正氣の句・解

松本島春

 

一枚の秋水すべるーかな

 

  「春星の間」に今掛けている短冊の句である。字数が少ないこともあり、この句はたくさん書いている。自身の短冊というものは手許には置かないから、正氣の短冊は、あまり家には残って居ない。
 峡中の流れの底は岩盤で、一枚ガラス張り戸ほどの水の板が、巌の表面を滑降する。滾る白さはない。感覚的には鏡面のように黒々と澄んでいる。
 季寄せや歳時記などに収める例句が季題解説の一方法だとすると、このような、精製してその季題が持つ属性を明らかにしたかたちの句が相応しい。正氣は、そうした句を短冊に遺しているようだ。
 昭和四十年の作。孫達と共に湧原川の上流の谷間に飯盒炊爨に出かけていた頃である。

 

  

わだつみの日向日陰や秋の風

 

海原を大観した句である。秋風遍く満ち、海面の日当たりの部分と日陰の部分との明暗の差が、くっきりと浮かぶ。
 『同人第三句集』(昭一七)の所載であるが、大正末年頃の作である。正氣は、月斗先生による結婚祝句が載った『同人俳句集』(昭六)には出句していない。三年後の『同人第二句集』にこれまでの中から吟味して出句し、その正喜(正氣)の句は当時異色と称せられた。掲出句は、二十歳過ぎたばかりの句としては完成している。録すべしとしたのであろう。
 「わだつみの」は大いなるものの存在するところで、「日向日陰」はその意の顕れである。「秋の風」は「身にしみてあはれをそふる」でなく、秋高澄明の感。 

 

 

 

二階から厠遠しや冬籠

 

大橋々畔の住まいの句。この八ヵ月後の昭和二十年九月十七日深更、枕崎台風による湧原川の氾濫で、橋が落ち、家は大破した。

二階へ階段を上がると待合室、治療室、技工室があり、それに句会で使う床の間のある座敷もあった。毎週土曜夜の句会では足らぬと、夜八時九時の診療が終わる迄に、俳句の連中がやって来て、題を課されて頭を垂れていた。「二階」は句業一如の場であった。

俳句と仕事のほかは、白衣を脱いでの寝食などの生活時間である。一階のそうした生活空間を抜け、風呂場と便所は、中庭を巡って離れへゆく縁側のところにあった。軒に手洗器が吊られていた。
 生身ゆえのことのおかしさ。「冬籠」は俳句を擁しての篭城である。

 

 

 

乾坤に桔槹うごく若井かな

 

元朝第一番に水を汲み取る井。暁闇を衝いて動く桔槹は、撥ね釣瓶で、横木の一端に石の錘を括り、その重さを利用して、も一つの端の釣瓶を上げ下げして水を汲み上げる。今はまったく見かけなくなった。
 その上下する方向を「乾坤」と見たところに淑気が漲る。キツやコウもめでたい響きである。
 「歯固や三十二枚揃へる歯」のように、新年の季題は、いわゆる人事ではなく祝事として扱うのでなければ、単に冬季に含まれる特殊な行事になる。
 昭和二十年作。月斗俳句もそうだが、当時正氣が目指していたのは、作者の署名を要さない句という句境ではないか。

 

 

 

壜の死胎児寒し女のしるしある

 

昭和七年の連作より。冬ざれた標本室の風景。発表当時の『同人』では異色の作者と目された。
 月斗は、「死胎児など句の材にもならないものを、変り種のこの作家は大胆にものにしてゐる。女のしるしあるは微妙だ。「壜のうちに来る春は無き汝はも」「寒さ如何せん()が親鬼ならず」鬼気の迫るものがある。殊に若い人達は声を揃へて礼賛してゐる」と記した。
 素材は奇であるかも知れぬが、表現は確かである。月斗先生の選に入ったということで、安んじて皆が言挙げしたのであろう。まことの選者の選とは、これを通過すると、その句を高きに置いて、力を持たすものであるといえる。

 

 

 

月斗忌や不肖の弟子の慕情切

 

昭和三十一年、八回忌の作。

月斗忌や卒業の長子と展墓せむ

三原月斗忌島春男兒居ず淋し

がある。弟の男兒が早稲田の文科に入って上京。私は国家試験を終えた後、家業を手伝うため、枚方から三原へ帰郷の予定であった。

前年の七回忌は、親子で金福寺参りした。久しぶりであった。私の献句の「月斗忌や父の大声子の小声」が、熱っぽく師を語る父の日頃を知る、参会の皆さんに受けた。

師への慕情は、不肖の弟子ほど切なるものがある。父は修忌を毎年欠かすことはなかった。父にとって最後の三原月斗忌は、桜が咲いて車椅子で外出が可能な四月、正氣の米寿の祝いをも兼ねて開いた。先生と天上でお会いする四ヶ月前である。

三原月斗忌は、その後も欠かすことはない。

 

 

 

花の酔覚めたそがれかかはたれか

 

「たそがれ」は暮れ方の、「かはたれ」は明け方の、人の顔も見分けがたい時分をいう。「花の酔」。花見酒に浮かれた気分から、やがて、周りの薄ぼんやりした感じに酔いが醒めてくる。懶い春。
 実はこの句は、平成三年、つまり没年の作なのである。ここ数年来、進行した肺気腫という病苦に悩まされて居り、「夢のように日が経って行く。非常に忘れっぽくなったからであろうか。今日が何日であるかは毎日忘れる。一日に何回も忘れる。あまりに疲れたからであろうか」と、事実、昼夜夢うつつの界を、酸素を加えた苦しい息をして生きていた。
 それを、「花の酔」として句に遊んでいる。句にかけてはまさに大丈夫としての生であった。

 

 

 

菖蒲湯や三人の吾子玉垂らす

 

昭和十六年、すでに戦時色が濃く、会心の作である。「三人の吾子」は島春、男児、文武の男三兄弟で、妹みえ、千萬子はまだ生まれていない。

当時の風呂場は、薪で沸かす鉄釜方式で、浮かした底板を踏んで湯につかるのだが、子供一人の体重では底板が沈まない。勢いつけて底板に乗れば、渦で菖蒲の束がくるくる回る。

ぷかぷか浮かぶ菖蒲の束を船に見立てて、手元の軽石を底のほうから狙いをつけて放し、うまく当てられたら魚雷命中だ。掌が皺だらけになった。

 

 

 

南瓜の花の官能露に覚め

 

昭和二十六年作。

戦中から戦後にかけての食糧難の時代は、屋敷内の庭はもちろん、家周りの路地や川原、今は総合病院になっている近くの市営グラウンドも、スタンドの芝まで掘り返されて畑となった。

土地は、隣組から各家庭に小分けされて、朝夕家からバケツで水を運び、小麦、甘藷、南瓜、茄子、トマトなどを植えた。

南瓜は葉を茂らせて、逞しくそこら中を覆い、這い上がり、多くの大きな眩しい黄金色の花をつけたが、その当時は、花は実が生る前の予告としか見なかったのであった。

やがて、南瓜が腹を満たす準主食の座から退くと、街中では南瓜の花は見られなくなり、正氣もあまりの南瓜に懲りてか以後まったく食べなくなった。

句は、その菜園の回想であろう。すでに南瓜の雌雄の花は、情緒でなく官能と映る世相であった。

 

 

 

炎昼に涼方寸の黒揚羽

 

昭和二十九年の作だから、水害後、まだ善教寺の裏の路地に住んでいた。八月、子規門の中野三允老が見えて三泊。春星社の肴と酒と茶の三つの良を「三原薄暑良き茶良き酒良き肴 三允」と賛して、「三良庵」と命名された。現在地に移ったのはこの翌年である。

その玄関の前は、生垣の向こうが小さな畑地で、梅雨時には赤い爪の蟹が這い、草ぼうぼうの隅に、近くの川から来たのか夥しい数の豆蛙が跳ねたりした。

炎暑の頃は窓を開けて風を入れた。路地の中は強い光で満ち、青い宙から、折り折りに蝶や蜻蛉や蝉などが入り込む。

白い景色の中に舞い入る黒揚羽は、その色の占める空間に、涼、の感じがあった。炎昼における「方寸」という涼の分量である。

 

 

 

金盃に富士の冷水飲みにけり

 

平成三年八月初め。足にむくみが出て入院して一ヶ月、肺気腫の息苦しさで、もう殆ど食欲がなく、差し入れの朝鮮人参やすっぽんのスープも僅かしか摂らなかった。

この句は脳で苦労しての趣向立てである。霊峰富士の玲瓏たる湧き水なら、これは喉を通るだろう。器が金盃ならばさらに良い。金盃とは正氣の面目躍如。

「獺祭忌何か趣向を凝らさばや 正氣」の句がある。敬する子規の、をととひの糸瓜の水も取らざりき、の趣向好みを受け継ぐのである。また病中は、子規の「妥協苟合せぬ自主的療養生活」(茂野冬篝)に共鳴するところ大でもあったようだ。子規の「病俳一致」(亀田小蛄)の生涯をここに見る。

 

 

 

糊の如き朱をもて畫く鶏頭花

 

子規五十回忌誌上句会の出句。鶏頭の花の形に、濃く磨った朱を以ってする筆勢。

同じ秋の子規忌の句に「俳聖を祀る鶏頭釁りして」がある。釁(チヌ)るとは器にいけにえの血を塗って神を祭ることで、つまり、子規忌の座に供花として赤い鶏頭があるということである。

眼前の鶏頭の色・質感から、脳裏に絵筆を執るのが正氣流。ならば「糊の如き朱をもて畫かん鶏頭花」であるのに、ここでは、筆先の動きを詠んでいる。

ちなみに、この九月号の表紙絵は中井吟香画伯の「鶏頭」、十月号は同じく「法隆寺風景」で、店先の籠に柿が山盛り、遠景に五重塔が見える。後記に「貧乏が身に入みる」とあるが、表紙は月代わりだった。

 

 

 

降りそそぐ月光湛へ岩平ら

 

昭和二十五年作。「清秋の風巻雲にコスモスに」もだが、字数とか字画の点で、結果筆が慣れてか、よく短冊に書いている。「平ら」とか「巻雲」が正氣らしい。

発表誌面を見てみると、続いて「降る月光岩に跼みて一掬す」の句があり、体感的であるから、いわゆる机上の作ではなく、月下に露出した巨岩の表面に作者は佇立しているのである。と、そう思った。

ところが、一つ前に「われをして鬼の詠ましむ秋夜あり」の句があるのに気がついた。すると、同時の作であるならばであるが、フィクションの世界になってしまう。秋一夜、鬼が来て、句案の作者を岩の上に置いたのである。蒼古な岩の面が、きらきら光いっぱいの景になるではないか。

 

 

 

芭蕉忌や眼底の像蕪村筆

 

昭和十七年十一月十五日、伊賀上野での芭蕉生誕三百年祭記念俳句大会への出句。各派七部別にした選者構成で、第二部『同人』派の月斗選に入った。

父は、当時小学五年生の私を、担任の先生の許しを得て連れて行ってくれた。戦時下のこの両者の価値判断には感服する。句は、蕪村が芭蕉を敬慕したその思いを共有していると思う。

今、開催中の山形の立石寺「山寺芭蕉記念館」での『正岡子規・近代俳句の出発点』展に、不折画、子規・鳴雪・碧梧桐・虚子句賛の幅(明二九)を出品しているが、その虚子の句は「ばせをはしぐれ蕪村は霰にこそ」である。大会での虚子の祝句は「此人や時雨のみにて律する非」。

 

 

 

蕪村忌や牡丹の発句就中

 

月斗先生に傾倒して、蕪村党であった。多くの蕪村の句を諳んじていた。なかんずく、の句を十句。

  牡丹散てうちかさなりぬ二三片

  牡丹切て気の衰ひしゆふべ哉

  金屏のかくやくとしてぼたん哉

  ぼたん有る寺行過しうらみかな

  方百里雨雲よせぬぼたんかな

  閻王の口や牡丹を吐んとす

  寂として客の絶間のぼたん哉

  地車のとどろとひびくぼたん哉

  ちりて後おもかげにたつぼたん哉

  虹を吐いてひらかんとする牡丹哉

宿望の蕪村の幅を得たのは、すでに大戦の厳しさ迫る昭和十九年暮のことであった。

 

 

 

鯛といふ漁師の姓や帳始

 

島春(トウシュン)」は月斗先生の撰名だが、ひょっとして父が名付けた場合、「松本鯛之介」だったかも知れないのだそうである。やれやれ。

昭和九年作。その前年に、四年間住んだ横島(鞆の近くで燧灘に面し、寒楼らも鯛網見物に来た)から、句会の縁で、三原湧原川の橋畔へと居を移した。

当時の漁をする人たちは、潮汐が相手の旧暦の暮らしだから、新年三が日も、「歯がうずく」「歯ぶが脹れた」「寝とる間に入れ歯がのうなった」とやって来る。

 手術着を春着の上にまとひけり

君入歯盗むや枕上

誰か知恵者が苗字をつけたのだろう、実際には鯛は田井、鯒は古地なのだが。「帳始」としてめでタイ句。

 

 

 

豪宕の紅一線や椿落つ

 

筆で豪快に一気に引いた(コウ)の一線。色糸のようというよりも、紐か綱の感じの力強い極太の紅い線を連想させる。

椿の花が枝を離れて地上に着くまでの軌跡なのである。大らかな振る舞いの「紅一線」である。

先がけての句に、

音が地を打ちしところに椿燃ゆ

がある。バシッと叩くような音がして、そこにはめらめらと椿の色。視覚と聴覚それぞれに、見事な椿を句にしている。

歌舞伎調の様式美の表現といえる。前後しての作、

 野春陰一の字の青即ち池

は、青書きの「一」の書が見得を切っている。昭和二八

年の作。齢五十であった。

 

 

 

旅や春瀬戸内海の魚の味

 

昭和十一年作。『同人第三句集』所載。

麗らかな瀬戸内海の旅が続く。一番魚に味の乗っている時節だから、ゆく先々で、その土地々々の魚を賞味するのである。そういう旅である。

「春」の季題で句にすればこうなるのであろう。見方によれば、歳時記の例句、つまり不易の句を作る営みともいえる。句自体が歳月を越えて安定するから、個々のことは要らないことになる。

月斗俳句を思う。句も書も月斗調、というのは師の俳人格に帰することであろう。

岡本圭岳が『同人』を脱退、師に会いに上阪を機に、本名の「正喜」から、歯科医の「死灰」と号した。『同人』選者に推選された年である。

 

 

 

光りつつ春潮沖を東す

 

昭和十二年二月、尾道での『大毎』通信部主催の備後俳壇記念大会の席題「春潮」の出句。「ひんがしす」が二文字で済むので、よく短冊にしたためたものである。

「会場は入り海に面し」と記事にあるが、句の春潮は尾道水道ではなく、俯瞰した沖のはるかを光として春潮が進むのである。燧灘だから、東へ向かって満ちてくる潮である。神武東征の如く。

この日、『青芦』(大阪)の河野城山が来て、『大毎』記者としての先輩相島虚吼(従軍記者で、帰国の際に同船した子規と相知り、句に入る)の人と句を語っている。

「林牆の影躍りをり春の潮」も抜けた。当時は、死灰と号していた。

 

 

 

桜鯛しめらるる尾や天を搏つ

 

『同人第二句集』(昭九)所載の「正喜」の句を、暫く挙げる。句集には、月斗先生の前書の部があり、島春撰名の祝句が載っているのだが、紛失していたのを古書のウェブで手に入れた。

備後横島での句。春潮の底から舟に上げられた鯛は、時間が経って弱らないよう、素早く手鈎を打って、そのままの鮮度を保たせる。これを「しめる」という。海面よりのカメラアングルでの、そのクローズアップである。

この句を書くときは、「し」の一字を、紙の天から地まで一気に筆を揮っている。

昭和七年の作。私が生まれ、「春睡や乳豆鳴らして吸ひながら 春睡や己の顔に爪立つる」の時期。

 

 

 

扇風機の音の暑さに耐えられず

 

『同人第二句集』(昭九)所載。

当時、中田青馬氏が、「一種のパラドックスを用いて巧みに成功した作品である。ここには機械文明に対する軽い反抗が見られる」と評し、「歯を以てビールの栓を抜かんとす」「壜の死胎児寒し女のしるしある」「茎の石を抱へしが悪し流産す」の句と共に、「無感激で安易な写生句にもはや飽き飽きしている我々は、この句の持つバーバリズムにいきなり魅きつけられてしまう」と述べ、月斗先生の選者としての偉大さに感激している。こうしたことを句のテーマにするのは奇矯とされていたのである。

青馬氏は、後に岡本圭岳の『火星』のもとに参じたが、正氣は、月斗先生を生涯の師とした。 

 

 

 

蛍茶屋卯七魯町等打連れて

 

『同人第二句集』所載。卯七も魯町も蕉門、長崎の人で、「魯町」は向井去来の弟であり、「卯七」は、去来の叔母田上尼の甥に当たる。「等」とは去来の弟で田上尼の養子の牡年であろうか。俳諧一族での心豊かな蛍狩りである。

前主宰の息子娘達は、読み書きが出来るようになると、勉強よりも俳句を作ることのほうを命じられた。人を句に誘い込むということは、前主宰の少年時代からの抜きがたい主義であったようだ。

俳句を尊んでいたのだろう。

この句、もう一つは長崎への望郷の念が見える。昭和八年の作、つまり、備後横島から永住の地となる三原へ移って来て間なしの時期である。

 

 

 

六十・七十・八十の老の秋

 

昭和五十八年、八十歳の作。

十年前には、師の月斗が古希に際しての言葉を回想して、「小生は、喜、怒、楽にも淡白になっていません。老成度が足らぬからだとも思いますが、老成は急ぐ事ではないと気にかけずにいます。」と述べていた。

この句と同じくして、

生きてゐることに飽かざり老の秋

硬きものがうまき歯を持ち老の秋

老の秋おそろしきもの何々ぞ

かがなべて六十有四ホ句の秋

がある。八十台にしての心境であろう。六十台七十台より、また新しく深いものであろう。

 

 

 

昭和の子規の出現を待つ忌日哉

 

昭和九年九月九日、萩の寺での子規三十三回忌吟詠を集めて発行された小冊子『同人 子規忌句集』より。これは圭岳が編し、子規忌、蜻蛉の課題で、月村、伏兔、苔水、子角、圭史、千燈以下一人三句ずつが収録してある。

子規没二年後の生年だから、この句、三十歳を越えたばかりの自負が窺える。

月斗先生も、

 怠りは人老い易き子規忌哉   月斗

 句に生きよ句に戦へよ獺祭忌  同

 若者は若き句作れ獺祭忌    同

と気概に充ちている。

 さて、あとの二句は、「升忌や短冊百金惜しからず」「蜻蛉や夕べ水遣る菊畠」である。前句の念願が叶ったのは、その九年後の戦時中であった。

 

 

 

盗売(やんつ)する五平太船や星月夜

 

『同人第二句集』所載。備後横島での見聞をよく句にしていた昭和七年作である。

戦後少し経ってエネルギー源が石油にとって代わられるまで、バラ積みの石炭(五平太)を満載した機帆船が、瀬戸内海をしきりに往来していた。

私の戦前の記憶でも、港には荷揚げした石炭が幾つか山と積まれ、荷馬車がそれを何処かへ運んでいた。路上にこぼれた石炭は掃き寄せられ、家庭のストーブで焚かれた。

「やんつ」は、船乗りが積み荷をちょっとばかり失敬することの隠語である。人目を避けて、夜中に、沖で、船に横付けての仕業であろう。それに、対象の積み荷が漆黒の五平太であり、海上の「星月夜」の、星たちの息づきをチカチカ感じさせる。 (14.10

 

 

 

火の如き思ひを吐かんホ句の秋

 

昭和十一年、三十三歳の作。

「圭岳が突として同人辞任申出た、月村、千燈、凡水、涼舟等で二月号から出す、君も怠りなく応援してくれよ、中国探題は僕以上のなまけ者で困るじやないか、正喜シッかり 正月十日 月斗」の葉書を頂いて、急遽上阪、北山荘訪問。「中国の百舌鳥が叫ぶので寝て居られぬ」と先生が起きて来られたのに、『同人』への建言をしている。発行日の厳守、内容主義のこと、初歩欄を設けること、先生ご西下を年二回とし、一回十五日以内にすることが大略である。またご相談して、俳号を「死灰」と決した。 

この年七月、『同人』選者に推薦された。自己紹介は、「死灰は鬼才縦横。時に軽車無軌道を走る観あり」。

 

 

 

牡蠣船の帳場にひきし電話哉

 

昭和六年の作。「牡蠣船の柱鏡に化粧ひけり」「牡蠣船の揺れて酔歩を危くす」「牡蠣船を見下して橋渡りけり」「牡蠣船に臨検に来し巡査哉」「牡蠣船の灯に引き汐の速さ哉」が同時の句電話も珍しい当時、舫った牡蠣船に引くとは。

牡蠣船は、三百年ほど前から、牡蠣が取れる頃に広島を出航、各地で街中の橋下に船を繋いで、牡蠣一式の料理で商売し、シーズンが終わると畳んで戻ってくる。やがては、年中船を岸に据え付けるようになる。

戦前の三原でも、川口に一艘浮かんでいた。川岸から船尾に歩板を渡し、帳場と板場と待合があって、中央の通路の両側に三帖ほどの小部屋を仕切る。牡蠣船は、それだけで冬の濃い存在なのであった。

 

 

 

俳句には倦まず候老の春

 

「老生句作を始めてより六十五年」の前書きがある昭和六十年、八十二歳の作。

句作のスタートは大正九年三月十三日と、日にちまで当人は記憶していた。親友小柳種衣につながる、諫早農学校の教師中谷草人星(「雲母」に投句)の句会だろうと、私は推測する。それからは「以後一日の休みなし」が続く。

このころは、「寒い日が続くので一日二十時間はベッドの中。人工膀胱を装着してより三ヶ月になるが、中々慣れぬ。不快の連続であるが、三日に二人ぐらいの割合で句友が訪ねてくれる。持参の句稿に評を加えたり、常連には編集の手伝いを頼んだりしている」という日々であった。

己の句の上達を信念し、句の友の進歩に歓喜し、生涯倦まなかった。

 

 

 

 

雪景を描き了へたり月の貌

 

昭和六十一年、八十三歳の作。しんしんと降り積もっていた夜の雪が、今は歇み、そのような表情をして月が浮かんで、照らしている。「病生は現在のところ、一日三時間か四時間ぐらいがハイジン(俳人)で、残りの時間はハイジン(廃人)」という日々であるが、これは量的な言い方であり、「身体が動けぬので、ものを考える。この頃、やっと老人になりかけた実感が湧いてきた」なんていうのは、自分の人生のステージを、質的に俳句を以って判定しているのである。

 「闘病の日々は草花夜々は蟲」で、ベッドに見る十坪の庭の花々や、懐旧の山河、身辺に生起する事どもを句にしながら、その推敲しきりであった。

 

 

 

三原月斗忌懸命に修し心足る

 

昭和六十二年、八十四歳の作。この年、肺気腫の診断を受け、酸素発生器を部屋に置いて呼吸が乱れるときは早速吸入するという状態であったが、三月、「三原月斗忌は主宰できる自信十分」と、近くの神明会館へ器具一色を携えての参修となった。春風が兼題で、

春風や我が老朽の肺の臓

の句がある。

秋も又同じようにして子規忌を修した。この時は「三原子規忌を無事祀ることが出来て非常に嬉しかった。来年の子規忌は一年先の事であるからわからぬが、月斗忌は半年先の事であるから、ガンばることが出来そうである」と述べた。春星舎では、春の月斗忌、秋の子規忌の節目毎に句精進を誓っているのである。

 

 

 

トキ草とサギ草のどっち貰ふ籤

 

昭和六十三年、八十五歳の作。春星舎のサンルームから十坪の庭が眺められた。所狭しと山野草が植えられているのは、庵主の余命を思えば、およそ年を経ることなく花や実を示さねばならぬからである。

もう庭いじりは出来なくなっていたが、二階で行う月二回の句会には、在宅酸素吸入のチューブを階段に這わせて延長して臨んでいて、植物愛好の誰彼が、何か新しい草花を見つけては株を持参する。

「先生、どっちかお好きなほうを取って下さいね」。

名前がすてきなものだから迷ってしまう。どちらも蘭の仲間で、鳥はその花の色なのだろう。くじ引きにしよう。花が咲いてから取っかえてもいいから。

 

 

 

車椅子に付き添ひ呉るる蝶もがな

 

「明治三十七年に長崎で生まれ、九歳で大正を諫早で迎え、二十三歳で昭和を三原で迎え、八十六歳で平成」を迎えた年の作。

一入さびしさの加わる年であった。七月二十九日、連れ添って五十九年目の妻つゆ子が逝き、気を落とした。「夢のように日が経って行く。非常に忘れっぽくなったからであろうか。今日が何日であるかは毎日忘れる。一日に何回も忘れる。何月であったかも忘れることがある。あまりに疲れたからであろうか」と。

それでも脳の俳句中枢は達者であり、毎月二回、春星舎二階で句会に出ていた。酸素器具一式を準備の上、神明会館まで杖をついて移動し、三月は富山先生を迎えての月斗忌、九月は子規忌を修している。

 

 

 

二階から句座の迎へや昼寝起

 

平成二年、八十七歳の作。

春星舎初句会に、「ゴム管つないで二階へ酸素初句会」「扶けられて登る二階や初句会」「座について息切れながし初句会」の句がある。

隔週土曜の午後の句会を続けてきた。この句会は、三原に移ってから毎週一回夜開き、空襲や洪水による物理的に不可能な一時期を除いて、欠かすことはなかった。月二回となったが、通算すれば二千五百回にも及ぶだろう、世に稀有ともいえる句会である。

出句の清記が終わった頃、よいしょよいしょと声に出しながら階段を上がって選句に赴く。皆さん心配しなさなよと言い放ち、遠慮なく荒い息遣いを聞かせて心配させて座につくのである。

同じく「端居人背負はれて庭一めぐり」のほうは、写実的な心情である。

 

 

 

ホ句の秋そのフィクションも神わざも

 

平成三年、八十八歳。病院のベッドで辞世の句を考えていた。七月末ごろから。

俳句は、まことごころとあそびごころとの奇しき調和であると観じていた。その指導は対機説法であるから、良い句を作らすには、人によっては「フィクションが足りぬぞ」と励まし、また「俳句にもっと一所懸命になれ」とも諭すのである。

「そのフィクションと神わざと」が初案で、「と」と「も」を推敲していた。親子で辞世の句の話とはおかしいが、訊ねられて、あの「みやびなる八十八の花火哉」は、というと頷いたようにみえた。

八月八日が立秋。「秋が来てみんなに褒めて貰ひけり」と。三日前になって、「辞世の句は島春一任」と告げ、八月十四日の朝、長逝した。

 

 

 

蝉時雨林間学校参観人

 

大正十年、大村中学の級友福田清人(後に作家)が、夏休で諫早に遊びに来たので、仲間を集め、城山公園の頂上で歓迎句会を開いた時の出題が蝉。

「林間学校を誰も知らなかった。僕は前年の秋、修学旅行で、鹿児島の城山で夏の林間学校の跡を見たのを思い出して句にしたのである。漢字ばかりの句になったのが自慢だった」と述懐している。

後に人にすすめられて、『ホトトギス』の虚子選の雑詠に十句を半紙で投稿した内、この句が入選し、肥前 赤甕子の号で、大正十一年三月号に載った。

当時のホトトギス雑詠は甚だ厳選であったが、これに入選した大村中学の俳句仲間に、「この船で来ねばもう来ず火桶抱く 春夢」の里鵜さんが居る。

 

 

 

清秋の風巻雲にコスモスに

 

「秋風」ではなく、「清秋の」風と感じ取った。その風が天地に瀰漫している、つまり「巻雲」は天上の、「コスモス」は地上の、ということではない。

巻雲とは、散文的に、上層雲の一つ。最も高度の高い氷晶雲で、絹糸か綿の繊維を引き伸ばした形である。

その巻雲もコスモスも、共に即物である。これが「清秋の風」を現前せしめ、清秋の句となったのである。

コスモスの繚乱とオゾン多き風に

の「オゾン」も、今は日常語だが、この当時、やはり詩語からは遠かったろう。

昭和二十五年の作。この年は、四天王寺の師月斗一周忌のあと、四月に父親を亡くしている。長子の私は家を離れて遊学。

 

 

 

交感神経朦朧とちんちろりんの

 

つい夜長にうとうとしたところを、「交感神経」という言葉を使ってみたのである。ちんちろりんの音色が遠ざかってゆく。

自律神経系で、交感神経の働きは、夜間、これに拮抗する副交感神経の亢進により、抑制される。これを「朦朧と」とする。

この虫の音を詠もうと、頭脳を絞っていたのであろうか。意思に関わらない、生理の「交感神経」を使うのが句の狙いであった。

「交感神経」で面白いのだが、それで、句のほうはその言葉で醒めて、情緒が部分的に飛んでしまうかにみえる。これを「ちんちろりんの」が後に戻すのである。

「交感神経」に「松虫」であってはどうにもならない。「ちんちろりん」で臨場感を与えてソフトランディングさせ、「の」で止めて効果を出した。

 

 

 

こぼしつつ尚雀盛る冬木かな

 

雀たちが寄り集まってくる冬木である。句にすれば、冬木という桝に雀を山盛りに装っているということになる。枝を離れる何羽かが対象の実である。

この冬木は、自然がそうさせる何かを持っているのだ。そんな「かな」である。

戦前の正氣作で見てみよう。

水の上這ひゐる秋の煙かな

穂芒についたちづきの光かな

岩裂きて根の露はなる冬木哉

石崖に生えてもみづる雑木哉

と、「かな」と「哉」の使い分けがあるような気がする。「哉」のほうは俳句の空間を形作る額縁の如くである。

 

 

 

後架出でて寒烏枯木之景に遭ふ

 

お芝居の見得を切る調子であるが、枯れ枝に烏止まりけり、という水墨画の世界に出遭ったのである。それも禅寺というわけではなかろう。

「之」は、これで「寒烏枯木」の景ではなく、「寒烏枯木之景」という画題の景なのだということになる。つまり、句では書割風の、一幅の画の如き景ではなくて、作者は一幅の絵そのものに対面したのである。

街中では、嵌め込み窓に換気扇か、サッシ窓を開けても見えるのは電線に帰燕というわけだ。トイレも近代化した。

以前の正氣旧居の中庭にあった手洗石は、新築の際に、春星舎の前庭の玄関脇に移したが、その後も捨て兼ねて、ガレージの隅の飾りに残してある。

 

 

 

双龍を金で画きしぽぺん哉

 

昭和十五年、皇紀二千六百年の北山荘年頭句会での作。「ぽぺん」は、薄いガラスの球に細い管をつけたもので、吹けば底の部分がぺこんぽこんと鳴る。

月斗の記事には、「元日好晴。八時頃地震す。恒例として備後の三原から颯爽として正氣がやって来た。()月村が今日は先生の卯の日です。()双榎が神戸の元町でぽっぺんを見つけたので持参した。満員の電車の中は一苦労だったといふ。ぽっぺんを初めて知った人が多い。次々と吹いて廻す」とある。題。初句会、初卯、ぽっぺん。

選後に、「双竜を金で画きしぽペん哉。抜群の成績を上げたもので、今年の干支を入れたなど凝った仕事である」と。最高点であった。北山荘泊。

「二日。好晴。町の初風呂に行く。芋を洗ふやうだ。雑煮を祝うて、正氣と共に、生玉神社に参詣す。()正氣は途上白扇を求めて御判を頂く。()」と。

 

 

 

芽がすでに一人静であることを

 

自称「机上の作家」であったが、晩年、春星舎の小庭に昨是今非と山野草などを植えつけ、その日々の観察という、句作りの新しい境地を見出した。天工の妙は、机上のそれを凌駕するのであろう。

庵開き前後に誰彼が呉れたその名を挙げよう。曰く、破れ傘、紫式部、千本槍、河原撫子、竜胆、唐橘、蛇の髭、藪蘭、春蘭、深山鶉、寒蕨、蛍袋、稚児百合、含羞草、蒲公英、菫、大文字草、猩々袴、二人静、寒葵、木賊、半夏生、秋の田村草、千振、一人静、十二単、都忘れ、浦島草、薊、クローバ、甘菜、庭石菖、ほか園芸種は多数。

草本の名前に惹かれている部分が多いようだ。

 苗札にヂゴクノカマノフタとある     

 

 

 

地久節の式に間のありピンポンす

 

地久節の句は珍しい。昭和九年の作だから、香淳皇后様の三月六日である。

血躍る春である。この女子生徒は式が始まるまでを持て余し、正装の裾を翻しながらピンポンに興じる。当時としては新鮮な少女たちの情景である。

地久節は、女学校だけが式をして授業がなかった。だから「地久節の歌を姉より習ひけり」があるが、賢兄は妹に教えてやれないのである。

地久節の歌を調べてみた。「昼は輝く大空の 日によろづよの春長く 夜は澄み渡る山の端の 月は八千代の秋久し」。違っていたら賢姉どなたかご教示を。

 

 

 

蘖は我が嗅覚に訴ふる

 

植物の生命力の逞しさと瑞々しさを、視覚ではなくて、五感の中でもより野性的な、嗅覚へのアッピールとして捉えたのである。むんむんしているのである。

このように、硬質の術語を素材に使用して効果を出すのが正氣流である。

 大寒の水の密度へ手を入るる

 木の芽晴植物を映さぬ鵜の目

 島の底辺各平行す五月晴

 垂直に折れてもゐるや蟻の道

 五月雨の止みをり鼓膜にひびく闇

 花の冷肩甲骨を操れど

 人間の乳児枯芝に四肢歩行

 煉瓦素地冬日に三次元の美を

奇を衒うのではない。常に俳句の「新」を探求した。視点を変えようと図っているのである。

 

 

 

夏座敷師に脇息を参らする

 

 「三原訪問は春暖を待たう。六十年振の霜焼も治ってからにしよう。島春薄着練成は如何。無理なきやうあれ。云々」の葉書がある。

 かくて、昭和十八年五月十三・四日、我が家に月斗先生をお迎えした折の句。戦時下、車中は混み、旅装も男はゲートル巻きで女はもんぺ姿であったろう。

現在、土曜句会をしている部屋に、『俳句道場』の額を懸けているが、この折の揮毫の筈である。六十年の歳月の間に、水害に遭い、家を移り、春星舎での期間は玄関の正面に掲げていて、紙はずいぶんと煤けた色になっているが、道場の精神は変わらない。

 

 

 

「俳句のある人生」に風薫る也

 

 「七十年かくところは実に取るに足るものなし。七十三歳にして稍禽獣蟲魚の骨格草木の出生を悟り得たり」と、北斎は『富嶽百景』初篇跋にいう。

 七十三歳、「予期せぬ疾患に襲われつつも生命を保持する事に真剣」な昭和五十一年の五月、嬉野温泉での大村中学校クラス会出席の前後に、青火居にて諌早、大村句会の方々と会しての句である。「俳句のある人生」とは句作の「行」を楽しむ日々のことである。

 北斎はこの歳に続く、八十歳、九十歳、一百歳、百有十歳の己の画境を高らかに宣言した。

同じく正氣は、「小生自身の「画龍」に「点睛」をするその事と句友の「画龍」に「点睛」をする事にもお節介を焼いて、小生の「俳句のある人生」を大いに楽しんでいる」と記している。常時未完成の意識である。

 

 

 

白き金魚の如し花嫁自殺せり

 

 昭和二十五年『同人』菅裸馬選の句。投句はこの年の四月号からであった。

白い大きな金魚が息絶えて、朝、横になって水面に浮いているのを句にしたのである。それを白無垢の花嫁姿と見た。「如し」はイコールで、可逆的なのである。それでやや際物の短篇(ショート)になるから面白い。 

 その前月、「美しさのみ持ち金魚哀れ也」があるが、金魚には、観賞や愛玩の対象、また金魚鉢という隔絶等々の属性があって、好みの季題となっている。

  生きてゐる金魚を薔薇の肥にしぬ   (昭二八)

病む金魚すなはち醜へつれなくす   (昭三○)

自嘲してペン投げ込みつ金魚鉢    (昭三三)

水棲の金魚と同じ部屋に住む     (昭三三)    

 

 

 

うつし世は味はふものや秋は夜を

 

 掲載した短冊集から。昭和六十一年、八十三歳の句。

「寿命は前世より決まっているかも知れぬが、当人の努力によって延長するものだと思うほうが私には九割何分であり、うつし世を「味わう」ために寿命の延長を期している。皆さんのご協力で春星を「仕事」することで、皆さんに感謝しながら私はうつし世を味わっている」のであった。

 俳句作り、俳誌作りを天職と心得て、それが出来るための長生きの努力をするのである。春日には眼前の春を味わい、秋夜には身辺の秋を味わいながら。

 

 

 

澄むや空を變へゆく風の色

 

短冊集の句より。昭和六十三年作。「左程永くはないと思うが、目前に迫っているという感もない」と言いながら、八十三歳で闘病中であったから、春星舎の庭の空の景色であろう。

「物思へばいろなきかぜもなかりけり身に沁む秋の心ならひに」であるのに、今の透徹した境地では、ありありと眼に見えるのである。

「心澄む」はシン澄むと読む。胸中の気の清澄である。昭和二十六年、石原刀子の句で、この表現法の是非の論があったことを思い出す。同人派の句の革新を説く論者は、シンと読ますことの趣味性を排したのであった。対して、ハッカをシャリシャリと噛む語感と肯定する人も居た。

正氣は、意識的に使ったようだ。趣味性とはなんだろう。いわゆる現代俳句の中に、新古今の「色なき風」を、詩人的に、秋風に替えて用いたがるのも妙なものだが。

 

 

 

青火あり眼鏡橋あり秋思あり

 

短冊集から。昭和五十一年十月、諌早文化祭俳句大会の作。直接には句友市川青火に逢うため、故郷の地を踏みしめるために来たのだが、諫早には、「秋思」と呼べる、古い思い出も又存在しているのである。

昭和四年、『夕立』の後記で「私儀去る一月十一日故郷を立ち果て知らずの旅に出で候目下備後国横島に避寒致居候又二月十七八日の頃この島を去り二年半振りに大阪俳壇を訪問しそれより四国高松市に当分滞在の予定に候」と気取っているが、月斗先生は、「正喜は何をしてゐるのか」とご心配で、松山で村上霽月に会え、上阪を待とう、横島はどんなところか、正喜は島の王さんになっているのか、と葉書を寄越されている。

「秋思あり」とは、五十年前の時空の一切に連なるものであったろう。 

 

 

 

神仏に甘えてゐるや冬ごもり

 

短冊集から。昭和五十七年、七十九歳の句。

「冬篭俳句の電話ばかり哉」「階段で脚を鍛ふや冬篭」「冬篭煙草がうまく酒うまく」など。

 この年は、三月、月斗忌に参じた諫早の市川青鼓と一緒に白滝山に登っている。二人が相見えた最後となった。五月大阪市立博物館「三都の俳諧」展へ上阪、冨山奏教授の講演を聴く。八月瀬戸田で孫たちと海水浴、クロールで泳ぐ写真がある。そして九月、七年ぶりに膀胱腫瘍が再発した。

術後に、「生きている厳しさに毎日毎日堪えていますが、生きていることに嫌気をさしたことは一日もありません」と語っている。

 

 

 

渡舟呼ぶ息三尺の白さ哉

 

中洲の船頭を大声で呼ぶのだ。

満目枯れ色の河原へと土手を下り、水辺まで来れば板が並べてあって、霜が光り、そこが舟着場である。

男が来た。鳥が散乱する。感覚的には素浪人である。枯葦を渡る風の脚が見え、日輪は小さくて白い。

「おぅーい」。練り鍛えた声である。野球の投手の投球でいえば、重い球種である。腹中より発して口の先で散らず、遠方まで達する声である。

脇のほうから見ている者に声は届かないが、目には定かである。朝の光の中、発する息の白さ、三尺はありと見た。「哉」だからどっしりとした身の構え……。

ヘビースモーカーで、これほど喫えばガン細胞も育つまいとうそぶいていたが、晩年は肺気腫で息が切れ、在宅酸素療法を行っていた。思えば切ない。

 

 

 

神風や伊勢の若水竹筒に

 

同じく記念号短冊集の句より。昭和十四年元日北山荘年頭句筵にて。月斗記に「青霞翁が、使者を立てられ、伊勢大神宮参拝、五十鈴川の若水を汲ましめしを、太やかなる青竹筒にて持参あり。淑気座に満つるの思ひあり。歳頭句会の題、即ち『若水』を撰し」で、次の句があった。

 五十鈴川の若水なれや竹筒に    月斗

 初硯に伊勢の若水注ぎけり     同

月斗選中より

(地)神風や伊勢の若水竹筒に    正氣

(天)千早振る神の若水竹筒に    千燈

「神」と「伊勢」とであるが、北山荘即事の句として自任するところであろう。

 

 

 

大寒や篩うて分くる菊の土

 

短冊集より。菊作りの苦心は土作りである。

岡本圭岳『同人』脱退の報に、昭和十一年の旧正月たまらず上阪。北山荘には、編集のため千燈、凡水、間去がいた。二月号の校正が来て手伝ったあとの北句会に出席。会者五十で寒雑題五句の月斗選の天位に入って半切を貰った。半紙の月斗選稿を貰って帰っているが、この句のほか、「大寒や薄氷張れる忘れ潮」「寒玉子割りたる白き器かな」が入選している。

この日、「僕、死灰と号する事を先生に相談したら御賛成。乃ち死灰に決定。俳号を本名の正喜にしてから十二三年になるがそれ迄は一年に二三回から五六回は改号した。昨是今非が強きが故に一そうのこと本名にしてしまったのであった」。

 

 

 

月斗忌の淋しさ何に例ふべき

 

短冊集より。昭和二十五年作。

学生の頃より人一倍かわいがって貰い、その胸に真正面から飛び込んで行ったから、師の一周忌に当たっての感懐は、他に一語を要せず、これに尽きる。物事の上達は、師への全人的な傾倒が捷径である。

三月十二日の四天王寺月斗一周忌に参列、先生のお墓の話が出たようである。三原では所縁の善教寺にて修し、句会の写真があるが、二京、太郎氏の顔があり、学生服姿は島春・男児の級友たち。平成三年、暖かくなるのを待ち、桜花の四月七日、米寿祝いを兼ねて開いた月斗四十三回忌句会が、最後の主催となった。

「チエホフ忌」などあるが、何々忌という季題は、単に今日は何の日というのではない。長く実際に修忌されて、実体感や季節感が生まれ、成るものである。

 

 

 

一掬の春潮色の無かりけり

 

八月記念号に所載の短冊集の句より。

鑑賞者は、それぞれのシチュエーションを胸裏に描いて、句を再現している。

たとえば、…とろりとした青みの海が広がっている。岸に穏やかに波がふくらんで来ては退く。巡航船が寄港して来た。潮位によって、乗船者は船まで伝馬で渡る。途中の舷から覗く海水は、日の光の届く深さまで明るい緑色。舷から手を伸べ指先を浸してみた。ざぶりと潮がかぶって指が白く見えた。一掬して掌中に収めた「春潮」の色は無色…。

「一掬の」のこころの昂ぶりも、「無かりけり」の哀感も、春である。

海水に色がないのは当然の事である。併しこの句は、体験し実感した句なのであろう。昭和二十四年の作。

 

 

 

ででむしの角の機嫌な害ひそ

 

同じく短冊集の句より。でんでん蟲がいい気分で角を伸ばし切っている今の時間を、紙面いっぱいに描いて、落款を入れる余白も無いという感じ。

ここでは、「な…そ」というレトリックを使って俳句にしている。昭和十二年の作。

季題の例句が、その季題の持つ属性(いわゆる本意)のいくつかを、直裁に純粋に具現化した句が適切であり、題詠することが、そうした句を目指すのであるならば、もはや落款という作者名は不要となる。

ただサプリメントも、精製された結晶粉末より、やはり何かの葉っぱや根っこという、生々しさがあるほうがいいようなところがある。

 

 

 

十枚の翅をはばたき火蛾廻り

 

昭和二十五年作。図鑑的にいえば、蝶と蛾は同じ「鱗翅目」であり、その仕組みは少し違うが、どちらも、羽を使って飛ぶときは、蜻蛉や金ぶんとは違って、前翅と後翅をまるで一つの羽のように動かす。

一匹の蛾が部屋の灯をめがけて飛んで来た。鱗粉を散らしてぶつかり回るそのせわしさたるや、普通ではなく優に十倍の動作。これを、蛾が十枚の翅を持っていると表現する。次元を転換している。あたかもキュビズムの画である。

湧原の寓居。私は、夏休に帰省すると句会に出ていた。「俳句道場」額を掲げた二階の六畳間は、夏は窓を開け放していたが、善教寺の本堂の裏だから、大きな闇の空間があり、夜更けてくると、蛾や金ぶんやががんぼや水田のうんかや風船虫までがやって来た。

 

 

 

茶前酒後俳句を語る梅雨の宿

 

 お菓子は、お茶の前、お酒の後に頂くが、この「茶前酒後」とは、風雅に終始した一日のことである。梅雨ごもりの俳句三昧である。

昭和二十一年夏、月斗先生の戦後最初の二ヶ月に及ぶ西下吟旅で、往きと帰りとそれぞれ数日間お立ち寄り下さった折の句である。同じく

師を泊めて恐縮するや梅雨の漏

  歯を入れし師にまゐらせん蛸膾

  川行水下駄に乗せたる代へ褌

があるが、前年受けた水害後移り住んだ仮寓の有様が窺われる。食糧も不自由だった。往路に、残ったぶらぶらの歯を抜いて一晩で総義歯を作ったのである。復路、すぐ傍の湧原川は其の頃は水澄んで砂清く、褌姿の師弟は、よき月を愛でながら水浴びをした。

 

 

 

日焼餓鬼袋の骨を煎餅かと

 

昭和二十五年。原爆傷者収容所追想と前書きを付している。県下の医療従事者は動員されて、負傷者の治療に当たった。治療とはいえ、火傷に油を塗り、皮膚に刺さったガラス片をピンセットで抜き取り、赤チンを塗る。重傷者はすでに世を去り、もうその程度だったらしい。

四十を出たばかりの当時、鼻髭のほかに頤鬚も蓄えていたから一見名医のようで、大声だし、正氣の前に長い列が出来た。痛さが少ないかと思うのだろう。

死者は荼毘に付され、お骨は紙袋に入れられてあった。何処からか腹を空かせた童たちがやってきて、その袋に触り、カサカサ鳴るのを、せんべじゃにゃーのかと言うのである。いわゆるテーマ俳句としての原爆の句は作らなかった。事実が重過ぎたのである。

 

 

 

氏子あまたみ戦にあり秋祭

 

短冊集より。若い者たちは戦場に出かけて居なくてなってしまい、年寄りと子供たちが田畑を守り、鎮守様のお祭もさびしくなった。

昭和十四年作。いわゆる支那事変と呼ばれていた頃で、皇軍慰問短冊を募集したり、出征会員武運長久祈願徹宵句会など催していて、まだまだ戦争の切迫感は見られない。

 梅雨の旅移動警察目光らす

 朝顔やアメリカ帰りの守銭奴住む

 浴衣着の兵隊さんと将棋指す

 白人即ちスパイと思ヘりボートの子

 日本独逸伊太利の秋高き哉

 

 

 

朝寒の日向に干しぬ味噌麹

 

家で作る味噌は農閑期に仕込むので、信州味噌は春で、九州では秋の末になる。九州の冬は信州より暖かく、味噌の麹歩合も多く、冬場でもうまく醗酵するのだという。蓋をして日向に置いて発酵させる。

大正十五年の作で、一点一画過不足のない楷書のように言葉を配列している。大正十一年秋上阪し、学生時代、月斗指導のもとに、月囚、圭岳、伏兎、宋斤、南畝、朝冷、涼斗らが居並ぶ句会で鍛えられた。

江口喜一が「勇敢に先輩の説に反駁するひとかどの論客だった」と当時の正氣を回想している。「最後に月斗先生が立って句評の判を下されるのだが、諾々と説かれる句評が楽しくて皆熱心に聞き入ったものだ」。

今井柏浦編『昭和一萬句』から月斗句を抽出する作業でこの句に出遭った。

 

 

 

陣取りをしてゐる蜂や花八手

 

八手の花に入れ替わり立ち替わりして蜂がやって来る。その有様は子供の陣取り遊びのようで、「をしてゐる」のリズムが、のどかな感じを与える冬日向である。

喜寿を迎えての春星大会の翌年、昭和五十六年の作で、春星舎の庭はまだ進歩を続けていた。「頭の中で庭を直すや夜半の秋」である。

正氣が、写生を見直すようになったのは、晩年、自分で小庭を造り、山野の草花を植え付ける営みの中でのことであった。「もっと勉強の仕方のよろしきを得たら、も少し立派な作家になっていたのであろうにと思うので、その経験を生かして後進の育成に励んでいるのである」とこの頃に言っている。

 

 

 

埋火や敢て我が句を世に問はず

 

(句帖自題)埋火を掻き立てくれよ百年後

  埋火や三十年の我が句歴

  埋火や敢て我が句を世に問はず

  埋火や敢て我か句を軽ろんぜず

  埋火や我が句を知るは我が師のみ

昭和二十二年の月斗選の春星俳句より。先生が、朱筆で、終わりの句に、知らぬ 知らぬ 月斗 と記されている。

もっとましな句が出来てから、というと向上心が高いようだが、ありていは恥ずかしがりか、ものぐさからか、月斗、正氣ともに、印刷製本された自家句集という形になかなか腰を上げようとはしなかった。

さて、洋紙やインクの寿命とIT技術の媒体のそれと、百年後は如何に。

 

 

 

わたましの荷も片付かず庵の春

 

昭和二十一年新春。前年秋の枕崎台風による出水で壊れた家から、半丁ほど北の路地に移り住んで初めての正月を迎えた。狭くて、流失を免れた診療機械や家具を運んできたのがなかなか片付かないのである。住み込みさんを入れての九人暮らしであった。
  去年の出水に子宝無事や屠蘇を酌む
 その時は、増水してきたので大事な物を二階に運び、そこで夜を明かそうとしていた。子供たちは、海へ流されても助かるように、父から箪笥の抽斗を一つずつ持たされた。実際には屋根伝いに何軒か先の家に避難したのである。
 やがて、診療と句会が再開され、六月、この寓居にも西下の月斗先生をお迎えすることが出来た。そして七月朔の『春星』創刊にいたる。

 

 

 

炭斗にカステラ箱や遊学子

 

昭和二十一年、『春星』創刊前の月斗選より。戦時中に引き続き、半紙一枚に十句を楷書で墨書きしたものを、大宇陀の先生の許に郵送し、先生の朱筆での選と添削を受けた上、返送して頂いていた。

大正末期、大阪遊学中の懐古であろう。部屋の中は当時から相当散らばっていたことだろう。前年に、「学生や箒を持たず蚤と住む」の句もある。

炭斗は部屋の中の通り交いに何度も足で蹴躓いてとうとう壊れてしまった。さて代用には、故郷から送ってきた長崎カステラの箱にするとしよう。

 

 

 

虎杖を師も召されしよ藤夕

 

昭和二十四年三月、月斗先生の病篤く、五日に男児を連れて大宇陀の仮寓へお見舞いに参上し、一泊。ウナ電を受け、二十日の密葬に参列しお別れをした。四月十七日、遅れての花が満開の四天王寺本坊での同人社告別式には、私も参列した。

この句は、(景雲台に師を思ふ)の前書きがある。

この崖に師の手をとりし藤夕

  虎杖を師も召されしよ藤夕

  人の世のげに儚しや藤に泣く

  折りて帰り山藤活けむ去年の如

前年の五月、九州吟旅の帰路の月斗、女々夫妻を迎えた。月斗先生の文に、 「一日。三原に着く。正氣、糸崎へ迎へに来る。中国路の山には藤、つつじが盛りで」とある。翌日瀬戸田耕三寺行、五日には三原付属小にて講話された。景雲台はその校内にある丘で、そこから市内が展望できた。先生はお元気だった。

 

 

 

こめかみをおさへて花の疲れかな

 

いわゆる頭痛持ちは、ほっそりと憂わしげな顔立ちの女性に多いようだ。ストレスに弱いのだろう…と言っちゃお仕舞いだが、この「こめかみをおさへて花の」と「花の疲れかな」との言葉の運びで、浮世絵風の白い指先が浮かぶのである。

後年の句に、「人中のうぶ毛に花の白埃」があるが、人中は鼻と上唇の間の溝。「白」が利いている。それさえも綺麗に見える人。ここまでズームアップしたというより、花見疲れを見て取っている。

 

 

 

百年のいくさ継ぐ子等五月鯉

 

戦中の昭和十八年の作。戦争のテーマ俳句のようだが、当時、実感のある真剣な句なのかもしれない。今は平和だから、暑くなれば、平和祈念とか原爆忌とかのテーマで句を募集して、賞が出たりするが、当て込みの素材で以って句は評価するものではない。

向日葵や待避壕掘る老夫婦

  (暁天動員)神苑や蝉も雀もまだ起きず

同じこの夏の句。戦時下にあって、厚みのある生活者の目ではある。

私は六年生の愛国少年、男兒は一年生、文武はその二十三ヶ月下。昭和十六年の句「菖蒲湯や三人の吾子玉垂らす」は得意然に見える。

 

 

 

(摩周湖)六月の湖霊の不興霧を罩め

 

昭和三十六年北海道旅行の作。せっかくの眺望が霧で隠れたのである。

(阿寒湖)我が夢とマリモの夢と明け易き

 (昭和新山)山齢十六の体臭夏湖へ

 (ビール工場)ビール瓶横列に一歩一歩せり

 (蔦温泉)古桝の湯桶よし梅雨の漏もよし

 (美幌高原)枯原は熊笹やこの六月の

この前年から、母を供にしての東北また八丈島行を皮切りに、旅行を始めた。カメラ、後に八ミリを提げてで、やがて西望先生とご一緒することが殆どとなった。スライドや八ミリがうず高く残っている。ひとつは俳句作りに、それにもし中風で寝込んだときの為だと言っていた。

「帰って数日経つと句心が昂って毎夜句作に苦しんでいる。私には句作即苦作である。幾日もかかってやっと一句ができあがることがある。それが亦何ともいえぬ私の楽しみである」と。

旅行吟のことは、自称机上の作家からの、以後の大きな転換に繋がって来る。

 

 

 

瀑道に家あり七面鳥飼へり

 

『句集時雨』所収。昭和十九年夏の作と推定される。

観瀑に下る道すがらに一軒家がある。七面鳥が飼育されており、人が住んでいるのだ。「瀑道に家あり」というのだから、滝見茶屋ではない。

これに「七面鳥飼へり」と等量の文字を使っている。かかる境地に暮らすと云うのと鶏ではなく七面鳥だと云うのと。泰然不動の滝と素っ頓狂の七面鳥と。

今どき、この峡深くに、七面鳥を飼いながら暮らすのは、いったいどんな御仁なのか。

この年四月、『同人』廃刊。九月より中国同人会を作り、その月斗選の句を謄写配布することとなった。

 

 

 

傘の使が来て知る雨や夜の秋

 

昭和十五年の作。『時雨』所載。母の言いつけで近所に傘を届けるお使いは息子の役目。傘というよりは、そろそろ帰宅をとの無言の使者なのかも知れぬ。

玄関の声は我が子。二局続けて碁に負けたからには、秋の夜は長い、この局勝ってもう一局。お茶菓子を紙に包んで持たせ、帰らせることにするか。

今では何時ごろから何ミリの雨の予報、軽量の折畳み傘、携帯電話。微雨でも豪雨でもサッシの窓の遮音性。舗道を走る車はひっきりなしだが、ひっそりしていたらもっと物騒である。

天候気候が、生活に直接触れていた時代であった。日常の交流のエリアも狭くて濃かった。唐傘は開くとパリパリ音がしてツンと匂った。道端の柳がゆらゆらしたらこわいがね。

 

 

 

短冊を祀るや九月十九日

 

昭和十八年の子規忌句会の句。同時に「宿望の短冊得たり獺祭忌」がある。句のリズムに心の弾みがある。

『桜鯛』廃刊の頃から短冊の蒐集を始めた。古人に現前するに最も近い手段は、その人の筆跡にまみえる事だからである。当然、尊敬する子規居士の筆跡は「宿望」であったろう。

はじめは『俳諧師手鑑』(伊藤松宇 昭五)の形が意にあったらしい。短冊帖の端に、『新選俳諧年表』(平林鳳二・大西一外 大十二)の記述による短いペン書きがある。そのうち、系統別に纏めようとして、『日本俳諧史』(池田秋旻 大十一)の俳系図に赤ペンで線引きしてあるのは、帖に収め得た俳人らしい。

空襲が激化した戦争末期の価値観の中で、このことが可能となった。終戦直後の水害で蒐集は中断、翌年七月、『春星』の発刊となるのである。

 

 

 

仙人は凡そ痩せけり秋の風

 

昭和二十年の作。戦が熄み、土曜会も再開されたが、子規忌を修した翌々日の十七日夜、突如、猛烈な枕崎台風が橋畔の我が家を直撃した。

  秋出水仏壇運ぶ畳浮く

  橋折れて家揺がしつ秋出水

  はらからと死を決しけり秋出水

  屋根にゐて雨風寒し秋出水

 大破した家屋での生活が二月あまり続いた。

秋の蚊帳つぶれ残りし部屋二つ

  裏の家の火影がさすや秋の蚊帳

六旬の秋霖嘆き今日もあり

  敗戦を秋の雨伯の自棄降りか

秋の夜の気を腐らすや雨の音

  もの流しもの盗まれて身に入みぬ

 よっぽどだろうが、こんな状態でも盗人が入って、食べものまで持ってゆくという、考えられない時世になっていた。いい人は霞を食って痩せていた。

 

 

 

帰り花林泉歩りく草履ばき

 

整った身なりで、きちんとした振舞で、手入れの行き届いた庭園を、ゆったりと逍遥する。「林泉」「歩りく」「草履ばき」の措辞で、それが分かる。「歩りく」は、この庭園のここという箇所をしっかりと観て回るのである。昭和十二年、死灰時代の作。

死灰は歯科医であり、「冬籠心死灰に似たる哉 月斗」のそれである。この号を二年間使った。だから、『同人』新選者は死灰として受けている。翌十三年の初句会に上阪し、正喜の音読である正氣(せいき)と改号、以後は正氣で通したのである。

 

 

 

我が紫煙かくもの煤となれり掃く

 

「なれり」は、煤払いの日の感慨である。昔は、台所の煙も、風呂を焚く煙も、家々の屋根から立ち上っていた。わがタバコの煙もいくばく加わっているんだろうなというのである。

タバコが離せなかった。戦時中は、配給ではとても足らず、吸殻に茄子の葉を陰干ししたのを混ぜて吸った。タバコはナス科である。六法をばらしたインディアンペーパーで、細筆の軸の道具を使って海苔巻きを作るように、紙巻に仕立てるのである。

晩年は、肺気腫で吸おうにも吸えなくなったのだが、本人は、母の手術に際して、つゆ子への願懸けにタバコ断ちすると言った。やめるのではない、暫く断つのだというわけである。

 

 

 

社あり白沙青松初驛

 

『同人第三句集』所載の句。浮世絵の情趣である。初うまやは、宿場の正月風景。この句、さしずめ、瀬戸内海の入り江に沿った家並みが思い浮かぶ。

風化して砕けた花崗岩の細粒が、繰り返し波に磨かれ、なだらかに盛り上がった砂浜。日が差すと一面に石英粒が光を反し、凧揚げの子供たちが走る。

ごつごつ割れた肌の黒松の幹が、斜めに何本も砂から出ていて、潮風に矯められ下向きに張った枝に、松葉の緑の線条が清清しい。松林の中に神社があり、そのあたり、春着らしい赤いのもちらちら見える。

山が迫った岩場は迂回し、開けた箇所は海岸に沿って道があった。今は舗装されて土埃もたたない。山は削られ、海は埋められ、直線化されて、車だけが往き来をする。神社の周りにも家が建ち込んで来た。

 

 

 

車内忽ち禽舎の如しスキー族

 

途中、乗り込んで来ての列車内の色彩と音響。還暦の年二月、忠海勢と雪の出雲吟行した際の句。この頃は、旅行と写真が趣味だった。カラースライドがたくさん残っている。

三月に上京、日光、帰途大阪。四月は西望先生と姫路から天橋立、城崎、宝塚。八月に伊勢参宮。十月は東京五輪から帰って王樹庵のお祝いへ。十一月長崎へ。それから大久野島で還暦記念句会を催した。

赤い頭巾とちゃんちゃんこで、張り切っていた。四字熟語では、談論風発である。

 

 

 

野火は手を振るよ郷関立つ吾に

 

諫早上山公園内の正氣・里鵜・丈義・青鼓の四人句碑に刻されている句。青鼓が図って、俳交六十年、最後には『春星』に集まった四人による四季の四句を、一基の碑にしたものである。

最上級生の正氣は春季の句で、大村中学から大阪遊学した時か、諫早の歯科医院を畳んで東へ向かい旅立った時かの追憶であろう。

「郷関」は、幕末の勤皇の僧、周防の月性の詩「男兒立志出ク關 學若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人闢棘|有山」である。チラチラ燃える野火を眺めながら旅立つ青年の情感。

月性の詩も大坂の入塾に際してだが、正氣の旅立ちには、どこか師月斗の膝下への思いが透いて見える気がしてならぬ。「人間到るところ青山あり」。正氣も、住むに土地を求めなかった。晩年になってやっと庭作りを楽しみ、両親のお骨を三原塚に移したりした。

 

 

 

庭に出て牡丹いたはる寝覚かな

 

 昭和四十八年の作。庵主が精一杯の愛情と労力を注ぎ込んでいる春星舎の庭も、昨是今非の推敲を重ね、三年目で形になってきたところ。

  我が牡丹咲きたり吾とカメラへ向く

日三竿牡丹の客を案内す

 二年前の前句では、初咲きの花を「我が牡丹」と称して、カメラを向けている。後句は、その一年後、見てみてである。但し、「日三竿」は庵主標準時で、一般人とは時差?があるのだ。

 「寝覚かな」に思いが篭る。「我が」牡丹が開かんとする朝、強い風や日差しに損なわれはせんかと、宵っ張りで朝寝坊の庵主も寝て居れぬそれに、庵主は、この年は古希に当たり、そろそろ平均余命に目を覚ましている時間を掛け算して、それを大事に使おうと心掛けるようにもなっていた。 

 

 

 

白靴を提げて歩きつ足に豆

 

昭和五年、二十七歳の作。現代文明に馴染まぬ野性派の句。

この年四月二七日、「広島句会。本田屋楼上、正喜参加す」と、斗翁の九州吟旅の記にあるが、この日は日曜で、今と違い、横島から巡航船で尾道へ、そして広島市内までの日帰りの往復は大変だったろう。

島では、若者たちを集めて俳句を作らせたりして、いっぱしの文化リーダーだったらしい。

この年の句は散逸して、『同人第二句集』に、この句と「夕端居気を腐らして女待つ 正喜」がある。この翌年に母と結婚、その翌年に私が生まれ、その翌年に三原に居を移した。

 

 

 

(十国峠)五月富士容す正氣の為

 

 昭和三十八年。この前後数年は夫婦でよく旅行に出かけている。「五月富士」は、残雪も消えた陰暦五月の富士である。「容す」は、「士為知己者死 女為説己者容」のそれで、かたちづくりすと読む。

富士は自分を眺めて大いに(よろこ)ぶ正氣の為に、取って置きの姿で以って迎えてくれたのである。富士為正氣容である。関より西の昔の人には、見に出向くのは癪だが、何かに事寄せれば見たい富士であった。

 子供のことでの上京がこの四年前。「小生には五十五歳の初上りである。関東の地を踏むのも臍の緒切って以来のこと」であつた。同人句会席上「これからも時々は」に、間髪も入れず裸馬先生「武士に二言はあるめいな」と。

 

 

 

実明りに花つけゐるや藪柑子

 

 七十一歳の作。分類学上、藪柑子の句ではないという方がいた。藪柑子のほうは十両とも呼ばれ、万両とは名前の差千倍である。が、大小いずれにせよ、初夏に白い小花をつけ、秋に赤熟した実は翌年の花期まで残る。それを「実が残り」では図鑑の説明だが、「実明りに」と、葉腋に目立たぬ花弁を、果実の艶による下部照明で浮き上がらせて見せた。

 月斗師は「人を動かして行く力は実際経験に立脚してゐねば出て来ない。と云って写真では藝術にならない。燃焼した感情を通じた客観であらねばならぬ」とされる。名所の句を詠む折の心得を述べた一節であるが、「実明りに」は、その「燃焼した感情を通じた客観」の例である。

「実明りに」は、花開く位置関係における果実の、一年の長としての態度をも思わせるではないか。

 

 

 

みやびなる八十八の花火哉

 

 「雅びなる」とは、蕪村、月斗ゆずりで、世俗にまみれない句の生き方である。「八十八」は在世年数で、

(米寿自賛)揚花火八十八に開きけり

の口述筆記がある。米の字のように八方に光芒が開くというのである。

七月の初めに入院してだんだん体が弱り、辞世の句を思案していた。立秋も来ないのに、秋の句を作り始めていた。ホ句の秋フィクションとその神わざと(辞世)と、反故紙を綴じた手帳に書きつけている。

「みやびなる」の句は、八月初めにこの形になった。子供たちにと色紙に何枚も書いた。筆を握るのがもうしんどいと、短冊に花火とだけ書いたのがある。

 

 

 

冬籠叱られに来る句弟子達

 

昭和六十二年、八十四歳の作。

句に遊ぶ老躯病躯や冬籠

窓で折々深呼吸すや冬籠(肺気腫)

客来は歓迎であった。自他どちらにでもプラスに働くならばで、単なるお見舞は、暇潰しに過ぎない以上にマイナスだからお断り。

土曜句会には文武君が出た。私は、就業以外にも出かける事が多いのを口実に、句は不熱心だった。春星作品の第一選が済んだ句稿を、特にベテランでも日頃の力が見えないときなど、見落とししたらいかん島春見てくれ、と渡される。そこで私も句を作り、第二選に間に合うといった具合だった。叱られはしなかったのは、今を信じてくれていたのだろう。

 

 

 

老の春夜はゆめ七うつつ三

 

平成三年の句である。もうベッドに居る時間が長かったから、夜も完全に休んでいるのではない。うつつではないほうの時間は半分よりは多いけれども、そのぜんぶが夢に費やされている。

老の春の句は古希を過ぎて多くなるが、その老とは、老成、老熟を期しているかに見える。

最晩年の句より。

一日も句より離れず老の春(昭五七)

恙忘るる一刻が欲し老の春(昭六十)

句の友を励ます日々や老の春(昭六三)

死なぬことに努力をするや老の春(昭六三)

老の春句の鬼となり寿(いのちなが)(昭六三)

知らぬことの弥々多し老の春(昭六三)

長生きが面白くなり老の春(平一)

老の春二十一世紀を夢に(平二)

句を作り閲して老の春とせり(平三)

老の春下手な句叱る仕事持つ(平三)

老の春厳しきことが次々に(平三)

 

 

 

天満橋をくぐる燕と団平と

 

大正十二年、大阪歯科医専在学中の句。桜宮に移った月斗庵周辺の景色も想像される。

水上部、乗馬部、蹴球部、囲碁倶楽部に名を列ねる他、中学生の頃のように、十人ほどの仲間を集めた句会を主宰した。「猫間吟社」というのだが、当時の学舎が生野で、そこを北に流れる猫間川からのようだ。大阪城の東に当たり、今はもう川の形はない。

団平は、船底が平らで細長く浅くて丈夫な川船。水路の発達した大阪で、昔なら、近郷から野菜を運んで下肥を持ち帰ったりした。そんな生活感がまだ景色にも残っていただろう。

前年九月、諫早から上阪して入学、月斗膝下の句会に参じたが、すでに、句はしっかりと同人調である。

いつまでも柿もがぬ家の筧かな

  鯊の串柱のひびに挿しにけり

 

 

 

生命街道気力で歩く花を見て

 

昭和五十九年四月、膀胱腫瘍処置で入院。六月病を互いに励ましあっていた市川青鼓逝く。十月膀胱全摘ストーマ装着。この後、「自己診断で体力十五%、気力六十%位か」と観じて、体力を4倍に、気力を2倍に、十二分の気力で、合格点ぎりぎりの体力を補ってゆかねばと言って居る。

ストーマは左右を交互に隔日交換で、長時間をかけて家人の手当てもたいへんだが、気力でこれに耐えられたのも、子規の病苦、芭蕉の行旅という「行」による句心の深化を、そこに思ったからであろう。

ホ句のこと命のことの秋思のみ (昭六〇)

長命の慾を出しけりホ句の春  (昭六一)

秋風や不治の病を句に生きる  (昭六二)

妻があり俳句があるや老の秋  (昭六三)

秋の夜のその内二刻学ぶ老   (平元)

春風や句の戦場の車椅子    (平二)

短冊百枚書いて涼しく倒れたし (平三)

 

 

 

ホ句の外は老に学ばず四月馬鹿

 

 「ホ句の外」とは、世事のことである。同時の句に、

  ホ句の外は老に学ぶや四月馬鹿

がある。二つ並べたのは、およそ世の成り立ちは、一枚の紙の裏表のごとく、両立するものだからである。

 前句は、己は風雅の道を尊しとし、それ以外の俗事は、あえて学ぶ(真似ぶ)ことをしないという後句は、己は己が風雅に矜恃を抱くが、こと世間の諸々については古い経験則のままに従うというのである。

それが愚なのか賢なのかという、生き方の選択を問うのではない。本来、「四月馬鹿」とは虚実の世界なのである。平成三年、没する四ヶ月余り前の作。

 

 

 

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