久世車春

 

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野分の朝

 

久世車春(聴秋聲)

 

去年の六月に高知へ行った。その滞在中に兎の子を一番い買った。雌は真っ白で雄に黒い斑があった。八百屋の爺さんが持って来たので、只余りに可愛らしかったもんだからフラフラと買ってしまった。用事を一段落片づけて宿へ帰ると、何は偖置いて先ず蜜柑箱の兎を見舞うた。そして座敷を這わせてはその不格好な飛ぶような歩き状を興あるものに飽かず眺めて、また出かける用のあるのも忘れていた。女中のお愛さんなどは、私が余り耳を提げてなぶるもんだから、そんなにしては耳が抜けますやろうと心配そうに注意したほどだった。

愈々今日帰るという日に宿のお婆さんが、連れてお帰りますかと訊いた。買うには買ったものの遥々大阪まで連れて戻る訳にはいかぬ。そこで其処の家に飼うて置いてやっとくれと頼んだ。此の婆さんは犬と猫とを飼い馴らして、二匹仲良く遊ぶのを見て喜んでる程、こんなものの好きな婆さんである。そんならもっと大きな檻を拵えて飼って置きましょうと直ぐ承知をしてくれた。

八月にも渡航した。兎は余程大きくなっていた。石油箱の横を抜いて此処へ竹格子を嵌めた檻の中で盛んに菜っ葉を喰っていた。

十月にも行った。益々太っている。其頃は檻を開けて置くと勝手に出入りして決して他所へは逃げぬ。番公(犬の名)も玉(猫の名)も馴れているからどうもしない。と婆さんは自慢らしく嬉しそうに話をした。

十一月の半ば頃に宿から葉書が来た。又やんの筆跡で雌の方の兎が此の間から少々塩梅が悪いらしかったが今朝見ると檻の中で冷たくなっていました。屍骸は庭の桜の木の下へ埋めてやりました。雄は悄然として余り菜っ葉を食べません。と書いてあった。

十二月に行った時には其の時の様子を委しく又やんからきいた。婆さんは嫁さんを貰うてやるか、養子にでもやらんといきませんのうしと云った。

年を越えてからも二月、四月、六月、八月と二か月に一回ずつは定まって渡航した。其の度々に婆さんは嫁か養子にかという。私はどちらでも口があればと答えて置いた。兎はいよいよ太って来た。石油箱の檻は一匹ですら狭い程になった。或時、檻から出して抱いてやろうとした私の手の甲を、イヤと云う程後脚で蹴りつけて檻へ逃げ込んだ。手の甲には鋭い爪の跡が長い蚯蚓腫れになって三筋残った。其の当座四五日は用事で行く先々で、おいどうしたんだ、女にでも引っ掻かれたのだろうと調戯われた。一々弁解するのは面倒だからウンそうだそうだと云っておいたが、それが甚だ五月蠅いので閉口したことがある。

十一月の初めに又やんから葉書が来た。今朝起きて手水を使いに庭に下りると白い毛が一ぱいに散っていた。可笑しいなと思って、見ると檻は空であった。どうしたろうかと方々を捜すと縁の下で仰向いていた。引き出して見ると無惨にも咽喉笛を喰い切られていた。何所かの野良猫の所為らしい。そこで以前雌を埋めた桜の木の下へ同じく葬ってやったがとにかく可哀想な事をした。昨夜から野分で抜けた毛の庭と云わず屋敷と云わず一面に散っているのも無惨である。と書いてあった。

此の月の末の日は激しい風が吹いた。風は夜に入ると共に追々と吹き募った。夜半頃には安閑と寝ておられぬ程烈しく戸や障子を震わした。起き上がって冷々する寝間着の儘宵に戒めて寝た火を又戒めに廻った。十二月の一日の東が白むと同時に風も少しは凪加減になった。朝飯を済ませて昨夜の時化を話し合っている時、電報が来た。高知の宿からである。電文に依れば彼地に大火があって宿も今朝の三時に遂に類焼の厄に遭うたとある。

兎はどの道死の運命にあったのである。活きながら火焔に包まれて飛び廻る苦痛を見ずして、人の知らぬ間に野良猫と奮闘して遂に其の牙に斃れたのはまだしもであったと考えた。  (明四三)