松本正氣(まつもとせいき)略歴
俳人。本名正喜(まさき)。明治三十七年三月二十七日長崎縣諫早市に生まる。父松本龜市(昭和二十五年沒)、母ミツ(大正十四年沒)の長男。四人の妹あり。昭和六年渡邊つゆ子と結婚。男島春、男兒、文武。女みえ、千萬子。昭和五十年頃より腹部疾患あり、九年後再發。術後は外出不如意のため、在宅にて俳句指導に當たる。同六十三年頃より肺氣腫にて靜養。平成三年七月入院、八月十四日午前八時二十分呼吸不全にて沒す。享年八十八。辞世の句「みやびなる八十八の花火哉 正氣」。淨樹院釋春星居士。墓は東町善ヘ寺。
大正十一年長崎縣立大村中學校卒。同十五年九月大坂齒科醫學專門學校卒。昭和二年四月諫早市本町に齒科醫院開設。同四年廣島縣沼隈郡島村(内海町)、同八年三月三原市東町大橋際に轉ず。同二十年水害に遭ひ湧原に移り、同三十年東町四百九番地の現在地。この閨A三原市齒科醫師會會長、廣島縣齒科醫師會監事、代議員會副議長等歴任。
俳句は、大村中學校在學中の大正九年三月十三日より始め、以後死の直前まで句作に一日の休み無し。書は特に師に就かざるも能くす。古短册を蒐集、碁、茶、煙草、水泳、後に庭いじり、写真。テレビは大相撲。晩年は旅行を好み、北村西望翁と同行屡す。モットーは不易流行。健康法は俳句艶i。
大村中學校にscC人、野中丈義、市川火、赤司里鵜などあり、誘って句會を興し、小俳誌を發行。大正十一年三月號「ホトトギス雜詠」に入選。同年冬長崎來遊中の木月斗の句會に出席、木月斗主宰の『同人』に據り、生涯の師とす。若き異色の作家として注目され、昭和十一年七月『同人』選者に推薦さる。『春星』主宰。
主宰し發行した俳誌として、現存の最も古き昭和二年『句鐙』より、『夕立』、六年『魚島』、八年『滿星』、九年『櫻鯛』、十年『若魚』を經て、同年五月『櫻鯛』を發行、ローカル色を發揮。十五年九月内務省により戰時廢刊、通信句會の形で謄寫して配布。昭和二十一年七月、雜詠月斗選の『春星』初號を發行、現在に至る。
俳號は、中學生當時は數ヶ月で改號。「筍外」「赤甕子」など。大正末在阪の頃より本名の「正喜」を名乘るも、昭和十一年「死灰」と號し、昭和十三年より「正氣」(せいき)と號す。他に「春星舍主人」など。
自身の句集文集は、師月斗の「尚ホ今非明非ヲ恐ル」に倣ひて、生前これを持たず。句碑としては、諫早社中による上山公園の正氣、里鵜、丈義、火の合同句碑、三原瀧の宮~社に七回忌を前に建立した「夕立雲」碑。また春星舍の庭に「庭手入」碑。
正氣俳歴 晴雨日へ
三原滝宮神社句碑
(瀧宮)夕立雲八雲路山に現はれし 正氣
春星舎庭句碑
水打って昨是今非や庭手入 正氣