いもある。婦は、自分のことを綺麗だねと喜んでくれる人のために、化粧するのである。士は、自分を心底解かってもらえる主のために、生命を預けるのである。そういう人を持つことは幸いであり、持って欲しいと思う。

(平成十二年五月)

 

 

句、語のたるみ

 

「景気は悪化しつつある」というのが最新の月例経済報告である。これは簡単明瞭だが、景気の動向の言い回しは微妙で興味深い。景気は多変数だろうから、進退状況はあっち向きこっち向きで混沌として、その判断はあたかも観天望気によるかのようである。

これまで、「回復している」のよいほうから「弱まっている」のわるいほうまで、いくつかの段階に分けてあった。よい方は上から「改善が進んでいる」「緩やかな改善が続いている」と下がり、わるい方は上方へ「弱含んでいる」から「足踏み状態」となる。弱含むとは、季題でいうと下萌ではなく、弱のほうに力点がある末枯なのだ。

もっと微細に分けようとすると、やがて、ついに、いちおう、やっと、やはり、とりわけ副詞の出番だ。「さらに弱含んでいる」が前月の表現であった。

二年前のこの時季は、「下げ止まり、おおむね横ばいで推移している」から「このところやや改善している」となり、その後「緩やかな改善が続いている」に移った。一年前は、「自律的回復に向けた動きが徐々に強まっている」で、これは「動きが徐々に現れている」から上昇したところだ。芽が出て茎が伸び始めた感である。以後、「動きが続いている」と水平飛行になり、「改善のテンポがより緩やかになっている」から「改善に足踏みが見られる」となった。速度を維持しているが、加速はしていないというのである。続く「弱含んでいる」には、「改善に」の語はついてない。つまり速度が鈍る兆しである。この戦後最短の景気回復の変りようは、国語の試験問題にしても面白そうなので詳記してみた。

景気のようにダイナミックな流れを、時空を取り除いた形で、そのままに把握するのは難しい。靴の裏から痒いところを掻くように、多少の揺れをもって表現せねばなるまい。写真がデジタルカメラの出現によって、映像は紙にプリントしなくてもよくなり、あろうことか、短時間の動画も可能となっている。私が見た、夢の中での古写真が一瞬表情を浮かべた後静止する、あの感じが、味気なくも現実に可能になってしまったのである。

子規は「たるまぬとは語々緊密にして一字も動かすべからざるをいう。()虚字の多きはたるみ易く、()試みに天保以後の俳句を検せよ。不必要なる処にてにはを用いて一句を為す。故に口調たるみて聞くべからず。又これに次ぎて副詞はたるみを生じ、動詞もまたたるみ易し。」とし、「ものたらぬ月や枯野を照る許り 蒼虬」の内容は、「枯野の月」と、ほぼ名詞で充分とする。

俳句の短い形は、混沌界を断面で処理する。言い切るということだろう。

(平成十三年七月)

 

 

理解と共感

 

その臘末だからというわけではないが、アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を、DVDビデオはチャプター付きなので、閑な折に小刻みに観ることにしている。

このSFに出てくるモノリスという直立した硬くて黒い厚板状の謎の物体、宇宙の知的生命が置いていったものだが、これがただの名刺ではなくて、今から三百万年昔に、ヒトザルから可能性を引き出し、人類の生き方への方向性を与えるのである。

モノリスは、何か不可知の力で、選ばれた能力のあるヒトザルの一匹を、彼が気づかぬまま支配下に入れ、後に知性や感情と呼ばれるものの萌芽を誘導し、そこで地球上から失せる。全くのはじめとは全くの一方的だ。モノリスとヒトザルとの間にコミュニケーションは存在しない。

人と人とは「他人の行為を自分の行為によって理解する」といわれる。一度もおもらしをしたことが無い子には、おもらしした子の心の痛みは判らぬというが、全くというものでもあるまい。俳句の鑑賞の場合、言葉を読んで、脳裏に例えば古池の場景や蛙の飛び込む水音が再生され、作者の感じたことを自分も同じく感じとる。作者と読者とは共通の境地に立ち、感情を共有する。こうして句を解し味わうことが出来る。

事実、脳が他人の行為を理解し,交流する仕組みとして、脳の或る部位の神経細胞が、他人の動作を見ているときにも、自分が動作しているときと同様に活動をすることが判ってきている。ミラーニューロンと呼ばれ、この鏡の在り場所が、運動性言語中枢であるブローカ野だというのがおもしろい。

蛙をジェスチャーで言い当ててもらうとしよう。こんな姿形と指で示し、ぴょんと飛ぶ。触るとヌルヌルする様子でもう判るだろう。実際の蛙を知らない人でも、その形を動きでなぞって、おおよその見当をつける。人の言語のはじめはここらが基であろう。

正氣が句を始めた大正中期は、『ホトトギス』の天下で、「写生は俳句の大道であります」(原月舟)である。そんなわけで当時の青年正氣は写生をやや軽んじたかも知れぬと、後年、その経験から、初学者に自然との触れ合いをすすめ、基本となる写生を説いていた。

「小動物をよく観察し、観入し、俳句にしなさい」、植物よりも楽で、それで見方が深くなりますという。この方法論は、そのいちいちの動作は、見れば見るほど見飽きず、その描写による感情移入が容易なことである。上記の鏡のシステムに引っ掛けてみた。

(平成十四年一月)

 

 

類題句集

 

同人社の青木月斗選『同人俳句集』(昭六)は、季題分類方式の結社句集で、第二、第三、続く『時雨』も同様である。題詠による句作りが主流であったので、歳時記代わりにも使用された。

試みに手元の古びた『飛雨句集』(王樹編、昭十)、『碧梧桐句集』(小蛄編、昭十五)、『露舐句集』(鶉衣編、昭十七)など個人句集を繙けば、どれも類題句集である。句集は柩を覆って後成るものであったからであろう。これが戦後になると、句集はなべて個人史的な形を取る。編者の意もあろう。類題は廃れるのである。

活字印刷物が消費財でなく、恒久財として尊ばれていた時代、個人句集は紙碑とも呼ばれ、生を全うした後、余人の手によって上梓されて、その人を知悉し、追慕する者に頒たれた。だから、お墓のように、本来は一家一集が親切というものである。

真田目の黒いうちにこの目でという現世主義があり、俳人生の過程を小分けにして印刷し、冊を重ねてゆくことも容易な昨今だが、本人は生をまだ余して居り、俳人生全篇の完という具合にはならない。

前記の『同人俳句集』の刊行が、所期をはるかに遅延した理由の一つに、選者の「実をいうと余自身が昨非今是、その内人に示す句が作れそうな気がしてならない」心持ちがあったという。

長谷川太郎さんは、類題の形を否定され、個人句集は最近作を最初のページに置き、順序を逆に編年すべきという意見だった。句業の経年進歩の結果である現在を信じるのである。しかし、太郎さん没後奥様の手で刊行された『天の霜』(昭四六)は、晩年臥床の中で、ご自身で四分の三くらい纏められたが、少年太郎の句より始まっている。今はこれで良しとされたのであろうか。

されば、その人の俳業を遺すための方法として、歳時別にするのか、ビンテージで分けるのかというのは、単に便宜上のことではないといえる。

題詠の長短はともかく、季題のことはいつか述べねばなるまいが、類題句集のことに戻れば、俳句は、句碑や短冊のように、一句が作品、一句で作品ではあるが、それを少し危うげに感じさせるところがある。一句は、同時に存在する句の群れの中で安んじるという宿命があるような気がしてならない。俳誌や句集を思い浮かべていただきたい。同一作者、他の作者、季題と、群れのありようがある。その中の一句である。

類題句集における一句たることは厳しい。家集ともなれば、一句に留まらず、その全ての句業がこれに堪えられるかを問われることになる。

(平成十四年五月)

 

 

俳句の味

 

秋の味覚、という常套語で、秋刀魚とか松茸とかが挙げられる。それらの味を、日本人の大多数が共感できるからだろうが、中国の人はどうであろうか。フランスの人はどうであろうか。

甘い酸いの味覚はグローバルなものだが、秋刀魚や松茸の、正確にはは、化学的な味覚や嗅覚、物理的には、色や形という視覚、アツアツの温度覚、噛み切る時の触覚が関わってくるし、盛り付ける器や部屋や場の雰囲気や、その時の心境とか体調とか、これまでの生活習慣とか、心理的、肉体的なものも働いて、同じ食べ物でも、食欲がそそられるかどうか、美味しいという個々人の味の認識は違ってくる。とはいえ、歴史風土を同じくする者では、共有する部分が相当あるはずなのである。

食べ物のような具合に、その美味しさの度合いで俳句を評価するとして、「俳句の味」の、その因って来たるところは何かを検証すべく、俳句の属性を一つ一つ分析したところで、落語の殿様が感嘆した「目黒の秋刀魚」の味は、単に小骨を抜かないせいばかりではないので、無理だろう。しかし、殿様に「かつての好ましい経験から来た食べ物への欲求」つまり食欲を覚えさせた美味しさの基本に、不変不易のものが存在していることは云えるだろう。

貞門俳諧の味わいから、談林、蕉風、天明を経て天保と、句は、教訓的であれ、言葉遊びであれ、時々にそれぞれの風味を帯びていて、その時代の俳人によって賞美されてきた。子規は月並み臭を嫌っていわゆる新派を唱え、以後、現代俳句に至るわけだが、俯瞰すれば、今も昔も、味と嗜好の関係は同じことだと思われる。現代俳句の近代詩的傾向は、日本人の食生活の洋風化に起因しているのかも知れぬ。

世間の俳句観も変わった。昔の酒席の歌の「石をいだきて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばず」(鉄幹)で恥ずかしかったのが、「君の頬と耳はマッカッカ あゝ風流だなんて ひとつ俳句でもひねって」(たくろう)と、ためらいも無い。いまやテレビでは王国なんてあるようで、よけいに恥ずかしいが。

米飯を主とした和食の復権と共に、昨今は、季題趣味が、や・かなが、ローカル性が、久しぶりに棚から下ろされる一方で、俳句の国際化などと揺れる。話の種がないと、変化流行がないと商業ベースに乗らないから仕方ないが、時流にある句が必ずしも百年に通じる味を持つ句ではない。

移り箸せず、真味を味合うことである。

(平成十四年十月)

 

 

選を受ける 

 

 俳句雑誌の力ある雑詠選者に、虚子選の『ホトトギス』月斗選、裸馬選の『同人』、それと正氣選『春星』を挙げよう。

 昭和二一年の『ホトトギス』一月号は、偶々本号と同じ五八九号である。表紙とも三六頁のうち、十九頁を虚子選の雑詠が占める。簡単に抜けるはずもないが、父の言葉で少年の私にも投句の経験がある。「ホトトギス雑詠投句票」を貼った半紙に二句書き、小諸の虚子宛に差し出すのである。十二月号が第六百号で、投句票を切り取った跡がある。この号の巻頭句は「火を投げし如くに雲や朴の花 野見山朱鳥」であった。虚子は「選句で人を導いて行くといふことが、最も力強いことで」と、心掛けを当時の年尾、立子に語っている。

 戦前の正氣短冊は、ほとんどが月斗入選の句を認めていた。先生の選を乞うは先生の胸を借ることであり、作った句が信ずる月斗選に入ったならば、その句は陳腐ならず不朽であり、浮薄ならず不易であるのであるから、安心なのである。これも権威ある選であった。

 裸馬先生は、お目が不自由となり選がご無理となったおりに、句について、よき句を見落とさぬこと、隠れたるよさを発見することを第一義に、選の忠実と公平は当然として、「選者の仕事は心懸だけではすまされません。更にその効果を見極めねばならぬのであります」と、指導者、責任者としてのプラスマイナスを自問されて居られる。すぐれた俳人として、またご見識の豊かさで、まさに先生は選者としての実効を挙げられた。

 道場としての小俳誌『春星』の正氣選は、基本は勿論曲げないが、その上に、より第二者の立場になるから、その選は対機説法の形をとる。この作者にしてこの句だから選に入れるかどうかということになる。作者のその時期を見極めることも大事である。相撲で、ここで投げを打って勝つ癖をつけたら先々伸びないから駄目、今はひたすら押せという時期があるそうである。反対に稽古でこちらが転んでやらねばならぬこともあろう。人を仕込み育てるのは、このアメとムチである。横並べでなく縦並べの相対評価であり、それによる方向付けである。省みて、ムチがムチとわかれば成長である。

 も一つ、カルチャー教室ばやりで、習字やお茶や生け花の隣に俳句とあったりするが、形から入り型を習うと云うことなのだろう。選句に伴う改作添削は、その人の推敲の足らぬところを補い誘導する、それ迄の過程である。反復辿ってみるべき自得の道であり、いつも作りっぱなしのままで終わるのでは向上は容易ではない。

 自分の生んだ句は大切に扱いたい。

  (平成八年八月)

 

 

堅忍不抜

 

弟さんの「不惜身命」ほどには、若乃花の「堅忍不抜」は大受けしなかったようである。実を言うと、「不惜身命」は、私が国民学校卒業の寄せ書きに稚拙な筆で書いた四文字である。

昭和十九年春、すでにサイパン上陸を前の侵攻が始まり、幾つかの小島で玉砕の報に悔しがっていたのだった。当時は観念的に誰もが愛国少年で、私も気張って背伸びして書いたのだ。山本有三の小説の題名ではあるが、この歳でこれを読んだ筈はないので、確実に、動員出陣学徒のものの又借りに相違ない。

文字通りには、何かのために命を惜しまないというところで、成語としては仏法のためだが、貴乃花は相撲道を言い、少年はお国に尽くす気持ちを書いたのである。とまれ7シラブルであって、多くの情報量を持ち、且つ4字という形に凝縮された活力を持っている。

たとえば、禅林の語句集など、いかにも無限大、無限量の意味を蔵しているかに見える漢字列(アトランダムに「一滴一凍」「照用同時」「明珠在掌」「裂古破今」など)に充ちている。一つには形(音を含めて)の持つ作用と、また過去より練り塗り重ねられたものの重さの力があるのである。俳句のような短詩形の誕生や生育に与るところであろう。等身大ではないのはもちろんだが、単なるミニチュアのままであってもならぬ。広い天地に展開させ得るのである。

山本有三の『不惜身命』は、主人公の十蔵が、ヤリ半蔵と呼ばれた勇者から武勲の祝いに古びた指物を貰うのだが、それに大きく書かれている文字である。戦があればよい、あの指物をさして出たいという十蔵を見て、柳生又右衛門は、「惜しいことに、あの男はまだわかっていない」という。そして自分一人の不惜身命の華々しさを越えた向こうのものを考えていないことを、彼に分からせる。一つ越えて多くの人命を生かす「惜身命」、その向こうの「不惜身命」、又その先にと高められ、段階を進むものだ。十蔵は以後そのように生きぬく。

少年島春は、字面だけで自分一人の生命と解して、標語のようにして書いた。時代の制約の中で尚、山本有三を読み、意志を持って生きる十蔵の姿に自分を置き、この語を選んだと思われる、おそらくは出陣学徒かの若者の心がいま見えてくる。

こうしてみると、新横綱の「堅忍不抜」の四字も、じっと耐え抜く意志が感じられる。十蔵の生き方もそうであった。兄弟合い通じるというよりも、俵で囲まれた狭い土俵が相手の、相撲道のあるべき姿なのであろう。短詩形にもつながる話である。

(平成十年七月)

 

 

為知己者為説己者

 

「青鼓逝く 目の前が五月闇とぞなりにける 正氣」から、はや十七回忌となる。偲べば、人の真価をよく知って下さり、その発露を心底喜んで下さったなと思う。人はこれによって力を揮うことが出来るのである。

『春星』は創刊から四年目に、雑詠選者の月斗先生を失ったが、太郎、凡水、涼舟、方樹の激励もあり、引き続き刊行された。『同人』は菅裸馬先生が継がれ、正氣の「長兄を父と頼みつ」で、裸馬選に拠った。

句の「師」は句の「誌」のことではないので、多少の、いわゆる殉死者は止むを得まい。それだけ先師の影が濃く被っていたのである。中にただ脱力したのも多かろうが、それぞれに句に復帰する。文芸や師風の継承とはこのようである。当時の『春星』は、その点でもレーゾンデートルを持っていた。

裸馬先生の今年が三十回忌だった。二十歳前の学生であった私が、夏休みの帰省前に、富士登山しての足を東京の隆一君宅へ伸ばした際、先生に、東上するが、七月同人句会の日取りではお目にかかれなくて残念だという葉書を差し上げたところ、思いがけず電報を頂いた。「アイタシ ラバ」の文面に驚いた。東京へ着いて直ぐお電話したら、アポイントして下さり、先生の宅で隆一君と一緒にお話を伺った。元の鉄幹・晶子居宅、旧『明星』発行所を寓居とされていた当時である。隆一君宅で粘って泊まり、耀堂(紫栖)さんの野鳩句会や渋谷句会、とうとう東京同人句会にも出席できた。

裸馬先生が没される前の年六月、長谷川太郎さんを失っている。三原市内を案内して、太郎さんとお話したのは高校生の頃だった。天才太郎と呼ばれていた長身のこの人に、私はずいぶん背伸びした。モーツアルトがお好きだと聞けば、レコードで聴いたりした。太郎選の無記名での課題吟では、よく特選に入ったものである。

私は三十歳代半ば過ぎで仕事も繁忙を極めていた。だがこの間見るべき句の寡少さは、お二人の没年前後ということを意識しなければなるまい。

月斗先生の愛弟子、これも天才凡水の谷村凡水さんは殉死組の一人である。純粋に句のわかる人であった。平成になって亡くなられたが、それまで『春星』をずっと護持された。凡水さんに採られると安心するのである。褒められて全面納得したのである。

平成三年、父正氣は、入院の直前まで枕頭で句会を指導していたが、死の三日前に、『春星』は島春主宰でと枕頭の私に言い遺した。私は当時句会を休んでいたが、それでも月々の句作は続けていた。これは父正氣と『春星』の存在による。

(平成十二年六月)

 

 

直立二足歩行

 

私は昭和壬申の生まれである。今年は正氣生誕百年に当たるが、父は辰年であった。よく干支で性格を云々するのに、龍と比べ猿はあまりにも人に似ていて面白みがないと思っていた。ところが、前回の申年に、立花隆の『サル学の現在』という分厚い本が出て、以前に「日本のの緑を守る会」に賛同したと同等の気持ちでこの本を開いた私は、肌寒いものを感じることになる。

サルの群れの野外観察に基づく啓蒙的な本だが、子殺しやカニバリズムの学術的な記述や写真は、一般向けにはおぞましい。だがそれは映画『羊たちの沈黙』のレクター博士の場合と同じことで、私のは、サルに対するヒトとしての近親感に、いわばやはり他人なんだという隙間風が通り抜けたのであった。

サルの群れの社会からヒトの営みを解しようとするのは、それが今や地球全体をも考える人間社会にまで発展したと見るからである。しかし現存のサルはちゃんとサル的に今もサルであり、ヒトはヒト的にヒトである。そこらあたりが難しいから、『二〇〇一年宇宙の旅』では、直立石(モノリス)が、或る日、或るヒトザルを選び取り、彼にヒト的な書き込みをしてヒトの成立に導く。

記紀歌謡に発する日本詩歌の系統樹は、現存の種として短歌、俳句、川柳のほかに若干の希少種がある。中国の詩や西洋の詩という外来種との交配を行いながら、現存の種は、それぞれ進歩を遂げて今に至っている。

詩歌の種の成立に当たっては、時代の中のエリートたちによって、何かが加えられ、何かが捨てられたのであろう。俳諧史的には、雑な言い方だが、現実生活に即して和歌的な何かを除外しての俳諧を経て、即物写生の方法で俳諧的な何かを除外しての、子規らによる現在種としての俳句が確立された。

講談社の『日録二十世紀』の昭和七年によれば、年初から上海事変の勃発や満州国建国への動きで日々騒々しいが、誕生日当日は、ぽっかりと、小学生の洋服普及目的の会ができたと載っている。いよいよ着物から洋服の時代となるのに、当時の俳句界では、一つの句では心もとないと、連作俳句というのが流行り始めた。

昨今も洋服姿の「詩」から「俳」への指向に変化を求め、写生派の俳句が捨てようとした滑稽挨拶とかが云々されている。力が萎えかけているのだと思う。

俳諧の発句からの独り立ちは、直立二足歩行によってヒトたり得て、言葉や保育などを特徴とするヒトが成立したのに類似する。俳句は、十七音の骨組みで、自然が味方の、水菜でも蚯蚓でも溝蕎麦でも水洟でも、ただそれだけでものになるというユニークな詩歌である。

(平成十六年一月)

 

 

大道無門 

 

「大道無門」とは、自在に歩いてもいいのだよということだろう。文字禅ともいえないくらいだが、言えば、この意味では、その『禅林語句鈔』にある「透得此関乾坤独歩」のほうが分り易い。この箇所さえ通り抜ければもうここからは、なのである。

私は、いわゆる趣味的なものよりも、専門的な取り組みを好む。そこで以前からお正月にと、中川弘さんに凧についての文章を依頼していた。創作凧を主に凧歴は二十年に近く、取手市の凧上げ大会で、一位の県知事賞を「立体ポスターつくば85凧」と「めおと折鶴凧」で二度も受賞され、海外展示の経歴もある。ところが俳誌には不適だからと固辞されるのを、勝手に、図や表や計算式やらを取り除いた上、更にページに合わせての省略という掲載で、申訳無いが。

井伏鱒二の短編に、汽車の席に隣り合わせた女の人が、目に入ったごみを取り出す名人で、紙縒りを作って濡らし、煤煙だけでなく瞼を反して隅々まで掃除してくれながら、微細な色糸の繊維なんか取り出して、あなたは昔若い娘さんの着物の膝に頭を乗せたりしたでせうがなどと語る話がある。読んで心安らぐ。この婦人は、目の塵を取るという一事で「関を透得」している。

匠と称される職人さんの、仕事以外のことは知らぬと言いながらふと漏らす言葉が、俳句作りの上でもぴたりと来たりする。一事が万事とは、単なる類推というニュアンスだが、関を透得するに至るというのは、もっと積極的な自己体験となるほどのものなのであろう。

それが何であっても、専門的にそれ一筋で特殊を貫通するに至るならば、その歩みは、いつの間にか普遍の場に出られる過程であったことになる。羅馬に通じる一つのこの道ではなく、これは千差万別の道を同時に踏んだことなのである。とびきり優れた藝術品に接したり、高度に学問的な人の話を聞いたりすることが、俳句作りの心を養うのもこのゆえであろう。

本来、道と呼ばれていることのあり方はこうだから、行きつくところまでに、暦日とは違う単位だが、時間を掛けて長い行程を践まなければならないようである。通常は、暦日に大きく遅れながら進行するか、立ち止まることとなろう。暦日と大差なければ上上である。そのように句に生きた老(老成)俳人の句の味わいを思い、光沢ある生涯を思うのである。

句一筋につながるのみというならば、すなわち大道無門は千差の「句」有るがゆえに、「自分の句」を生む一事の精進がその捷径である。『春星』のモットーの「句作第一義」にして「和而不同」に行きつく。

 (平成十一年一月)

 

 

芭蕉三百年

 

 この度富山奏先生より、義仲寺・落柿舎発行の「義仲寺蔵 芭蕉門古人員蹟」を賜わった。別冊として、先生の著「芭蕉門古人真蹟 その解題と翻訳・注解」か付されている。その真蹟を翻刻し、詳細な解説、注釈を加え、蝶夢による寛政元年版本との相違点を記されたものである。昨冬、芭蕉翁三百年回忌記念の出版であるから、蝶夢が招かれた寛政二年十一月の芭蕉幾百年忌から二百年、後世にとりこの翻刻はまことに意義深いことである。

 さて私は昭和十七年十一月十五日、伊賀上野市が開催した芭蕉生誕三百年祭記念全国俳句大会に、父正氣に連れられて参加している。何でも担任の先生に、時によっては学校の授業よりも大切なこともある、と父がお願いしたようであるが、その割に小学五年生の私の記憶は乏しい。あの荒木又右衛門の鍵屋が辻と、月斗先生が、ライオンと覚えている偉躯の藤田雷音らお供を従えて、それよりも堂々と、逍遥される姿ぐらいである。

 大会の選句は第一部ホトトギス、第二部同人、第三部馬酔木以下第七部自由律までに分かれての各選者が当たり、月斗選に「芭蕉忌や眼底の像蕪村筆 正氣」が入った。なお月斗先生は選者代表として挨拶して居る。また日本文学報国会俳句部会長高浜虚子の「時雨忌といふ言葉あれど 此人や時雨のみにて律する非 虚子」はこの時の句である。

 いろんな節目において芭蕉の名前が挙がる。生誕三百年「聖戦のさなかのこころの糧の展がりを」と記事にあるこの行事、冨山先生のご郷里ではあるが、当時の先生は海軍エリートへの途の時期かと思われる。大会に「白衣勇士の一団満場の拍手に迎えられ会場中央に着席云々」とある時代であった。敗戦後は、例えば大野林火が八月十五日以後一年間の俳壇の動向に、「子規以後俳壇の主流たる蕪村的なものを揚棄して、俳句をもっと人間にぢかに引き付けた芭蕉的なものへの志向…戦争中はいろいろな意味で歪曲され、不活発であった…が再び活発になりかけてきた」という一節もある。

 テレビドラマなどあって、みちのくも芭蕉を含めて昨年はブームであった。ブームというのも、俳人にとって意識付けには役立つだろうと思った。と同時に、富山先生が、新潮日本古典集成「芭蕉文集」の解説(芭蕉--その人と芸術)に意図して説かれたという四つの点の一つ「俳諧師芭蕉は、当時の職業俳諧師とは異質の、異端孤高の俳諧師であったこと」の、その「異端孤高」の語を噛みしめるべきであろう。昨今の世相にあっては、ほんものは、いわゆるメジャーの中よりもむしろマイナーの中に得られるように思える。

(平成六年四月)

 

 

固いものを噛む話

 

 六月に入ると歯の衛生週間である。噛むことの大切さが説かれる。最近は軟食の時代で、ご存じだろうが「オカアサンハヤスメ」という言葉があって、子どもの好きなメニューのオムレツ、カレーライス、アイスクリーム、サンドイッチ、ハンバーグ、焼きそば、スパゲッティ、目玉焼きの頭文字をつないだもので、あまり噛まなくってよいものばかりである。手軽で、誰もの舌に合うような味で、多くの人が美食を楽しんでいる。

 一度粉末にしたものを加工成形することで出来上った、調理の工業生産化によって、目覚ましい普及発展を食品産業界は遂げ、多くの人々の生活を豊かにしている。「ヤスメ」どころか、同じく頭文字をつないだ「ハハキトク」と呼べるようにしたのもあるが、「母はなくとも子は育つ」のである。飲食、甘食で、子どもの顎は昨今あまり使わないでもよい様だ。

 病人には、はじめ流動食とかか与えられる。いわゆる重湯で、舌を切られた雀が舐めたヤツである。これは箸も要らなきゃ歯も要らない。それから粥食、普通食となってくる。『春星』の読者は病人ではないので、口あたりのいいところだけ読んだり、耳ざわりのいいことばかり聴いてはならぬ。簡単に啜りこめ、嚥みこめる句ばかりに感心してはならぬ。余り栄養にはならぬ。

 ピーナッツの一粒一粒は甜めて味は感じられないが、噛んで砕いてはじめて味があることが判るし、そこでやっと嚥み込むことが出来る。歯あたり、歯ごたえのある句を味わうことが大切である。軟食、甘食に始めから慣らされてはならない。やっとで口へねじこみ、顎にこたえるような句にもこつこつとつき合ってみて頂きたい。するりすんなり出来た句は再考の余地があるか省ることだ。案外誰かゞ料理したものだったり、どこかの工業製品まがいだったりする。人の作らぬ句、人の作れぬ句こそが自分のものである。

人は何通りかの人生を持っている。俳人生もその一つである。他の人生のためのうるおいとか彩りとかに過ぎない句作ではあまりにも勿体ない。やり出したら続け、そして俳句漬けになることだ。俳人格を持って生きつゞけることだ。正氣師は、かつて田谷小苑さんの闘病生活を激賞した。『春星』作家のお手本とした。現在もそうである。数を競い、名を求めるのでなく、常に一句の主たるべく、食いつき易い句ではなく歯ごたえのある句を目指したい。昨是今非の句作でありたい。

手元に鉛筆と『春星』しかないので、いささか軟食傾向の文になった様である。これ迄の正氣師の言葉など噛みしめて頂きたい。

(平成六年六月)

 

 

「ベッド」上の句

 

 平成三年、正氣前主宰が最後に入院したのは七月初旬で、関西まで来て居られた青木旦さんが春星舎に見舞って下さったのはその三日前であった。入院後の句作は、留守中の土曜会の出句と、八月に入っては口述の心境の句であった。推敲を重ねていた。

 さて今、南向きの硝子窓で、新幹線がすぐ見上げる近さを駆け抜ける病室である。お出でになる誰彼に手元の『春星』を進呈すると、いやぁこれはどうも私にゃ難しすぎてと仰しゃる。「新聞に載ってる様なのは解るんだが」と云うことである。

見舞いにきてくれる句女史達に、正氣師のひそみに倣いお説教をと思うのだが、気道が過敏で声が出せぬ。ベッドで窓の空を見ているだけだが、上半分は新幹線架線が走る空で、下はそのコンクリートの橋桁が占める。これは病室の窓であって「病窓」ではないよ、句を簡単に「病」という色の眼鏡で眺めさせてはならない、俳句の目でつかむ、言葉としてつかみ取るとは、これを「病窓」と呼ぶことではないよと言うのだが聞こえたかな。

 変化を見せるのは空の色そして雲の去来、オール晴れ又はオール曇りの日の窓は困る。僅かに脳細胞にひびくのはコンクリート架橋の合間合間の空間に閉じ込められた「空」の小さな形。つまり「橋脚に閉じ込められし五月空」だから、「コンクリートの脚間綴る」「コンクリート橋脚間の」と無機、無季のコンクリートに拘ったが、

  橋脚の合間を綴る卯月空

としてもう止めた。言葉足らずは季語で紛らす。これはその日の、言わばプロの投手の「球のキレ」である。豪速球で押さなくても、打者の手元でボールが生きていて打てないのだそうである。でも今日はキレていないな。

 青空の雲は、雲量が多い日に、いつか水彩画で見た記憶の通りの青い隈取の青空があったのは面白かった。

  雲が連れ行く空の破片や苗代田

 術前は雲の往来がダイナミックだった。すべてが受け身の時間だったからだろう。やや大きい雲が窓の上辺へ被さるようにやって来ると、映画「スターウォーズ」の冒頭シーンさながらである。

  臥す吾へ飛び来し雲の腹は夏

 次々に小さな雲が来ては間近でぱっとはぐれて行く。

  その先で雲が爆ける竹の皮

そういえば「腹」とか「爆ける」とか無意識に出てくるものだなと後で思った。

やはりおかしなもので、同じ窓の空の色も退院が近づけば次のようになる。ただしこの手法は演繹である。

  窓の一面青いカクテル風五月

(平成六年七月)

 

 

改作添削欄のこと

 

 『春星』は初心者にとって厳しい俳誌である。量的にも三読に堪え得るから、読み返しつつ自得することである。投句数を多くしているから、選に入る入らぬを比較検討してみるのである。ただ選の見落としや勘違いもあろうから、どうかな?と思ったら再投句願いたい。

 俳誌にとって雑詠欄はその生命で、そのレベルは選者の力に関る。小部屋からも横綱は出るのである。『春星』の選は簡易な健康診断程度のものではない。一句組から五句組まで、なべて取らぬ句の存在を基調とする。取った句よりも落とした句に、選者は大きな責任を感じるから、相対的でも取らない句が、投句者のどなたでも必ず生じるという現在の形は辛い。いきおい一句一句に対して選者は入念に取り組んでいる。

 しかも取捨の基準は、人により、月により一定していないのも特色である。昨より今日を見て翌を願う場合もあり、翌よりも今日という人もある。翌を持ち続けるがためもある。数はもちろん価値であるけれども、手段でもある。実際、月のうち二、三句もまあまあ残す句があれば、これは本当は大したことなのだ。

『春星』はいわゆるカルチャー教室ではないが、初歩の方も自ら学び取る事かできるように、欄を設けた。

思えば、戦時中に俳句雑誌発行は禁じられていて、句を半紙に筆書きして選者の青木月斗先生のもとへ提出し、朱筆で改作添削の上返していただいていた。その私の最初の句稿である昭和十九年十月分をお見せする。

 ◎家の中で相撲を取ってしかられぬ

 ○弟と相撲を取って泣かせけり

 △組合ってけんくゎとなりし相撲かな

 ○水涸れし川の砂場で相撲取る

 ○父母の見て居る前で相撲取る

 ○敵艦隊を撃滅するや秋晴るる

 ◎遠足や案山子のそばで写真とる

 △行軍や木の実を食うて渇いやす

 △稲刈や蝗うるさく跳びにけり

 △障子破れて寒し野山の風の吹く

二重丸は大きく、そしてどの句にも丸印(△印は半丸)が付いていたし、また第二句には「これもよいが泣かしたので◎にならない」と、先生は温かい。しかし第八句の『跳びにけり』を『跳びつきぬ』と、初歩とても基本の「や」「けり」の誤りは正されて居り、第七句、第十句は、それぞれ「かしこすぎる」「上手すぎる」と、中一の私が『渇いやす』『破れて寒し』なんて借りものの言葉で、少々背伸びしてるのを、きちんと戒められている。

厳しくそして温かい俳句道場でありたい。

(平成七年十一月)

 

 

ニシキソウ・ハマスゲ

 

雑草もそうだが、雑誌の雑は種々雑多の雑で、同じ印刷物でも本は基本の本という感じがあって、俳句雑誌という文字面はあまりよろしくはない。雑誌と本との違いは、頁数や製本での表紙の厚さや綴じ方など、物理的なレベルのことになる。繰り返し読んだり、廻し読みしたり、そのための保存ということに対して、本は堅牢な作りでなければならないから。

また本の一冊の内容が単一なのは、保管場所から取り出す為の整理に有利である。敗戦前後の食糧難で、玄関先から庭まで、家か畠か、土さえあれば南瓜を植えたのを思い出すが、本もミックス状態は困るのである。

その時期、路傍の雑草の中でも選ばれた何がしかは食用に供された。果ては、鉄道草も食えると言うのだ。鉄道草とは、帰化植物のヒメムカシヨモギで、八分の三の葉序を持ち、廃墟にも逞しく繁茂する。さすがにこれは食した憶えがない。

もっと下?のランクに、食えもせず、元気と根気は十分で、人に関わらないか、又は困らすことに徹するという雑草がある。名前は図鑑で探し当てたばかりだが、どこにでもあるニシキソウとハマスゲを挙げる。

幼い頃の私は、所在無い日の独り遊びも得意だった。裏の離れに空地同然の庭があり、雪ノ下が生えた小さな池や、紫苑や矢車草も憶えているが、以前に記した屋根のツメレンゲ同様、烈日下の固く乾いた庭隅の土に縋りつく、小草の生活力のほうが気を引くのである。

ニシキソウは、地面を匍う網目状の紅い茎と緑の葉とでその名があり、帰化植物のコニシキソウがその葉に赤褐色の斑点を持つことで、分類される。このたび町内の路地や墓所など散歩してみたが、斑点がないものも少しばかり見つかった。茎を摘むと乳液が垂れるので、幼い私は、手の疣取りにせっせと塗ったものだ。

穂の茎が三角、から検索したハマスゲは、僅かの土に葉を茂らせ、引っ張って抜こうとしても地上でちぎれてしまう。それならと指先でほじくると、必ず小さな黒褐色の塊の根が現れるのが面白いのである。これが香附子と呼ぶ漢方生薬だとこの度知った。

と、トリビアな話になったが、私は俳句は雑誌の中のが好きだ。雑誌の属性である定期刊行ということでいえば、『春星』という同じ空間の中で、何月号という同じ時間を共有するという思いがそこに生じる。雑誌の雑詠欄は、たとえば生活空間のざわめきみたいに、句たちが寄り合い息使いが聞こえるという感じがあって、いい。

 ニシキソウコンクリの罅綴りけり

 舗道より噴きしハマスゲ穂を点ず

         (平成十五年十一月)

 

 

大きく強く撞く

 

少年、青年と続いたので、前号は壮年乃至は熟年が来るところだったらしいが、気が付かなかった。いずれにせよ、全知全能のゴッドには頂上が存在するのだが、われらは、ただひたすらに生涯かけて高きへ登り続けて行くしかない。

われらは、われらの小暗き山で、その歩み亀の如くである。引きかえ、昨今は多才多能の士にしてさえもが俳句を作り、身構えも身捌きも鮮やかにぴょんぴょんと、向こう山の展望台を見上げれば、はや涼しげに手など振っている。ところが本当は、各自の頂上は、限りなく遥かで見るべくもないのだから、見比べているのは、完成度ではなく、プロセスでの遅速の問題なのである。

咋是今非ということからすると、難なく駆け上がってペナントを打ち振る快哉の前に、なおも苦労して窄き路を求めて奥へ踏み入らねば、歳月は待ってくれない。安心の境地は未踏の頂上近くにあるだろうが、これを俯瞰できるのはゴッドだけである。

「鐘は大きく、強くつく事である。大きくつよく撞けば、従って殷殷嫋嫋の余波が行き渡るのである。初めから、弱く鳴らしたのでは駄目である。」と、月斗師は言った。極めた筈である境地は頂上ではない。名を挙げて腰を下ろしたのでは、頂上を望む楽しみを喪失してしまう。要はたゆまぬ意欲である。

プロセスで、俳句は標語ではないのだから、難解でも結構だ。一読してわかりやすいことが大切だとは思わない。「春星作品」の一句は一つの視野で再読三読できるのである。日を置いて読み返すこともできる。炒り豆のように唾液で潤びるのを待つのもよい。

プロセスで、俳句は子守唄ではないのだから、アメニティも必要ではない。「春星作品」は、小声の囁きや呟きにも似た、気安らぎ心温まる句ばかりでなくていい。舌にざらざらぴりぴりしても、短詩型のことだから辛抱できる。薬味で食欲が増すというものだ。

顔立ちの成育は三次元的に均一でないから、年少の頃から小ぢんまり整いすぎては向上しようがないように、早くから安住しないことである。座り心地をよくしないことである。正氣師は、句会の互選に出した句が誰にも択ばれないと、その明解さをもう一度推敲した。反対に誰にでもとんとん択ばれた句は、既に今非の句であるとしたのだろう、やはり作品としては取捨した。

他誌と異なる「春星作品」募集規は、ホームラン競争用の投手のように、五句で五句打たせる球筋ばかりでなく、選者を惑わせ悩ませる魔球を交えることができる仕組みでもある。

(平成十二年十月)

 

 

『三冊子』に思う 

 

 前号を以って、平成二年二月から五年余に亘っての「『三冊子』私見」と題する、冨山奏先生の『あかさうし』の部全文の御講義を修し了えた訳である。先生のご労作『校本・三冊子』(昭五八)に拠る文中の原文は、定本として価値を有し、丹念に耕された厚み深みのある御見解は、実作者には相応の学びがあったことと思う。進歩に従い再読されたい。(なお『わすれ水』の部については『四天王寺国際仏教大学文学部紀要』に「『三冊子』に見る芭蕉句解」として御発表されている。)

ここで、先生の第一回の稿より引用させて頂くと、芭蕉の俳論の特性として、「常に、或日或時或所で、或条件下の或門人に、或条件下の芭蕉が、或意識・意図のもとに語りかける対機説法であった。そして、この重層するところの「或」は、すべて特殊の性格を担っている。且つ、更に重大なことは、この「或」の特殊性は、消極的に指導の条件設定であるに留まらず、時には、積極的に、この「或」の特殊性が主導者となって、敢えて芭蕉をして厳しい指導の言を吐かせている場合が、少なくないことである。これは、芭蕉の指導か、あくまでも作者としての制作方法論であり、創作理論であって、客観的で体系的な科学理論の講壇的解釈、ではなかったからである。換言すれば、芭蕉の指導のための論は、常に具体的な個に密着した理論であった。従って、個の特殊性から切り離しては、その論の真意は理解困難であり、恣意的な曲解に走る危険性がある。門人たちの筆録した芭蕉の俳論を網羅的に調査し、帰納的に結論を抽出しようと試みても、相矛盾する記述に逢着して成功せぬ理由の一端は、このような事情に由来するのである」と述べておられる。

岩波文庫の小宮豊隆、横川三郎編『芭蕉俳諧論集』(昭一四、再昭二六)は、芭蕉の言を、心、「風雅」「不易流行」「虚実」など十の項目に、苦心の分類がなされてあるが、キーワードによる索引にはともかく、俳論として混乱せず読み得るものではなかった事を思い出す。実作者は、対機説法の真髄に迫るあたりを読み取り、師弟間の呼吸をそこに感得せねばならぬ。

 俳句雑誌が対面関係での切瑳の場であるとすると、経営効率とは異なるのは残念だが、おのずからその規模において最適度の人数がある。これを越えると、相撲部屋のそれの如く、相対し得るだけの力量ある人材の数を必要とするだろう。

 『春星』はこの五十年、俳句道場としての規模で、対機説法の内容で、正氣師の唱える「和而不同」「作句第一義」をモットーに精進してきた。これは芭蕉の道に通ずるものと信じている。

  (平成八年六月)

 

 

緊張した作句態度

 

 月斗一周忌記念号の『同人』に、菅裸馬先生の「月斗学」の一文があり、「解と評」が始まる。先生は優れた作り手であると同時に目利きであられた。「同人俳句」選の大胆な取捨の在り様と相俟って、裸馬『同人』の方向付けとなった。

 「解と評」は、雑詠選の中から、さらに幾つかの句を取り上げて語られたものだが、これで継承と発展の姿が明白になる。当初は、安田万十さんが一句組のはしばしにまで逐一吟味して書き抜いた句がもとになった。展望ではないこの抽出の作業があったことで、肉付けされた理念の表明が可能となった。

 グルメ番組で目を白黒するだけの感想も困るが、鯛か鰯か天然か養殖か、材料の評価で終わっては、料理とはなんだろう。句評で、作者の境涯や作中の事物がどうこうという、裏打ちだけに終始するのでは詮無いことだ。それでも、句に即し「解」を加えることで、変化への抵抗勢力も納得できるのである。

 「評」は、素材ではなく表現、料理の腕前についての評価であるから、これは技術批評になる。煎餅や饅頭は今の世の中ではどうとか、煎餅や饅頭を好む人はどうとか、評者が脇から言うのは余計なことで、風靡したティラミスやナタデココの呼び名はもう古びた。

 個性的・一回的であることを価値とする現代俳句が、結局はスタイルの流行という形をとってしまうのは、類型性こそが俳句の特徴なのだからだろう。

 再演芸術の極限である能について、高橋義孝氏が、演者の自由を欠く、面で個人を消す、動作も型、内容の類型性の点を挙げられ、人がそうした類型性に興味を示すのは、「未知のものに出会うのではない。百年の旧知に出会うのである」というくだりは面白い。

 新しいものやことが持て囃され、追い求められるが、一回的・個性的なるものは、あたかも静止が運動の一つの状態に過ぎないように、俳句の類型性と対立するものではないことが解る。

だが、百年に通じる句を目指しての、型に嵌めた句、つくねいも山水、伝統的、繰り返し等々の中で、恒に高い精神性を保ち続けるのは、戦中戦後に立ち至ってからの月斗派の句を見るに、凡人には至難だなと思う。

 裸馬先生は、小器用に間に合わせた句、浅瀬でぼちゃぼちゃやっているような句でなく、緊張して取っ組んだ句を評価された。正氣前主宰は、まだ誰も作っていない句に苦心した。発明は無理としてもせめて新案特許の句をと説いた。力を抜くと澱む。

佳句は寝て待つものではない。

(平成十六年七月)

 

 

むかしを今の 

 

宮中歌会始の御題は「道」であった。天皇様のお歌は、

    大学の来し方示す展示見つつ

      国開けこし道を思ひぬ

と拝する。

過ぎ去った事の展示は、月斗先生についての資料など、懐旧の情のみをもって、また史的な興味ある事例として見るべきでなく、続く道の、これから前へ開く歩み方として受け止めねばならない。句の生涯を生きる者のありようとして、また内容的に、米の味、酒の味、茶の味のように、俳句の「味の伝承」としてである。

一大学の事蹟を温ねて、学問とその成果なるものを想うように、遺されたものを尊ぶは、先生個人への敬仰ではなく、句を学ぶ、句の道に繋がる者として、そこに「師」を観ずるとするのである。

母もの俳句、孫もの俳句が、個人のそれのいわゆる日記俳句にとどまってはならず、普遍の「母なるもの」「孫なるもの」に通じなくては、作品とはいえないように、特定の師としてではなく、その外形的な句法や句風だけを学ぶのではなく、師弟の道そのものを、句の伝統そのものをそこに会得するのである。

蕪村はその師巴人の三十三回忌に際し、「ある夜危坐して予にしめして曰、夫れ俳諧の道や必ず師の句法に泥むべからず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるが如く有るべしとぞ、予、此一棒下に頓悟して、ややはいかいの自在を知れり」と、師の思い出を述べている。これは正氣前主宰が月斗忌句会で師弟のあり方について触れた部分でもあった。

人は家族という集団を作る。元来、人間は動物の中でも、生まれてから一人前になるまでには、永い期間に亙って保護を必要とされるのであるから、その集団は、両親と子供という単位の形が本源的である。そして家族の形は家として次代に継承され、存続して行く。俳句作りの道もやはりずいぶん月日が掛かるようであるので、そうした形に似てくるのも当然なのかもしれない。短詩型の持つ特性であろう。句の道を思い、句のはらからを思うのである。

この道や行く人なしに秋の暮     芭蕉

野路の秋我後ろより人や来る     蕪村

橋越えて淋しき道や冬木立      子規

三十年この道遠き子規忌かな     月斗

真直に行くが為めこの道の寒さ    裸馬

春星を殖やしつ大き道を行く     正氣

怱怱のうちに手許で探ったが、「道」という文字として記しておく。

 (平成十年二月)

 

 

俳人列伝

 

俳人、を字引には「俳句を作る人。俳句を巧みにつくる人」とあるが、どうもこれではしっくりしない。人生の補助ロケットたる趣味や余技ではなく、俳句に生きる人、俳句をメインロケットにその推進で生涯を翔ける人をいうべきだろう。

こう俳句人口が増加した現代では、商業俳誌が成り立ち、近世の俳諧師のように、資質ある者は、講演や執筆をも加え、業として俳句で生きることさえ出来るが、ここで俳句に生きるというのは、生計の手段のことではない。俳人とは、句が外界にあるのではなく、句を身内に蔵することで生きているのである。

戦前、月斗先生は、俳句に生きて、家業の青木薬房を潰してしまった。俳句に生きる人は、うかれびとの覚悟を要した時代であろう。道修町からの転居のいきさつは不明だが、「追われてここに移り」の文字を、亀田小蛄がある葉書に見つけている。

正氣前主宰の若いころ、俳句は本業、歯医者は専業と称していた。家族としての眼からして、俳句に生きる姿は並たいていではなかった。死の直前に言い切った、俳句を作り始めてより以後「一日の休みなし」の言葉を、私は保証する。

「田を作り、詩を作れ」である。売れない詩を作るには、田を作り糊口を凌がずばならない。天才肌の谷村凡水の句「行秋や金をあなどる独り者」に対して、月斗先生曰く「凡水よろしからず。金汝をあなどるを知らずや。」とある。又ある人が凡水の生活ぶりに口を出すと、彼は「詩は薔薇(さうび)たつきは何と申さばや」の句で応えた。食えぬばらの花で生きられる凡水は、まさに人でなく俳人である。

丁寧な筆跡で俳句を欠かさず寄せられていたから、栗原季観さんが八月に亡くなられていた報せには愕いた。私が生まれない前から、月斗選を受け父の句会に出ていて、『春星』の最長老であった。

大観は絵だが、季観は句のわしが欲しいぐらいだと言った正氣の命名である。国鉄の機関区勤務だった。勤務帰りに立ち寄っては、題を課されて句を作っていた。幼い私は仲良くなって、萩の寺の子規忌に父と私と三人で行った時の私の生意気ぶりは、後によく聞かされた。切符が要らないから市電代だけで、大阪の月斗庵へ使いに遣られ、先生または家人の、よく来た、で満ち足りたという話も聞いている。

最後まで、投句は原稿用紙に一題の題詠二十句を貫かれた。また句は面、胴、篭手の基本の形を崩さず終始された。なみなみならぬ俳人である。

(平成十四年十二月)

 

 

ユートピア

 

終戦直後の枕崎台風による水害に遭い、商人安宿の古看板も残る路地の家に当分移り住んだ。そこを譲ってくれた人の息子さんが、親御さんに似合わずといってはいけないが、俳句を作っていた。二十代半ばの短い間のことで、戦時だから、病を得て療養の身であったらしい。終戦前に亡くなられていた。

父がその蔵書の売却を頼まれたが、ほとんどが哲学の本だった。我が家に山積みされたのを拾い読みした中に、揃いの「世界大思想全集」(春秋社)の一巻、カンパネラ『太陽の都』とトマス・モア『ユートピア』とベーコン『ニュー・アトランティス』がある。その表題がストーリー風だったから読んだのである。

ユートピアは、文化的に、質素で快適で安穏な集団生活を営んで居る理想国である。共同でする労働は自給生活のための農作業と手工業が主で、消費も共有し、あとの時間は芸術、科学の研究や音楽などに充てる。後の武者小路の「新しき村」などの原型であろうが、中学生の読み方だから、単に牧歌的に、ユートピアという言葉を私は温めていた。

牧歌的とは、当時の読書でいうと、独歩『武蔵野』やツルゲーネフ『猟人日記』の自然描写が与えてくれた快美さに似る。この意味では、ポーの『アルンハイムの地所』は、途中の景観の描写だけで、人工と自然とが融合する楽園の存在を想像させて、これに近い。

ユートピアは、大陸から離断された三日月型の島である。島という空間にある浮世離れした感じは、海水による隔絶のせいである。中里介山の『大菩薩峠』は、駒井甚三郎が無人島に上がり、お松と理想郷を築こうとする「獅子林の巻」(昭十六)で終わるが、太平洋上の孤島だから、以前のお銀様の胆吹王国よりも具合がよい。

戦中の明け暮れを、死に至るまでの病床に臥しておれば、人の世の隔絶感が募ったことだろう。この哲学青年が、鹿王という俳号で、昭和十八年の『俳句道場稿』に六句を残している。終わりの二句を挙げて置く。

霜の橋手袋一つ落ちゐたり      鹿王

人が踏み牛が踏みたる落葉哉     同

短くとも俳句の小径が彼にあったのは良かった。陶淵明の『桃花源記』は、昔戦火を避けた民が世を絶ったままに住みついた平和の郷の話である。この場所は、行くほどに桃林の奥は「山有小口、髣髴若有光」、入ってみれば「初極狭、纔通人。復行数十歩、豁然開朗」である。人にとって、髣髴たる光の存在はいい。纔かな通路が癒しならば、里人は人間ぎらいではないのである。

それにしても、生の証しは数句で足りることを思う。(平成十六年二月)

 

 

俳句ぢからで

 

 戦後は学制がころころ変わって、旧制中学四年のときに上級生が作った校友会の俳句班(角光雄君や亡き木下隆一君もいた)は、校舎は別で男女共学という新制高校三年になったとき、国文学班と合併して文学班になり、俳句の場を残そうと私は班長をした。

 文章と詩歌と研究の雑誌を作った。予算がなくて自分でガリを切って刷った。『ひびき』という誌名は分校(女子)の意見である。表紙絵に滴萃描く雷さんを使ったが俳句的過ぎて、次の号は近藤麦奴さんに頼んで草に坐す若人にした。第一号は全部売れて、次からプリント社に頼んだ。受験前となり、最後の号は女子に任せた。

 進学して二年間は、手当たり次第に本それもフィクションを濫読した時期である。文学でも実存とか不条理とか云々されていて、朝鮮戦争が始まり、現代ものでいえば、いわゆる第一次戦後派が経過しつつあった。

 慶大国文の隆一君の机には、当然『三田文学』があった。木々高太郎のサドの翻訳を記憶する。もっと後だったか、光雄君と久しぶりに会ったとき、大岡昇平の『野火』のことを聴かされた。私は読んでいなかった。どちらかというと野間宏や椎名麟三だった。

 私の武田泰淳は、別冊文春の『第一のボタン』がSF風だったからで、私の読書ったら、幼時の海野十三『怪鳥艇』や高垣眸『まぼろし城』を引きずっていたらしい。で、遡って『蝮のすゑ』『夜の虹』と読む。

 真鍋呉夫は、隆一君が昔この芥川賞候補作家の名を挙げた記憶がちぐはぐで気になっていた。その後、俳人として名があるようで、「雪女ちょっと眇であったといふ」「花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく」といった文人俳句的な軽さは、その創作との違和を感じたが。

『異物』(昭三三)を古本で入手してみたが、戦時大陸ものでどぎつく、隆一君には外れだ。その扉に、筆書きの「秋空に人も花火も打上げよ」と署名を見つけた。父親が筑豊の俳人真鍋天門(蓼水)で、天門は『同人』にも拠り、暫く水門楼に住んでいた時期がある。「呉夫君が五、六才位」(王樹)であった。

懐旧が長過ぎてしまったが、その『第一のボタン』に「夏痩セヤシタタカナ猿ニクラシキ」、「雷雲ニ冷ク笑ウ白キ猿」の五七五がある。作中で、労働者に改造された猿の飼育係である老人が、日々が物憂くて「俳句でもやっとらにゃ」と手帳に記した句である。飼育係は新猿にも蔑視され、疲れ切って厭世的なのだ。

思うに、冷笑も出来ぬ弱い老人とはいえ、俳句力のほうが生存力を引き上げることはいい。文学も生存も、俳句のほうへと衰弱してはならない。その逆である。

(平成十七年十一月)

 

 

慶応三年生まれの文豪

 

 昭和四十一年三月に、上野・松坂屋で、生誕百年記念「四大文豪展」紅葉・露伴・子規・漱石 が開催された。文豪とは、質量共に優れた文学作品により時代を導く力と格を持ち得た者である。小説家、それもノベルのほうで、多作でやはり長生きというのが文豪の語感だが、子規にはこの呼称が肯える。

正氣は、この催しに、編集委員の福田清人との縁で子規の幅を出品し、末娘千萬子の卒業式に兼ねて上京した。福田が呼びかけ、楠本憲吉、池上浩山人、塩田良平と会食したが、後に憲吉は、正氣を俳句の三原の奇人と、何かに「奇は大可なり」のことを書いた。

四文豪は文学活動の形とその質、時期とその年齢をやや違えながら、同じ慶応三年の生まれである。生まれ月では、漱石(一月)・露伴(七月)・子規(九月)・紅葉(十二月)の順になる。俳句を始めたのは、子規・紅葉相前後し、少しして露伴、漱石だろうか。

子規に次いで翌年に紅葉も没したのだが、人生の長さで、子規のほうがよりデジタルに短く感じるのは、その活動期の大方を病に臥していたせいだろう。茂野冬篝は自分の肺結核療養の研究から入り、病者子規を論じた。「子規全集廿一巻は仰臥漫録二綴に及ばず、彼れを丈六の盧遮那仏とすれば、これは一寸八分の黄金仏だとさえ考えている」と、彼一流の言い回しで子規の「不屈の病魂」を讃仰した。のイメージである。

 ひとり露伴は、子規より四十五年長生きして、昭和二十二年に没した。私が一緒に暮らしていた祖父は露伴より五年後の生まれだから、当時中学四年生の私の生活感で、今これを子規に置き換えて私に即するに、にわかに子規を身近に覚えて不思議である。

露伴の最後の著作は、国語の発音と表示についての『音幻論』(昭二二、五月 洗心書林)で、露伴述とあり、戦中戦後の口述筆記らしい。序文に、戦災に遭った「小石川の舊書斎の硝子障子の上に、墨で、天台畫巻、竹鹽論、八荒箋、夫白侖、音幻、邊中、刃祕、雪兎、長春西遊、アイルラット、荒离、祈、善才、天真一目、香、單、等の文字をしたためて置いた」ことを記す。

他日書きたいと思う条条を羅列したものである。その為の「材料蒐集の目安書のやうなもの」「謂はば余の未来の著書目録を並べたやうなもの」だという。八十歳の露伴は、その中の音幻の二字に当たるこの著発行のちょうど二ヶ月後に長逝した。

路が平らになった所を頂と思ってはなるまい。気を抜いてはならぬ。足を止めてはならぬ。生きているとは続いていることであると自戒する。

 

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 (平成十七年九月)