春星のこと

松本島春

 

 

壁は厚く高く

                  

 俳句雑誌の心臓部は、主宰である選者による選を経た俳句欄である。選は、作者と選者との間の一種の取っ組み合いだから、両者の間に緊迫した対面関係が生じなければならない。『春星』程の規模ならそれが可能なので、五句を発表するのに、その三、四倍の数の作品を投じて頂いている。

虚子選による『ホトトギス』雑詠も、当初は今の『春星』と同じく、二十句以内の投句だったが、中学生正氣が挑んだ頃には、ちょうど虚子が軽い中風に罹ったあとで、十句以下に改められている。虚子の選に一句でも入るか入らないかが問題で、当時、五句以上が掲載されるのは月に数名ほどだったようだ。

その後の投句者の激増で、戦後の『ホトトギス』の投句は二句限となったが、たとえば高浜年尾が継承した頃の入選者はざっと千五百名を数え、そのうちの九割近くが一句入選者であり、それが二十数ページの二段組二十四行に犇いている。これもどうか。

選んだ句との差を見抜いて、どの句をカットするかに選者の責任がかかっている。発表される句とそうでない句と、作者にはっきりとその違いを提示することができるのが、定例月刊の俳誌という、積み重ねの効く場合の選のありようであると心得る。

五句投句で五句入選を狙って、ストライクを投げることだけに心を配ると、お互い凡夫だから、ボールの勢いに気が漲らぬ惧れがある。たとえゾーン内を通っても、それがホームラン競争の場合の球筋では、ストライクと高々宣し兼ねるのである。

前々月から前月そして今月と、縦並べの視点が念頭にある。慣性で、今月のスピードが前月と同じくほどほどに速くとも、一所懸命という加速がなければ、それは前月のままであり、今月ではない。だから、アクセルを踏んだ跡がある句は心して視る。

大相撲の三役陣と同様、雑詠欄上位の壁の厚さ高さこそが俳誌の力そのものである。壁は突き破るか乗り越えるものであって、空間確保の便法に、壁を別のところに移すというのは、選者は気楽だが、あたかも前頭のみによる本場所の如しである。

シンクロナイズドスイミングを見ていて、水面に足首がぽんと浮いているけれども、水中カメラでは、なんとも激しい全身の筋肉活動があるではないか。同様に、静止したものと見えてはいても、壁として存在することは並大抵ではない。

(平成十六年十二月)

 

 

十年一日

 

「桔梗白し春星主宰この日より 野中丈義」から十年の月日を経た。『春星』を続けよという前主宰の遺言を守り、密かに指折っていた年数である。その間、十年一日を期した。変ることなくであり、倦まず弛まずである。

俳句界で、光ある作家がそれに拠る衆を糾合し、結社が生まれ発展してゆく時代があった。機関誌の発行は形としての現れであるが、その形を保ちながら時は経過し、それにつれて当事者も周囲も変化する。

世情の移り変わりが特に戦後は著しい。戦前から、俳句に流派なし俳人に結社あり、が正氣の立場であったが、後段は謂うべくもない当節である。それでも大型の機関誌はそっくり残る傾向がある。コスト上のスケールメリットもあり、ブランド好みもあろう。

月斗先生の『同人』より裸馬先生へ、その信条の光芒を新たにしたが、同時に光に拠る者にとって自己認識を新たにする契機となった。私はこのことを通過して実感しているが、新生の目覚ましい例である。この時期の『春星』にも関わりなしとはしない。

正氣前主宰は意の通い合う者同士が腕を磨くという、俳句道場を以て『春星』の存在理由とした。作句第一義を旨とするひたすらな稽古の場である。免許皆伝というのはないので、私は、十年で不易を解すべくもないが、道場主の遺した形而下のものにほぼ隈なく目を通した。

子規が没した『ホトトギス』は、九月で第五巻が終る。第六巻巻首に、鳴雪は「子規子は決して死なぬ。死んだのは其の身体だ。其の精神は依然として存して居る」、それは何処か、四方太、碧梧桐、虚子、紅緑、「乃至はわが同人一般の身体である」、「子規子は生きて居る、生きてこのホトトギス第六巻の統率者となって居る」と述べている。

その十年後、虚子の選によるホトトギス雑詠が始まった。この間、虚子は『ホトトギス』で、俳体詩、連句から写生文を経て小説に力を尽くすなど、俳句外の形式への道をも探る。碧梧桐のほうは、『日本』の子規選を継いで、全国を旅しつつどこまでも俳句においての新を目指し、後についに新傾向に走った。

身体は常に活動して変化している。生理的な機能はすぐ見て取れる速やかな変化だが、それが判らないほどゆっくりとしているのを解剖的な構造と呼ぶ。十年という月日を自らに問うている次第である。

(平成十三年十月)

 

 

春星作品のこと

 

 『春星』は、栄養たっぷりで美味しい俳誌を期している。いっぱーつのドリンク剤の滋養ではなく、さっさっさーの化学調味料の旨さではない。おなかがくるしくなるほどの分量でもないし、よく咀嚼して味わって飲み込んで、身につくことを願っている。

 主食のご飯は、いうまでもなく、フォントサイズも揃えてよそった春星作品欄である。ご飯だけで必要且つ十分とも言える。句作第一義である。それだけで身につくものが幾らもあろう。

 だが、実態は作者が読者なのであるから、実作者向けの献立作りをせねばならぬ。句の道はただ一本であり、ビギナーとて特別な道はないが、足の運び方などのコーチは用意されていい。

 『春星』の容量は限られていて、一見、十年一日の汽車弁の内容である。これは、身体を形づくる構造のように、代謝が長い時間を要するため、その更新は目には見えない。『春星』は生きものだから、日々新たでなくてはならないし、そうだと信じている。

 作者から選者へと渡った句は、選を経ることで重みを加える。棚の上に置かれてエネルギーが高まるのである。そんな選でなければなるまい。島春の句が、月斗選、裸馬選、正氣選を経る以前以後を比べて重くなっていると覚る。そこから上達するのである。ちなみに、上達とは、巧みになることではない。

 句自身が価値でなければならない。作者はそのうしろに居るもので、顔を出してはならない。生い立ちや今の境涯とかをファクターとはしないスポーツと、文芸の評価とは明らかに異質だが、作者自身は、あくまでも鑑賞のよすがであり、研究の参考である。

句にした素材そのものも然りである。これを見つけ出し、選び出したのは表現であり、功績であるが、素材だけで論うのでは折角の句作が泣く。 「積極的を愛し、消極的を捨てない。夕立を喜び、時雨を楽しむ。大自然を礼賛すると同時に、人事の葛藤を凝視する」(月斗)のは、春星作品もその通りである。「同じて和さず」という小人の道は取らない。

 「三千の俳句を閲し柿二つ 子規」の、1柿単位は千五百句、職業俳人は別として、選者がコーチをも兼ねるなら、月に2柿単位は、そんなところだろう。

『春星』とは何かと問われれば、雑詠欄を見てくださいというほかはない。ランナーもコーチも、楽しんで共々に日々走りつづけたい。

(平成十二年十一月)

 

 

 ほんまもん

 

父ゆずりで、私には台所で煮たり焼いたりはできないが、料理人のテレビドラマで見ると、腕前以前に、代々うまいものを食して獲得した、舌の素質の良さが必要らしい。さらにそれを練磨する精進を要する。そのためには、先ずそのことが大好きにならねばならぬ。大好きなことは、尊く思って大事に扱う。大好きでなければ心が前や上や奥へは進まない。

虚子が、子規五十回忌に際し『ホトトギス』に載せた「子規雑記」の中で、いろんな面での子規の思い出を語っているが、俳句について抜き書きすると、初期の頃、「子規が俳句を作る時の様子、顔付き等を見てをりますと、如何にも楽しんで俳句を作ってをる様が今も尚目の前に残ってをります」、「一旦俳句となると喜び勇んでそれに赴くという状態でありました」。種々の文藝の中で「俳句の天地をさまようて句作に没頭している時の状態は何物にも代え難いような楽しいものであったと思います」、「子規が俳句の方面で如何にも楽しげに精魂を打ち込んでこれに携わってをったという事は忘れることの出来ない印象であります」、「一番精魂を打ち込んだものは俳句であって、この俳句こそ子規が心より愛し慈しんだものであるように思います」と反復重複述べつつ、虚子は、最期の子規が「体の中に水が淀んだように、静かに残ったものは俳句であったかと思う」のである。

中学生正氣は俳句を始め、面白いと思った。大好きになったから同窓の誰彼を俳句に誘った。諫早上山公園の句碑が象徴である。論より実作、工夫して励み継続した。優先した。前向きに生涯を終始した。

虚子のいう「静かに残ったもの」としての俳句とは、子規の具体的な個々の句を指しているのではない。虚子も、子規の俳句については「平坦に地道」であり、若し子規が健康であったなら、写生も、もっと突き進んだ境地に向ったことであろうと述べている。

子規が句会や雑誌に何かと趣向をたて目立たせるのを好んだことについては、「これらの俗な方面の仕事は僕が受け持とうと言っていました。そういうことに頭が働くのを俗な方面の仕事と子規は言っていたのであります」と述べる。主宰のものぐさもあって、『春星』は、大会とか何々賞とかのイベントには疎い。

俳句そのものを愛する本ものの俳人を、『春星』は希求する。気力体力薄れて尚、静かに体に残ったものは俳句、という生涯でありたい。

(平成十三年十二月)

 

 

小俳誌主義

 

子供の頃、近くの湧原川は、橋の近くの堰より上が小石混じりの砂原で、遊び場だった。僅かな植生の中で目立つのは牛酸葉と竹煮草ぐらいだったのに、今では護岸が出来、生活廃水の栄養で、風が吹けば倒れ伏すほどの一面豊かな緑である。堰の下流は潮がさして来て、この季節になると、水際の小石をはぐれば、チーチーという呼び名の、糸筋ほどの鰻の子が海からやって来て居て、何ぼでも手で掬えた。

今は川原へ下りられる足がかりもないが、子供たちの姿を見ないのは、規制というか保護というか、どうも川原で遊ぶのは危険と禁じられているらしい。

時空の断面という俳句的な境地だからか、鉄道の踏切や遮断機がよく句の素材に使われたが、街中では立体交差で見かけなくなった。以前に踏切番の人に聞いたのは、遮断機の用の第一義は、列車を無事に通過させることだという。私は、列車に刎ねられる危険から護ってくれるためだとばかり思っていた。

昨今の何々改革の国会論議も、誰が誰を何を規制か保護か、こんがらがって聞こえる。第三・四種郵便物がなくなりそうだったのが沙汰止みになってしまった。

郵便物の分類では、『春星』は信書と同じく第一種になる。これも聞いた話だが、郵政事業庁の第三種認可を受けるのに、号を追って定期的に発行する刊行物、まではクリアするが、あまねく発売、が問題らしい。多くの俳誌は該当すまい。

第四種は、明白に公共の福祉の増進にかかわる対象物を謳ってあるが、第三種の認定は、内実は数量なのであろう。ならばパーティー券みたいな政治経済文化のお題目は何だと、通巻六五八号のチーチー俳誌は歯軋りする。創刊当時、米占領軍は、自前のガリ版の本誌をも非力とせず、情報検閲のため提出を義務つけていた。文化の力とは数量では評価出来ない。

江戸時代の寺子屋の規模は、今の小学校のクラス単位、最大でも『春星』ほどであったらしい。ここで師匠の手で朱を加えるという、個別(第一種)の濃い指導がなされていた。スケールメリットとは、文藝の外の分野だ。内容充実を専一に、大きなフォントを配さずページを削ぎ、二つ折りにして第一種定型郵便物の送料の内に収め、手許に届けた往時を思う。

あまねく公共的という要件とて、メディアの何万人という数での俳句の教室を想像するならば、『春星』が第一種の俳誌であることが、大いに肯える。

(平成十四年六月)

 

 

水の三原の水飢饉

 

 「新茶煮る三原の水はうまき哉」と久世車春の句にある。前身を含め『春星』に関係した俳人諸先達の句生涯を誌上に留めようとしているが、大阪俳壇で鳴らした車春について面識があるのは、もう岡山の季観さんくらいだろう。前主宰が、車春との俳縁にて、この三原の地、湧原川の辺に居を卜したのは、市街化せぬ前のここ山紫水明の景に因る。湧原川の名の如く、川水は途中で地に潜り、再び湧き出して流れる。この地下水を汲み上げて三原の水源としていた。

 工場ができ、人が増え、今では遠くのダムからの水が頼りだが、この夏は日照り続きで、三原の水不足は全国版になった。三原といえば春星、で皆様方からたいへんなご心配を恭うした。土用が過ぎ、秋に入っても、雨は無く、気温は夜もあまり下がらない。

「夜の秋」を夏とする季寄せがある。従来の『同人』では無かったことで、戦後発行の同人社「俳句手帳」には載ってなかった。時代による変化は当然だが、こと時候についてはそれはなかろう。改造社『俳諧歳時記』夏は青木月斗編だが、それに「近時作られたる新題なるべきも、否定すべきなり。古人の夜の秋と詠ひたるものは、総て秋の夜のものなり」とある。秋は松瀬青々の編で、傍題に「秋の宵」「宵の秋」「夜半の秋」「秋の夜半」とあるが、「夜の秋」は抜いている。春と冬は高浜虚子編、改造社も苦しいところだ。

山本健吉編の文春文庫の歳時記では、古句を抜いた例句を挙げているが、それらを見ても「夜の秋」は秋の夜、で、夏の終わりの夜の感じ、ではない。さすがに傍題に「夜は秋」を付けているが、よけいに苦しい。それは「夜は秋」でなくて、夜は「秋」だ。

 要は語感であろう。「あきのよる」と「よるのあき」と置く場合を先人はしっかりと心遣いした。『同人句集』の季題解説に、「秋の川はあき川など詠むべからず。はる川も悪し。なつ川ふゆ川はよし」とある。頭で考えないで、口に出してみれば解る。

川水の話が暑くなった。湧原川畔にあった正氣居(死灰庵)の前の橋の袂に一本の桐の木があった。昭和十二年夏月斗先生にお供して来た湯室月村が、せいぜい荷車の牛を繋ぐぐらいの桐を句材に「桐一木」十三句をものしたのは、涼しい。ところが後に、この『桜鯛』の句を読んで「月村の桐」が見たくなったのでと、大阪から死灰庵を訪ねるべく、言うて寄越した人がいたとか。これも爽やか。

(平成六年九月)

 

 

選句ということ

 

十一月は、谷村凡水(平一)、大橋涼舟(昭三四)の忌月である。長谷川太郎、関口方樹と共に、雑詠選者月斗没後の『春星』の継続刊行を正気に勧めた両氏である。三十才前後の正氣、方樹は奇才の方で、あとは『同人』の天才作家と呼ばれていた。

その脂ののった天才の三人が、昭和十年五月号で課題吟「花盛」の共選をしている。結果は、それぞれ三十乃至四十句選のうち、三人共選の句は一句もなく、二人共選が四、五句ずつである。ちなみに同号で湯室月村、岡本圭岳のベテランが同じく「遅楼」(月斗出題だろう、面白い)で共選をしているが、これも、二人の選が一致したのはわずかに三句であった。

A新聞俳壇の場合、複数選者の選に入った句にはマークが打ってあるようだが特段の意味はない。かつて担当三選者が選句について、金子兜太は、よい句とは日常体験の本音を書くにあるが、本音を直裁に書くのでなく定型と音律を活用するとし、山口誓子は、季物を写生して感動した句を探るとして、その感動を触発した構造をはっきりさせる知性の関与を述べ、加藤楸邨は、選句のあり方として、我が選句は我が作句、共有の一つの新しい世界をつかむことと言う。

いろいろの表現はあるが、すぐれた句を抜擢するという意味での選句に当たって、俳句することにより、もう一人の新しい自分との出会いがあったかどうかを問うているのであろう。

前記の凡水、涼舟、太郎の共選結果は、真剣に選に当たったからである。選句も出会いであって、横断歩道をぞろぞろ渡ってくる中で何を注視するか、選者の個に関わる。際立った個の、同時に作者である選者の視線と出会うのは容易でない事を示している。

一方、資格検定試験に類する選句の場合は、一定の水準を奈辺に置くかである。ずっと下げれば、三人の選句は英会話翻訳機にも似てほぼ一致するだろう。それ以上のプラスアルファが創作といえる段階に立つ訳で、それも、もし海水準が百メートルも上がれば、大都市圏は消えて日本地図の形はとてつもなく変化するように、選者が意図するその高さによっても、選句の違いは大きくなってくる。

その俳誌に応じた海水準がある。更に「春星作品」は上達への指導でもあるから、個々の敷居の高さは選者の呼吸に委ねられる。正氣師のいうアメムチであり、各人各自に違うのが指導というものである。

(平成六年十一月)

 

 

春星第五十巻

 

 本年で五十巻を重ねることとなった。この間、縁あって誌上に句を印された方々は、東北から九州まで、およそ千に近い数と推定したことがある。今や創刊時の雑詠選者青木月斗師はじめ月村、王樹、滴萃らの古老、月斗没後を友情で支えた凡水、太郎らもなく、後年参加した同郷の青火、里鵜も失った。

正氣前主宰没後、初号より誌に残るは島春だけとなった。あと号を追っての数年間に限れば、ご健在は、男兒、鬼烽火、季観、文武、凡雲、航作、光雄、つづみ、如月、清人、小苑、旦、彩子、いをぎ、耀堂、佳以女、みえ、左右山の諸氏を認める。

 昭和二十一年七月、米占領軍の許可を得て、初号は西洋紙一枚二つ折りの謄写版刷りで、民事検閲局出版演芸放送部福岡事務所へ毎月「検閲ノタメ発行ノ都度ソノ各二部ヲ(発行部数ヲペンニテ明記ノ上)印刷直後左記へ必ズ提出願ヒマス」の時世であった。

自由で豊かな出版の現在、見かけは貧弱とは言わぬが、依然として素朴である。でも有難いことに、数々の先達大家、諸学究よりのご寄稿を賜わっている。

 プリント社へ依頼するようになって、製本された表紙は月斗題字となる。誌そのものが俳句だと、季節感を重んじて表紙も月変わりでの王樹画。浩一路画伯より頂いたこともある。王樹翁不自由の後は西望先生に題字をお願いし、お元気な間は年初に表紙絵も書いて頂いていた。今年は、先生の平和祈念像の色紙を以て被爆五十年の意としたいと思う。

 内容については、お手許の各俳誌雑詠上位欄を比較して頂きたい。前主宰は、雑詠欄のレベルは選者の責任として、常に作句第一義を唱えた。誌のどの一頁も自分の作句に繋がらねばならぬとした。自ら鉄筆で蝋原紙を切っていた頃からの習癖で、誌面にゆとりは乏しい。作者によって句の印刷活字の大きさを区別することもない。一頁を三読するは三頁を一読するに遥かに勝るとするのである。

『春星』は、何々さんの今月の句や如何と作者より句を尋ね、またこの句は誰が作ぞと句より作者を探る事の出来るほどの句数であり、一句が見える、つまり一句もて切瑳琢磨し得る作品数である。

 科学者に国境があっても、科学に国境はないということで、本来、俳句に流派はない。和而不同である。選者の句の取捨の判断は、ひとえに句中のもう一人の新しい自分の存否に掛かる。

(平成七年一月)

 

 

心を高く

 

 古い『春星』に、松本きょうだいの末妹の千萬子八歳の句も載っている。いわく「冬びより父とさんぽにいきにけり、冬の山のぼれば島が見えにけり、冬の海お日さまてって光りけり、春の雨あたらしいかささしにけり、春の山つつじをとってかへりけり」。ちなみに当時のみえの句が、同じ「いきにけり」にしても、「はね買ひにはごいた抱いていきにけり、げんげつみにむこうぎしまでいきにけり」と、やや内容が複雑になっているのは、年齢通り三歳の長だろう。

俳句は、文語に由来する骨組みが実にがっちりとしているので、それに乗っかれば余り苦労は要らない。そこから、高め、深めて行ったのである。しかし今のニューミュージック系の言葉づかいに育った世代には難しくなっている。国語審議会が言ったように、特別に勉強せねばならぬ。

男児、文武も早くから父権で句作を強いられた。男児の「いきにけり」は、「羽子買ひに妹つれて行きにけり」で、文武は、「つくしつみわかれみちまできたりけり」である。みな俳句の型から入った訳である。

世のいわゆる文人詩人の俳句の「や、かな」はほんのり色づいているが、「けり」も「かな」も積極的な白地こそが気持ちいい。これが消極的に形骸化すれば、かつて他派から、同人のけり飛ばしとか白湯の味とか、貶されるようなことになる。

でも口語短歌の詠みぶりよりは、「すみれ哉」の俳句の味を初歩のうちにインプリントして置きたいものだが、昨今はもう無理だろう。男児なんかよくあれで進歩が遅れたと嘆いていたが、あの枷があって今は自由闊達に振舞えるのである。一握りの天才は別だが、武道の稽古みたいに、基本を学び技を練ることにより、やがて味を解し、雅俗の識別能を身につけることができる。

頃日、徳川美街館蔵の能面、狂言面を十数面観た。よくは解せぬがそれぞれは風趣を湛える。この面が付けられ用いられたとき、なお精妙な表情が浮かぶのであろう。俳句も言葉というを付けたものであるから、用いるものの技倆心境により、自ら表れるものが異なるのである。

「桜」という言葉の面は、芭蕉も月斗も島春とても同じ。俳句はそのをただ並べたままで終わるべきではなかろう。心を高くし、旦暮の詩に留まらず、天地に通じるものを目指したいものだ。

(平成七年三月)

 

 

揚花火

 

  (米寿自賛)揚花火八十八に開きけり  正氣

八十八すなわち米の字に、八方に咲き開いた花火の輪、自分も見事に生き切ったことよ…に続き、

みやびなる八十八の花火哉      正氣

全き花火の姿の如き生涯、わが生涯は何と雅びなりしことよ…と言う。それも肺気腫の酸素吸入を受けながらである。

 父正氣は、平成三年、米寿で八月十四日に他界したが、その直前まで句を案じていた。先に逝った母の三回忌を修した後、「妻と呼ぶ水よ女と呼ぶ露よ」…水のように大事な存在である妻よ、その水の凝った輝きである女性としての我が妻よ…と作った。母の名はつゆ子と云うのである。それと辞世の句として、「ホ句の秋そのフィクションも神業も」…俳句は、人が作り上げるものでもあり、己を超えた天与のものでもある、そう生きて来た…を推敲していた。

三日前の八月十一日は、枕頭の私に、春星のこと、蔵書、短冊などのこと、小泉の句集のことなど告げて、「蕪村子規に問う」と前置きしての「ホ句の秋そのフィクションも神業も」、次に「俳句を始めたのは大正十三年三月十三日、一日の休みなし」と言った。これは大正九年の言い損ないである。遺言のつもりだった。まさにみやびなる人生と云える。

私は、裸馬、太郎、凡水また青鼓など、我がこの句を見て欲しいと思う先達を失うにつれ、また父には甘えがあって、その最晩年、多事多忙をいいことに、句も句会も、親孝行の文武任せになっていた。

平成三年の私の句帳を見れば、父が亡くなる八月までは、初句会と月斗忌にだけ出席している。一と月平均の作句は凡そ十数句、締め切り時と云うよりも、春星作品正氣第一選の後、おそらく無言の意を含む、見落としはないか見てくれと渡されての、第二選の稿と一緒に、句を父の許へ届けていたのであった。

だから、今の句作が生涯の追善でなくてはならぬわけである。春星居士とある位牌を抱いた日以後は、九月から月二回の土曜会に出ている。

 「みやびなる」離俗の人生は句のうちにあるのである。俳句のある生活とは容易きものではない。「八十八の花火哉」とは、俳即生というよりは生即俳である。そして、昨今ずいぶんと俳句にも俗が入り込んでいるようだが、わが春星の目指す俳句は、離俗の境のものでありたいと切に思う。

(平成七年九月)

 

 

俳句雑誌

 

 第四巻第四号は、雑詠選者青木月斗先生を悼む「春陰号」で、この号には、亀田小蛄が『アラレ』所載(明三五、八)の月兎「幼な顔」を紹介している。その文中に出てくる幼時の思い出の中船場の情景、引用すれば、「乳母に背負はれて遊びに馬場へ行くのが何よりの楽しみであった。()飴屋の喜三郎は五厘で買ふとガァーと啼くのである。喜三郎といふのは鴉で、飴売が宿木にこの喜三郎をとまらせて来るのである」を、秋双が飴売りと子供を、青帰が鴉を画いて、月斗が賛をした合作(明四三?)の、「螽斯飴屋の鉦もくれ初めし 新ちゃん」の部分の遺墨を掲載している。

 「幼な顔」は、子規遠逝の直前だから『ホトトギス』は第五巻に当たる。『ホトトギス』が極堂により松山に創刊されてよりやがて百年となるが、当初は三百部印刷、ほとんどが県内向けで、子規の啓発の文章から一年後には半数が県外にも出るようになった。

二十号の後、極堂の事情により虚子が引き受け東京での発行になるが、子規はその第四巻第一号に、『ホトトギス』は私塾のやうなものだ、東京の流行を追ふ事をせずに田舎一流でやって行く、体裁などよりも「兎に角我々の希望は都会の腐敗した空気を一掃して、田舎の新鮮なる空気を入れたいのである」と述べ、「其第二の田舎者といふ奴は今頃何処かの山奥で高い木の上に上って椎の実をゆすぶり落して居るかも知れない」と結ぶ。当時の東京の空気、文壇の風潮が窺われる。

 春星舎にてご活用をということで、Tさんから角川書店の『俳文学大辞典』を頂戴した。一般にこんな本には、私塾や田舎者や、サロンからはずれたもの、商業主義に乗らぬあたりは入り込み難いのだが、この本は、青木月斗関連のスペースを『春星』をも含め少し広げている。おそらく角光雄君がそうとう頑張ってくれたのだなと思う。

中央とか地方俳誌とかの呼称は、そのカバーするエリアの大小のことである。世間では、首都である東京と中央をシノニムにして、しかも何か高位と思って居るが、そんなものではない。それに、当時の子規もいうように、募集句や句会記事が載る俳句雑誌は、一般読者で成り立つ文学雑誌とは違い、ほぼ実作者同士が読む雑誌になっている。

特に『春星』は、お互いに句の技を切瑳琢磨する町道場であり、竹刀の音、気合の叫びを、武者窓から覗き込める構えにしている。

(平成八年三月)

 

 

春星の表記

 

 格別のことではないが、『春星』の表記法について書く。俳句はもともと定型の文語体であるから、従前通り歴史的仮名遣であるのは当然である。『春星』は、創刊から暫くはガリ版謄写であったから、仮名遣いはもちろん、字体も正字、古字と自在であった。タイプ謄写に変えてからはそうも出来なくなったので、口語体の文章については、すでに慣用となった新仮名遣いを用いている。口語体の表記法は告示の定めに従うというより、今のワープロに組みこまれた用法に文句はつけないということである。

 新仮名遣いは、『春星』創刊の四ヶ月後、新憲法にやや遅れての内閣告示によるが、月斗、正氣両師ともに肯ぜられなかった。戦時中、亜細亜向けの国策的な名目の下でも表音派の意見は実現しなかったのに、非理法権天というが、敗戦によって、異国の権力で文化が曲ったといえる。そこが嫌だったのであろう。

文語の仮名遣いの修正としては、語中語尾のワウオエイの各音のハ行はふほへひと、「ゐる」など少しの特例のワ行わうをゑゐと、「じ・ぢ」や「ず・づ」の使い分け程度である。

漢語の字音や撥音促音の表記は、明治三七年日用書房刊『音引假名遣辞典』五十版(大正三年)で、試みに五十頁を引けば、ギオンぎおん祇園、キオーきわう既往、から、キキョウききやう帰京桔梗帰郷、だが、かなで水道をすゐだうと書きたい場合は少ない。

 春星舎の庭を詠んだ正氣作品に、カタカナの花の名があるが、分類上の種名で無機的な効果を出したり、都忘れ、紫のように漢字または平仮名では意味を持つことを避けたり、また現実の場面のたとえば苗札の文字の直写など、使い分けに無頓着ではない。一部を除き動植物名は原則片仮名書きといえども、文語の俳句では、お馴染のもののウサギは兎かうさぎ、バラ(語源はいばら、うばら)はばら、薔薇を使いたい。

 一般に片仮名書きは、外来語(やや曖昧だが、中国伝来の漢語以外の国語化したもの)に使い、前述の様にカタカナで意味を持たすことはあるが、長崎をナガサキ、広島をヒロシマは外来語ともいえるし、カーンという打撃の擬音とかノロノロの擬態語は口語の表記だ。カタカナ表記は、必要で十分な範囲であるべきで、ましてや単なるペンの省力化であってはならぬ。

 俳句が短詩形であるがゆえに、文字を尊ぶことができ、尊ぶのである。

(平成九年二月)

 

 

難しいはなし

 

 『春星』は難しくて、と言われることがある。何かと云えば、春星作品の中の或る人たちの句(の意味)の理解、もしくは価値判断についてのことらしい。

 むずかしいという言葉を例に取れば、「理解や判断に当たって、単純でなかったり引っかかりがあったりして、能力や条件から見て、何等かの手立てを講じないと滑らかにゆかないこと」のように、いわゆる簡単な言葉ほど、その意味の説明を求められると意外に戸惑うものだが、一般にはそこは簡単に通り抜けている。よく分からないのが、単に句の難解な言葉のことをいうのならば、然るべき手立て、字引とか歳時記とかに依ればよいわけである。

ただ、俳句が短い形だからと云って、たとえば、おたまじゃくしを音読でカト(蝌蚪)は、漢学風で使いようがあるとしても、芽吹いた木をメギ、春の燈をハルトモシなんかどんなものか。

花冷えはもっとも美しい日本語の一つ、とする人もあるが、そこまで言うなら、個人的には花の冷に左坦する。はなびえは水洟垂らしているようだ。序でに「こめかみをおさへて花の疲れかな 正氣」の花は人事の花見で、植物の桜の花に疲れたのではない。ナーバスな女性には花疲れではなく、花の疲れである。

 ここら言葉や文字でも、その味とか姿とかを解するには、先人が遺した良いものに習い且つ慣れて、舌や目を肥やすほかに手立てはない。味の評価とはどんなものか、グルメ番組の「おいしい!」の仕種で分かる。句も同じで、味解のほうは自得の世界である。

 元へ戻るが、措辞、つまり文字の用法や辞句の配置の点で、何でこんなに晦渋かというのは、好き嫌いの領分もあるだろう。たとえば食品のカリカリ、ネバネバというテクスチャー(口当たり、舌触り)のそれである。句も、ソフトクリームやゼリーのような表面触感を好む今の世であり、頬張るものとか歯ごたえのある食べ難いものは、とかく敬遠される。

昨是今非、昨年の花の句を今年も越えなくてはならぬ。措辞の吟味は、もう一人の新しき自分を目指しての努力の一つであり、向上への過程であろう。新しくなくては作品ではない。安住しないことである。

句は自分個人または仲間内の楽しみだけではない。月々の作品として『春星』誌上に発表するということは、結果的には、世に、と云うよりも天に問い掛けて居るのである。

(平成九年五月)

 

 

六百号を顧みる

 

昭和二十一年七月一日創刊の『春星』の通巻第六百号が、戦後の時期の遅刊のせいだが、ちょうど五十一年目の七月にあたるというわけである。当初の正氣前主宰の指先による鉄筆でのガリ版刷り洋紙一枚から、現行の定型外郵便物五十グラム未満の体裁にいたるまでの形は、相も変わらず素朴というか貧弱だが、これは経済のことであって文学ではない。

前主宰は、『春星』誌そのものを一つの作品として大切にしてきた。月々の刊行ではあるが、これを流れとして見れば、その態度の点で一人の俳人のそれのごとく、不易を貫きながら、着実に向上を続けているものと信じている。従って、通巻第六百号現在の『春星』は、師承の一切を内包して居ることになる。ここに謹んで、この号を、天上の青木月斗先生、松本正氣先生に捧げるものである。

創刊のことから申し上げれば、この年、昭和二十一年六月十六日、戦後初の西国句行脚に出られた月斗先生をお迎えした。戦時休刊の母誌『同人』は、この四月、発行所を大阪から東京に移して復刊第一号を発行したが、その滴萃編集人が同行している。前身のローカル俳誌『桜鯛』を継ぐ『春星』の発行は、恐らくこの時先生のお許しを頂いたのであろう。

戦中、『桜鯛』が内務省による発行差し止めの間は、「中国同人会」の形で月斗先生指導の場を設けていた。終戦の年の出水で倒壊した正氣居が、近くに仮寓を構えてから、再び謄写により、俳句雑誌の名目で占領軍の許可を得て、『春星』初号は誕生するのである。贅沢なことに、雑詠は月斗選で、投句稿に選者加朱の上返稿されていた。

 『同人』は遅刊続きで、秋の国語改革にも影響されず、手作りで小回りの利く『春星』には、戦前よりの『同人』の古豪や有力選者の名が見える。小蛄、王樹、景亭、刀子、雷音、三夜、方樹、太郎、富竹雨、涼荷、蓼井、圭史、青村、金窓、南隣、凡水、千燈、翠西、黄櫨、暁月、月村、海雲、士栖、呵成、蒲公英、井耳、喜一、涼舟、麻刀、万十、子角、苔水、一央、青茅、二笑、一雅ほかの諸先達である。

 青年復員組では鬼烽火(満甫)、凡雲(緑雨)さんが現在も活躍されている。両人とも『桜鯛』時代よりであるが、最古参といえば、『若魚』『魚島』以来の季観さんであろう。六十有余年を数える。

因みに、戦前の『同人』系の、つまり月斗先生の題字を持つ俳誌は、手元に『桜鯛』のほか、大垣のまさを(金窓)の『新樹』(昭七)、題字はないが仙台の犀州の『東北俳句』(昭十二)、新京の麻姑の『朔風』(昭十一)などがある。いずれも真摯に新風を説き、『同人』宣揚を謳ったのであった。

戦後、『桜鯛』から誌名を変えた『春星』は、内容的には月斗門下有志精進の塾であり、かつ新人養成を期しての出発であった。『同人』有為の選者連による句評句論があり、小中学生の島春、光雄、隆一、男児、文武らが育った。筑豊からは『巣立』の後の二十二年王樹の『小同人』が出て、岩国の金窓は句会指導のための『石人形』を出した。

 昭和二十四年三月十七日、主宰月斗先生がご逝去になった『同人』は、以後、継承の菅裸馬先生により新生発展し、現在、有馬籌子主宰のもとで通巻第八九○号を重ねている。『春星』は、長谷川太郎・谷村凡水・関口方樹・大橋涼舟ら俊秀の励ましを得て継続することとした。同年、佐世保からは、後に春径の『榾火』となる蒲公英・皆春らの『宇陀鴬』が出た。なお、関西の湯室月村の『うぐひす』は昭和二十八年の創刊で、現在菅原章風主宰のもと第五二一号を数える。

 正氣前主宰は、『春星』のあり方は「和而不同」、つまり自分の句、自分にしか作れない句の完成を目指して誌友同士が互いに切瑳琢磨する俳句道場であるとし、実践的には「作句第一義」を唱え、句を作るそのこと、その苦労こそが本当の俳句の楽しみであって、それを減弱するような、そっちの方が主目的になるような、俳句作りの周辺にある世俗の楽しみは軽んじた。主宰を含め、生涯が一求道者であるから、みなで芋こぎをして皮を剥く仲間である。

 眇たる俳誌ではあるが、その意気や好しと、これまで、さまざまな方のご寄稿を頂いてきた。宮森麻太郎、村上菊一郎、近藤浩一路、福田清人、頼桃三郎、寺本春風、北村西望、工藤恒治、大類林一、下垣内和人、壇上正孝、鳥居清、伊馬春部、森川昭、富山奏、和田克司、市川森一。俳人では、青木月斗、湯室月村、亀田小蛄、島道素石、岡本圭岳、菅裸馬、中野三允、佐藤青水草、小関魯庵、野崎比古、兼崎地蔵孫、木下夕爾、榎本冬一郎、神田南畝、中島黒洲、川瀬一貫、市川彳水、佐藤南山子、名和三幹竹、相沢暁村、中島斌雄、楠本憲吉、池上浩山人、池上不二子、藤田露紅、有馬籌子の方々のお名前を見ることができる。

 学者に国境あるも学問に国境はなしで、『春星』は開かれた俳句道場として現在に至っている。いわゆる同人というような形は置かない。ありていにはスペースの問題でもあるが、フォントサイズはどなたも主宰も一様である。いわば、『春星』の作家すべて即春星同人と言える。

 正氣前主宰の大村中学校時代の同窓が、何時しか遠い時空を越えて、再び俳人として一冊の誌に勢揃いすることになったのは、不思議という以外にはない。赤司里鵜、もと『矢車』主宰の市川青鼓(青火)、野中丈義らである。正氣イズムである作句第一義は通い合う道であり、和而不同の精神によれば血は常に新鮮に流動する。

やはり中学同級の福田清人による学界との縁で、先師月斗は集英社『俳人書画美術』(昭五四)の子規の巻(和田茂樹執筆)に録することができた。芭蕉研究の冨山奏先生には同年来貴重な稿を頂いている。

 平成三年八月十四日に前主宰が没した後も、多くのご縁の中に『春星』は継続している。作業的には文武、紫好両君のご苦労によるが、何といっても最大の支えの力は、欠かさず投句を続けられる皆様方の存在以外のなにものでもない。

俳誌はそれなりの願いをもって創刊されている。一騎当千の者が揃えば、歌舞伎座の大舞台よりも築地小劇場が、風を起こし得るのである。俳誌の要であるのは雑詠欄であり、秀句の有無はあげて選者の責任である。選者はしんどいが、春星作品の出句数を多くしてある。五句出句五句入選を期そうとして、一句の冒険による取りこぼしを惧れ、選者に迎合するのを避けるがためでもある。

『春星』は、俳句作りそのものを愛する、ほんものの俳人を目指してきた。その評価は横並べにして見るのではなく、個々の俳人生を縦にして、常に途上として見るのである。

田谷小苑さんは正氣師より一歳年上だから卒五寿、今の『春星』では最高齢であろう。病、老をも包み込んだ俳句ある人生を顕現して居られる。この生涯かけて精進し向上し続けようとする姿こそが、『春星』の俳人の理想像である。

 今年は正氣居士七回忌にあたる。生を終える直前まで、俳句を思い『春星』の行く末を案じていた。文字通りの俳句ある人生を生きた俳人であった。そんな俳人を育て、世に送るのが『春星』の使命である。

生涯に一句の主になり得ればよいのだが、その一句のためには、気の遠くなるほどの努力が必要であり、その努力のためには、縁あるお仲間がそばにいることが必要なのは言うまでもない。

『春星』は、そうした名利を越えた、正氣がいう花の友の集まりに他ならない。花の友ある限り、この後も『春星』は、その歩みを続けてゆく決意である。

(平成九年七月)

 

 

曝書しながら

 

 来年七月になると、短い形の俳句の発表手段として、洋紙一枚二つ折り四ページの、雑誌とはいえないようなガリ版印刷物に始まった『春星』も、いよいよ満六十年の節目を迎えることになる。

多分、その頃、講談社が文藝雑誌『群像』の分厚い六十周年記念号を出すと思う。大学予科時代に毎月購読していたが、専門学部に入り、武田泰淳の「風媒花」の連載が終わるのを機に止めにした。この小説と同月にスタートしたのが、超長期連載となった伊藤整「日本文壇史」である。

 並べては何だが、伊藤整の表題や編年体の手法に倣った、村山古郷『明治俳壇史』『大正俳壇史』(角川書店)は、俳人たちには文士ほどのプロ的切実さがないから、この本から、例えば大正末期の正氣句の事始めに関わる時代性までは読み取れない。

 正氣が月斗に師事する前後の俳壇は、帝大俳句会復興の項で、若いみづほ、風生、誓子、秋桜子らの句を並べ、出席の虚子が、雑談で最近の秀句三句を挙げたように読み物を構成する。『肥前の国まで』の稿了直後だから、旅中の句をここで取り合わせている。

たとえば、その一句の「青麦や松上の鴉声長し 虚吼」が、「佳句は少なく、虚子の選も少なかった」中で、「虚子の選んだ句であった」とまで詳述するのはいかがか。虚子選八句に入るどころか、虚子の「それは今日の句にあったのか」(『肥前の国まで』)が、帰りの車中の虚子と虚吼の会話なのだから。

鏤めた事実のデテールが誤っていると、核心での状況証拠までが揺らいでくるのを懼れるのである。たとえば、世上に伝わる〈接待役の多佳子が、暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を拾い、焔に投げ入れた。それを目にした虚子はすかさず一句を作って示すのだ。 落椿投げて暖炉の火の上に〉の類である。

事実は、「花生けか鉢植かの椿が卓上に置いてある。その花が下に落ちた。それをひろって暖炉の火の燃えてゐる上に抛ったといふだけの句」(虚子同前)である。「湯に入って朝食をすまして今日の兼題「落椿」を作ってゐる所へ」(虚子同前)の折の作句であろう。

村山古郷は、この場面を、多佳子がこの句に「不思議な魅力を感じた」とだけ記す。「紅い花が暫く焦げないで其の焔の中にぢっとしてゐる光景」(虚子同前)を、多佳子はさすがに解することが出来たのである。この箇所の古郷の記述は的確である。

(平成十七年七月)

 

 

詞と字の隙間

 

名前の漢字で複数の読み方がある場合、少数側の読みには何らかの手立てが要る。文書の氏名の記入にフリガナ欄があるわけだ。市内の武道館の壁に並ぶ少年少女の名札を眺めていたら、万葉仮名みたいで、しゃれた音感のきれいな字面の判じ物だ。ついでだが、のついた男の子の名前がけっこう目につく。

ルビ付きの言葉は俳句でも散見するが、大抵は、ははとルビを付けた亡母、とルビを付けた娘のように、字音の節約である。俳句が短いとはいえ、そのための言葉の吝嗇は困る。

一方で、最近の歌謡の芽女女影(いずれもオンナ)などは、詞入り画面での視覚効果を狙ったのだろう。昭和の初めに、新傾向の流れでルビ俳句というのが現れたが、それに似ている。風間直得の

裾ねゆき(もや)月光(よかげ)とよべもまがうた()(かげ)  

のように、心理的な構成技法とでもいえようか。こちらは欲張りというもので、俳句では失敗した。

 幸田露伴の『音幻論』に、付録として「言語と文字の間の溝」(昭十三)という雑誌記者との対話が収録されている。山本有三らのルビ廃止論への感想である。露伴は、字に字をつける文字の二乗であるルビなどなくて済めばよいが、日本語に漢字を使用するには訓注を要する場合はあると言う。

露伴は、字を持たぬ日本の詞に外来の字を使用する場合、言語の性質が違うから何とかせねばならず、漢字の仮借を利用して成り立った仮名を使うという。仮名は日本の言葉を字にしたものだから、鳥にとりと仮名を振ると字と詞が合ってくるのである。 

漢文和読がそのうち仮名混じり文となると、その字の音は知らなくても字が読めるようになってくる。明治中期前、ルビを廃止した大新聞は、ルビ付きの小新聞に負けて、ルビを復活したという。

稚内は、その地の呼び方のわっかないに字を当てたのだから仕方がない。人名もそうだ。しかしタレントの名前や力士の四股名のように頻繁に使われるもの、学習で不要になるものがある。たとえば、ルビを振るソフトの用途が、小学生新聞、児童向け図書、外国人向け図書、ゲームソフト攻略本であるように。

 句稿はよいが、春星誌上に発表する際のルビは、文字との溝を埋めるために必要な最小限(方言や術語など)に止めている。短詩型にあっては潔癖に文字も使いたいのである。

(平成十七年十月)

 

 

再び俳句用語

 

「細面」「相応」「歴送」まで来るとお分かりだろうか、「詳接の上で」「談にじる」「履書をれ」という求人用語である。新聞広告は、文字数を少なくして面積にかかる費用を節約している。俳句では十七音という容量制限があっての文字遣いであるが、意味さえ伝わればよいというものではない。

俳句では、季題と共に、漢語という字音語の存在は大きい。文部科学省を、五音で文科省と更に略称したりするが、やまとことばで言うとしたらどうなるか。大変だというのはどう言えばいいか。

隠語とか業界用語というのは、仲間の人だけにしか分からないように考案した通語だが、俳句用語は、通語ではないどころか、その美しさや味わいが知りたいと、求められるほうの立場であらねばならぬ。

「青岬」というのが季寄せにあって、夏の青々と茂った岬だという。同じようでも青山(アオヤマ)とか青谷とかはさすがにない。

太陽の出でて没るまで青岬 誓子」の青岬は、この句の中の表現として大いに肯定するが、その大事な部分が切り取られ、安易に、茂った岬と同義の言葉として使われてはたまるまい。日本の文化である季題として使用されるのはまだまだであろう。

季寄せを開けば、春夏秋冬のどれもが岬に冠して入っている。たとえば春岬の属性とはいったい何だろうかと思う。先ずは「春の岬旅のをはりの鴎どり/うきつつ遠くなりにけるかも 三好達治」だが、この春の「岬」は、季寄せの春岬とは異質というべきだろう。

岬への思い入れもあろう。歌の詞にもとはよく合うようだ。俳人が句を作る時の目は常に旅人の目となるのだから、岬の句が多くてもそれはよいが、何か字面や音感が好まれるのかもしれない。ちなみに中国の岬(コウ)は山と山との間、日本の岬(ミサキ)は水と水の間をいうらしい。

昨今多く目にする花筏の句も気になっている。最近見かけなくなった、ミズキ科の「葉面中央に短花梗の淡緑四弁花」をつける植物名のほうでなく、多くは、水面を流れる桜の花びら群を云っているらしい。

五音で音感も良く使い勝手もよいけれど、元来、家紋にある花筏とは、太い木や竹で組み、縄で結んで川を下る筏に、花の枝を載せた図案である。京菓子でもそうだ。花びらが悪貨とはいわないが、良貨のほうが駆逐されることを惜しむ。

 (平成十八年六月)

 

 

俳句そのもののやうな

 

『春星』初号の奥付に、昭和丙戌七月朔発行とある。国会図書館のサイトから、プランゲ文庫に納まった占領下の国内出版物が検索できるが、三原市の三十五タイトルの内、本誌だけが現在も存えているようだ。

その初号の編集後記に、「俳句そのもののやうな素朴にして内容豐かな雜誌が出來上ったのは嬉しい。プリントには馴れぬ上に、晝閧ヘ落著いた閧ェなく、燈下で、近來老いを覺え初めた眼で、原紙を切ったので、至寶の内容が讀みにくいものにはなるまいかと、それが氣がかりになる」(正氣)とある。

専門のプリント社に依頼する第三巻七号までは、正氣が鉄筆でガリ版を切っていた。短冊の字からは想像できない、丁寧な楷書である。正しい字体や仮名遣いのままなので、月斗先生が喜ばれた。

創刊時は月斗選であった。同人系の古豪の作家の出句が多い。草創の二十年は、戦後の混迷の中、前を向き正しい道を進む、俳句道場であった。

次の二十年は、その間に成長した作家も加わり、正氣の中学同窓の句友の参加があって、創刊時のモットーである「和而不同」が成り、「句作第一義」の充実期といえる。選も評も切磋琢磨のそれであった。

正氣の病臥に続く守成の二十年は、その間に多くの先達を失ったが、正氣につながる数々の学究のご寄稿に句心を養い、前主宰没後は、その遺志に従い継承発行して、今に至っている。ひたすら祖述の月日ではあったが、新しいお仲間も増えた。

これからの『春星』の日々は、素朴にして内容豊かな、つまり俳句のような人生を創り、それを全うする友垣を多く結ぶことである。俳句のある旦暮、俳句のある生涯、本号の別冊『松本正氣俳歴(後篇)』は、その一つの標本である。

葛飾北斎の「半百の比より、しばしば画図を顕すといへども、七十年前、画く所は実に取るに足るものなし。七十三歳にして、やや禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟し得たり」(『富嶽百景』)とは、この成果のためには、それまでの七十年が必要だったということであろう。今の齢の自分を顧みている。

北斎はさらに「百有十歳にしては一点一格にして生けるがごとくならん。願はくば、長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまふべし」と結ぶ。今日はあだ花と、評価をさらに明日に俟つのである。この覚悟で、そのために共に励まし合う場が『春星』である。

(平成十八年七月)

 

 

俳句味の俳句

 

 ノンアルコールビールは、アルコールを1%以下まで抜いてある。アルコールの辛みは炭酸ガスの刺激で少しカバーされるが、味が元のビールを上回ることがないのは、これが引き算だからである。

現存するイタリヤの画家のそれと構図がそっくりという絵画の作者のことが、連日報道されていた。盗用とか模作と云う範疇に入るか入らないかの話で、当の作者は、絵を見比べよ、絵具の使い方、材料、画質などでオリジナリティを持つ表現だと言うが。

オリジナリティは、作者の個性を重視し、従来と区別できる新しさを尊ぶという近代の価値観である。そこに作者名が付いてくる。だから、作者の境涯の紹介から始めるような俳句の鑑賞もあるわけだ。

お米や野菜にも、日本刀に銘を入れるように、生産者名を表示したのがあるらしい。「普通の野菜とは違うということを示したいんです。そうしないと、自分のやりがいがなくなります」というのである。

ごく少量の言語からなる俳句は、桑原教授の論のように、一句において作者名を隠されると、その腕前の判定に少し困るのはその通りである。一方で、俳句はオリジナリティ部分がそれ位だからこそ大衆に通用して成り立つ文藝ともいえる。

どんな俳句の大家でも、その出発点での句におけるオリジナリティの欠如は当たり前のことだ。いわゆる俳句人口の広がりも、一句の成り立ちに誰もが繰り返す共通の部分が大勢を占めるという、俳句の宿命がそれを可能にしている。

麦芽とホップと水を主原料に発酵させるビールを模倣して、麦芽、麦の一部を他の材料で補い、泡立つようにした発泡酒、ほかの素材に置き換えた第三のビールなどは、それがイミテーションに止まる限り、新しい価値への発展性はない。

時勢と共に嗜好の向きが移るから、模造品のほうが元のビールよりも変わり身は早い筈だが、埒外に出て、元のビールを超えようとはしない。まったく新しい酒類が出来ることもない。せめてカクテルだ。西洋近代詩の味わいがする川柳とか俳句とか。

ビールの味のオリジナリティは、混ぜ物で得られるものではない。ビールのCMで、AとかKとかSとかがオリジナリティを喧伝しているが、そのため、限りなくそのビール味の究極に迫る努力を尽くしている。求真乃至は求心、俳句もまた同様であろう。

(平成十八年八月)

 

 

神業とフィクションと

 

古い屋敷だったのが更地になり山土が入っている。これが黄土色、という色彩の眩しい平面に、一所黒々とした線条が突き破っているのは木賊と見た。いい庭があったのだろう。もう夏も爛け、コニシキソウが細かい鎖編みを敷き詰めて、光を貪っている。

コニシキソウの「茎は地上匍匐、分岐、暗紅色、白毛、白乳。葉は対生、二列生、暗紫斑」というのが、『学生版牧野日本植物図鑑』での茎葉の説明(暗紫斑が固有種であるニシキソウとの相違)である。植物の色や形をそのまま文字に転換して写す、といってもこんなものだろう。

形だけを言えば、立体を写すのに、一般には、流動性のある材料で、物の形の陰型を取り凝固させ、これに流動性の材料を流し込んで凝固させれば、陽型である物の形の近似が再現される。この間の作業はいわば機械的で、製作者の主観は入り込まない。

いわゆるポップアートでは、意図的にこれを利用している。ジョージ・シーガル展で、この彫刻家の作品は、生身の人間から直接に石膏で型を取った像を使っている。そこで、その形は特定の人の肖像ではなくなり、そこらに居る一人物の表現になるのだという。彼の作品の素材として、主観が篭る手技ではないことが必要なのである。

シーガルのことは、人形作家の奥田小由女の言葉、「最初に作りたいと思うものを気持ちの中で暖めて、それから段々と油土で彫刻のような形に作りあげてゆきます」との連関で記憶していた。胡粉で仕上げて最後の顔描きで、「ふっと魂が入る瞬間」に人形に命が宿り、物体でなくなるのだと述べられる。

ご夫君である画家奥田元宋は、同じ瞬間を、「今神様が降りてきてくれた」と言い表して居られるそうである。この精神の集中の一瞬を得るためには、突き詰めた不断の努力が必要であるらしい。

正氣前主宰が最後に入院したのは、平成三年の夏の半ばであったが、早々と、秋の季題で、辞世の句をと思案し始めた。「ホ句の秋その神業とフィクションと」の「と」と「も」とを推敲していた。訊かれて私が、少し和らげた「も」のほうを言うと、頷いた。

 神業は、人の力では及ばない所に持ち上げるものであるし、フィクションは、やはり現実を超えて在るものを指している。正氣は、このように生涯の句作りを総括したのである。

(平成十八年十月)

 

 

存在証明としての俳句

 

エラリー・クイーンやアガサ・クリスティなど、もう一遍筋を読み直す気もあるのだが、読みでの点で、大切な眼を使うのだからと、鴎外の『澀江抽斎』の文章にしている。今度は岩波文庫のものである。

大学図書館の棚に詰まった『鷗外全集』は、天金で、文字通り重厚で、特に史伝物と呼ばれる何巻か、繙かれた様子が無いほどの紙の凝結を感じたものだ。

鴎外は、渋江抽斎という人物を、文字を以て緻密に的確に彫り出した。文士としての鴎外が、古い武鑑を蒐集していて、弘前藩の医官渋江氏蔵書印のあるそれに多く遭遇する。遂に同様の蒐集と同じ断案を示す目録に至り、その渋江氏の蔵書印と、考証の抽斎云とある書き込みから、渋江氏と抽斎とは同一人物ではないかと思い付くことに始まる。

松本清張の芥川賞受賞作『或る「小倉日記」伝』の主人公は、不遇にあって、鴎外の日記で逸失と見えた期間の資料を探し、その空白を埋めることに生を賭ける。集めた事実の欠片から、鴎外の日常の軌跡が確かとなるならば、それは同じく彼の人生の存在証明でもあることになるというのだ。

良寛も、その伝記については詳らかではない。東郷豊治『新修良寛』(東京創元社)には、わからない、わからないというそのことは、「実は良寛という人物を知る上にきわめて重要なことであり、またきわめて興味ぶかいことである」と考察されている。

無名でもなく隠遁もせず、識者たちにも出会えた良寛が、自ら記さないばかりか、「まったく自分自身を語らなかった」という。これは、過去を誇りや悔いをもって語ってどうなるものでもないという、修業による境涯の自覚に徹しての緘黙であるとされる。

加えて、「かれをめぐる周辺の人々の間にも資料が乏しい」ことである。「どうして時の人が記録に留め置こうとしなかったのか」については、良寛が「もっぱら庶民の間で生活しつづけ、ひとときといえども権門と結びつかなかった」からだと述べられている。

同じ著者編の『良寛全集(上下)』(東京創元社)に収められた作品は、漢詩四百、和歌千四百のほか、俳句も百ほどがある。句は余技の程度といえるが、時代を同じくする隣国の一茶の句に似ていて、当時の俳壇から距離を置いた純情さとゆとりがある。

俳人たる己を語らず語らせず、でよい。良寛の詩歌や書のように、俳句こそが存在証明である。

(平成十八年十二月)

 

 

新古一如

 

 この頃人気の季題に去年今年という言い方がある。カウントダウンで年月日時分秒の零が並んだ瞬間を詠んだりしているが、本来は、年が改まって去年に思いを馳せた時の、今年と去年というアナログ的な意識付けである。

レトロの町並み探訪とか、例えば、見掛けはそのままに、古い洋館風の理容院の跡がコーヒー店になったりして、若い人達にも評判がいい。レトロの語呂がいい気分だし、新しい現実との乖離の感覚が快いのであろう。それに、文化といえるレトロの町並みとは、多分に商業ベースでもある。

ふつう、古くなった建物に手を加えて改善するのがリフォーム(改装)であるが、リノベーションという言い方のほうは、それで機能を高めて新しい魅力を付加するものらしい。さしずめ、このコーヒー店のような場合だろう。単なる用途変更、つまり髪を刈る店からコーヒーを淹れる店にコンバージョン(転用)しただけではない。

昔の理容院が持っていた属性、形や働きや雰囲気などが、即かず離れずで、コーヒー店のそれと反応し得るものでなければ、この転用はうまくゆかないし、又、ただ古いというだけでは、とうてい外に働きかけるほどのエネルギーは持てない。

古い町並みや家屋や用具などが、何ゆえ心を惹くのか。それは、大量生産大量消費が可能となる以前に作り出された、それらに滲み込んでいる先人たちの厖大な手間と時間の集積と、営々と暮らしを維持してきた生命力の強靭さを感じさせるせいであろう。

今年の表紙絵に、井上木它の「木守柿」の画軸を使った。自然の恵みは取り尽くさないのが人の道である。孤塁を守り抜く姿にも見える。そこで、月斗俳句が明治末の短期の新傾向から脱した後、そのスタイルが確立してゆく大正期の句を巻末に付録した。

いわゆるレトロの町並みの感覚で、昔の句を眺めると退屈かも知れぬ。しかし、先人たちが時をかけて作り上げ今に伝えて来た俳句の型、その形や内容を、単なるスタイルとはせず、作用しかかる動的なものと捉える態度でいなければなるまい。

古い型に何かの新しさを吹き込むのではない。年が改まったら今年となるように、新が成り立った途端にそれは型となるのだから、伝統文藝は、常に新古一如の場にあるのである。

 (平成十九年一月)

 

 

天然の強み

 

 新春、各テレビ局が行う富士山の放映から、初富士という季題を意識する。

太宰治の『富嶽百景』では、十国峠から見た富士は完全のたくましさを感じさせ、「やってゐやがる」と思う。「東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい」し、御坂峠の天下茶屋からはおあつらい向きの富士で、「ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた」が、それから見合いやらあれこれあって、「富士は、やっぱり偉いと思った。よくやってる、と思った」りもする。富士の普遍的なものとしての存在が、観る側の気分によって、こと(事=殊)として見えてくるのである。

 「富士には、月見草がよく似合ふ」は、観光のキャッチフレーズにもなっているようだ。題詠では連想できない「月見草」というインパクトのせいであろう。車中の皆が一斉にバスの窓から眺めるのに、隣席の青白い端正の顔の老婆と「私」だけが、俗な富士を一瞥もしないばかりか、反対側の窓を見た老婆は、「おや、月見草」と言う。

 旧臘のテレビで、Kという若いボクサーが、「ロッキー4」の音楽でリングに登場した。この映画は、ボクサーのロッキー(シルベスター・スタローン)が、親友のアポロを仆したソ連の完璧なボクサー、ドリゴに対し、アポロに代わってリベンジするのに、その両者が試合に臨む前のトレーニングの有様を描く。

ドリゴのほうは、トレーニングマシンを使った科学的な方法で、その力と技のデジタルに測れる極限までを追求する。ロッキーのほうは、川を渉り、山を攀じ、大木を挽くなど、自然物を用いることにより、生身をいわば本能的に鍛え抜く。

試合は、マシンと化したような体と技のドリゴが圧倒的な優勢に立つ。ところが、心という脆弱部を排除したマシンのはずのドリゴが、ロッキーの闘魂に本能的に反応してしまい、とたんにドリゴはマシンから人間に戻ってしまって、勝負に負ける。

ロッキーは、力を養うに自然と取っ組むが、相手の自然は無限大だから、マシンの到底及ぶところではない。結果を予期し得ないのである。ドリゴに勝つ僅かな確率のためにはこれしかなかった。
 句作りのトレーニングマシンで鍛え抜いたプロ俳人の秀句に拍手は惜しまぬが、その彼に「月見草」は思いつかないことだろう。されば誰にでも秀句の僅かな確率があるということになる。

(平成十九年二月)

 

 

桜鯛・麦藁蛸

 

去年の花時のことは、句帳を見れば、四月五日から二泊三日が『NHK俳句』の三原取材で、よく覚えている。この年、街中の花は、春先の予報からだんだん遅れてしまい、例年賑わう山頂などはまだ花も人もぽつぽつだった。

三原到着直前に小雨は止み、取材が済んだ翌日が猛烈な黄砂で、カメラマン氏の風景写真はツイていたが、私の句のほうは、ほんとは、落花紛々とか、わいわいお花見とかの矚目のほうがラクなのだ。

三原を考えた。「春酒満酔尚も許さず鯛茶漬 月斗」は、敗戦の翌年来庵されたときの短冊の句である。まだ食糧事情が悪く、酒も統制の頃で、三原の銘酒も簡単には手に入らず、句会の涼蛙と号する萬歳酒造工場長の好意である。当時、藷焼酎「萬歳」のほかに「富貴」という新清酒を出していた。

その「三原酒」は、松江重頼の『毛吹草』の巻第四「名物」の備後に記載がある。安芸の「野路浮鯛」は、「桜鯛浮くや能地の瀬をはやみ 正氣」で、神功皇后の三韓征伐に際し、船に寄って来た鯛の群に酒を注ぐに酔うて浮き上がったと日本書紀にあるそれであろう。

三原の海の幸は蛸ということで、県内の水揚げトップが今は市町村合併で順位が下がったらしいが、たこ料理は年中三原のうりになっている。前述の『毛吹草』には、名産に鯛の記述がある国は十ばかり、備後の「田嶋鯛三月大網ニテ多取也」は、今の鞆の鯛網である。蛸を拾ってみると、越前の大蛸、備前の下津井蛸、長門の蛸とあった。

『毛吹草』巻第二は、連歌と俳諧のそれぞれの季題を並べているが、「桜鯛」は俳諧の三月にあり、「蛸の桜煎」が非季詞に入っている。

『毛吹草』巻第三は、付合の語彙である。「桜」には彼岸、刃、板木、数珠、双六盤、鯛、貝、煎蛸、西行が、「蛸」には人の手足、蛇、蕎畠、薬師がある。逆の場合では、犬、狩、姥、皇居、烏帽子、塩竃に「桜」が、鴉、壷、手に「蛸」が入っている。蛸はけっこう身近な句材だったようだ。

「麦藁蛸に祭鱧」とは、上方で夏の旬の味覚を並べ称するものとされているが、これに、「桜鯛麦藁蛸に祭鱧」と上五を置けば、単なる味の良さを云った言葉ではなくなる。五月魚島を過ぎ、六月麦秋を過ぎ、七月夏祭へと、海の食材である鯛、蛸、鱧に、明瞭な季節の流露を見るのである。

(平成十九年五月)

 

 

俳句は味である

 

 幼児が、酸いものや苦いものを口にするのを嫌がるのは、生得的なものだという。これがだんだん経験を積むことにより、古漬けの酸っぱいのがいいとか、コーヒーはブラックでとか言うようになる。

文明社会の外に居たら、物の味が直ぐに分からなければ困る。ちょっと変な味がしたら、身体に害があるかも知れず、反射的にペッと吐き出さねば危険だ。俳句の場合は、一読して意味が分からなくてもかまわない。短いのだから読み返せばよろしい。

 黄粉を舐めると黄粉の味がするが、炒った豆はよく噛まなければ味はしない。俳句の場合、読めば読むほど味わいが深くなるというのは、質的なことを指すのだから、意味がぱっとすぐ分かり易いというほうでの評価は必要でない。

大体、読めば読むほどというのは言葉の綾で、牛が反芻をするのは、更に噛み潰すのであって、繰り返し味わうわけではなかろう。心に留まる句と一読して意味が分かる句とは、同義ではないことになる。

現代の食生活は粉食全盛である。何でも細かくしておき、又水で練れば、調理や味付けも楽であり、万人好み(でないと商業ベースに乗らない)の味は、噛まなくても舐めたら分かる。一読にして分かることは大切だが、そんな味のみに馴れるのを惧れる。

 よく売れる食品の味とは、志賀直哉の小僧が食べたほうでなく、それを冠した寿しのように、好み(女子供のおやつ代わり、だそうな)の最頻値となる味でなければならない。

俳句は味解するものである。それも、古漬けやコーヒーや上等の鮓の味が解ることである。その為には、成長の段階での学習が必要となる。日本人は日本の伝統の食べ物を、食べてみることである。舐めるのではなく噛み砕いてみることである。

赤ん坊は食べ物でなくても何でも口に入れるが、やがて母親が与えてくれる食べ物を食べ、食べ物とは何かを知る。親が食べ物の好みを決めるのである。そこで親から子へと食べ物の好みが移る。家庭の味である。俳句作りの場合もそうだ。

練り物の食品は、あまり噛まずとも、即座に味のある化学物質が溶け出して味覚を生じる。だが、それは食べ物の味の一部分であり、化学味以外に、時間をかけてはじめて生じるおいしさには欠ける。言葉をぎゅっと凝縮した俳句でも同じだ。

(平成十九年六月)

 

 

米田山の話

 

三年半ほど前、近くの米田山のトンネル掘削のことを書いたが、それがこの五月末にやっと開通した。そこから拾って来た深部の青黒い岩片は、地質学の本で調べたら、砂岩ではなく溶結凝灰岩らしい。

溶結凝灰岩は、火山の噴出物が堆積して、それ自身が持つ熱と重量により、溶融し圧縮されて生成する硬い岩石である。高温を経たというのがいい。千万年単位の昔のことだろうか。

私どもが関わっているのは、山のごく表面の景色に止まる。以前は松茸が出るほど松林もしっかりし、トンネル口の傍には、躑躅の彩が消えれば、山藤の房が幽かに揺れ、老鶯が声朗々と繰り返した。

山は街の東に当たるので、月の出が懸かる。戦前の土曜会の句に「神明やよき月上げし米田山 南颸」がある。街の北側の桜山も、南側の筆影山も、その名に由緒があるが、校歌などで並称されても、米田山は、いわば風味の乏しい名称だった。句は、この山が名実共の凡庸さだからこそ、神明祭の満月という、この夜のこの山の価値としたのである。

米田山の向こうに、それを意識もしていなかったが、鉢を伏せた形の鉢が峰がある。山頂に虚空蔵を祀る御堂を開いた法道上人は、法力で沖行く船に鉢を飛ばし、米の喜捨を受けたので、満米上人と呼ばれたという伝説がある。似た話を見つけた。

播州の法華山は蓮華の形をしていて、ここでは、同じ上人が空鉢仙人と呼ばれ、同じように鉢を飛ばし、その米が一俵落ちたのが米堕(ヨネダ)村である。ちなみに宮本武蔵生誕の地だ。米田山もそうだとしたらちゃんとした名前ではないか。

トンネルの入り口は、和久原川を渡る橋の際で、山の端が突き出して、道路に一番接近している。

山の鼻に違和感のあり藤の頃

つつじ過ぎ藤過ぎ山が半歩前

等々の句を作った。定点観測で、季節の推移を見ているといえよう。

同じこの山の景色を、地質学者ならばどう見るか。郷土史家の視点もまた別のものだろう。それに、学問では、文藝と違って、己という部分をそこに入り込ませてはならないのである。

学者の目や史家の目が、漫然たる一般人の目とは違うように、俳人は、俳人たる格別な目で、さらに俳人たる心で、事物を視なければなるまい。 

 (平成十九年七月)

 

 

コーラを飲んで

 

 ペットボトルのお茶が人気だが、先日、コーラをそれこそ久しぶりに飲んでみた。それも、CというのとPというのと、Pはこれまであまり飲んでないが、日を置かず両方を口にしたので憶えている。

 コーラは、コーラの種子の抽出液を使った炭酸飲料である。カフェインを多量に含む。百年以上も前にこのソーダを作った人は、Cのほうはモヒの常用者であったからコカインを加え、後のPのほうは胃腸が弱かってペプシンを加えたのだとか。

戦後の時期、C飲料は、都会的でいかにも異文化の顔つきをしていた。逞しい瓶の形、烈しい発泡、熱帯の肌色の液、薬物めいた風味、配合不明の原液とコカの語韻、地方ではその呼称に憧れさえ感じた。

 これに類するが、ホームバーというのが流行っていて、部屋の一隅に、ボトルとグラスを並べ、シェーカーなんか備えるのである。濃い緑の小瓶のペルノもあって、ほんの少量を舌に含むと、何だか耽溺の香りがしないでもない。苦よもぎ(アブサン)の薬理でなく心理のほうなのだろうが。

 心の働きも、fMRIで脳の部分的な血流の増加を見ることによって窺うことが出来る。CとPとそれぞれの好みのコーラで、両方の飲み比べをさせると、銘柄を伏せた場合には変化は見られなかったが、銘柄を明けて飲み比べさせると、C好みの人にだけ脳の前頭葉の血流に変化があったという。Cというブランド名の影響の大きさが分かる。

アブサンの語に、ゴッホやランボオが滲み、舌頭の数滴にして或る種の藝術家気分に陥る。あたかも街頭の意見が、実は新聞テレビによる先入観からくるようなものだ。メディアに頻出する俳人の名前で、その近詠が照明され、眩しく感じるのである。

俳誌で発表される俳句を、作品でなく作者で分別して、そのディスプレーの仕方を変える(別のページ枠とか作品の文字サイズとか)操作は、俳句は小さい形の文藝だから可能である。だが、だからこそ、こんな妙なことが平然としてあってはなるまい。

私の初のコーラは、東京タワーが建って三年目に上京した、その展望台の売店である。色にはそぐわぬ甘みの凡庸さに裏切られた。幼い子供も半口ですぐ自分の飲み物のほうに取り換えた。

 私のほうは、前頭葉のちょっとした活動があっただろう。子供の判定は直で、間然する所はない。

(平成十九年九月)

 

 

季題集について

 

 落款、つまり識の款識は、ヨミ通りに刊志で、鐘鼎などに銘文をしるし加える意である。『芥子園畫傳』初集に、「元時代以前の絵には大抵款がない。時としては石隙に隠してある。書が拙くて画面を傷ることを恐れたのである」とある。絵だけで十分というのは、絵に作者の一切が充溢していたのだろう。

鑑賞に値する対象はそうしたであって、誰々の絵ではなかった。だから、絵にとって款は必要がないどころか、じゃまになることがあるというのである。俳句でいえば、その句の価値を減じぬよう、作者名を付さぬということにもなるではないか。

近代では、藝術家の個性が重んじられるようになった。作品は作者の個性から生まれるもので、絵なら絵からそれを読み取る態度が必要となる。模倣を通じての理解は遠ざけられ、新しさ、つまり一回的であることだけが要求されるのである。

俳句では、質的にも量的にも、独創性の部分は甚だ限られている。言葉の羅列を文藝たらしめるところの俳句性とは、日本文化の伝統そのものなのだから、新しさのシェアが大きくなると、それは俳句として成り立たなくなる。

そこらを落款(署名)が補っているところがある。個人という独自のことを参加させるのである。俳人誰々の句と提示され、その人の来し方や現在の境涯までが、句の鑑賞を補うために駆り出されている。つまり、句の鑑賞のベースを、句そのものに置くのは難しいというのである。

類題句集の形は、今では例句を重視したと称する歳時記に残るぐらいである。もし理想的に選択された例句を想像したならば、その句に作者名は不要どころか、じゃまになって仕方がないことに気づくだろう。

名句は、それ以上に付け加えるものは不要である。虚子選『日本新名勝俳句』(大毎・東日 昭六)の帝国風景院賞二十句を見ても、世に名句とされる、

谺して山ほとゝぎすほしいまゝ (英彦山)

啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (赤城山)

滝の上に水現れて落ちにけり  (箕面滝)

等の句の名勝地がじゃまであることが分かる。

 本誌の募集句「季題集」は、歳時記の例句となるような句を求めている。いわゆる名句と歳時記の例句とは同義とは言いかねるが、これが一致するような句を作ろうとする俳句態度も考えられると思う。

(平成十九年十月)

 

 

ホームページ春星

 

 目のせいで、ワープロよりも大画面のパソコンに替えて十年になる。直後にWindows9597となり、そのWord97を使って、『春星』というホームページを作って、試しに上げてみた。その名残で垢抜けしないが、十年間でかなりのカウントである。まだインターネットよりもパソコン通信のほうが使われていたから、俳誌のサイトも珍しかったのだ。

 現在、ワープロ原稿を利用したページは月々更改し、雑誌に載せ得ない月斗や正氣の資料は一旦ここに保存している。また昔は、句集は棺を覆った後に出してもらうもので、正氣が句帖を預かったまま刊行し得ていない車春や菊太の句なども置いた。

 私は本の乏しい戦中に育ったので、活字の印刷物には格別な思いがある。今の出版は、活字の代わりに電子編集を施し、世に出そうとする原稿を、やはり紙に印刷して複製し、製本して発行する。上梓という言葉は残り、個人の句集出版も繁盛で、著者が発行し頒布する場合でも、出版者を発行者としたりする。ちゃんとした出版社は峻別したものだ。

 それでも、印刷した紙は五官に訴えるから、なかなか疎かには思えない。現在は、デジタルデータを紙の代わりに電子媒体に容易に複製できるし、さらにネットワーク配布も簡単になった。これは、出版の機能である広く配布することを重視すれば、たいへん有利であるといえる。

 正氣や月斗のページもずいぶん膨らんで来た。ウエブに保存したデジタルデータの行く末は私には分からない。西望先生は、晩年、ブロンズよりも腐食し難い純アルミを使用された。句作りも百年後に知己を求める覚悟でなくてはならない。紙の寿命は、おおよそ和紙が千年、洋紙が百年といわれる。戦直後の本誌は、硫酸礬土が入った洋紙だから、多糖類である繊維素がもう崩れて脆くなっている。

 私には句誌のほうが句集よりも好ましい。雑誌にはその時世が滲み、人間らしい匂いがする。本文四十九ページ以上の非定期刊の印刷物を本という。本に比べて雑誌はいたって俳句的ではないか。

 いま俳句は、一句ではなく複数句で、作品ではなく作者で品定めされているようだ。しかし、本来、俳句は一句で、原形のまま、人の脳のどこかに残り、呼び起こされ、伝承することの出来る文藝である。だからそんな句を作りたいものである。

(平成十九年十二月)

 

 

器用不器用

 

朝のテレビドラマに女の大工さんが出ている。私も小学生の時に工作という課目があって、図画や習字それに体操、にもまして大の苦手で嫌いであった。同級生など、それでよく歯医者の跡継ぎになれるなと言っていたものだ。

模型飛行機のプロペラ作りは、朴の材の角ブロックから削り出す。それを家に持ち帰って、深夜まで掛かって、指を傷つけ、目をしょぼつかせながらの作業で、父は隣の部屋で玉露を啜りながら句を作っていて、時々目覚ましだと私にも茶葉を入れ替えては飲ませに来て覗いていった。

やっとそれらしい形になり、父に見せると、ようやったと褒めてくれ、涙が出た。ところが翌日先生に提出すると、ペーパーでつるつるに磨いたのに、削り直せという。なるほど私のはまだ分厚くて、プロペラというよりも船のスクリューだ。

模型工作店にある模型は、一揃え袋に入っていて、竹ひごもニューム管も切ってあるし、プロペラもその形になっていたと思う。これは、設計図にある番号の順序に従って予定された形に組み立てるだけで、そこそこよく飛ぶのである。

現在の精巧なプラモデルなどでは、部品は確定していて、そこに選択の余地が無いので、出来上がりは皆同じになるようになっているが、俳句の方はみな同じではたまらない。

天地自然の中から帰納するよりも、人が作り上げてきた概念からの、つまり頭の中での操作で、俳句を作る方が容易だろう。普遍であるので簡単に受容される「梅に鶯」の句である。ところがオーダーメイドでは借り着が出来ない。

角材からは、プロペラだって、仏様だってイメージできる。「鶯が柳の中に鳴きにけり 麦奴」(この句の場合は、イメージは単一ではなく重層しているのではあるが)ともなるのである。ただそれを彫り出す技能が要る。そのためには努力と日にちが掛かる。

父は、何事もあまり器用でない方がよろしいといっていた。メン・ドウ・コテの反復の基本のところで時間を掛けさせるのである。でなくば、映画で見ればやたらぶんぶん振り回す博徒の剣法になってしまう。さりとて、表面はこれと違って軽快軽妙な振る舞いの句でも、中身が博徒の立ち回りと同じでは、もっと見物はつまらない。

(平成十年五月)

 

 

浩然の氣

 

頃日、根岸派歌人岡麓のお孫さんに当たる佐藤孜氏より、晩年の門下生編著の『岡麓の言葉』を頂戴した。麓が没したのは月斗先生より二年後なので、やがて五十年忌を迎えるのである。

ご家族はともかく、現存のお弟子さんは、当時二十代から五十代で、そんなに長くない歌縁でもあろうから、師の謦咳を直に語り得るのはごく限られた方々である。月斗先生の場合もそうで、この『春星』の句友でさえ、今では指折り数えるほどである。

落穂を拾うように、生前に受けた一言を、その声音、その口調のままに追憶の中から取り出す作業は、たいへん難しい。何気なく流れてゆく対話というものは、全人的で、脳みそで聞くものではないからである。師事とはそんなもので、教えは、学ぶ者の毛穴から透徹して肉体化している。

紙上に残る文字の全容を纏めた上に、なお己の中なる師の声をも見出そうとするお弟子さんの敬慕の念は尊い。その師なる人の歌業のありようも窺える。

子規(竹の里人)に、「麓氏の歌一変し再変す。古今調を捨てて俳句調を取りしはその一変にしていま又万葉の古調を取りしはその再変なり。その変ずるや急にして劇、人をして端倪する能ざらしむ。その三変するを待って詳に評する所あらむ」と期待の言がある。短歌について私はよく述べ得ないが、その晩年の信州での詠や語に、それまで貫かれてきた、時流にも揺るがぬもの、確たる骨格が見える。

この姿勢に重ねて、やはり戦後の月斗先生のことが偲ばれるのである。没後、先生を知る方々に、その在りし日の思い出をお願いしたことが再三あった。褒められたことや叱られたことは、句のことでなくても、これはもう鮮明であるが、それ以外はなかなか具体的には思い当たらないと仰る。目に見えぬ放射線のようなものだ。

傍らに、生物体を置くと、近くの細胞の分裂が促進される場合があり、かつて、形がなくてこのような力を持つミトゲン線の存在がいわれたが、形而上の世界ではあってもいいことだ。正氣師は生きの良い魚や新鮮な野菜には、ビタミン「イキモノ」があって体に良いのだと言っていた。

師たる人からは、ただその息遣いを共にし、その歩みに従うだけで、はや、気づかぬうちに全身全霊を何かが貫通するのだろう。

(平成十一年十二月)

 

 

少年と俳句

 

中学校のクラスメートであった光雄君が、俳人協会から自註シリーズ『角光雄集』を出した。昭和二十二年の土曜会の「光る靴ちびた下駄行く夏柳」を冒頭に、同年の七句から始まる。で、懐かしかった。

この年は、今は亡き木下隆一君も一緒で、旧制三原中学校の四年生だった。いまのクラブ活動に当たる校友会の俳句班があり、五年生が班長で十数人の班員だった。俳句班とは当節珍しいが、石崎柳石と号する年配の国文教諭のせいだろう。外に俳号を持つ体育、英語の教諭がいた。

放課後月二回の句会があって、子規忌には父兄である正氣が中学校へ講話に来ている。このときは弟の男児らの小学生組も特別参加した。光雄、隆一らが当時図書館、のち我が家での毎週土曜夜の句会に来るようになったのはこの頃からである。

準・レギュラー共で小・中学生七、八名が大人の男性に伍した。その頃の『春星』は月斗先生の選で、半紙に筆で十句出句、先生が朱で印しをつけて返稿という形で、少年たちの筆の字は、先生に面白いと褒められたりした。

この辺り、学校での私の記憶は霞んでいて、隆一君の遺品の中で当時のものを読み返しての事に過ぎぬ。隆一君は自分の生きてきた証しとして、少年の頃から関わった書きものや切り抜きを悉く保存していた。そして早死してしまった。

光雄君は、先行する文学青年だったから、その頃からどこか文学史的な見方を持っていた。昨今の青木月斗研究を見ても判る。この自註句集ではそれが如実である。俳句を彼がかくも尊重し入り込むとは、しょうじき当時思えなかった。

隆一君もあれだけメディアの仕事に埋没していて、無沙汰の後もよくもよくも俳句を忘れなかったなと、没後初めて知ったのだが、その小山のような遺句稿の嵩に感嘆した。しかも、秀句もないが駄句もない、と自ら言い切っているのがえらい。

私の句作りは親の仕付けだが、句帳だけは、なんと昭和二十年春からのほぼ全てが残存している。

翌二十三年、学制改革で浮城高校二年に編入、その俳句班雑誌の「芝蘭」の命名から班の俳句観が窺える。話題でのシランというジョークからで、字引に、善人と居るは芝蘭の室に入るが如しとあった。「俘虜記」「人間失格」「帰郷」「てんやわんや」の年である。

(平成十二年七月)

 

 

島の春

 

旧臘のテレビで、世紀の終わりにあたっての回顧の映像があり、自分の生年前後の部分を注視した。自分を形作るものの由来、ゲノムと共に、どの地にどんな時代に生を享けたか、は興味深い。

月斗撰名の(トウ)(シュン)が戸籍名である。は鞆の津に近い横島という漁村であり、車春や王樹が、鯛網見物には寒楼、麦門冬、菜刀が来島している。私はその小島に一歳まで滞在した。カンガルーみたいに祖父の着物の懐にすっぽり入って、小さな鼻の孔で月の浜辺の潮風を吸っていただろう。

は、昭和七年の二月十五日午前十時三十五分である。同五十二分に盥で産湯を使っている写真に、そう記してある。父が横島で興した句会の人に写真屋が居て、決定的瞬間まで待機させられていたらしい。

その日付の『中国新聞』によれば、天気予報は「北西の風はれ!時々くもり」であった。紙面は、上海での海軍陸戦隊の戦捷の記事ばかりで、前日遂に陸軍が替わって出動と報じている。前述の放映で取り上げたモノクロ映像も、一月上海事変勃発、三月満州国の建国の様子である。

手許の『文藝春秋』第拾巻第四号の記事で目に付くのは、上海事件、普選、団琢磨暗殺、ファッショ、新満州国等々だが、その号に、月斗先生が慶弔など前書きの句ばかりを寄稿されている。その中に撰名の「島の春」の句があるので保存されていた雑誌だ。

この菊池寛の『文藝春秋』はりっぱで再読反復に堪える。論評にも見えるが、大新聞同士が既に商業性が濃くて、例の爆弾三勇士の扱いを見ても、数量の競争で場面を曲げている様子が分かる。この時代にあって、誌が志であることは容易ではなかろう。

思い出せば、後に平和賞を受けた宰相が、任の終わりの記者会見の席上、新聞は駄目だ、テレビを呼べ、と喝破したが、俳句の鑑賞でも、対象を解釈するのがいいのか描写するのがいいのか、どちらが真を伝えるかを思う。

ついでに、具体的にというのは、「満蒙新国家建設がいよいよ具体的な運びを見せて来た」様子は、つづいての「馬占山が馬占山氏と内地の新聞で敬称がつけられるようになった」という記事文章で、その状況が浮き出ているのを例にしよう。

俳句は生身がつくるのだから、その出で立ちを語るべく古いのを読んでいたら、こうなった。

(平成十三年二月)

 

 

わが俳句事始め

 

歌会始の御製は島の春をお詠みになっていて嬉しかった。この十五日の誕生日で七十歳になるから、七十一回目の我が春ということになる。換算すれば二万五千五百六十八日だとか。

こうしたデジタル表示は正氣流である。月斗忌句会の席上、今日で何十年と何日の句歴と述懐して居たのを思い出す。長逝の数日前、ベッド脇の私にあれこれ口述させた中で、俳句を始めたのは「三月十三日」という日付をはっきりと言った。月斗忌を修するのが例年三月中旬だから計算が楽なわけだ。

大正九年、大村中学二年のときのことになる。日付の記憶という状況的な推測だが、近所の一つ年上で友人の小柳種衣に誘われての、諫早農の教師の中谷草人星(蛇笏門)による句会と見当をつけている。

私の場合は物的証拠が残っている。父の集印帳に幼稚な筆使いで「ヨソノヒトガボートニノッテアソブカナ」とあり、岡山後楽園遊覧記念のスタンプから、昭和十一年四月十五日と判る。四歳二ヶ月である。この文字、五七五の形であり、唐突の切れ字の「カナ」で終わるから俳句である。つまり、俳句を作ろうと意図しているから俳句である。

当時、三十代前後の男が寄り合う土曜夜の句会に、当時小ざかしげな私はちょこちょこ顔出ししていたらしい。披講の句は相当のシェアで「哉」と「けり」だった。句の形の刷り込みがあったろう。

昭和十六年の『桜鯛通信句会』の第二回以後に島春の句が散見される。「少しだけ日の照る所へ集まりぬ」「蝶の羽の粉をままごとの薬にす」「せと貝の殻をうかべぬ春の潮」「潮流に悩まされゐるボート哉」などがあり、吟行に連れて行って貰った記憶はあるが、句会で大人に伍して俳句を作るのは、昭和十九年に中学に入ってからのことである。

この年の十二月から、毎月十句半紙に筆で書いて、月斗先生に見て頂くようになった。句会の作句と選句が記された当時の句帖も残っている。「大いなる虎杖折るも惜しき哉」「春蝉や汗をぬぐうて休みけり」の類いで、や・かな・けり・ぬの句が殆どであり、内容も、臨書するような句作りであった。父が余り手を加えなかったのが、や・けりで判る。

俳句とは実にしゃんとしたもので、老若のいつ誰がどう用いても、何とか形としてエネルギーを含ませ、働かせてくれる。これに凭らないことはない。

(平成十四年二月)

 

 

猶対龍虎

 

『春星』の前身で戦中廃刊の『桜鯛』に、石馬・竹里時代があった。肥前塩田小学校長の淵石馬と大阪の薬事関係記者の青江竹里である。両名は気質も論法も異なっていたが、意欲的で新鮮で誌面に存在感があった。石馬の指導で佐賀軍療に句会が発足し、昭和十六年に正氣前主宰が訪問、講演した折の数十名の集合写真が残っている。軍療には、富松緑雨(凡雲)、飛川蓼彦(航作)、窪田満甫(鬼烽火)が居た。『春星』創刊まもなく、前後して復員し句に戻る。

その後、万朶集第一回の高点に「庫裏の炉に後生願ひのぢぢとばば 鬼烽火」、緑雨は、『同人』裸馬選初期の巻頭「火の色を見つめてあれば時鳥」「柿おのが色に色づきそめにけり 緑雨」、と台頭する。互いに「同年兵的な親しさ」(鬼烽火)の鬼烽火・緑雨時代の到来であった。句風は和而不同だが、裸馬先生推薦の選者第一期組に共に列した。凡雲、鬼烽火は『春星』の竜虎と言える。

その凡雲さんをいま失った。昭和二十九年秋、相互対話の「雁信帖」で緑雨(凡雲)対鬼烽火の取り合わせがある。先ず緑雨が、「気迫の鋭さ、火のような熱情は、全く貴兄の号にふさわしく、対照的に自らの情熱に水をさすような態度は、僕自身でないかと考えられます。その意味でも、自分に欠けるものを持つ作家として貴兄に注目して」「年齢的に云えば俳句作家の中堅として進まねばならぬ我々ですし、それを自負することに情熱も沸かさねばならぬ」と語り掛ける。

鬼烽火は、『火』の萩原風骨らとの佐世保の句と生活から、古里の「ひとりの司」へ帰ったばかりで、「近来、私は全くの混迷に陥り、洗脳の必要に迫られており、先ず根底からの革命と、立て直しを痛感して」居る中で、「いつもながら堅実に自分を崩さず持して行かれる貴雅の、ゆるぎなく、飢うるなき詩情に、尊敬と羨望と、そして心からの祝福を」と緑雨にエールを送り、「必ず出直して来る」と誓っている。

とうきびを青き夕べの中に焼く    緑 雨

わがなさけ熱ければ銀河若々し    鬼烽火

雁鳴く夜雨は地のものすべて濡らす  緑 雨

しぐれては昨日の色を地にのこさず  鬼烽火

その当月の凡雲(緑雨)と鬼烽火両人の句である。 昔、斎藤滴萃さんが、自分でライバルを誰か作りなさいよ、自分と同じ程度でもいいし、先輩でもいいよと私に言って下さったのを思い出す。

(平成十年十一月)

 

 

子規百回忌

 

子規五十回忌に当たる第六巻の『春星』に、当時、子規門下の中野三允、湯室月村、島道素石の各老が現存で寄稿されていた。その第八号で、「鶏頭」の課題で二句無記名出句互選する誌上俳句大会を行って居り、

 子規忌今日鶏頭描ける朱の余り   三允

 鶏頭年々変らぬ色に五十年     月村

の出句も見られる。『同人』の裸馬先生は「子規忌の句締切られけむ孤心なほ」ということで、三允老と共に特別選を引き受けられている。

正氣子に申送る

子規千年祭春星一万號       裸馬 

特集の文章として、中野三允「子規居士追憶」、亀田小蛄「『日本』選句」、田畑景亭「子規先生と茂野冬篝氏」。次号の三允「根岸子規庵第五十回糸瓜忌」は十五日に鼠骨・古一念・三允の三人が寄った事、小蛄「月村氏の句」は湯室月村に代わっての稿で、『日本』の子規選に入った月村の句を抜き書きしたものである。

五十年が経ち、俳句全盛のうちに迎えた今年の子規百回忌は、何しろイベントずくめの当世であるから、数々の案内にも商業ベースの発想が付け込む有り様である。春星舎では、小人数だが、秋の子規忌と春の月斗忌とは欠かさず修している。所縁の幅を掛け、展示の品を置いた句座の床の間に、それぞれの季節の草花をお供えに持ち寄るのが慣わしである。

百回忌の特集として、子規研究の和田克司先生に、子規母堂の書簡について書いて頂いた。正氣は、月斗先生が昭和十九年の『同人』に、その短冊蒐集ぶりをやや揶揄加減に記されているが、戦中から戦直後の混乱期にかけ古短冊を集めていた。先人の筆跡が戦火に焼失し疎開で散逸するのを恐れたのである。夜ごと俳諧史を勉強したのもこの頃である。当時の亀田小蛄の短冊送付表が一部分残っているが、「別にある子規母堂手紙は返却して非売」と書き込みがあるのが掲載のものである。そこを何とかしたのだろう。

正氣にとって、古人の書に接する事は、即ち古人に見える事である。短冊の筆跡を通じて、句の向こうに俳人が在る。正氣は、俳句は短冊の一句を以って理想の発表方法とした。

正氣は、師子規を尊んだ師月斗を尊び、乃ち子規を尊んだ。師に就くということは、そういう全人的な所作をいう。短詩形である俳句ではその感が深い。承継は、理解でなく体得にまで至らねばならぬ。

(平成十三年九月)

 

 

五七五のこと

 

正氣前主宰の言葉に、俳句は「まこと心とあそび心の奇しき調和」の上に成り立つというのがある。

心という密室の中に生起した思いは、ため息とか呟きとかという形を取る。刻々の自分の境涯を客観化するためには、言葉にしなければならない。

言葉にする過程でもすでに生じるのだが、更に俳句作りでは、突き詰めて行くまことと共に、五七五にするという過程からくるあそびを含んでしまう。

頃日、息子が小学生のときの担任の先生、現在は仏教大学の岡屋昭雄教授より著書『尾崎放哉論』(おうふう出版)を頂戴した。「放哉作品をどう読むか」の傍題である。以前の香川大学での縁である小豆島の風土と放哉の作品に始まり、放哉の心象風景、詩的世界の深化を論究されている。

『層雲』の自由律俳句は、定型俳句の行詰りを破るため、これを解体してにまで還元し、自然を直接に感受し、最も端的な言葉で表現しようとしたものである。「新しい俳句の道とは、自然の生命を我等の生命とする一つの精神主義である」(昭9、続俳句講座「俳壇現勢篇」の『層雲』の主張より)という。

最も端的なというのが、夾雑物を排除してしまうことであるならば、極論だが、対象は自己の発露であるから、物や事は更に純化されて、残るのは精神とか生命とかそのものに行き着く宿命にある。後は生きた肉体を付与するための作者の名前が必要だ。

俳句を意識した自由律が、結局はうまく発展したかどうかだが、感情の流露は短歌的であるし、私小説風にぎりぎりに身を置く生き方は当節稀である。水墨でなく、あるコピーライターの「おいしい生活」みたいな、心情的にカラフルな暮らしを営む時世だから、そのような修辞の俳句が目立って来ている。

端的な言葉といえば、日めくりにある金言、映画のタイトル、今ではCMのコピーなどが思い浮かぶが、いろはカルタの「ろんよりしょうこ」は余りに精製されている。「はなよりだんご」には団子の歯ざわり、生けるしるしの感じをやや含む。健やかな人ならビタミン剤よりも団子を好むだろう。

常時、大自然と自己を凝視し、発する言葉を凝縮するという態度に徹するは凡人には難い。一方、市井にあって、指を折りつつ十七字定型にする苦労の中に、自ら生涯掛けてそれに近づける易行の道があるように思う。そういう奇しき詩型である。

(平成十一年二月)

 

 

観察し、観入する

 

歯の衛生週間に募集した児童生徒の歯についてのポスターを見る機会があった。最近の子どもの絵は、ダイナミックな構図で、個性的で、びっくりする。戦前の私達が幼稚園の頃のお絵描きときたら、即物でなくて、緑の三角の山の天辺に日の丸の旗、空には赤丸の太陽、その八方に日光の赤い線、地にはチューリップとかタンクの典型的な形といった具合だった。

岡屋教授は『短詩型文学の指導の研究』の中で、子供が作る俳句に見られるアニミズム的なものを取り上げておられるが、引用された教育実践のうち、「観察詩を作る」(岡原和博)を孫引きさせて頂くと、児童は、虫めがねで見た見えるせかいで詩を作ることで、虫眼鏡で見たものを題名とし、その見える様子と、それから想像したこと、それを何かに例えて書くという四点の指示が与えられる。

正氣前主宰の最晩年の句会での言葉に、「割合経験して成功してるような気がするのはね、小動物をよく観察し、観入し、俳句にしなさい。動物のほうが植物よりも楽で、そしたら見方が深くなります」とあるのを思い合わせたのであった。「よく観察し」が虫眼鏡で見るであり、アリやカマキリのしぐさなどは、見るだけで変化があり面白いので、よくよく観ることにつながる。「観入し」のことはここでは触れぬが、先の指導では、児童は細かい観察により連想を広げ、何々のようだと表現している。まさに虫眼鏡で見たものを題名としは、即物のよい手段である。

小動物の句をよくしたのに、『春星』初期に近藤麦奴がいた。画を描くから、ものをよく見る目を持っていたし、目に見える画の色や形と異なり、文字というものを使う俳句の表現のありようも考えていて、句は意識的とも思えるほどの即物表現である。

 なめくじり苔より砂に痕引ける   近藤麦奴

 蟷螂が食ひこぼしけり蜂の首    同 

 鯊焼けば子を持つ腹の弾けけり   同

さて、前主宰は別の機会にもこう語っている。句を始めた大正末期、写生々々の『ホトトギス』に対する思いから、「写生をちょっと軽視することがオーバーし」、そのために「進歩が遅かったから」、「私は、皆さんによく自然との触れ合いをしなさいと、写生を基本的に勧めています」と。これは、俳句上達の捷径を述べた部分だが、写生が手段だけのものではないことを、そこから自得することであろう。

(平成十一年七月)

 

 

手作りの句

 

『正岡子規の新派俳壇結成史』が完結した。百ヶ月にも及び、みえ女史にはご苦労をかけた。温故知新で、実作者にとっては、俳句の伝統の勉強が大切だとはいえ、取り掛かるのはさてたいへんである。子規のものから読めばと、前主宰は奨めていた。子規が、明治以前の俳句を実作に鑑みて総括しているので、われらは一先ずそこから出発してよいのである。

子規の『分類俳句全集』(全十二巻、アルス刊)には、記録に残る古俳句を、各季題別に分類した上、さらに内容の事物により細分してある。季題以外の観点からの乙号、丙号分類もある。大事業であった。

分類するということは科学であり、基本のプログラムは別として、現在、用語を分類するというだけの作業は、マシンの機能で検索しソートすればよい。しかし子規は、その総覧的な手作業の過程において、実証的に、俳句の評価の尺度を確立し得たのである。全集の各冊に一枚ずつ付されている子規筆跡原稿のレプリカを見れば、それがわかる。そういう強みが子規にはある。そこで安心できる。

活字化、製本化が尊重される昨今だが、俳句は程よいサイズでちょっと改まって雑詠欄に並ぶのが好ましい。活字よりも、自然な手書きの文字が親しみ易いし、句帖や句箋、句稿の形が分かり易い。句帖での推敲がそうやっているように、作品の観賞も、俳句の短さを生かして、目で読み返すだけでなく、実際に手で摸写してみると理解、味解に役立つかも知れぬ。これは、プロセスであった筈の筋肉感覚が残っていて、作品がなぞられ、追体験されるということだ。

例えば、図鑑の図版を写真にするか、手書きの画にするか、好き嫌いで云うと、精巧細密に引かれた線にこもる前述の感覚のせいかも知れぬが、私は後者を推す。前者が不定冠詞のつくサクラやウグイスだとすると、これは定冠詞である。すぐれたボタニカルアートは、造化の妙を湛え、霊的な雰囲気をも漂わす。

ところで、みえ女史の原稿は、これを、校正刷りを使ってテキスト変換し、インターネット上に保存している。どう残ってゆくのか、伴う感覚の軽さを恐れつつも継続している次第だ。

機械は手足の延長だとはいえ、発達し過ぎると、体感が消え、出来た品の味わいを薄くする。和菓子ではなく、俳句作りで云えば、実作の為の語彙集、類語集とやらに頼って句を合成するが如しだ。

(平成十二年四月)

 

 

去年今年

 

暦法で世紀の区切りという年である。日、月、年の単位でそれぞれの太さの節目があるが、中では改年が、春夏秋冬を見つめるわれらにとっては意義深い。

季題の「去年今年」が、昨今よく使われながら、内容が変わってきている。昨今とは、近頃はとの意味の昨日今日だが、去年今年も、元来この一二年はという意味であった。「起くる朝にいふこと」なので、旧年中は云々とお正月に述べる「去年」は、新年の季題であり、去年今年も、行く年来る年の推移を感慨込めていうのに使う。虚子編『新歳時記』では、「倐忽のうちに年去り年来ることを感じて」とある。立ち待ちほどの時間感であった。

この季題が頻用されるのは、ぴったり半世紀前、虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」の評判かららしい。「棒の如きもの」を、太ぶとと時間が貫流、みたいな解釈ではおよそ虚子とは遠ざかるし、「去年今年」が倐忽ではない。新春放送の中の一句だが、座右に即した新年の題詠で、特にラジオを意識したのでもない。とすると、あたかも子規五十年忌、年尾へのホトトギス継承というのが、身辺寸感となったのか。

この去年今年が、近頃は、夜間に入りこむ生活環境とか、特に年の瀬のテレビ時間帯のこともあり、将に23時59分59秒から0時0分0秒という、時刻の機微を詠んでいる内容が多いことに、投句から気付く。の十分の一の単位の漢数字である。刹那となればさらにその一兆分の一の時間単位だ。現代人の意識というか、この時間領域にある何かを狙っている。電気器具のデジタル時間標示のせいだろう。

微視的な「去年今年」は、12時に長短針が重なった境界線の成立として見えるが、デジタル式時計では、刻んでカウントして来たのが、突如0が液晶標示に並んで再カウントを始め出す。デジタルとは、静止したおはじきのガラス玉の数で、それ同士の間は弾いて当てなければ繋がらないから、時間とは馴染まない。

9が消えて0が浮かんでくるあの間合いから、去年今年の句の作者達は、何かを掴み取ってくる。越し方行方のことをパンする手法を短歌的とすると、時針の交差する瞬間を投影した断面に、内部構造、例えば「棒の如きもの」を覚えるのが俳人の目である。語呂合わせでいうと、境涯のことでなく、境界のものを見ている。広がりよりも深さである。正月はとりわけて時間の流れが見える。見透したい。

(平成十三年一月)

 

 

「ある日」について

 

虚子の『句日記』の「去年今年貫く棒の如きもの」ほか八句は、昭和二十五年十二月二十日の作である。虚子は月の初めから「諸方より新年の句を徴されて」新年題詠ばかり(とりわけ「老の春」の句が多い)を作っている。これらの句は「新年放送」のための句であり、同じ丈に並んでいると思える。

八句の内の「去年今年」の前後にある句は、「慇懃にいと古風なる礼者かな」「この女この時艶に屠蘇の酔」「円き顔瓜実顔や松の内」。勘案して虚子のいう棒の如きは、用例をよく調べたわけではないが、簡単なとか真率なとかに近いと私は作意を解している。

言い方をひっくり返した日記俳句というのは、たとえば、家族間や旅行先での出来事など、表面のことを掬って、作品たる表現に至っていない句の謂いらしい。日記的な(他人が口をはさむべきではない)思い入れは、日記同様に留めて置いてもいいのである。

これと違って、叙述が日記風である日記文学というジャンルがある。日々が「ある日」で始まる武田百合子の『日日雑記』(中央公論社 平四)を読んだときは、何度も本を擱き、その数行に声挙げて笑った。すでに文学といえよう。

この源流である著者の第一作『富士日記』は、年月日も入り、晩年の武田泰淳が「ものを書くのがイヤな」夫人に書かせた、日記そのものである。私は、泰淳初期の小説群中の女性像を、著者である夫人に想像していたから、『日日雑記』以前は、日記というだけで読む気になれないでいた。

泰淳は夫人に言う。〈その日に買ったものと値段と天気とでいい。面白かったことやしたことがあったらそのまま書けばいい。日記の中で述懐や反省はしなくていい。反省の似合わない女なんだから。反省するときは、ずるいこと考えているんだからな〉と。

そこで思い付いて、文武編集長が毎月苦心していることもあり、五七五では収拾できない対象の、日記ほどの分量での文章を募集することにした。「ある日」と題したい。ただ、一部の手書きの文章で、印刷所に廻す前に、編集部が別に清書する手間を要する現状がある。この点をよろしくお願いしたい。

「棒の如きもの」というように言い表す俳句を、何十分の一秒かの静止画とすれば、短文は一分ほどの動画の情報量がある。「ある日。」で始まり、消息を超えた会員同士の交感の場になればいいなと思う。 

(平成二十年一月)

 

 

簡潔と省略

 

 正月の懐かしの映画音楽とかのテレビ番組で、映像に昔の劇場用予告編が使われていた。映画の予告編はいわば商品見本だが、昔は日本の場合、現場の腕が鳴る助監督が作るものと決まっていたそうだ。短いがゆえに、熱っぽい出来栄えになっていたらしい。

 『僕の触背美学』の稲垣足穂は、「予告編はおおむね被予告編よりも芸術的だ」と言う。又彼に芥川龍之介が「ピーターパンの作者が云っているよ、将来のフイルムはタイトルばかりになってしまうだろうと」と洩らしたのを、足穂は、予告編形式にこそ映画の純粋性が認められると受け取って居る。

 足穂の時代の映画(活動写真)は、まだ映画的表現の技法が充分でなく、三脚で撮ったホームビデオのような等身大の時間が多く流れていたのだろう。足穂は、そんな不離密着ではなく、不即不離こそが藝術としての映画だというのである。

 タイトルで思いついたが、宮森麻太郎『英訳古今俳句一千吟』(同文社、昭五)の緒言に、「俳句はスケッチの輪郭に似ています。さらに尚誇張した言葉を遣いますと、俳句は単なる画題に過ぎない、即ち絵の暗示のようなものだと言えましょう。大切な言葉を四つ五つ投げて暗示を与えて、作者の感想(主観)を読者に想像せしめるものが即ち俳句であります」と、同じ五七五調の韻文である短歌との違いを、翻訳の立場からも述べて居られる。

宮森教授による俳句の翻訳は、簡潔と省略がその魂だとし、従来の外国人の手になる翻訳とは異なり、俳句(つまり日本文化)の教養がある者にのみ、英訳の俳句は解し得るのだとする態度に発する。またそれが俳句の特徴であるとされる。

簡潔と省略がそのキーワードだから、禅家の語録の俳趣深く時に句の題目が公案に似ると、子規の「露月喜んで漢語を用ふれども用語自ら碧虚に異なり」の時期の石井露月も言っている。現在の外国語のHAIKUなるものも、日本の禅文化に対するいくばくの関心かららしい

言葉で数個が俳句の特質だとすると、数個の言葉を俳句にするためには、文語体の定型とか、漢語とか、季題とか、切れ字とかがそこから派生するのは当然である。只事を口先に捌いて、五七五の声調をそのまま纏うことの快さ、に止めてはなるまい。内在律を尊重された、菅裸馬先生の緊密な句風を、忌日に思う。 

(平成二十年二月)

 

 

斗酒漫談

 

武道場で、段級順に名札が掛かって居るのに、小中学生クラスになってからの名前の多彩なこと。音訓判じ物で頭をひねった。女子の部のの字の気持ちはよく分かる。男子の部では、の字面が、私には特別に目に付いたのである。

調べてみた。明治安田生命の発表では、男の子の命名ベストテンの第五位に悠斗、第七位に優斗が入り、メーデーのプラカードに、斗おう!なんかあるのにと面白い。百位以内に、海斗、遥斗、陸斗、唯斗、陽斗、晴斗、快斗、結斗、琉斗。まるで木組みの大工さん用語みたいだが、あの斗はマスである。

坂村教授がトロンのトに充てる漢字は斗の古字で、斗は柄杓である。汲んで量る十升を意味する。古代中国の度量衡の斗は二リットルらしいから、猶辞せずの斗酒とは、うまいこと言えば一升斗りなのかも。

一月号にある『俳星』(明四二)の戯文「雅号の解釈」(月斗)の「此頃は毎晩寝酒三合用ふる故に月一斗也」とか、その前号の麟作の短冊では左手に酒盃が描かれたり、先生はいかにも大酒家に見える。

そこで、内田百閧フ『新・大貧帳』から、

客は非常によろこんで、今まで大阪の木月斗先生から俳句を頂戴してゐるが、今後は先生からも頂戴したい。月斗先生には、一句二弗と云ふ事にして戴いてゐる。先生もそれでよろしいでせうか。その外に月斗先生のお出しになってゐる雜誌の同人の方から戴いたのは、一弗と云ふ事に願って、結局毎月八十弗ぐらゐはお送りしてゐる。しかしもっと多い時もある。奧樣から、餘り澤山お金を送って來ると月斗先生がお酒を召し上がって困るからいい加減にしてくれとお小言を戴く始末です。月斗先生はお酒がお好きで、お酒のげっぷがげっと出る迄召し上がるから月斗と仰るのださうです」(「布哇の弗」)。

詐欺師?の客は玉島出身、俳句をハワイの新聞に載せる稿料を、日本で一円をハワイの一ドルに計算して、と百閧ノ持ちかける。三円三十銭前後のレートとあるから、百閧フおハナシは昭和十年ぐらいか。

 「新酒古酒墨水北渚鬼史素石 月兎」と、もともとは酒好きの句友に囲まれての酒だが、それは、共に文学を語れる人を愛し、その交わりを好まれたからである。俳句態度としても然りであった。

実作者は、句が好きで、師友が好きで、自然や人事万般が好きで好きでなくてはなるまい。

 (平成二十年三月)

 

 

すべからく句作

 

月刊俳誌は、誌面そのものにも当月の季感があるのがいい。王樹さんご健在のうちは毎号表紙絵を替えていた。当季の「正氣の句」を目次欄の上に載せるのはそのためもある。八十八句が切りと思ったが、もう一クールで百句になるなといま考えている。

生涯の正氣句ベスト88ではない。別の機会に取り上げた句は省いているし、総覧的に、各年代からの句を順不同で適宜ピックアップしたから、どの一句も正氣の気を持っているはずだ。そして年齢を重ねるにつれてそれは濃くなってゆくのである。

句作第一義が『春星』のモットーの一つである。俳人は句を作ればよい。「第一、句作。第二、句作。第三、句作。(中略)よき句を作る、よき句を残す、これを第一義」(月斗)を奉じる。イベント嫌いというか、実作に繋がらないことにはやや疎遠である。

富山奏先生は、その著で芭蕉を異端の俳諧師と称される。芭蕉は本質的・根源的に「たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労」ずるという思いがあって、「職業俳人の点者生活や点取俳諧の作風に対する嫌悪感や反撥意識を懐いた」のであり、芭蕉の深川転居は、そんな俳壇に対する身構えであった(『異端の俳諧師 芭蕉の藝境』平三 和泉書院)とされる。

当節の特に俳句界での結社という語は、その意識が強かった戦前以上に使われている。つまりは商業主義の通用門として便利に機能しているかららしい。様々なところから、のべつ幕無しに俳句のお祭りや句集出版とかのお誘いが舞い込む現状である。

結社なんて言葉はいかめしくて、私なんか連判状が目に浮かぶほどだが、同じ目的を持つ集団の意味であり、これを『春星』でいうならば、その目的は良い句を作ることに尽きる。そのためのお仲間である。肩を擦り合って磨かれて行けばよい。

昔の点取俳諧は、宗匠の点を競うゲームと化し、実利をも伴い、宗匠は作者を顧客として応対し、大衆に阿るという有様であった(同前)という。芭蕉はこれを好まなかった。蕪村もまた離俗の人であり、子規の革新は月並の俗を排した。月斗また然り。

連載『子規の俳句』(中川みえ)の最終回は、当然、絶筆の糸瓜三句で、「この句を獲るために子規の俳生涯があったと言ってもいいかも知れぬ」(山本健吉)を引用してあるが、そんな一句が出来るのを楽しみに、われわれはひたすら句を作り続ければよい。

 (平成二十年四月)

 

 

ももすもも

 

 年度替りはこれまで出かけることが多かった。日頃自由な仕事だったので、ネクタイを締めるのがどうも苦手である。男性の服装にも年々の流行があって、ネクタイの幅の広さなんか蝉の一生程度の周期らしい。それに、蕪村の「先ンするもの却て後れたるものを追ふに似たり」(俳諧桃李序)である。

 昨今、季題趣味を盛り込んだ歳時記が売れたり、実作者によって今更に切れ字が力説されたりする。「切れ」だなんて果し合いに負けた武芸者みたいだ。切字と季語と揃えば山本健吉返りだろう。こんな学習現象は他の文藝ジャンルにはない。

 本来、独楽を回すのに、遠心力とか角速度とか慣性等々の物理学は不要で、紐の巻き方や投げ出し方のちょっとした具合を見習いながら、反復練習して会得するほかは無い。うまく行くようになると以後もうまく行く。司る脳の働きは何とも玄妙ではないか。

 幼児の片言を解するのもだが、俳句の場合、羅列した五個か六個の言葉を結び付け、理解なり、さらには味解をもするのである。俳句を知らない人たちにはこの脳の交通網は出来上がっていない。何度も踏むことで自らと成るのである。

中川みえ氏による総説『子規の俳論俳話』が始まったが、子規は、それまでの俳諧の残遺ともいうべきものを、写生という手段をもって取り払い、近代俳句を確立した。時代を経て、滑稽とか挨拶とか、尻尾が又伸び出て、それがまたぞろ繰り返されている。

正氣前主宰が句を始めた頃の虚子の『ホトトギス』は、「写生は俳句の大道であります」(原月舟)の最中であった。蕪村・子規・月斗という系譜に連なった正氣は、青年時代に敢えて机上の作家と自称し、写生ということを意識的に軽視したと言っている。

俳句は胸中の山川を最も純粋に表現するに適した詩型だとする態度である。文人画(南画)をイメージすればよい。そのうち、晩年庭に草花を植えたりするようになると、初学者たちに、句作りはやはり写生が捷径であると説いていた。

現在、俳句は量的には隆昌を極めるが、総じておやつ代わりの持ち帰り寿司みたいな味がする。季語と切れ字とあとは適当な思いを陳べて一句を仕立てるのである。新のつく月並に堕そうとする時代には、今一度、写生で自然の活力を吹き込むのがよい。演繹より帰納へ寓意より写生へ、である。

 (平成二十年五月)

 

 

濃い時間の中で

 

 新聞テレビで、後期高齢者なる呼称が不評のようだが、大老ではどうだろう。ヤングオールドが若年寄で、ミドルオールドは老中だ。ずっと以前に、高齢者のステージを、S社のウイスキーの銘柄を借り、オールドとリザーブとロイヤルと名付けたことがある。

当時、仕分け上のオールドにも達していなかった私だが、今やリザーブに入ってしまって、どこか身構えている。ロイヤルともなれば天衣無縫だろう。俳句作りもそうであろうかと、今から取り澄まさないように心掛けて、先行きに期待しているところだ。

後期という文字は、行き止まりがぼうっと思い浮かぶので嫌われるらしい。姥捨て山のように他者の意志が関わる場合は甚だしい。そんなものを見据えたくないのが大方の思いである。それがいつも不安の種になるからである。

『夜と霧』という、アウシュビッツ収容所の体験を記した精神科医のフランクルは、他者から自分の自由をすべて奪われても、自分自身がどんな態度をとるかという自由だけは残るという。そして内面的な拠りどころを持つ者の行為が違うのを見た。

同業で作家の加賀乙彦は、無期囚と死刑囚との生きる態度の差違を示す。前者の場合は鈍重で生彩を欠き、それは「遠い未来」への「薄められた時間」のせいであり、後者で高揚された状態が目立つのは、「濃縮された時間」を覚え、激しくよく動くのだという。

はっきりと見える存在を、しっかりと直視することの大切さを思う。冤罪の死刑囚を描いた加賀乙彦の『湿原』は朝日新聞に連載されたが、その挿絵は野田弘志が担当した。鉛筆画で、極細密に描き込んだ静物や人体や風景の写実である。

その写実は、生成消滅する現実を、空間という絶対的存在、実体として描き出し(野田弘志展カタログより)ている。つまり、写実するモノは、意味としての鳥の巣や人の指ではなく、存在そのものである。

 牡丹散て打かさなりぬ二三片    蕪村

よく、俳句は何か深い意味がこもった言葉を使うのでしょうから私なんかにはとても、と仰られて困るのだが、モノを見て、見たモノの姿が他の人にちゃんと受け取られるような言葉になればいい。

時間を濃く、気を入れて有効に使うとき、自ずとモノは巨細に映り、実体として心に迫る。そこにいちばん近い言葉にと紡ぐ作業が俳句である。

(平成二十年六月)

 

 

 

 あとがき         島春

 

 『春星』は、平成三年八月十四日に永眠した正氣前主宰の遺志に則り、島春が継承発行しているが、それが今年で二十年になった。

これを一つの生命体とすると、その体つきは一見して同じようでも、二十年の間には、構成する多くの個々の細胞は更新されている。だが生命の原理そのものに変わりがあろうはずはない。

俳句でも、本当に大切なことはたくさんあるわけではなく、毎月毎年変わるものでもない。十年一日、二十年一日に見えてもよい。