正氣のこと

 

松本島春

涼しくす

 

学生時代に、単位試験にあたって毎年同じ問題を出す教授が居られた。大事なものは毎年大事だというお考えからである。俳句を語るに、商業俳誌は毎月そのテーマでも替えないことには商売にならない。俳句では、取り上げるべき不易のテーマといっても、そうそう数あるものではない。だから俳句のことよりも、時流の俳人を並べることで変化を成り立たせている。

縦方向に見なければならないのが進歩である。横に並べての評価基準には合わないのである。正氣前主宰は、進歩とは光明へ近づくことだという。光明をここで特定することはしないが、そういうものを先に置いての努力の過程と、当然の帰結とを見るのである。その証の「正氣俳歴」の連載を今月号で終える。

『春星』も、創刊以来すでに半世紀を越え、ご高齢の句友も多い。毎月欠かさぬご出句には頭が下がる。伺えば身近の誰かれも、そのご家族によれば、日常生活機能の衰えにもかかわらず、こと作句機能の点だけは、唯一といってもよいほどに、ちゃんと保持して居られる様子らしい。見事である。

正氣前主宰の七十二年を数える句歴の最後の作品は、

 心経に力を借りて涼しくす      正氣  

で、八十八年の生涯を終わる三日前である。息苦しさが少し落ち着いた間があり、上半身を起こした姿勢で「心経に力を借りて」と言うのでメモした。しばらく頭を左右に揺すっていた。「あとは季題じゃね」というと、嗄れ声で「無季でええ」と呟いた。暫く目を瞑っていたのだが、そのうち「涼しくす」とはっきり声に出した。つらくてじっとしているものとばかり思っていたが、思い出して、推敲を始めていたらしい。

多年の肺気腫による呼吸困難は、傍目にも痛々しかった。鼻管吸入の酸素流量をもちっと増やせと命じるのだが、目の前で三リットル近くまであげ、やがて又二リットルに抑えねばならぬ。脳の酸素消費もぎりぎりであったろう。身体もまさに骨と皮であった。こんな中でも、大脳皮質の作句中枢は、機能していたのである。

記憶し、認知し、判断し、総合し、表現するという、俳句の、俳人が生涯かけた、ニューロンの接続構築である。本当の精進を続けられた皆様に見られるように、たとえその身老い衰えるとも、簡単には崩れない。

この句、大概は、「涼しさよ」「涼しかり」「涼しかろ」くらいで結ぶのだろうなと思う。正氣はこれを「涼しくす」と措辞しなくてはならなかった。七十年余の句歴がなす、いわば正氣俳句の構造である。私は、「涼しくす」に正氣を見るのである。

(平成十一年八月)

 

春星舎始末

 

春星舎の庭木についた蝉殻も、正氣八回忌だから、羽化まで七年という計算からすると、もはや父の耳に響いていた油蝉から直に生まれたのではあるまい。

市道整備とかで、庭だけでなく取り壊さなければならなくなった春星舎だが、庭の数基の碑の処置を先延べにしていたところ、急に日取りが決まってしまった。九月六日からということである。前日の日曜に、土曜句会までと掲げていた、玄関の月斗筆の「俳句道場」額も外し、暗くなって庭隅の小石のことを思いついた。父が西望先生とあちこち観光旅行したりした際に拾った小石で、のち正氣俳句として表れる「胸中の山川」のよすがでもあろうかと思うと棄てられぬ。

また、押入れを整理して、メモ書きみたいな晩年の父の句帳が幾冊も出てきた。その日の句会の出句と選句が記されていて、推敲の跡もそのままである。成形された句集の作品よりも、肉筆というものは、そこから臨場感というか、身体感が伝わって来る。

春星舎は、昭和四十五年晩秋に完成した。上等とはいえない造作だが、俳句道場として、句のともがらの寄るべとして、皆さん方をお迎えしたものである。また十坪の庭づくりは、青年期は自称机上作家、「俳句は、胸中の山川を創造し、これを最も純粋に表現すべき」とした正氣を、可憐な山野草に文字通り触れることによって、「小生の俳句にも、新境地が拓けつつあるような気がする」と言わしめたのであった。

春星舎は四日間で形を失った。残る地積は僅かだが、一緒に仕事している息子の住まいに当てることにした。まだ先のことだが、玄関脇に作るらしい小さな間に、四季折々に春星舎ゆかりのものを置けと申し入れた。少女像や句碑は、仕方なく、小生のほうの二階玄関への階段の踊り場を考えている。

形を失ったとたんに消えるものもあれば、そんなことでは消えない存在もある。俳誌で、そのスケールメリットを惜しみ、誌名のブランドを維持するケースもあろうが、正氣主宰没後も、『春星』が必然といえる姿で継承刊行されているのは、その俳人たる心を伝え残すための、これもよすがである。

囚われの文天祥が、土牢に充満する悪い七つの気、水気、土気、日気、火気、米気、人気、穢気を克服できたのは、常に浩然の気を養ったからだと『正氣の歌』の序は言う。春星舎の始末を見ながら、そこに滅せぬもの、厳として存するを知るのである。その「哲人は日にすでに遠きも、典刑が夙昔にあり。風吹く簷に書を展げて読めば、古道 顔色を照らす」と結びたい。

(平成十一年十月)

 

乾坤正氣

 

先月号表紙裏の月斗筆の字が読めぬと言う。「蝦蜆螺蚌不乞雨」と七つの漢字で禅林の語句みたいだが、蝦蜆、螺蚌は成語で川や沼に棲んでいる仲間で、「カケン、ラボウは雨を乞はず」である。俳句として読めば「えびしじみたにしぬまがひ雨乞はず」でよかろう。彼らは、水中に居るので水の乏しさが分からないのか、分かっていても雨を欲しないのだろう。天候ですらも左右したいと思うのが人間さまなのである。

蚌は、沼に棲む貝、どぶ貝のことらしいが、漢字でこう書くと、こいつ、どぶ貝が面構えや何々魂みたいなものを備えているような気がして来る。そこから、漢字の持つエネルギーと、それによって成り立っている短詩型があることをつくづく感じる。

ワープロが進歩してきて、漢字の力が見直され、ディスプレーの中では、アイコンという名の象形文字、つまり漢字が、かつての国語改革論者も顔色なしの人気である。やけどは濡らすなと膏を塗った時代から、今では、急いで水でジャージャー冷やせという治療法へと回れ右したのと一緒だ。

六月半ば、喜々津の叔母の葬儀に急遽参じた際、あと長崎へ出た。丸山の『青柳』の叔母にも逢って来た。諫早から長崎へ、句の仲間のことを思ったが時間がなかった。このとき、近くの崇福寺で、夕暮れの光に掲額を仰いでみた。「初句会即非が掛かる寺座敷 正氣」の即非の書ではないようだが、薄い記憶の「乾坤正氣」はあった。もう一つの「山河正氣」の額に今回気がついた。乾坤も山河も同じことだろう。

後に、昭和十八年の正氣作に、「五月鯉躍りて山河正氣あり」、「乾坤の正氣呑む也五月鯉」を見つけた。正氣とは、天地正大の気、天地の根本の力である。

正氣の俳号は、本名の正喜を音読したものである。その正氣だが、子規の例もあるといっても、正氣忌(セイキキ)とは発音しにくい。今月十四日が正氣忌に当たるが、何々忌という季題は、相集う行事としての継続性がないと、不熟で定着し得ないものである。子規忌のように百年が近くなると、季感が生まれ、数々の秋の草花が思い浮かぶのである。

子規忌は、月斗派で特に重要視された句の行事であった。正氣前主宰も、年頭句会と子規忌句会には、当時の汽車の夜行で上阪して夜行で帰るという強行軍を楽しみにしていた。子規が世を去った日であり、その生涯を偲ぶ行事であるにしても、修忌そのものに、師弟の道なるものをまざまざと見ることができる。真の師とは、死してなお指導を続ける存在のことである。

(平成十年八月)

 

奇は大可なり

 

あとでと思って、思い付きなど紙袋に入れて保存しているのがそのまま溜まって来て、時々整理することになる。新聞の小さな切り抜きが二枚出てきた。

一つは、「発掘含め寒楼五百六十句 子規激賞、放浪の末死す」という地方版記事で、郷土鳥取の人たちが、田中寒楼の句を冊子にまとめて世に送ったと報じている。今回は『春夏秋冬』入選句をはじめ明治期の句である。寒楼は戦後暫く消息不明だったが、月村さんより一年長生きされた。見事な白髯の写真だが、諫早での廿半ばの正氣とのツーショットと見比べて、五十を出た当時のつぶりの形はそのままだ。

寒楼の原稿や書簡が保存されているが、判読しにくい筆遣いである。「はいくは芭蕉に始て芭蕉に了る。蕪村にはいくなし。蕪村のはいくはあり。」と喝破する。蕪村一辺倒の環境の中での見識であった。純正俳句は芭蕉で極められ、以後の俳句は作者色した俳句、いわば近代化したと見るのであろう。

もう一つは、三十年ぶりに棟方志功の襖絵が発見されたと、京都精華大所蔵のその展示公開の記事である。「香雲荘」で思い出したが、学生の頃、川井かすみさんと枚方句会で訪ねたことがあった。うろ覚えだが、大阪で有名なビフテキのチェーン店経営者のもので、古い土蔵を改造して、民芸の壷などを並べたほかは志功ずくめであった。新聞の写真では、四枚の襖の手前に花盛りの枝と亀と鯰が描かれ、花深と大書してある。あとの襖の画は判別しがたいが、処、無、斧跡の文字がある。「花深処無斧跡」であろう。昭和二十七年十二月作とあるから、私がそこへ行ったのはその前後だった筈だ。この襖画を見ていたとしても、深山の静謐を感じるには程遠く、奇矯としかそのときは思わなかっただろう。

若い頃の前主宰も奇才正氣と呼ばれたが、この奇は大可なりだと言うのである。白川『字統』で、可と奇の初形初義が、それぞれ木の枝と曲刀で祝詞の器を責める、のは肯けるが、文化の積み上げを経た説文の「奇は大可」もまた面白い。ほかにも「奇は人が一本足で立つ形」というのは、常でないから人目を引くわけだ。但し、奇を衒うは、照らふで、観てみてと天守閣に夜間スポットライトを当てて売り込み、観光寺院がサーチライトで夜空を撹拌して宣伝するが如しだ。

幽境に、人期せずして万朶の花と出会えば、息を飲み胸轟かし、よしと口走ることだろう。大可の「可」はその声だとも云う。人跡未踏の林中の花は、内に発する輝きを湛えて、自然の光量以上に目に眩しく見える。これ大可なりといえよう。

(平成十三年四月)

  

縦並べに見る 

 

種無しの大粒葡萄をそのまま冷凍室でシャーベットにし、ポリフェノール豊富な果皮まで齧るのはいいが、晩秋の松茸を密封冷凍保存して正月の雑煮の具にというのは、あまりうまく行かなかったらしい。現状の維持回復がそのコンセプトだからだろう。

食べものでも、昔から代わり映えのしない餅に比べ、しゃれた色と形と香りのする菓子パンが好まれる現今である。カビが来た餅は表面をこすり落とせば済むが、菓子パンでは始末がつかない、とも言える。

句集に蔵した句は過去だが、雑誌の句はまあ現在に近い。決して安定したものとはいえないが、鮮度が高い。月刊であるのでそれが持続する。というよりも、投句は月々是新に努めねばならぬのである。

かつては諸国武芸修行の者が立ち寄った『春星』俳句道場も、その精神はあくまでも不変だが、世に俳句を冠した道場や塾や教室が、その清冽な語感を失っている現在、いまは寺子屋と言い換えたほうが、特に『春星』の筆子の人数からいうと適切かも知れない。寺子屋は読み書きの文字教育の場であった。始めは教よりも育の部分のほうが大きかっただろう。進度に応じての個別指導の場であり、掃除や使い走りの生活指導が融合し、敬愛の師弟関係があったようだ。

五官で掬って頭蓋へつめる教育というよりも、寺子屋は、全身の毛穴から魂に沁み込んでゆく教育であったろう。字の書き方の評価はいちいち筆を執っての雌黄を加えることによる。評価は個々人のゴールへの到達度が基準の絶対評価であるが、息遣いのある肉筆による雌黄は、アメでもありムチでもあったろう。

スポーツ選手と監督の関係を左右横並べに見ると、名選手必ずしも名監督となるわけではない。大相撲の部屋の親方やプロ野球のコーチを見ても判る。ところが、ゴールインした選手が真っ先に監督を見つめる眼差しは、縦に上下方向のものである。

個別指導に当たっては、そのぐんと伸びんとする時節を予知し把握し、アメとムチを与えるのである。これに発止と応じる気合いを持ち合わせるかどうか。

イベントで、複数の選者が居て、無指定で句を提示し、各選者の評価の合計で一等二等を決めたりしている。客観とは横並べの見方である。真っ直ぐ前を見て、信じる選者の主観に体当たりというのが文藝修行であろう。

眼の前を走っているのは前月の自分である。時をたがえた自分が走っている。自分を追い抜く徒競走である。求道者の姿は、昨是今非、今是明非である。こうして俳生涯を刻むのである。

(平成十三年十一月)

 

鏡 草 

 

 去年のアトランタオリンピックで、笑顔の良い競輪の選手が自転車競技のメダルを獲たが、他の種目にもプロの出場が許されているのがあるようだ。考えてみると、その力を妨げる方に作用するスタンドプレイなどの、興行的なファクターが皆無で、ひたすらに、より早くより遠くより強くが目的であれば、二六時中スポーツを職業として働く選手でも、直接それを対価としていないノンプロやアマと、今では区別することもあるまい。

俳句はあまり売り物にはならぬので、そのような職業俳人は希であるが、道場『春星』は、いわゆるアマ、俳句愛好者にとっては、いささか敷居が高い気味かある。昨夏話題のカイワレ大根の栽培というか製造というか、至って大量速成であることを知った。元来、貝割れ菜は間引き菜、畑に残って大根になるには半年掛かる。

「三十年この道遠き子規忌哉 月斗」は、子規没後三十年の感慨であるが、「三十年」は禅語である。まだまだである。なかなかいい大根にはならないのである。しかしそれを目指して生涯かけて精進する者がプロの俳人といえる。カイワレ大根の新鮮で、ピリリ、シャリッとした味わい、その目途はもとより結構である。しかしいったん句を志したからには、大根にまで育つ、一生を見据えた大志を抱くべきであろう。俳人の生長は、それこそ、大根どころか朝鮮人参の如しかもしれない。

正氣前主宰が、石の上にも三年とか、巻藁三年とか、まあ十年はとか言うと、決まって、特に春秋高くなってから始められた方は、言葉の終わる前から頭で計算されて、それでは私は何歳になってしまうとか、その頃はもうどうやらとかおっしゃって、よく叱られていた。「年の豆の回数ではない」のである。あれこれした経験とか、句を作ってから何年になるという日めくりの枚数もそうである。「三十年」が一生でもあり一瞬でもあるのと同じことであろう。

 才能がないのでと言うと、それがどうして分かるかとまた叱られる。「それは自分が決めることではない」のであって、天分を云々するのは、神の領分を浸す不遜の仕業なのである。月斗先生の言葉に「九代目団十郎は大根役者といはれてゐた人だが努力で天下の名優になった。雁治郎も五十年の熱心と精進に依て大を為しあげた。決して、信仰も持たず、努力も払はずには句が分るものでない」とある。ご贔屓の初代雁治郎のことである。

 つまり「天才は名人にはなかなかなれないが、鈍才は努力により名人になることがある」のである。ならば、「ことがある」のほうに賭けねばなるまい。『春星』は大根畠である。息長うかんばりましょう。

(平成九年一月)

 

青年と俳句

 

正氣前主宰は、最晩年を除いて、自他ともに万年青年の認識であったが、「青年」を狭義の時間的なライフステージの謂いにし、この時期の「断片語」(『夕立』第一号所載)を掲げておいた。読めば青臭くて冷汗ものだが、昭和二年だから数えで二十四歳の夏である。長崎から故郷の諫早に戻ったばかりで、「患者控室より日本新八景の筆頭雲仙岳が遠望されます あれなるを雲仙太郎とや云はん 正喜」と裏表紙に開院広告している。

『夕立』は、大学ノートの半分大の版で表紙とも二十頁、発行は数十部ほどだろうが、月囚、圭岳、草牛、圭史が句を寄せている。編集後記に、当時の里鵜さんが、暑さの中生まれた『夕立』は「熱と力との所有者だ」とか、発行所での俳句夏行に諸君馳せ参じようと檄を飛ばすと同時に、「小生神経衰弱にて作句中止遺憾の極み」とあるのは微笑ましい。神経衰弱とは、当時の青年期のいわば通過儀礼みたいな状態である。正氣、里鵜、紫石英ら青年たちの意気込みが伝わる。

時代的には、いわゆる地方での俳句作りは男性が主力であった。それも、文芸に立ち向かう勇気ある志士たちであり、少数派の女流らは概ね熱心な文学少女であったようだ。今と違って、俳句という、ある種濃厚な領域に彼らは敢えて踏み入って行くのである。

寝椅子でポテトチップをつまみながらというカウチ俳人とか、この点では昨今は気楽なもので、大きなメディアが盛んに取り上げるものだから、俳人は、肩身も狭くないというものだ。

前号の続きで言えば、私は翌年の再編成で女子と一緒の三原高校三年生となり、俳句班が消えて文学班に移り班長に就いた。『ひびき』という雑誌を出して、福田清人先生に寄稿してもらったりし、当然ながら俳句色は薄れたが、その頃のある種のコンプレックスが消えた。

いまや俳句作家は女性が大勢を占め、俳句は日常現実の文学になったのである。かつての「熱と力との所有者」たらずともよいのである。

先のイニシエーションは、本来一般に男子に対して行われる現実転換の儀礼である。現在では、遍歴修行のゲームソフトの中に形となって残って、子どもたちを熱中させているらしい。世は日常が日常として存在しつづけている。小説家、詩人、エッセイストらの俳句観を以って、これまでの俳人の俳人による俳句観を、容易に上書きされている。しかし、楽しみながら上達できる時代だからこそ、熱と力とが要る道を進むほうが夢が大きいというものだろう。ここで、「青年」を広義のものに戻しておく。正氣前主宰を思い出せばいい。

 (平成十二年八月)

 

求道者 

 

前主宰松本正氣、浄樹院釈春星居士の七回忌を迎える。「正氣俳歴」に見るように、大正九年三月より平成三年八月までの俳生涯は七十一年、しかも隙間無しだから、日数に換算してもいいだろう。内容的にも決して一息ついていないから、正味の時間である。

まだ診療をしていたときには、「歯医者は専業、俳句は本業」と言っていた。夏など、当時の住まいが湧原川の橋の辺にあったから、樗の高枝にクマ蝉がシャンシャン鳴き疲れるころから診療を始めて、夕凪時を過ぎて山風が橋に吹いてくるころに及び、時を待ちかねて毎晩のようにやってくる句会の連中と題を課しての深夜までの句三昧、幼い私にもぼんやり記憶がある。「さけのんであたまをたたくとうこかな」というのが、伝わる四、五歳ころの島春作の五七五だが、とうこというのは森田燈古で、鉄道勤めの帰りに酔うて赤い顔をして立ち寄っていた。いつも上機嫌で、感心したりすると額をべたべた手で打つのが癖であった。

 正氣俳句は、この世の森羅万象を何でも俳句の形で捕らえることに力を尽くすところがある。「扇風機の音の暑さに耐えられず」、「歯を以てビールの栓を抜かんとす」、「茎の石を抱へしが悪し流産す」、「壜の死胎児寒し女のしるしある」など『同人第二句集』の昭和初期の句はこうした素材面での横の広がりを探る。

『同人第三句集』では「歯固や三十二枚揃へる歯」、「社あり白沙青松初驛」、「旅や春瀬戸内海の魚の味」、「でで蟲の角の機嫌な害ひそ」というような表現の完成度を求める熊度である。

その後の『句集時雨』は「子宝や行水に名を呼び惑ふ」、「竹植うる日よ蔵澤の竹掛けん」、「どの幅も印つき正し山陽忌」、「蕪村忌や牡丹の発句就中」のように情緒を出来るだけ押さえた素材また表現である。含羞とも言えるが、それでも人間臭さ、人肌のぬくもりを意識的に避けている点で、いかにも損をしている。

本来、俳句は面を付けているのであるとはいえ、この俳句的な熊度は死の直前まで一貫している。そして、憩いよりも前進を取るのであり、曖昧さを放置せず、完全を追いつめるのである。

 「老の春夜はゆめ七うつつ三」、「花の酔覚めたそかれかかはたれか」、「ホ句の秋そのフィクションも神わざも」、「(妻つゆ子忌日)妻と呼ぶ水よ女と呼ぶ露よ」と、これらの没前平成三年の作にも、抑制の効いた句への激しい情を見ることが出来よう。

 「誰かがもう作っているか」、自作を示したときの反応に対して、周囲に訊ねる言葉であった。

(平成九年八月

 

病俳一致

 

前主宰の長崎、崇福寺の句(昭三八)を追加する。されば「山河正氣」の掲額は即非の書のようだ。

(「山河正氣」)胸中の春塵払ふ額は即非  正氣

正氣の号は、名前の正喜の音読でもあるが、その前の死灰は歯科医である。今は字面のイメージが悪いが、死灰は、「復た燃えざらん乎」の故事もある。

その死灰の死の字を嫌がったのは、子規研究家の茂野冬篝であった。この人は肺結核療養中に『肺病に直面して』という本を出して版を重ね、その後になって同病の子規の研究に没頭した。亀田小蛄はこれを病俳一致と呼び、『同人』子規居士三十回忌特集号の大冊を企画し、子規三十三回忌には、大竜寺の子規の墓側に墓誌銘碑を建立寄進した人である。

寒川鼠骨著と茂野冬篝著と、二冊の『随攷子規居士』がある。二人の共著で刊行が予定されていたのが、戦時中で出版不能で、冬篝は他界し、戦後、鼠骨が自分の文をまとめて同名の書を出版した。冬篝の文は、数年後に同人社より名を小さく冠して『茂野随(ママ)子規居士』として世に出た。その中の「病子規居士」で、評判の本で取り上げた高山樗牛と、その後探求した子規の療養生活を比較し、子規に見る豁然開朗たる病者振り、妥協苟合せぬ自主的療養生活に敬意を払っていて、子規の病者としてのキーワードを、明徹、闊達、常臥、趣味、知足とする。前主宰が病中大いに共鳴していた境地である。

長らくご療養中であった田谷小苑さんの訃を少し後でお聞きした。大患のなか、欠かさず出句されておられたので、このところ、気に掛かっていたのであったが。

前主宰より一歳年長で、初句会のお屠蘇を酌み上げる際に、これより三役、小苑さんが大関じゃと、前主宰はご機嫌だったのを思い出す。永く『春星』で精進され、ご高齢で且つご闘病中の姿を、前主宰は「精神力だと、云うのは楽だけど実際なってみなさい。中々成れませんよ。私はあんな俳句を志しています。俄かに成るものではない。そのためには精進して、ああ云う風になりたいと私も思います」と、小苑さんの作句態度を賞賛していた。これぞ『春星』の望むところ、目指すところと俳句観を述べている。

句は生涯を彩る補助ロケットではない。生涯の推進主力ロケットなのである。

冬篝が、正倉院展を見て来て「あそこには唐傘の骨は無かった」と言った。裸馬先生の説明では「ガラクタがない」ということなのである。私の子供の頃は、骨だけになった唐傘をよく物捨て場で見かけたものだ。生を終わってみてガラクタであってはならぬ。

(平成九年九月)

 

天狗さまの話

 

思い出せば、父が何か痩せ腕で力の要る事をするときなど、「りんぴょうとうしゃでやろう」とか言って、特に「りんぴょう」の辺りはそれらしい声色で「かいぢんれつざいぜん」と口調を早めて、「えい」とやっていた。普段にないその生真面目な声と顔付きが子供心に可笑しくて丸覚えしてしまったのだが、後にあれが修験者などが使う九字の漢字であると知った。

先月、正氣の「鞍馬山の天狗さま」に触れたが、質ねられたので少し記す。現在の自分の持てる力を十分に発揮することは、難しいが、出来ないことではない。しかし、十二分に力を出す、つまり、いわゆる火事場の馬鹿力をさらに強化して、進歩上達するということになると、これはもう人間の力を超えた領分に入る。

鞍馬山の天狗は、なぜ牛若丸の前に現れたのか、それは、親の敵を討つ一念で、牛若丸が文字どおり懸命に稽古に打ち込んだからであると言う。天狗さまに教わろうと励んだわけではない、そのあまりの熱心さに天狗さまが出てきたのであると言う。よい句を得るには、天狗さまが出てくるほどに句に打ち込め、である。

限界に近づくという点で、言葉の五七五定型化もそうだが、題詠もその一方法であろう。一題百句も作れば、大よその句想は涸れ切ってしまう。断食のように、自分を想念の飢えの状態に置くこと、咋の自分を越え得るのは、そこからであろう。

それは、身のところを削ぎ落として食うところが無い骨だけにしたみたいだ。おいしいところというのは、短歌的な、心に思ったことを声に出すという、叫びや呟きのような部分である。その点俳句は口を噤んでいる。そうせざるを得ないでいる。それがどうしたのか何を言おうとしているのかと聞かれても、どうもしないそれなのだ、としか言いようが無い。

短い所懐めいた内容の、一時期のいわゆる自由律の俳句が、版画や色紙の賛になったりしているが、ジャンルとして、むしろ非定型の短歌に分類すべきなのかなと思ったりする。

今様の俳句で、一読、シャーベットのようにおいしいそれも同様である。俳句は、どちらかというと、花束というよりも、草根木皮のように、ごつごつと言葉を据え付けたような、舐めただけでは味が感じられないようなのが、前途頼もしく感じる昨今である。

これは外形のことだけを言っているのではない。居心地のよくない感じというのは、住み慣れたところに居ないからであろう。快適で安楽なところに「天狗さま」はやって来ないのである。

(平成九年十二月)

 

浄樹院釈春星居士

 

 前々から「頼む」と口にし続けてきたことであったが、前主宰はなくなる三日前に、『春星』の引き続いての発行を私に託した。

 『春星』初号は、昭和二十一年七月の発行である。その編集後記(正氣)には、「俳句そのもののやうな素朴にして内容豊かな雑誌が出来上ったのは嬉しい。プリントには慣れぬ上に、昼間は落ち着いた間がなく、燈下で、近来老いを覚え初めた眼で、原紙を切ったので、至宝の内容が読みにくいものにはなるまいかと、それが気がかりになる」とある。

 素朴とは、西洋紙一枚二つ折の謄写版刷のこと。内容豊かなとは、春星俳句が青木月斗選、それも句稿は半紙に墨書して選者加朱の上返送というもの。近詠に青木月斗、阿部王樹、高浜虚子(宮森教授依頼)。文章は、大阪俳壇研究の亀田小蛄、俳句英訳の宮森麻太郎。また、月斗先生を正気庵に迎えての句会記事「晴雨間日」を正氣が記している。読みにくいとは、謄写に当たり、正氣自らが鉄筆を握り、家族で黒インクにまみれて刷り上げたからである。

 もともと『春星』の創刊は、昭和十九年九月に始まる月斗先生による通信指導の会、「中国同人会」の継続という形である。つまり戦時下において、大阪の俳句雑誌は統合されて『このみち』一誌の発行となるが、月斗先生はこの雑居をよしとせず、『同人』は昭和十九年四月をもって一応廃刊となった。この間の空白を埋め、月斗先生の指導を絶やさないため、直接に句稿を先生にお送りする方法を取ったのである。

廃刊号である『同人』四月号で、月斗先生は、前主宰のことを「三原の歯科医松本正氣。何かせぬと気がすまぬ男」と記されている。戦争も末期の様相の中、ここに月斗先生と正氣との、句を愛し、句を命とするもの同士の呼吸が感じられる。

ちなみに前主宰は、ある句の掲載につき、特高に喚ばれたこともあったと聞く。戦争当時、句を作り、俳誌を出すということは、かくあるべきなのであろう。

 父の柩と共に火葬場までの道、私は父の写真を胸に抱き手に位牌を捧げていた。そこには、俗名松本正喜 行年八十八才と書いてある。私は表のほうを向けて見た。喪主としての緊張の中で、まだ父のことにつき、しみじみもの思う暇はなかったと思う。墨痕の「浄樹院釈春星居士」、その「春星」の二字が胸に留まった。家業のことや世間のことは、年齢なりに受け継いでいる私ではあったが、少しばかりの空白が、そこから始まり、拡がってくるのを感じていた。

(平成三年十一月)

 

天の橋立

 

 縁があってより、北村西望先生に毎年新年号の表紙絵を描いて頂いていた。その後は春星舎にある先生の遺墨を年間通しの表紙に使わして頂いている。

今年は、昭和三十九年六月号の「春星舎雑記」に、「姫路日展に御西下の北村西望翁から誘われて姫路から玄武洞、日和山海岸、城崎温泉、天の橋立、それより京都へ出て名神高速道路をドライブして宝塚温泉へと五日の旅を重ねた。最高に楽しい旅行であった。旅中先生の御人格に触れて正氣も知らず知らずに成長したことだろうと思う」の、「天の橋立」のスケッチである。

  天の橋立を股のぞきすべく傘松公園に登る。

(傘松に題す)西望の筆勢に似て枝涼し    正氣

(天の橋立)旅薄暑一握の砂家苞に      同

  与謝の海霞みて夕日撮るべかり       

(スライド試写)幻燈も股のぞきして視て涼し 同

 西望先生三回忌に当たり、北村治禧、正五様により刊行された西望俳句集『春風悠々』を頂いた。疎開時代から西ケ原時代、井の頭時代と、百歳までの折々の所懐を、天衣無縫の詠み振りでの句の集成である。集中、この日の天の橋立での句は見当たらぬが、前主宰と旅を共にされた時の作を二、三あげて見よう。

昭和四十年

(十国峠)秋富士を見下ろして飴しゃぶるかな  西望

(三保松原)昭和の小春鴎の羽衣ふわりふわり  同

(十国峠)爽や富士に対へば富士匂ふ      正氣

(箱根)箱根路に自づと唱歌老の秋       同

(葦の湖畔)露万朶妻と並びて富士拝む     同

昭和四十一年

(対馬)舟たのし島又島も永き日を       西望

(浅茅湾)鋸割のその面ン光る春の市      正氣

と、楽しい旅の雰囲気が偲ばれる。

対馬での正氣吟は「春宵や西望翁の甚句聴く」であり、熱海では「温泉プール澄めり八十路の老泳ぐ」である。そしてこの天の橋立では、「今日は子どもの日とて子ども連れの客多し。リフトに興ぜらるる眉寿西望翁へ 八十の子どもリフトに子どもの日」であった。

 さて、その地に、平成四年の奇しくも同月同日、私は同じ景色を覗いていた。急に決まった行程が判り、私は旅嚢中に『春星』を納めた。快晴の傘松公園での写真には、手にしたその表紙も写っている。

(天の橋立)正氣西望眩しみにけむ松の花   島春

後で気がついたのだが、数えて正氣、島春同年の出来事ではないか。おそらく元伊勢籠神社では、同じように厄除け息災をお祈りしたことであろう。

(平成四年七月)

 

胸中の山川

 

 前主宰は、『同人』第二十巻第十号(昭一四)に、「房女の牛の句について」の評を月斗先生に命じられて書いている。その際、月斗先生は、「五六氏に問ふた。それに一筆添へ書をした」と、その解説をされている。

月村への添書きは「饒舌を禁じて試問及第を祈る」で解説はない。涼舟には「汝は牛を知れりや」(近江産であるかどうか)、方樹には「雄弁の一筆を俟つ」(雄弁会講談社式の雄弁の定評あり)、滴萃には「東京駅地下夏日永し」(忙しい滴萃いつもコーヒー一杯で原稿を書く)など。

正気には、「机上の作家。机上に牛を割くべし」(予が作句は全部机上のものなりといへるによる)とある。 田村房女の同人俳句は毎月上位で、そのほとんどが牛に因んでおり、「牛の房女」と称されていた。句の鑑賞に、素材である牛のことを知る知らぬが鍵となるかどうか、「机上の作家」よ如何にと問われたのである。

 正氣の評に曰く「牛を飼わぬものには断じて出来ぬ句である、と言っている者。牛専門で入選句数を稼いでいる、と難じている者。牛ばかり詠んで種切れかせぬことだ、と感心している者。は、ついに俳句殿堂の人になり得ぬ哀れな衆生であろう」と。

 そして、「そもそも俳句は、胸中の山川を創造し、これを最も純粋に表現すべきであり、これに最適したる詩型である。見。聞。読。より得たところのものは、胸中の山川を創造する材料に過ぎぬのである」と続く。

 モチーフによって作品の評価をすべきではないというのである。また、いわゆる机上作とは、頭のなかで捕らえあげた薄っぺらな作品を言うが、敢えてそう宣言するのは、句は単に眼前の事物の記録ではないと言いたいのであろう。だから、房女の「牛の句」ではなく、「房女の句」である。ことは事物でなく、作者である。

 日ごろ心して、胸中の山川を豊かにすること、研ぎ出すこと、畢竟「句は人なり」である。句作に当たっては、机上たちどころに胸中の山川を繰り展げ、これを詠ずる態度であった。正氣俳句、月斗俳句を味読することによって会得されたい。

 句で評価されるのは、その素材ではなく表現である。富山奏先生が第三六巻八号に書かれた一部を次に引用させて頂く。

 「『おくのほそ道』なる俳諧紀行は、奥羽行脚の体験的事実を素材としながらも、虚構の創作たることによって、文芸作品となっているのである。芭蕉の歩んだ奥羽の天地は、俗界の旅路であったが、彼は作品『おくのはそ道』を完成することによって、奥羽に芸術世界を構築して見せたのである。」(創作『おくのほそ道』)

(平成四年十一月)

 

俳句道場

 

春星舎の玄関を入ると、月斗先生が題された「俳句道場」の額を目にする。ずいぶん煤けているが、句稽古精進の跡とも見える。

現在、春星舎では月二回土曜日午後に、「土曜会」という小句会を開いている。発足は備後横島から三原に転居後まもなくの昭和八年四月第一土曜日夜で、今年で六十年になる。近年を除き毎土曜夜の開催であった。

写真で見ると、ほぼ二十代の生きのいい青年揃いである。戦前は各専用の墨壷、筆を備え、鴨居に席題を列記した半紙を上に重ねて止めていた。盆正月には徹宵吟や五夜吟など。応召軍人武運長久祈願徹宵吟などもある。「二十日より防空演習、十九日の十二時を過ぎたら何時開始されるか解らぬ。それで午後早々から開会することにした。()翌払暁灯火管制が始まるまで句作にしのぎを削った」という記事もある。

丈義さんの春星大会メッセージにもあるように、『春星』は春星塾、道場と言っていい。書店へ行けば、読めばいい句が出来る気分になって快いという効能書で、句作のノウハウ書が山積みしてあるが、現実は、道場での怠らぬ稽古以外に捷径はない。大会挨拶で申したが、展示の月斗先生の正氣宛葉書帖を見ても、月斗先生にずいぶん甘えていたのが判る。しかし先生は弟子を甘やかさなかった。可愛がったけれど、こと句に関しては厳しかった。だからみんな月斗選に入ると喜んだ。

今の世相は違っていて、師に甘えることをせずに甘やかされることを望んでいる。それは沢山活字にしてあげるほうが喜ばれるが、俳誌の雑詠選は指導であるから、よい作家を育て、よい一句を産ませるためには、選は厳しいのがいい。動物に芸を仕込むのもアメとムチがはっきりしていないと覚えない。まして自力では厳しい。

里芋の皮を剥くのに桶に入れてぐるぐる芋をこね回す芋こぎのように、切瑳琢磨する場が必要と思う。ここで鍛えておいて、名を揚げるべく他にそれに通した舞台へ出るもよしである。

「春星に指導者の巻頭句無し」については、しっかりと土俵に下りてぶつかり稽古をということで、主宰や同人とかの句を、活字を大きくディスプレーして載せることをしない。ショーウインドの見本よろしく責任を取る手段としても、和而不同だから必要がない。「春星作品」の選そのものが主張である。

その出句数は掲載限度の五句以上だから、五句入選のために、選者を意識して、五句手堅くまとめることは要らない。句上達への道場としての「春星作品」に真摯に取り組まれたい。

(平成五年一月)

 

子どもの句作

 

 昨秋の春星大会にも展示した集印帳の一ページ目は、昭和十年十月の福山駅ゴム印と正喜つゆ子マツモトの署名だが、マツモトは三才半の私の筆書きである。

 この帳に、昭和十一年元日の郵便消印、横島三島屋旅館での若魚吟社徹宵吟出席者の署名もある。正喜三十三とあり、五十代三名、四十代三名、三十代十名、二十代は季観など三名の十九名。平均年齢三十七才。

 一月二十四日の同人発行所のゴム印。圭岳氏同人脱退の報に接しての上阪、北山荘訪問である。事務所にて月斗、女々、間去、千燈、凡水、正喜と署名がある。

この折の記事は『若魚』二号に載っている。月斗先生への建言の数ケ条、『同人』二月号発送手伝い、北句会出席などした。「北山荘に戻ってから先生と二人きりで四方山の話。僕、死灰と号することを先生に相談したら御賛成、乃ち死灰に決定。俳号を本名の正喜にしてから十二三年になるがそれ迄は一年に二三回から五、六回は改号した。昨是今非が強きが故に一そうのこと本名にしてしまったのであった」とある。

死灰は歯科医であり、「冬籠心死灰に似たるかな 月斗」でもあるが、燃え果てた灰どころか、「独り復た然えざらんや」(史記韓長孺列伝)の死灰である。

 終りに近く、十一年四月岡山後楽園のゴム印に「ヨソノヒトガボートニノッテアソブカナ」の文字は、記録に残る最初の島春作である。話だが、もっと以前に「さけのんであたまをたたくとうこかな」があり、とうこは森田燈古。よく酒が入っていて自分の額をべたべた打って、いかさまいかさまと感心する癖があった、のだそうである。幼いのがちょこちょこ句席に出入りしたのであろう。門前の小僧、季題はないが五七五で、俳句とは哉止め、になっている。

 日常の話し言葉とは違った書き言葉でしかも定型で、言葉を使いこなすのは難しい。俳句は若人の文芸でもないし老人の文芸でもないが、言葉を扱うという点では、バイオリンやピアノなど、幼いときから楽器を使いこなすレッスンをするように、俳句も出来るだけ若いときから形の訓練をしたほうがいい。

指を折ってシラブルを五七五と数えるのから始まる。次に五七五の形の上で人に解る表現の十分さを備えること、これも熟練が要る。現在の大人は、昔の小学唱歌のような、俳句に近縁の言葉の素地があるので、ある程度こなせるが、ニューミュージック系のヤングたちには難しいだろう。その点では、いわゆる総合という名の大衆俳誌やイベント、新聞テレビの昨今の関心も、それはそれで役立つのかも知れない。

(平成五年四月)

 

俳句のある人生

 

 裏表紙に、かつての『ホトトギス』の虚子の「句日記」みたいな体裁で、正氣師の句帖の三年分ほど保存されているものをそのまま掲載している。その中の幾つかは『春星』誌上発表済みであるが、別段に印はしていない。未完成また不首尾の句も含まれている訳である。

  「俳句のある人生」楽しみ老の春  正氣(昭五二)

 句帖採録は昭和五三年正月、正気師七十四才から始める。内容については別に説明するとして、俳句のある人生をここに読み取って頂きたいのである。そこで先師が俳句のある人生を語っている箇所を列記する。

 「俳句のある人生」を楽しむことは所詮句作の「行」にある。

作句第一義である。俳句そのものに付随するものの価値を二義的なものと考える。当然のことだが、句会や吟行や何々賞とか入選句数、私家句集、何やら大会、何とか協会等々、何とも俳句人生結構楽しいし有意義だが、深く一句を案じ産み出した折の気持ちは格別で、「行」の取っかかりは難いがこればかりは実践せねば解せぬ。本末転倒してはならぬので最初に申上げて置く。

 「俳句のある人生」は彼岸に向かって句作することに意義がある。

ほどほどではならぬのである。絶対評価の世界では、決めるのは自分ではない。今日の人達でもなければ明日の我でもない。もっと長いスパーンでの評価であって、先師はよくゴッドの評価と称した。このことを信じることが自信である。それは生涯の時間を要する。

 「俳句のある人生」は上達しつつ秀句を産む運を待つべきである。「運」をつかむにも努力を惜しんではならぬ。

 句は少しずつでも絶えず上達しなければ継続し難い。そして生涯の一句の運を得たいものである。心を離さず、よい句材に出合い、表現の技術を練る、そのことは晋段の努力である。生涯の努力である。

われわれは「俳句のある人生」を「より深く」楽しむことを期し、且つ、それを楽しむ友がきを多く得なけれはならぬと義務を感じている。

 俳句のある人生は点としての個人ではない。個人的には質的な深まりを要し、周りへの広がり、触れ合いがなければ完全ではない。自身の上達も嬉しいが、句の友、先師のいう花の友に囲まれるのは楽しい。自分の楽しみを独占しないことは人間の義務である。

老人達は余生を如何に生活すべきかと真剣に考えているようだ。小生は「俳句のある人生」を老人達にもおすすめしている。

 そこで、先師の句帖をいま明す次第である。

(平成五年六月)

 

俳句の上達

 

 正氣前主宰の三回忌が近づいてきた。我らのその後.の句精進は如何であったか。

 正氣師はかって俳句の上達を期する為の要件として次のことを挙げた。

  一、自然に親しむこと

  一、作ること

  一、読むこと

  一、良き師友を持つこと

真に自明のことばかりではある。自然に親しむと云うのは、自然の中にいるのが好きだと云う程度のことではない。先日或る友人と駅構内にいた。売店で何かを手にして、孫が喜ぶと言う。ふと目に止まったのだと言う。心が近づいて行くのである。孫を持たねば良寛詩の「之に遇うて遇はず」である。句ごころあれば、より接近して能動的に自然と関わる事になる。俳句のある人生の福の一つである。

 作ること読むことについては改めて言う必要はなかろう。実行することである。『春星』は正気師の「よりすぐれた作家になることより、より入選することが巧みな作家になることでは困る」ということで、爾来、一句組五句組を問わず二十句以内の出句にしている。自ずと選者に迎合した自選を避けることにもなる。読むことでは、『春星』は三読五読出来る一ケ月の文字の量であり、且つ質である。更に月日を積むうちに、句を通して、面識がなくとも相知る仲の句の友になれるのである。小俳誌ゆえのメリットといえよう。

師とは、厳しさと暖かさで、相手を思う対機を以て説く。友とは「良き句友は上達へのライバルとして、実行への鞭撻者となる」のである。

上達とは、良い句が作れることだが、正氣師は「良い句ができるのは、天分と努力と運である」という。天分とは自分で云々すべきでなく「結果が自分の天分を知らせてくれるのではあるまいか」とする。努力については、「努力の上昇線と上達の上昇線とは過程においては平行せぬものである」とし、最後の運は、「運をつかむのは機会を多くつかむのが確率が高いのではあるまいか」と、あくまでも句作を説き続けている。

 もう少し引いて置こう。「また難しくなり、また面白くなり、これを繰り返しつつ上達するのである。句作が難しい時期に努力し、面白い時期に努力して上達するのである」と。正氣師は生涯の努力による生涯の上達を期し、それを実行した。他者が作っていない句、自分にしか出来ない句を探り、時世を超えたゴッドの領域を目指し、生涯かけてこれに近づいて行ったのである。

(平成五年八月)

 

新案特許の句

 

 正氣師はそれを目指し、一生懸けて追求する「良い句」について次のように述べている。

 俳句は具眼の士を相手として

一、明解であること

一、俳味があること

一、新案特許を得る価値があること

 これに応えて市川青火は、明解とは「平凡と平明」の違いにあるとし、俳味は、「俳味と云うと一般に所謂俳句臭いものと思うのだが師の云っていられる俳味とは、日本人の心それも永い幾千年を経て洗錬されてきた高次元の精神の姿なのである。建物にしても西洋の石や煉瓦と日本の土や木の質の違いがあるように美そのものが異なってくる」と説く。そしてとは、「自分という原野をもっともっと開拓しなさいよ」という事だとする。

 正氣流の言い方の新案特許というのは、すでに記念号の「正氣俳歴」に添えた句帖兼メモ帖の草稿のコピーに出ている語で、「先づ俳句になってゐること、その上に専売特許若くは新案特許の価値を認むれば入選」と言っている。発明とまでは行かぬとしてもせめて新案を狙わないと発展向上はないと云うのである。

 「正氣俳歴」の初期の部分には、当時としては俳句の素材として珍しい事物や社会事象が取り上げられ、後には地方色濃い素材が登場する。身辺俳句についても然りである。若さと直言直行と相伴って『同人』の奇才、異才と呼ばれた所以である。

 その正氣が九州を出て瀬戸内海の小島にやってきた当時の俳句界を見れば、或る年間句集に採録された俳誌五二誌のステータスは、『ホトトギス』『懸葵』『同人』『倦鳥』『石楠』『獺祭』『鹿火屋』と続く。

その『ホトトギス』の虚子は、花鳥風月を諷詠すれば自ずと胸奥の感情は出ると客観写生を説く。素十の「甘草の芽」の句がある。誓子は秋桜子の指摘に「妹」俳句から都会的な素材へと幅を広げ、草城は「俳句は階級を超越す」の頃であり、自由律では一石路『シャツと雑草』のプロレタリア文学がある。かくして所謂新興俳句運動が生まれるという時期であった。

 そのうち、昭和十一年、新しさを追う若者をむしろ抑えていた側の岡本圭岳が、「勉強する新鮮なる感覚保持者、不勉強な精神的早老患者、この相違が『火星』が『同人』より分離した原因」と迄に昂る人達と共に、『火星』を興したのは「進歩的俳句」の追求ではあった。

縷々記したこれらの風潮に、正氣は乗ってはいない。具眼の士明解さ俳味と、ここにある語は、そのことについてのキーワードであろうか。

(平成五年十月)

   

師を語ること

 

先師三回忌に際し、別冊に「正氣俳歴()」を載せた。『春星』発行以前の時期をカバーしている。俳歴は「俳句歴」であり「俳人歴」である。

創刊以来の『春星』をまず通読した。これは師系を継承する者の最低の義務であろう。バックナンバーがすべて再読に耐えるものであると改めて確認できたことは嬉しい。その要点メモが「春星五百号史」と「正氣筆録」である。その後で『春星』以前の、手元に現在残っている資料を、業余の時間を充ててほぼ一年間で目を通し、その関連俳誌と句帖の中から、正氣俳句の相当の数をフロッピーに納めることができた。

こんなことがあったという昔語りではない。師を語ることは道統を語ることである。師弟関係は縦の系列であるから、従来何々道と呼ばれていたものは、とかく上向きになればすっと飲みこめるが、横のほうからする学びは難しいということであろう。道場たる句会に臨むにも、いわゆるお客さん気分では得るものは少なく、我が事として立ち働くうちに上手くなるものである。

「俳人歴」として特に師月斗との関わりを些事にいたるまでピックアップしたのも、この故に他ならない。俳句の学び方がそこに顕現しているからである。水力発電のダムと同じことで、受ける側が低い位置になればなるほど有効である。特に対機説法ともなれば、心を充分低く置かねば正しく受け止め兼ねる。

特に昨今の句界では、横同志の交流とかで、特段言挙げの要もなく、寛容というか微温湯である。このような時代こそ、最も叱りやすく叱られやすい関係である師弟の道の大切さを感じる。そうした存在を持つ幸せを思うのである。相互理解や同感、納得の世界を超えた無条件受容の弟子の道を再認識して頂きたい。

 正氣師は「月斗先生は不肖の弟子正氣をそれなりに許して信じて下さった。大正十四年長尾宋斤氏が『同人』脱退のおりには同人社中とやかく噂する幹部もゐたが先生は小生にあたたかだった。昭和十年岡本圭岳氏の『同人』脱退のおりにはいちはやくお便りを下さって中国探題奮起せよと鞭撻された。大戦が苛酷になって『同人』も休刊の余儀無くなった節には「正氣に頼む」とのお手紙を頂いた。終戦後、小生が『春星』創刊を御相談申上げたところ、たちどころに承諾されて選をお引受け下さったのである」という。而して、「先生の胸を借りたお礼には先生を土俵の上で倒すことである」と。

 最後、大宇陀に「御重態の先生をお見舞いした折に先生は、僕が死んだら正氣は誰にもとらはれずに正気の俳句を作るんだね、とお諭しになった」という。

(平成五年九月)

 

日記俳句 

 

 

正氣忌月である、六月ご逝去された福田清人先生とあの世で、大村中学の同級以来を語り合われていることであろう。その福田先生の『桜鯛』への文章を本号に再録した。『国木田独歩』(昭十二)、『若草』(昭十三)発表のあと、伊藤整らとの大陸開拓文芸懇話会の満洲北支行(昭十四)の翌年に当たる。

満州行を、田村泰次郎は「旅中における福田君のはりきった、澄んだ顔が浮かんでくる。福田君の開拓地への関心は、生一本でまじりけのないことはちょっとその類を見ないほどである」と書いている。後に福田先生は「三十台の私の文学的エネルギイは、満洲の一つの魅力、建設的な開拓精神にとらえられ消耗したようである。いろいろ批判されても仕方のない私の自然の道でもあった」と回顧して居られる。

 その翌年の正気句日記を巻末に付しているが、この句帳は皇紀二六○一年、昭和十六年満洲国康徳八年とある。末尾の住所録に、佐賀傷痍軍人療養所の緑雨(凡雲)と福岡長井鶴鉱健保部の満甫(鬼烽火)の名があった。

正気三十八才、「桜鯛通信句会」の頃である。戦局急で持ち前の机上の作家たる事を凍結し、トレーニングとして、ひたすら日常の事物を句に留めたと言っている。四股と鉄砲だけでなく、土俵をそれも毎日使っている。ただ事柄の十七字訳に過ぎぬとした場合なのか、(即事)と断っている句も多い。戦後五十年の今、時代を生きること、戦争と文藝についても考えさせられる。

 戦時廃刊前の『桜鯛』に載せた「アネモネや飲むものもなき食堂車」まで取り上げて、発行者として特高の聴取を受けた際に、正氣師は、この句は、物資欠乏への不満ではない、国民は花一輪にも心を高め云々と、芭蕉に始まる俳諧史をとくとくと説いて事無く済んだ。特高氏は、切れ字のを列挙のとして、アネモネまでが無いものと解釈した(ふりをしたのかも知れぬ)のであった。

 いわゆる日記俳句は、自分の自分による自分のためだけのものだろう。句として掴み取り仕立てたとしても、作品として提示するには至らないかも知れぬが、それはそれで無意味ではない。それ自体が、日常の自分を、句に律しられた日常の自分たらしめているのである。句日記を見て、正氣師はこうして俳句の体感を保ちつつ、戦時下の句心を支えていたのかと思う。

 日記俳句を作品に仕上げて発表するのは、これを枕許から取り上げて机上へ載せるわけだから、それだけのエネルギーを費やすことになるのだ。結果としてのイージーリスニングはいいが、力を使うことをイージーにしてはならない。

(平成七年八月)

 

臨場感

 

 予てからお約束していた、ビデオの正氣前主宰の姿をお目にかけることにした。ちゃんと編集してと思っていて延引してしまったので、もうそのままにした。年二回の月斗忌と子規忌の句会席上の話を、昭和五九年三月から昭和六一年春迄の五回分、三時間収録してある。

記録にと、初の家庭用ビデオカメラとして出たばかりのソニーの自動焦点ではないベータムービーで、三脚固定して撮ったのをこのたびVHSにしたので、鮮明ではないし、音量も大きくして聴いていただきたい。平成四年の一周忌大会、これも出始めのハンディタイプの8ミリカメラで、断片的だが展示なども入れて置いた。

 戦時中、前主宰は古短冊の蒐集保存に努めていた。月斗師は、敬慕する先人以外のものを、単にコレクション趣味で手中にするはよろしからずと、実作者のそうしたものへの執着を戒められていた。

正氣の目的は、戦時の価値観での、紙切れとしての霧散を倶れたのも一つだが、古人の句の味解のためには、その人を知ることが大切であり、肖影の無い古人では、筆跡が一番人を表わすものだと信じたこともある。灯火管制の下で、『俳諧師手鑑』を繙き、俳諧史を読んだりしていたようだ。

俳句自体、本来は一句で勝負、一句が勝負のものであり、一枚の句短冊が大部の句集の活字よりも勝る場合があるのである。

 ピンぼけだが、手術後まだまだ元気な正氣前主宰のビデオ映像の姿がある。修忌句会も、亡くなる年の春の月斗忌四十四回忌まで勤めたが、肺気腫で鼻管での酸素吸入という体になってからは、撮らないでくれと言っていた。どちらかと云うと文章よりは対話を得意としたので、何回かの筆記は誌上に載せているが、文字以外による全人的な指導の態を観ていただきたい。

 同じ空間で同じ時間を過ごすに比するべくもないが、整った環境での録音による演奏のCDよりも、ライブの雑然としたノイズがあるそれのほうが楽しいし、総合ビタミン剤よりも、ラーメン一杯が元気が出るように、聴くこと以外の感覚器に入るもろもろが、全体的に、生き生きと心身を揺するものである。

 「鶏頭の十四五本もありぬべし」である。文字の羅列野中に、当事者ならではの実があれば、存在感、臨場感が生まれる。あまりに精製したものではそれが消滅している。合成品のような句ではそれが見られない。偶作ながら何となく捨てがたい句にはそれが含まれているのだろう。自然界に直に触れて与えられたものである。帰納である。

(平成七年十二月)

 

雑草・雑誌

 

 今年の歌会治の御題は「苗」であった。御製を拝すれば

  山荒れし戦の後の年々に

   苗木植ゑこし人のしのばる

とある。『春星』五十年、先人の事どもが浮かぶ。

 春星舎の庭は、没後もそのままにしていたら、今や雑草園である。前主宰の定義によれば、わしが抜いてもよろしいと許可を出したのが「雑草」であり、それ以外はいわゆる名ある野草なのであった。誰かれが持ってきて植えてくれたのもある。

或る季寄せの例句に、「苗札にヂゴクノカマノフタとある 正氣」があるが、「苗札」の例句にはどうだろうか。ヂゴクノカマノフタはキランソウで、ロゼットを作るその葉よりの謂であるが、道端に多い多年草だから、一般には、碧紫色の唇状花を好んで植えたりはしない。句は、この異名の草に苗札を与えるほどに格別の関心を抱く庵主を詠んでをる。そんな「苗札」だからである。

 「雑草」は、「栽培せぬのに生える草」とか「有用でない草」などと辞書に記されている。「雑」の字は、雑用とか雑巾とかが浮かんでどうも印象がよくない。そういえば月斗先生は、古宇(正字)の「襍」を使って居られた。衣偏に集、つまり色々の布を集めて作った衣である。パッチワークのクッションみたいで楽しい。偏見だろうが、「雑誌」という言葉も同様で、「古雑誌は燃えるゴミ」と選別品目に書いてあるとぞっとする。

『春星』は、一年分でちょうど一冊の単行本の量である。再読に堪える俳誌、つまり質的にも書架に保存出来得る密度と自負しているのである。

 今から五十年前に出ていた俳句雑誌は、当時の桃渓書房刊『俳句年鑑』に登載の誌名が三百程だから、『春星』などを考えると、ゆうに五百を越えていただろう。年鑑には亜浪、蛇笏、秋桜子、一碧楼、井泉水、一石路などが新時代の所感を執筆してをり、亜浪は「雑草は蔓る」と題して曰く、「雑草は雑草であり、雑草的に低調化し卑俗化した制作が、到処に瀰蔓して、あたら名草の芽生えを圧し休まざる云々」とある。「相寄る雑草の、浮雲の如き発表欲」のせいだというのである。今の庭の有様を見ていると分からぬでもない。今の新聞雑誌(の広告)などからでも分からぬでもない。

 マスメディアも俳句雑誌を出す時代である。そこに、気分転換かどうか詩人作家が器用な文を書いている。俳句総合誌は俳句商業誌の語呂だろう。流行り廃りがないと商品は売れぬから仕方がない。位階付けや何やら賞などのイベントも人寄せにはなるだろう。『春星』は、野草のように素朴なまま五十年を経た。

(平成八年二月)

 

くり返し読む 

 

 七月、半世紀を閲した『春星』は更に歩みを続けることにする。前主宰松本正氣に連なる縁を大切に思うだけではない。その示した俳句修行の道が真実であると信じるからである。

 前主宰は、青年期より仲間を語らっては次々と誌名を替えて小俳誌を発行した。小俳誌主義を標榜しながら、時に、今もっとも望んでいるのは誌友を百にすることだと嘆じてもいる。また一人でも誌代をお預かりしている間は雑誌の発行を続けるとも記している。句を尊び、仲間との句精進が好きなのである。俳句は、日常の人生に一刷きする彩りとか気分転換の余技とかではなく、人生それ自体であった。句周辺のサロン的なことは二も三も四もの次で、向上に直結しない何とか賞、何やら大会などのイベントは小さな楽しみとして好まなかった。俳句は米麦であっておかずではなかった。

 和而不同であり、新しい句、人がこれまで作らなかった句、人が真似できない句、更に昨日の己の句を越えた句をと言い続けた。自句を他に示して、一読にして膝を打たれれば頭をひねる。簡単に感心されたらイージーゴーイングの己を省みるのである。己を革めることを楽しみとした。剣の求道者の如くである。

 『春星』の誌名は、戦時禁じられて廃刊したローカル俳誌『桜鯛』の復活を意味しないようである。単純に季題の春の星からだと思われるが、蕪村の雅号を意識しない訳にもゆくまい。世俗に即せぬあたり、蕪村への共感は強いのである。

菅裸馬翁は前主宰を春星居士と呼ばれたが、釈春星居士、として今は位牌に書かれている。その俳人生は『春星』そのものといえるからである。秋季の「春星忌」は正氣忌の謂としたいと思う。

俳人を一人でも二人でも世に送り出す、それが『春星』の務めであり、存在理由である。俳句道場であるから、大先達といえどもぶつかり稽古の芋こぎである。小人数では皮が剥けぬし、多人数では身動きできぬ。現在、定形外郵便料の重さ五十瓦ぎりぎりの頁建てで発行しているが、高齢時代を迎えて、この度、容量はそのままだが少し工夫してみた。そのうちの二五瓦を春星作品で埋めるあたりが適当であろうか。

従って、内容は、句も文章も稠度が高いので、再読三読の要がある。頁の薄さはメリットである。一読にて足りるは、一読にしか耐えぬは、記事であって作品ではない。『春星』は一冊ぐるみ作品である。俳句とは何かと問われれば、前主宰同様、『春星』を読め。くり返しくり返し読めと答える以外にない。

(平成八年七月)

 

小庭の話 

 

 春星舎の庭にかけて前の道路を拡張する計画がある。市から植木を調べにきたりしている。本当に必要ならば公に従うに吝かではないが、正氣庵主が精根、俳魂込めて作った庭なので、身を切られる思いがする。

 酒を注げば仄赤く発色する月斗「春酒」句碑も、烏帽子形の石に銅板の「合歓の花しばしまどろむ夢の夢 西望」句碑も、西望「喜ぶ少女」像も、正氣「昨是今非」句碑も動かさねばならぬ。少女像は西望先生の見取図の御指示で作った石積みの台座で、庵主はこれに苔をつけようとさんざ苦労した。石に付く苔の種類を調べたり、お米の研ぎ汁を「精神一到」を唱えながら朝夕に注いだりした。木本草本も庵主推敲の末であった。至って小さい庭だから取捨せねばならぬ。俳句の如しである。

庵主没後は、不肖の後継ぎで、そのまま延び放題である。夫人連の手に負えなくなると人材センターから来て貰うが、これは調髪というよりもバリカンの丸刈りに近い。かくて庵主作の原形の面影だけは保たれている。

草花にはおのずから推移があり、居着かぬものは消えた。お天道様の推敲である。人間から離れれば雑草は雑草でなくなって来る。それでも春の花々があらまし終わる頃浦島草の法師姿がぬっと現れ、秋怱々に曼珠沙華。この夏も空蝉が枝にからまっていた。庵王がまだ在世中の地上に来鳴いた裔であろうか。

 庭の小さな創造主、庵主の意志は、ものを植え雑草を引き害虫を除き枝葉を整える仕事となって、目に見えていた。「十歩にして十里の山野を歩く」が如き庭と言ったが、これは単に景観のミニチュア化を意味せず、そこに立って受けるエネルギー量感のことである。今の庭の有様ではその張り詰めた感じはなくなってきた。日常化である。文章で云えば日記文の如しである。

 文芸作品が虚構の世界であることは、富山先生が現在芭蕉の奥羽行脚と『おくのほそ道』について書かれているところである。庵主は、この庭を「小生の作品である」とした。草の生い茂った空き地を庭に劃することは、五七五の形に把握するが如く、そこに、庭の作り手は、自分のイメージに従い、素材である木や石を排列する。

俳句の場合の素材は言葉であるが、庭の素材は自然界のものであるから、作り手の意志以上のもの、造化の神の手のうちにある。それを輔成しつつ庭は形となっている。形を保つエネルギーが籠もっているから、そこに日常空間を超える力を感じるのである。

 同じように、作者の手で句の中に置かれたそれぞれの言葉が、同じ言葉であっても、そこらにあるときとは違った容をしていなければ、作品とは言えない。

(平成八年十月)

 

瀧宮神社句碑 

 

 正氣所縁の句碑は、故里の諌早上山公園の正氣・里鵜・丈義・青火の『友情句碑』と、春星舎の庭に『庭手入』の一基がある。句碑を来年の七回忌迄にと考えていたのだが、この夏新築成った中之町の瀧宮神社の境内に、保存の短冊の中から、昭和十七年(正氣三九歳)参詣時の詠

 (瀧宮神社)夕立雲八雲路山に現れし   正氣

の筆跡を碑として建立し、献ずる事とした。

 瀧宮神社は、春星舎から北に湧原川沿いに歩いて十分ほど、欽明天皇五年の桜宮創祀以来、千四百五十年余を数える社である。この辺りの歴史は先年逝った高橋麦坪氏が詳しかったが、文武天皇大宝元年、出雲国須佐神社の分社として桜山の奥八雲路山の峡に遷座、瀧宮と改称、更に百年後の洪水により現在地に移ったと聞く。

  初社臥牛に似たる根榾焚く     正氣

  恵方道老妻連れて歩を緩く

 父は、あれで神信心のほうで、除夜の鐘が鳴ると、家族で初詣に出かけたものである。

 句碑は、鳥居を潜って随神門の手前の西側。その見晴らす背景の山が、古代、出雲との通い路であった八雲路山である。雲はこの山上を経て東へ流れ次ぐ。碑は、その行雲の千年を見続けることであろう。

 甲田町甲立産の舟状の自然石を用い、その一面を研磨して碑面とすると、赤みを帯びてあたかも雲のような模様が、天の部分に現れて来た。台石の高さが八寸、碑石が高さ四尺五寸、幅一尺三寸、厚さ七寸ほど。

 碑に立ち、句を読めば、周囲の景が変わってくる。三角お握りの形をした桜山の後ろの平凡な山が存在感を示し、吹かれ行く雲さえ意味を含んでくるから不思議である。雨上がりに地表の靄が山肌を這い上がるのを、それすらも八雲立つ八雲路山と、見て飽かぬ。

思い出すのだが、少年の頃、父から岫という言葉を教えてもらったことがあった。なんでも山にそこから雲が出て来る穴があって、それを岫と呼ぶ。こうしたあれこれが今重なる。背後にあるものを見るとは、史家が古戦場に佇み、地質学者が崩れた崖の面を確かめるように、その目で見ることである。

 句碑献納祭の九月十四日は、実は一月遅れの正氣忌と子規忌を兼ねての句会日の筈であった。ところがあっという間に石工さんが完成させて十二日に据えてくれたので、社務所の句会場には、いつもの子規忌のように、野の草花が瓶に溢れた。この萩も桔梗も、普段の人の目に映る草花ではなくて、俳人ならば、伝承された「季題」のそれと見るべきであろう。あの小山が、以後の我らが見るところの思いを含んだ八雲路山であるように。

(平成八年十一月)

 

本の話 

 

戦時中に少年期を過ごした私は食べ物と活字に飢えていた。前主宰はあまり読書好きのほうではなかったが、二階の待合室の押入れに『桜鯛』の残部を積んだ中で、俳句の本でないのも多少あり、飛ばし飛ばしで難解なのをそれでも読んだ。賀川豊彦『死線を越えて』、河上肇『第二貧乏物語』(物語などでなく伏字だらけだった)、なぜか『鳩翁道話』などが記憶に残っている。終戦直後の枕崎台風の水害で大橋際の家が壊れ、みな流失してしまった。

現在、座敷の本箱で難を逃れた俳書の他に僅かに残る有島武郎『生活と文学』、川村理助『体験生活』、トルストイの『芸術とは何ぞや』と通観すると、どうも白樺派風である。武者小路の「新しき村」を思い合わせると、若き父の、古里を出て備後横島滞在に至る間の消息が窺われるようだ。島の若者達に俳句を勧め、句会を起こしたのもその心意気であろう。

小学生の私は、読み物では海野十三など空想科学もの、それに図鑑などの博物系の本が好きだった。特に鉱物で、橄欖岩とか玄武岩という字面が又たまらなかった。父が、土曜句会の常連で神戸に出て古書店を開いた人から、世界各地の自然界の不思議を集めた分厚い本を買ってくれたが、私の血肉になったその本も、習字の文鎮に使った大きな煙水晶も、大水で失ったのは残念だった。水が引き、堆積した細かい砂の中からそれらが現れる夢まで見たほどだ。

出水で家の中が流されても、大量の土砂に紛れてそんなに遠くへは行かず、埋れていることが多い。前述の『桜鯛』も、束になっていたせいか、拾って日に干して残せたのがある。も一つ印象にあるのが、『名俳句集名川柳集』という百二十ページほどの小冊子のことである。数十部ほどが出てきた。『桜鯛』と違って紙質が悪く、乾かすと崩れた。

実は、読書少年の話ではなく、先日古書のウェブで買ったこの冊子のことを今回書くはずだった。講談社の『キング』昭和十一年新年号第二付録である。

アンソロジーのことを言いたかった。二通りあって、選者の色眼鏡が濃いもの、つまり選者その人が分かるのもよいが、流行り言葉の国民的な吟味を経た内容のものも興味深い。この集の選者(紫影及び三面子)は、この時代、後者に徹し的確であると思う。

その証しは、少年が読み物としながらこのことを憶えていたこと、付録だけをこんな部数手に入れていた俳人があること、同じく大事に保存していた見知らぬ誰かが居たこと、である。

(平成十四年七月)

 

俳句の縁

 

虚子の紀行文『肥前の国まで』は、『ホトトギス』五月号に、本文百十二頁のうちの七十五頁を占めて掲載された。三月十五日から三十一日までの旅行の様子や、各地の句会での句とその批評を収めたものである。

「長崎の俳句大会へは行けなかったが、新聞で雲仙行の虚子の旅行日程を見て、本諫早駅(島原鉄道)通過の虚子の姿を二タ汽車探したが果さなかった。後で一ト汽車前だったと知った。この事が小生の句生涯をすっかり変えて仕舞う結果になったのである」と正氣は、「縁とは実におそろしいものですね」と晩年に述べている。

この号の虚子選雑詠は十五頁で、一句入選に野風呂、草城、耕衣、木国の名が見える。みどり女、秋桜子、風生、青畝は二句である。ちなみに巻頭は「大男の仏男や畑打 鬼城」八句であった。中学五年生の正氣が入選した前々月号もほぼ同様だろうから、その得意さが察しられる。自分の句が載った『ホトトギス』を手に、虚子に会いたいと、青春の胸を高鳴らせてもいい。

虚子の記述を追ってみれば、十九日に鳥栖から長崎線で長崎駅へ着く。旅程はあまり綿密ではないようで、雲仙の宿や車の手配も長崎で決めているし、当地に来て居た芝浅茅とも遇い、「諸君の懇請黙し難く明日午後の温泉行を半日延ばして明後日の朝にする」という風である。

廿日夜の商業会議所での句会の後、「揮毫などしてこの家を辞したのが翌日午前一時半頃であった。なお天候が不穏で明日もこの様子では温泉行は難しいかも知れぬと言う。不安を抱きながら寝に就く」と記している。

廿一日、「昨夜宿について寝たのは二時を過ぎて居た。目が開いたのが六時であった。昨夜の睡眠時間は四時間足らずであった。それから二人をも呼び起こして、八時十分の汽車に間に合うように準備をし」た。同行の二人は風邪気味で、「この日の天候は風は凪いでいたが寒さは尚強い。諫早で島原鉄道に乗り換えて愛野駅で下車。乗合自動車に乗って小浜に着く」とある。

廿三日、虚子は諫早駅まで雲仙から自動車で、「十一時諫早駅に着く。駅の待合で、ふと帽子を取って辞儀する人がある。見ると樂堂君の弟の山崎泰次郎君である。先に熊本に行った時には熊本で出遇い、今又この地で出遇う」とある。十二時廿分に急行が来た。

このように雲仙行の前後を抽き出してみて、諫早駅での出会いは、虚子のその朝の早い目覚めといい、福岡への汽車の時間といい、中学生はピンポイントに賭けたのだろうが、事の始末はすべて縁というほかはない。

正氣は、歯科医を志望し、関門海峡を渡り上阪する。大阪は俳句であり、月斗であったろう。以後、月斗を終生の師とする。

正氣は、師の七十歳の賀に当たり、師との初めての出会いを、「僕は句ができていたので、月斗氏の句作のポーズをじっと見つめていた。互選。披講。先生の名乗りの特異なアクセントに大音会場に響き渡るのにたまげた。先生の句で記憶にあるのは、「電車火花を散らして闇の枯柳 月斗」。そして月斗選七句のうちに、「参考書を伏せて火鉢に手あぶりし 赤甕子」が見事に入選した」と記している。月斗四十三歳、正氣十八歳であった。

続いて、「先生は僕等の方へ視線を与えられ、今日は中学生も見えるが、俳句をやって学校の成績が落ちるようなことはない。もし俳句をやって学校の成績が落ちるような者があったとしたら、その人は俳句をやらんで他のものをしてもやはり学校の成績が落ちる人である、……興奮して傾聴し、意を強うした。学校で俳句が隆盛になるにつれ、俳句は功成り名遂げてから作るべきで、中学生なんかが指を染むるべきものでないと、我らを罵倒する連中もいたからである。桜井君も富田君も興奮していた。僕一人別れて叔父の家へ泊まりに行くのが非常に惜しくて、僕もその夜両君と一緒に泊ったと記憶する」と、鮮明に思い出している。

俳句を作ることも、そのため誰かに師事することも、縁というものがあるわけで、たとえば、私の弟妹たちが現在春星作品に名を連ねているが、これは、松本正氣の子に生まれたためである。以下はそれぞれ紙上に初出と思しい句だが、いずれも十歳に満たない頃である。

雪だるま日がよくてるととけにけり  島春(昭一四)

ほたるかごいきてゐるかとのぞきけり 男兒(昭二一)

つくしつみわかれ道まできたりけり  文武(昭二二)

ひるねおきあたまのけがをおもひだす みえ(昭二五)

春の雨あたらしいかさをさしにけり 千萬子(昭二七)

伝承の形がある。俳句を作ろうとしたのがわかる。何かがあり、俳句を作れと親に言われたのであろう。お団子を食べた者が、お団子を作りなさいと言われてお団子が作れるのと一緒である。凧揚げや羽子撞きのように、学び習うとは、身近の先達により実地に手を取られて導かれるのである。

俳句の先生とは月斗先生のことだと思っていた。父ばかりでなく、我が家に何度か先生がご来駕の折の、家中に満ちる師弟の雰囲気からである。

右手に取り左手に取って見繕うものではないが、而して師を択ぶというのは人為である。何かの縁によって結ばれた師は天意の然らしめるところであろう。タテ型のものにはそういう必然がある、というよりも、思い至るならば必然であるからおそろしい。縁あって句の道に入り、いま『春星』での縁に連なるお互いであるが、このこと自体、思議もできぬ大事といえよう。その縁を疎かにしてはならぬと思う。

(平成十五年八月)

 

常に道をはなれず

 

宮本武蔵が、「五輪書」に次いで言い遺した「独行道」の二十一ケ条の最後は、「常に兵法の道をはなれず」である。もちろん身過ぎ世過ぎをいうのではない。

月斗の俳句生涯の中で、本舗青木新護の快通丸看板を残して家業は失せた。少年正氣が父親に俳句作りを止められたのも、近所に住んでいた旧派の俳人が、その兄弟の中で一番貧窮していたことによるらしい。

詩歌の部門、特に俳句の場合は、大方はアマチュアによるすさびで、実際に、俳句の雑誌や本を購って読むのは、句を作る者同士以外には先ずいないだろう。

それが、数量的に俳句隆盛のこの頃であるから、たくさんの中の、第三者では雑誌ならば月々のトレンドで、本ならば句作のハウツーもので、句集ならば第一者のキャリア作りに、という層を狙ったマーケットがある。その維持のためには、売り手は常に目新しいものを並べ、新しい買い手を増やして呼び込まねばならない。

八月一九日は俳句(ハイク)の日、は語呂だけのことだから、チョコとかうなぎとか、その業界での売り物がなければ、いわゆる国民的なイベントにはなれないのだが。

毎日の中身はそんなに変りはなく、大切なことはいつも大切なのに、今日は何の日と、何かのテーマのレッテルが誰かの手で、毎日毎日に貼られていて、何もない日はなんだか落ち着かないくらいだ。

その今日のことだが、私が生まれてから二万六千百十九日目だそうだ。父正氣はこんな計算が好きだったが、こちらは存えて居れば九十九歳五ヶ月で、来年は生誕百年である。その句業を何かの媒体にでもと思い、先ずは松本正氣俳歴に少しばかり写真を加え、『晴雨間日』と題して、WEB上に保存したところだ。

父が句を始めてから死ぬまでの七十一年五ヶ月、つまりその句業の道程の全時間が、ぴったり私が生きてきた時間に相当するのだと思うと、粛然たるものがある。かくて正氣は自分の句と句の弟子とを遺した。しかも、後者の業はまだ続いているといえる。

「独行道」のそのも一つ前の條に「身を捨て名利はすてず」とある。この名利とは、兵法者としての名利であって、世間でいう名利のことではあるまい。

正氣の父親は常々貧乏はしても勧進にはなるなと諭していたという。勧進は物乞いで、いつしか物欲しげなほうのそれに堕することを惧れたのであろう。

武蔵のような捨身全托の境地には到底なれない我等だが、俳人として、その名利が、今の世間でのことであってはならぬ。

身に入みて弐萬六千日のホ句     島春

             (平成十五年十月)

 

正氣生誕百年に

 

 正氣(正喜)の生誕百年の今年である。祥月にその特集を組むのもなんだが、筆跡は体を表すものとして、皆さん方から短冊をお借りしてそれに充てた。

 戸籍には、明治三十七年三月二十七日本籍地の諫早に出生と届けられてある。元禄は「弥生も末の七日」の奥の細道旅立ちで、まあそれはいいのだが、命名の由来の旧元日生まれとして換算すると二月十六日に当たる。露国に対する開戦に際しての詔書が出たのが二月十日だから、世は騒然としていただろう。ちなみに子規三回忌の年だから、正宗寺の子規埋髪塔も百年である。

 短冊は一句を以って完結している。紙碑である。元来俳句は、構造的に、十七字で必要且つ十分とすべきであろう。秋桜子は、俳句における連作を肯定し、「句を追うて事件が変化してゆくか、或いは特別な趣向があって、しかも一貫した心持が貫いていなくてはいけない」と言ったが、俳諧の連歌より独り立ちした俳句に、今更そんな補助具は要らないし、装着する余地もなかろう。本号でも、一頁一枚の短冊のディスプレーが本意なのだがご勘弁いただきたい。

 句集とか数を揃えての句を以ってする評価は、俳句でなく俳人が対象である。だが、短冊の一句は、一句を以って作品としての評価がされる。

 短冊には落款がある。話の続きでは、百年に通じる秀句はそれをも必要としないことになるわけだが、これは今は措く。正氣の落款は、今回の短冊の殆どが戦後の筆だが、「氣」の書体が、戦前を孫過庭ルックとすると戦後はいわば王之ルックへと変化している。

 次に、筆による表現がある。正氣の書は書家に学んだものではないが、短冊は、月斗在世時は、師のそれに甚だ肖る。子のしぐさが親に似るのは句についても同じである。加えて、筆は平安堂の「龍眠」で墨は古梅園の「紅花墨」と、顰に倣っている。

 戦時中は、身辺俳句を作る傍ら、古人について勉強していた。警察に呼ばれた際はとうとうと俳諧史を説いて事なきを得たという。古人が唯一残したのは筆跡と、都会の疎開で散逸しかけていた古短冊を蒐め、そしてこれを尊んだ。肉筆と云う言葉どおり、短冊で古人その人に面前するのである。

  短冊百枚書いて涼しく倒れたし     正氣

 永眠一ヶ月前の句である。句歴七十年、百句とは、その何百倍かの句業の中から残し得る数としたのであろうか。掲げた短冊の句は、むろん代表句と云うわけではない。筆で書きやすい句を書いた節もある。句生涯の一端の光を見ていただきたい。

(平成十六年八月)

 

子規的で子規宗の

 

 正氣が生まれたのは、子規が没して二年後の日露開戦時である。今、維新後から日露戦争までを物語った、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を通読している。後半は戦記ものだが、明治の気分を知るにはよいと思い立った。今年になって家業の大方を息子に託したので、久しぶりに長いものも読む気になったが目が疲れる。

 秋山兄弟も子規も、著者は、この時代の人はなべて楽天家で、ゆく坂の上に一朶の雲輝くとすればそれのみを見つめて坂を登った、と言い表している。子規のそれは文芸であり、この人がこの時この病を得たことが、この人による俳句革新を成り立たせることになる。

 正氣は、晩年の肺気腫で息が苦しい時、句会の皆さん心配しなさんなよと前置きして、しばらくウーンウーンと大声で唸るのであった。茂野冬篝は、号泣絶叫する病者子規を「自己の療養を以て家族交友に君臨する者」とし、病の理解の面で「明徹せる病者」と称する。その冬篝のせいなのか、わしは病苦の際は子規居士の挙動に倣うぞと、予てより周囲に宣言していた。

 冬篝、茂野吉之助は、倫敦で喀血した際に虚子の『柿二つ』を読んで子規を知った。帰国後、『肺病に直面して』の著で直面という言葉を世に広めたが、後、子規研究に没頭する。『桜鯛』昭和十二年九月号の「子規居士追念」で、「若しも詭激の言を敢えてするならば、広島に於て飄亭と会し、生きてあひ見る汝と我、と詠じた時の粛殺たる秋風が子規の句魂を光晶秀潤ならしめたものと言い度い」と、この歳の松山静臥時代を、子規が真に俳句道に沈潜したものと強く断定している。

正氣の号はこの冬篝に関わりがある。中学生の正氣は脱皮するように俳号を替えたが、その後ずっと本名の正喜を使っていた。昭和十一年からの丸二年間は死灰と号し、『同人』の選者推薦は死灰として受けている。死灰は歯科医である。それを冬篝が死灰の字が気になってならぬ改号してくれと言って寄越すので、とうとう本名を音読して、以後は正氣とした。

 冬篝から死灰に、「蝿を打つ事を涼しと君云ふや」と言って来た。そういう句があったのだろう、青年歯科医の死灰は「赤痢菌伝播す蝿を打たずんば」とリアリズムで返している。冬篝は死生観の側に立っている。子規が歩んだ道に関する断定は同じ病者たる実感であろう。

 正氣は、春の月斗忌と共に、秋の子規忌を欠かさず修していた。シキキかなは馴れたが、セイキキやでは窮屈だ、島春なら上五下五に据わりがいい、ブンブはいいがダンジは困る、など語ったことを思い出す。

その正氣忌はまだ言い馴れないで居る。

(平成十六年九月)

 

続・俳人列伝

 

第六十巻の節目で、月斗先生の題字に復した。表紙絵の中島菜刀は、院展の画家で京都金福寺下の住。因幡に生まれ、少にして田中寒楼に出会う。正氣横島時代に寒楼と一緒に訪れた。表紙絵では、『魚島』のその際の打瀬船のスケッチが最初であり、『桜鯛』初号の波の絵は菜刀の書信より取ったものである。近年、画人菜刀も俳人寒楼も郷土で再評価されているようだ。

「単位を置いて量ることを止めるがよい。自分といふ単位さへ置かねば、天地の間のものはことごとく自分と一つに呼吸してをる。天地といふは呼吸してをる自分の名だと合点する。人は自然に参して鳥とともに歌ひ、水とともに流れ堪ふるには、ただ単へに、自分といふ境界をとってしまへばよい」と寒楼は述べる。

だから寒楼は、当時家を構える事はなかった。昭和初期の来簡を見れば、京丹の知己を転々と放浪している。正氣諫早時代に訪ねてきた際も、九州各地を長期行脚中で、月斗先生の葉書に、「田中寒楼翁が行くからウンとぶっつかってくれ玉へ」がある。また、昭和六年、横島時代の父の許に、繁盛しているのかしばらく寄食してよいか、と言ってきている。私が母の胎内に宿りつわりが始まった折から、滞留はだめとのことだったらしい。

二ヵ月後、鯛網見物に寒楼が菜刀と京から来、大牟田の医土生麦門冬も合流した。新進の菜刀のための頒布会を開き、俳画に寒楼が句賛したりして、絵の具の資にしようと計った節もある。地方には、そうした才能を愛し、貧乏をよしとし、相応に合力する風があった。特別な事ばかりではなく、一宿一飯でもよいのである。

この夜、寒楼は芭蕉を、麦門冬は一茶を、当時の正氣は蕪村を挙げて論じた。後に『魚島』に、寒楼は、芭蕉の句は全人生的のやるせないひびきがあるが、蕪村にはしんみりと話し相手になるような句は無い、と述べ、久世車春がこれに対して蕪村句礼賛を草している。

月斗先生の下で新聞の文芸美術欄を担当の車春も、実生活では不遇だった。大正三年から五年間は、東満との貿易拠点である北鮮の会寧へ、会社員として単身赴任した。「紫陽花やなまじ文字知るならずもの」と自嘲している。又「(千里を隔つ)妻に如く女を見ざり袷かな」「紫陽花に遊ぶや親になつかぬ子」など。

寒楼が来島する前年、まだ独身の正氣を、岡山で俳句指導をしていた車春が一家を連れて訪れた。何年か後、大阪へ出て小商売を始めるのに、知友に頼んで短冊を買って貰おう云々と寄越している。翌々年逝く。

他の何かを目的とする俳句ではない。生涯これ皆俳句という道を歩いた当節不在の生き方と見る。

(平成十七年三月)

 

正氣句のルーツへ

 

明治大正期の月斗句を、今井柏浦編の本により集めている。明治三十四年四月から昭和二年七月まで、千句はあろう。『春星』を受け継ぐ際に、バックナンバーとそれ以前の誌を読み、正氣句の殆どを録し、戦前の『同人』にも目を通したものだが、その延長といえる。

正氣が大阪の月斗膝下に在った時期、大正十一年一月より大正十四年一月までの『新俳句選集』は、「材料は『大阪毎日』『東京日日』『国民』の三新聞、『ホトヽギス』『枯野』『鹿火屋』『同人』の四雑誌を中心とした諸雑誌」の中より、編者が選別した約一万句からなる。

各冊が平均三年間の新聞雑誌からの収録であるから、CTスキャンみたいに時代の句が輪切りに観察され、しかも類題なので各作者の当時の力量も窺える。

炎天の蝶ぶらさがる百合の花    虚子

 荒馬のつぎ荒牛や初夏の路     石鼎

 初袷襟脚剃って貰ひけり      久女

 水の音遠きにまぎれ山薄暑     宗斤

病めば気の旺んになりつ辻が花   百艸

 日車の高きに風の土用明      月斗

これは前掲の本で、恣意を避け、夏季の最初に出た句を挙げた。前半と後半とで風合いの違いを感じる。正氣は大阪へ遊学し、月斗に師事した。虚子の客観写生の流れにらない雰囲気で育つことになる。

もう一つ後の輪切りである『昭和一萬句』は、昭和改元を挟んだ三年間だが、同前にて挙げると、

橋暑し更に数歩を移すなる     虚子

夏川や一つ瀬やがて二た流れ    石鼎

夏帯やはるばる葬にまにあはず   久女

花過ぎてみなかみ月の涼しけれ   宗斤

片陰や覗けば茶選る女ども     百艸

夏の夜や庭池に星の影動く     月斗

と、この断面では、前半後半、語呂合わせでは進化と深化と、所見で多少の差が認められると思う。

拙速な総括だが、昭和に入り、客観写生という鎖を解いて、「自然の真」を頭脳の働きで「加工」(秋桜子)するほうへ向かった側は、叙情的、思想的にと、その後も時勢に乗り、現代俳句に連なる。

 朝寒の日向に干しぬ味噌麹     正喜

この本の中で見つけた正氣学生時代の一句である。思うに、もう一方の、骨格正しく平明で深みを探るという流れの句法では、長道のうちに、いわゆるステレオタイプに陥る惧れがあろう。

正氣の場合は、小俳誌の更改発行を経て、『春星』の和而不同に至り、その句生涯を全うした。

(平成十七年五月)

 

俳壇史風に

 

前号で記したのは大正十一年の事柄だが、正氣の俳句事始めはその前々年三月のことであり、その前後の様子を記しておく。以来、平成三年八月の永眠まで二万六千日の俳句生涯であった。

大正九年三月十三日

大正九年元日より連日の句筵が、中島久万吉男爵(華水)の大磯の別邸で開かれた。華水は、天春静堂や室積徂春らの斡旋で、ここ一年ほどの句会に、東京から虚子や鳴雪、水巴、亜浪ら、大阪からは青々、月斗を招いている。最近は専ら月斗が指導に当たるようになった。その人柄と癖の無い句風というゆえであろう。この場で月斗に機関誌を持たせようという運びとなった。

華水の援助と静堂、渡辺竹音、菅裸馬らの尽力により、四月、華水の題字、井上木蛇(木它)の表紙絵で『同人』創刊号が出る。木它は浅井忠門下、あのサントリー角瓶をデザインした。発刊に当たっての扉の文言も華水であろう。華水は筆も立ち、後に、その頃既に『同人』を離れていたが、足利尊氏を論じた一文を貴族院で咎められ、商工大臣を辞すに至っている。

村山古郷『大正俳壇史』で、月斗への言及は、ただ碧梧桐との姻戚関係に止まり、この年も、碧梧桐が、月斗から養女に貰った、御矢子の病状に憂慮と冒頭触れるのみである。東洋城や青々や句佛や月斗らに疎なのが、その限界であるが、『同人』の創刊は、九州の西にも俳壇的なインパクトがあったろうから、記して置く。

三月十三日、よくも日付を覚えているものだが、調べると土曜日である。前記の本は、ちょうど東洋城による栃木で一週間の『渋柿』の俳句鍛錬で、最終日に水原静夏(秋桜子。翌年『ホトトギス』に移る)が参加したことを記している。つまり、医学部研究生も二十一日は日曜で東京から参加出来たわけだ。

この日が正氣の句会デビューだとすると、出てみないかと誘ったのは親友の小柳種衣に違いない。弟分でも、文学的には小柳のほうが老成ていた。号の種衣は家が製綿所だったことによる。種衣は地元の県立農学校の、正喜は大村中学校の生徒だった。進学を望む者は、中学は大村まで通うのである。その種衣の学校の教師に中谷草人星がいた。早くから大阪で句を始め、鹿児島高等農林を出て教職につき、大正七年から『雲母』の蛇笏に師事した。同席したはずである。

諫早は旧派の俳句が盛んだった土地柄であり、俳句をやるのは当時一つのステータスシンボルでもあった。新しい芽もそうした土壌から発するものである。大人たちに交じって、俳句のしかも新派のということで、少年は背伸び気分だった。句会では互選をした。

県立大村中学校

正喜は、「面長で色白、ほっそりしたからだ」(福田清人)で、「やんちゃで、型破り」(市川青火)。短距離競走の足が速く、水泳も二級を貰っていた。数学が得意で、字を書く事には秀でて歌はまるでだめ。それが俳句に熱中した。自分が食べて美味ければ人にも食べさせたいという親切心が人一倍強い。少年たちの句会を作ろうとした。上級生の命令は絶対である。家から諫早駅まで徒歩、汽車を下りて学校までも徒歩なので、一時間をゆうに越える。中で目星を付けた者たちが集められた。

波佐見出身で作家となつた福田清人は同級生だが、大正九年の秋から病気休学して一級下になった。以前から正喜に誘われて、桜井明治、富田英雄らと句を作って新聞に投稿している。正喜は由来不明だが「筍外」と号していた。福田の日記には「一月十一日。長崎日々に筍外の句載る」などとある。療養中の清人は名前をもじった「聖灯扉」の号で、諫早の旧派の宗匠古賀九皐で天位に入って巻を貰ったりした。翌年四月復学の前で退屈だからと俳句の回覧雑誌を作り、寄宿舎で句会を開いたりしている。山口幸男(柳人)もこの学年である。

二級下には佐藤(赤司)弥八がいる。長崎高商を出て長野で教職についた。里鵜の号はサトウからである。里鵜は「真面目を絵に描いたようで、俳句は正喜に次いで副将格」と青火は称えている。この真面目少年が作った「この船で来ねばもう来ず火桶抱く」という大人びた句が、ホトトギス雑詠に入選した。当時の市川少年にはその句の意味がよく分からない。質問された正喜上級生は得々とその情況を解説するのだった。

この学年に詩人の伊東静雄がいた。正氣は後に「当時の伊東君は文学少年らしくなかったので僕も俳句を強制?しなかつた」と記している。文学への関心は佐賀高の頃かららしい。京都では市川一郎(青火)の紹介で詩仲間に会う。ちなみに京大文科の卒業論文は「子規の俳論」。やがて福田清人らの同人誌に参加する。

後に法律家になる野中武祥(丈義)は正氣の三級下で、汽車の発車時刻に「砂時計のように正確無比」(青火)に滑り込んだ。そこで皆は野中の姿を前方に見たらそれ遅れるぞと走りに走った。正喜は、最上級生の特権である片肩に長くぶら下げた鞄をゲートルの脛で蹴り上げ蹴り上げ、丈義に追いつくと歩調を合わせた。

同じく市川一郎(青火、青鼓)の場合は、課外の柔道で足を折って入院中に正喜が見舞いに来て、俳句作りを命じられたのが始まりである。やがて大阪へ進学した正喜から話を聞く。都会というところは、心斎橋を片足黒片足白の靴で一歩きすれば、翌日誰かが真似している。白靴と黒靴履くや右左。いい加減な事を言うものだ。青火は、家業の呉服店を継ぐ前に、京都に上り同志社商科に入ったが、在学中は舞台芸能に夢中であった。

戦艦土佐進水式

諫早農の種衣らを加えた少年だけの句会の場は、七面さんと呼ばれる社であった。夏休みで福田清人が諫早に遊びに来たときは、十数人ほど集めて城山公園で歓迎句会を開いた。その時、蝉の題で作った句が「蝉時雨林間学校参観人」で、漢字ばかりなのが正喜の自慢だった。少年たちの俳句熱は上昇した。筍外も号を次々と替え、今は赤甕子と号していた。

ところが、きょうだいの一番上で男は一人だから、父親は正喜が俳句を作るのを嫌っていた。九皐宗匠貧乏ぶりのせいかも知れぬ。いつも親の目を盗んでの句会出席だった。新聞で、大阪の青木月斗氏が長崎入りし歓迎句会を開くという記事を読んだ時は胸が高鳴ったが、長崎市内なら泊まりがけである。俳句といえば親が絶対許さない。諦めていた。そこを熱心な同級生の桜井、富田が長崎遠征だと叫んで松本をそそのかす。

月斗は、ほぼ年二回夏冬に、家業の商用を兼ねて、直方、博多、久留米、大牟田、熊本、佐賀、佐世保、長崎と九州各地を巡り、句会を指導していた。長崎は毎回ではなく、この夏は佐世保で長崎には立ち寄っていない。前年の大正九年は反対に七月に長崎入りし、ちなみに熊本では、後藤是山、宮部寸七翁らが江津湖に屋形船を浮かべて歓迎句会を催し、二十歳の斉藤破魔子(中村汀女)も着物姿で乗船した。

こうしてみると正喜に又の機会は無さそうである。窮した少年は遂に一計を思い付いた。たまたま、翌日の日曜日が長崎三菱造船所での戦艦土佐の進水式で、その見学という口実で、技師をしていた叔父の許に泊まることができる。うまく行った。桜井、富田ともども赤甕子は汽車に乗った。出陣の心境である。

初めてまみえる青木月斗は恰幅が良く、浪華のアクセントで、席題互選の披講の際は、ゲットォと語尾を強く大音の名乗りを上げる。月斗選七句の内に、赤甕子の「参考書伏せて火鉢に手あぶりし」が読み上げられた。また講話での中学生たちに向けての温言が身にしみて、興奮した正喜はこのまま叔父の家へ行くのが惜しく、とうとう桜井、富田と一緒に泊まって語り明かす。

戦艦土佐は悲劇の艦である。華やかな大正十年十二月十八日の進水式から、竣工を待たず、翌年のワシントン軍縮条約により、同級の加賀は航空母艦に改装して残るが、土佐は廃艦が決定、大正十四年二月九日、土佐を望む豊後水道へ回航、実験砲的となり沈没した。

戦艦土佐が遺したものは、今は閉山した海底炭坑の島端島が土佐の姿に似ているので、その「軍艦島」という通称のみである。ここにもう一事を加える。正氣にとって、月斗との師弟の縁を結ぶべく進水した千載一遇の艦であった。巨艦土佐、もって瞑すべし。

(平成十七年八月)

 

小俳誌の存在理由

 

 通巻五百号の前後、正氣前主宰は療養中で特段の行事は出来なかった。「当時の進駐軍から出版、販売の許可を得て創刊したのである。雑詠の選者は月斗先生が承諾してくださった。誌名は月斗先生は『桜鯛』の復活にしたらよかろうと仰言って「中国の探題汝れや桜鯛 月斗」の短冊を戴いたが、『春星』に決した」と回顧している。この誌名で通し、お蔭さまで本号で七百号を迎える事が出来た。皆様に感謝申し上げる。

前主宰は卒業後帰郷するや、長崎で昭和二年『句鐙』を、諫早で『夕立』を、備後横島で『魚島』を、昭和八年三原へ移って『満星』『桜鯛』『若魚』再び『桜鯛』と、くるくると誌名や体裁を替えて小俳誌を発行した。

昨是今非が強いのだという。つねに脱皮成長を志すのであろう。そして根底にあるのが、発表せずして何の芸術ぞ、の意識であろう。自分一身だけの楽しみに止めてはならぬという、いわゆる大乗の俳句である。俳句作りへ誘なう親切さもその表れである。

大震災翌年の大正十三年六月、土方与志、小山内薫らにより、築地に自前の劇場を持った劇団「築地小劇場」が誕生した。余談だが、八十坪洋風一階建ての劇場の敷地は、震災前は樹木鬱蒼たりし籾山家の屋敷(庭後庵)跡の一隅で、庭後(梓月)は、虚子が経営していた俳書堂を明治三十八年に譲り受けた俳人である。

新しい演劇へと、劇場と劇団とが一体となった築地小劇場、これが小俳誌発行に際して念頭にあったに違いなかろう。『句鐙』は俳句小誌と銘打っている。

小俳誌のレーゾンデートルとは、育成の場、練磨の場ということになる。当初は、月斗門下有為の士精進の塾として地方新人養成をも期した。月斗先生も裸馬先生もこのことで『春星』を肯われた。限られた誌面で、句作りが第一義だから、俳句と同じく、冗を厭う。

戦直後、家庭で玄米を一升瓶に入れ、細身の白木の杖で口から根気よく突いて精米した。玄米一粒一粒は互いにぶつかり合って切磋されるのである。杖のほうもしっとりとした艶が出たのを思い出す。効率は悪いから、これ以上の量になると、この方法は利かない。

こうした甘やかされない句作りは、自得のほかないから月日も掛かり、初心者にとっては当然厳しい。ここはムチに加えアメが必要になる。共に機を待ってである。「今だ」という時間軸を横切りの判断である。寺子屋の師匠のように、進度の異なるそれぞれの子供に、マンツーマンで朱を入れ、その機を察知する。

アメばかりでは奮起一番せねばなるまい。ムチばかりなら喜ばなくてはなるまい。

(平成十七年十二月)

 

未だ作句せざる俳句作家に

 

 『春星』は、この六十年間、月斗選が三年、正氣選が四十三年、以後は島春選の雑詠欄を軸に、お互いが切磋しつつ、「和而不同」で向上する場であり続けた。それができる誌友の数である。「句作第一義」であり、俳句自体を重んじ、巨細に説きはしない。しかも、一冊は、反復して読むのに適した枚数である。

初心者も、句を作ることと句を読むこと、それも、炒った大豆を噛んで唾液と混ざってやっと味がしてくるまで、読むことが求められるから、およそ甘くないと云うか、なかなかにしんどいことだろう。

『春星』の雑詠欄は、出句の中から五句を限度に発表している。上位でもイチローの打率だ。これも負のスケールメリット?で通覧、再読した上で、一人の句の複数での相対評価が行われているはずだ。その甲乙を較べることで自得することにある。選句は数のゲームのためのものではない。

前主宰の「小生の足跡は、正氣作品。小生が育成した後進の作品。そのどちらか一つだけでもよい。」は、前者の謙遜(と微量の実感)からの語だろうが、後者への自負がこもっているのである。『春星』の歳月の中で、多くの実数の人々が共に生き甲斐を感じる機会を持ったに違いないからである。

それに、どちらか一つというものでもなかろう。両者は、いわば生物の基本である個体維持と種族維持のようなものだ。俳句が作者の代謝産物だとは言わぬが、個体維持にあずかる細胞は朽ちても、作品はこの世に残る。一方、種族維持にあずかる細胞は不死だが、後者は前者に相当に依拠するだろうからである。つまり、イチローは名コーチになれるということだ。

天才イチローなおもて名コーチと成る。いわんや、である。独楽廻しや凧揚げを、小さい子が見様見真似でやっていると、そばに居合わせたお兄ちゃんが、どう指で持ってどう力の具合を調えるか、手を貸して教える。このやり方は、型を持つ文藝の特殊性であろう。一日の長があればよい。そのぐらいがよい。

では三十年の長ならば、こうした手ほどきはできないかと云うとそうでもないようだ。それは一日の長を何度も経験して来ているからである。

今後の『春星』にとってのの、育の部分を考えているのである。更に、前主宰は「われわれは、未だ作句せざる俳句作家に、作句の機縁を与えるべく努力せねばならぬと存じます」と言っている。

小さい子の目に、何よりも独楽や凧が好きで好きでたまらないと云うお兄ちゃんでなくてはなるまい。

(平成十八年四月)

 

形を使うこと

 

食材にと頂いたのだが、菜の花の柔らかい先のほうだけ切ってある束を、大きめのコップに挿している。ぽつぽつ黄色の蕾が混じっていたのが、もう次々と開き始めた。「菜の花食べないで活けておく」と言うと自由律の句みたいだ。

前にも書いたが、父の集印帳の中に、ヨソノヒトガボートニノッテアソブカナと幼稚な筆跡がある。昭和十一年で、岡山後楽園遊覧のゴム印に1115日とあり、四歳と九ヶ月の私である。俳句を作ろうとしたのだから、これは俳句なのである。普通の文句と、自由律の句との区別も同じことだ。

その頃の父は夜も仕事で、殆ど毎日誰かが来ては、仕事が済むまでの間、題が出て句を作っていた。毎週土曜の夜は句会であった。幼い私はそんな中をうろちょろしていたから、俳句は、題詠で、五七五、結びはカナかケリ、と刷り込まれていたのだろう。

昨今、戦後の現代化し、詩化された俳句は、現代川柳に紛れそうにもなり、またまた、題詠、カナやケリの切字に回帰しているようだ。明治後期に碧梧桐らの新傾向が排し、また昭和初期に新興俳句が遠ざけた、いわゆる季題趣味が、今では、季語の本意本情と呼び名を変えて尊重される。五七五も、カナやケリを使うこともそうである。蕪村の「たとはゝ、一圓郭に添て、人を追ふて走るかことし。先ンするもの却て後れたるものを追ふに似たり」(俳諧桃李序)である。

映画好きの父は、映画の題名に感心して、近頃の気が利いただけの句では負けるぞと言っていた。何しろ題名一つで興行成績に響くというから、普通の文句ではいけない。端的に、「心の旅路」「嘆きの天使」「虹を掴む男」「明日に向って撃て」なんかがいい。「野菊の如き君なりき」に上五を、「幸福の黄色いハンカチ」に下五を付けるとなると冗長だ。

「あしたのもと」(味の素)、「お口の恋人」(ロッテ)のように、よいキャッチコピーでよく商品が売れたりし、映画も、近頃は題名だけでは済まなくて、「もう会えない君を守る」(男たちの大和)のように、キャッチコピーが付いていて、それで大勢が観にやってくる。しかし、映画の題名やキャッチコピーのような句ではなるまい。そんなことに苦心しての効果は求めなくてよい。

五七五の形は五歳の童でも使えるのである。ヨソノヒトガボートニノッテアソブカナという形を使ったとき、それは、人がボートで遊んでいる事実の報告ではなくなり、ヨソノヒトガという切り取りから、自分もボートに乗りたいという気持ちが滲む。

(平成十八年五月)

 

昨是今非

 

脚下照顧草の芽そこにここに哉    正氣

三十年前の冬、「是は小生の余生の事業とする。乃ち小生の成長と寿命とがこの小園を決定するのである」と春星舎の庭作りが始まる。

翌年の月斗二十三回忌は月斗句碑開きを兼ねた。「一同は即景句の材料に事欠かぬ園内を、庵主に、脚下照顧!と一喝を食らったりして句帖にペンを走らしている。この小園は僅か十坪であるが、十歩にして十里の山野を歩くが如し、と庵主が自賛している」庭である。

次の年、「小園は着々整ってきた。朝、昼、夕、夜半と何回も見て回り、手入れをする。臨機応変の心の準備も必要である。昨是今非の心の成長も養わねばならぬ。小生の俳句の向上が小園の向上を援け、小園の向上が小生の俳句の向上を援けるであろう。」と言う。このときの句が碑になった「水打って昨是今非や庭手入」である。

映画「七人の侍」に出てくる人物像で、志村喬演ずる勘兵衛よりも、三船敏郎の菊千代よりも、宮口精二の久蔵がお気に入りだった。久蔵は、刀一筋名利を追わず、身を削り心を研ぎ、完璧を求めて生涯を貫く。句の新を求め且つ磨くが如しである。

(平成十二年二月)

 平成三年八月十四日に永眠した前主宰松本正氣の十七回忌に際し、新しい誌友の中には、正氣をご存じない方々も多いことから、何かと思案してみたのだが、春星に毎月一頁分書き綴ったものの中から、正氣に関係するものを集め、付録することにする。

 もともとこれは、祖述により、以後を預かる自らを見つめようとする作業である。事に触れて心に浮ぶあれこれを、その流れのままに字数分だけ記し、後から表題を付しているので、内容はあちこちして実に取りとめがない。突として結語に至ったりしている。

今回の取捨排列についても同様である。事柄の重複も多い。文章のほうは多少推敲して書き改めた。(松本島春)

 

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