久世車春

 

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久世車春の追憶

 

花木伏兎

 

 車春とは彼が離秌聲と号していた頃からの古馴染であった。心斎橋筋の順慶町へ出る迄の西側で、文楽座の春太夫が妻女に下駄屋をやらしていた隣近くに、女の結髪に用いるかもじ髪の老舗があって、車春はそこの息子であったが、あまりこの家には寄り付かぬようにしていたらしい。何をして生活しているのか知らぬが、のん気らしい態度で年の若い割合にませた口の利きようをしていて、我々同じ大阪生まれでも彼の大阪弁は代表的に際立った太い声で、どんな場所でも無遠にやり、饒舌組だからいつも句席の邪魔をした。けれどもそれが為に人々からも嫌いをされたのではなく、どこやら愛嬌らしいものを含んでいたように思われる。馴染として古いが句席以外に特別の交わりは無く過ごしたものの、逢えばすぐに近くの席に割り込んできたのである。彼の作句仲間と目される顔触れの中で蘆仙、吾始皇等もあったが殊に菊太と私との場合に車春のことを問うても菊太はハッキリした答えをせずに話を逸らす風であった。私が住吉神社と玉出の生根神社を兼務の頃に生根の社務所で例会句会を催していたが、車春は毎回他の人より早めに出て来て食事と入浴を共にし、その後は横臥して例の声高に話を遣る癖をやめなかった。そこへ菊太が筆紙墨から茶菓まで持参で息せきとやって来るなり車春を叱りつけると、やかましういいないナ、ええがナと嘯いていた。其の後菊太の病状が重くなり、その枕頭で生別句筵を催された時に徂春は東京へ移り車春はさっぱり顔を見せぬようになった。程経ての便りに朝鮮の北方へ出掛けているそうなと聞いたが、又後に今は岡山に戻って料理店を開いて成功しているし、句会をやって同人の拡張に努めていると知った。彼一流の漫筆が同人誌上に掲載され出した頃であるし、斗翁も車春居に一泊されての土産話に車春は中々気楽に暮らしているよと褒めて居られた。其頃の私は神主を辞めて桃谷順天館に入って居り、岡山と高松へ要件を持ち出張の際に時間の余裕が無い中を思い出して岡山の某旅館から夜遅く電話で呼び出して見ると車春はすぐやって来て、なんでこんな宿へ泊んなはった。すぐ私いとこへ行きまへう、あほらしいこんな宿へあほらしいと来るなりぼろくそにやる。その車春の風俗を見ると茶縞のお召の対の羽織をぞろりと着こなし、なんとやら見当のつかぬ拵えであった。イヤ高松へ渡る時間の都合ですぐここを発つ筈だが一寸君を思い出したから。そら無茶や、斗翁にも来て貰うてるのだっせ、そんならきっと帰りに寄っとくなはれ、そんなわけで車春居を訪れる機はその後に来なかった。或る日突然車春が大阪へ来て桜の宮の斗翁のお宅で私は遇会した。岡山は舞扇のよいのを売る店がないので、心斎橋のみのやへ交渉して扱うて見ようと思うから斗翁と同行してくれというので、やむなくみのやへ出掛けたが取引交渉の話が進捗したかどうか突き止めはしなかった。又其の後桃谷順天館員の句会や武田屋温泉へ吟行の時、車春が妻子連れで来て居り、近々いよいよ大阪へ移住と決めたので、いづれ相談に行くからと立ち話のまま別れ、二三日してやって来ての話に、あんたの土人形造りを教えてほしい。そして荒神道で人形屋を始めるのだという。道楽でやるのか又はそれで生活するつもりか、むろん商売だす、岡山では結局あかなんだ、それなら人形だけでは維持できん、それより亡妻花明の弟が初めている新商売があるから一応相談したらと紹介してやった。弟の来ての話に車春さんは好人物でゆっくり人で、あれでは迚もやって行けそうにないとの報告をしていた。又後に桜の宮銀の大橋の東の方で飲食店を開いた。斗翁のお宅へおはぎを持って来てこんなものも売るとのこと。どこかの句会の戻り斗翁を初め十人ばかり夕食をとる必要があった時に、一つ車春の店へ行こうと決めてどやどやと押し掛けたところ、そんなに突然来られてはどもならん、何が出来るというと、早幕ならマア牛飯だんナ、それもよかろう、酒があるか、すぐ買うて来ます、この一行に禅僧佳山が加っていて、襷がけで酒のかんばんをするやら、その牛飯を食わされるやら、とても思い出の深い場面を刻み付けた。その店もいけなかったようで、とうとう再び岡山へ後戻りとなったのである。在阪中には折々月斗庵の一日句会や新年句会にも顔出しをして、しんみりした作を残しもしたが、相当衰えを見せて淋しそうだった。車春は私とは違っていつも懐手をしながらのん気に過ごし得る器用人とばかり感心していたものを、不遇なうちにその晩年を閉じたらしい。気の毒でならぬ。

  大阪をすてて返らぬ寒さ哉

(「櫻鯛」昭一四・二)