平成20年後期
松
本 島 春
タイトル「夜の秋」
幼い頃橋の袂に住んでいたせいで、夏めくとつい夕空を眺めたりするのだが、今も蝙蝠がいる。昔はもっと低い所を飛んでいた。あと夜明けにしか目にしないので、というよりか暗闇になると見えないので、夜中でも動き回っているかどうかは分からない。
人は日光の中で活動するほうに属するから、元来は、夜の間というのは用がなく、一日を区分するのに、昼が主役で、あさ(朝)ひる(昼)ゆふ (夕・夜・暮・晩)でよかった。今もふつうに一日と、一昼夜のことを言っている。ヒルは日ルだそうだが、ヨルのヨは節、間で、今日と明日の中間、昼と昼との間である。
文明が、人に夜の時間の活動を与え、夜(日没から日の出まで)も、よひ(宵)よなか(夜中)あかつき(暁)に区分される。蝙蝠も、コンビニみたいに、たぶんこれらを使い分けているだろう。季題では、春の宵、夜半の春、春暁のような具合である。
芥川龍之介(我鬼)の句、
爪とらむその鋏かせ宵の春
ひきとむる素袍の袖や春の夜
燈台の油ぬるむや夜半の春
葛を練る箸のあがきや宵の春
春の夜の人參湯や吹いて飲む
は、「運座で作った句を五つ録し」たらしいから、龍之介は情景により季題を使い分けたのだろう。
秋のヨ、秋のヨルはどちらも使うが、フーケユク アーキノヨは澄明で、俳句も下五に「秋のよる」の語感はしまらない。古人は「よるの秋」とした。「人数に切るカステーラ夜の秋 犬塚藤子」(裸馬選『地表』昭三四収載)は、「夜長の団欒。婦人の気持云々」(万十)と解される。
虚子編『新歳時記』(昭九)は、「夜の秋」を七月に入れ、「秋の夜のことではない」と断じた。山本健吉はこれに同じる。「近代に立てられた季語の中で、この季語など出色のものであり、俳人たちの愛着も深いものである」(『基本季語五百選』(昭六十)とまで述べる。
それらこれらで、「夜の秋」の義は、「晩夏の候に夜だけ秋めいた気配のあること」が大勢を占めた。こんなのがやれ「詩人の詩情」(山本健吉)だとは思えないが。さてカステーラの句解はどうなるのだろう。
山本健吉が挙げる例句を見るに、「夜の秋」の夏の必然もおよそ訝しいではないか。ともあれ生活空間の温度調節化は進み、一日も二十四時間化の時世だ。この「新たな約束」の季語もそのうちどうなるか。 (20.07)
先を考えよう
昨非今是という四文字熟語は、境遇や考え方が変わって、昨日悪いと思ったことが今日は良く思われることの意味に使われている。かの陶淵明の『帰去来兮辞』の中の「悟已往之不諫 知来者之可追 実迷途其未遠 覚今是而昨非」が出典という。
前主宰正氣は、生涯かけての進歩を期し、昨是今非を句作りの信条とした。この造語は、師の月斗が「昨非今是といふ語があるが、予は昨非今非尚今非明非を恐れ」て、自分の句集を出さないのだと、半ば本気で述べたことがあり、そのひそみに倣うのである。
陶淵明も、来者(これから先)の追うべきを知ると言っている。そこで正氣は、今の句でさえも非なりとした。さらに、昨を非とせず是と見ている。あの時の句はしんじつ是であったしその思いは今も変わらないと、一本道を歩く。実作者としての言い方であり、明日の句も意としている。
さて、『ホトトギス』大正十一年三月号の雑詠欄一頁分をコピーしたものを載せた。肥前赤甕子が中学生の正氣である。頃日、芦屋の虚子記念文学館から学芸員の小林祐代氏が来訪された際に、お願いして館所蔵のバックナンバーから捜して頂いたのである。
三月号の虚子選雑詠を披いて中学生は有頂天になったに違いない。百八十余名、二百七十余句の内に選ばれたのである。新聞で虚子の雲仙行日程を見て、同月の二十一日、中学生は、虚子に面会すべく本諫早駅での乗換を待つ。おそらくはこの頁に指を挟んで。
中学生は、虚子の姿を駅で二タ汽車探したが、早く目覚めた虚子は元と武を起こして、一ト汽車早く八時に長崎を発っていた。思えば正氣が虚子に師事したかも知れぬ岐路であった。赤甕子の句風を、たとえば近くにある日野草城と見比べてもだが。
晩年の正氣は、十坪ばかりの庭に灌木や草花を植え、月斗の句碑や西望の彫刻像を配して、これを文字通りの朝昼晩うち眺めては手を入れていた。句作りと同じく、推敲に推敲を重ねるのである。「水打って昨是今非や庭造り」(昭四七)の句がある。
この句を、昭和四十八年の正氣古希記念大会で庭の句碑にして贈った。庭の推敲も、ようやく下五の「庭手入」となり、石の面に直接筆を揮ったものを刻して、庭の一隅に置いた。現在は、都市計画で庭の部分が収用された際に、私の住いの二階の階段踊り場に移してある。「昨是今非」の精神は易らない。(20.08)
病者子規賛
先に『同人』草創期の師弟(月斗・月村・伏兎・涼斗)の句団扇を載せたが、書体は異なっても師弟の間に流れる何かが見える。子規の書について、月斗は、「居士在世中は、誰も彼も、模倣したものである。碧梧桐の書など最も似てゐた。格堂なども似、瀾水なども似、挿雲なども似、似ざるものもことごとく匂ひを持ってゐた。」(「子規居士に就て」)と述べる。知の学びではない。句の道での授受はかく在らねばならぬ。
生物の進化も、それ以前の形質に上積みされるので、どこかにその名残がある。先日の新聞記事に、ゲノムの解読により、ホヤ(尾索動物)から、ナメクジウオ(頭索動物)と背骨を持つ脊椎動物とに進化したとする従来の系統樹から、ナメクジウオの方が最初と改められるとか。ホヤの脊索部は枝分かれの後で消えたのだ。
系統樹の枝先にヒトは位置する。ヒトたり得たのは、直立二足歩行に伴う手指の使用と頭脳の発達である。その先端部分が脆弱さを持つのは当然であろう。小生この度、脊柱カーブの頸と腰の部分の脊柱管のダメージが顕在化し、急遽入院手術を受けた。
術直後は頚と腰が同じ平面上にベッドに貼りつくわけで、時々二人がかりで九十度体の向きが変えられる。摂食は横向き。この縦横二次元の世界には参った。三日して少し上体を上げて貰ったときはホッとした。本や選句稿を持ち込んではいたが、首を固定しているだけなのに難渋する。臥床の子規の精神力を思った。
子規研究の茂野冬篝は、大正五年客地ロンドンで喀血した際に、虚子の『柿二つ』を耽読して病者としての子規を知る。やがて冬篝は、「無為空寂の裡に月日を送るのを以て療養生活たるが如く誤解せる」同病者を発奮させるため、子規の病生活を記伝しようとしたが、子規自身の病録に添加するものはないと悟る。
冬篝は、子規の常臥の疾患をも、もし歩行の自由が奪われなかったならば、「彼は到底籠居安静の生活を営まずに自由に活動する結果」「病臥七年の寿を保たしめなかったに相違ない」(『病子規居士』)とし、この脊椎の病患によって「不滅の行歴が完成した」と述べる。
「青木月斗の俳誌『同人』の投句家だった。毒舌家で、歯切れのいい人だった」(戸板康二『ちょっといい話』)の冬篝が、直截に病者子規を讃仰したのは、句は即ち人であるからである。何らかの行あればこそ、道を極めることができるのだとすると、病を以てその行と為した子規の文学であった。
と書いてもご心配なく、小生元気である。ただ老も忙も、これを句の行とせねばならぬと銘肝する。(20.09)
俳句めがね
外界の景色が映る小さな万華鏡を覗くと、居間の蛍光灯も目の前の相手の顔も、およそ幻想的に映り込む。手の平をかざすと、まるで松葉ガニの大群だ。対象物は平凡なものほど面白い。久しぶりに取り出したので、暫くは心奪われた。
顕微鏡で微生物を調べるときは、スライドガラスに塗抹、乾燥、固定した後、様々の染色をする。これに常軌を失した拡大を施して見るのだから、幻想的とまではいえないが、視野のカラフルな模様は珍奇で、それも標本ごとに違っていて見飽きない。
光の屈折と回析を応用した位相差顕微鏡なら、そのまま生きたままの姿が見える。動くものは動くままにリアルタイムで観察できるが、リアルといっても、肉眼では見えないものが、強拡大で形となるのだから、やはり非日常の世界に入り込んでしまう。
かつて岡屋教授が、「観察詩を作る」という岡原和博氏の教育実践を紹介された。それは、児童に詩を作らせる際に、@虫眼鏡で見たものを題名とし、Aその見える様子と、Bそれから想像したこと、Cそれを何かに例えて書く、という四点の指示を与える。@とAとが「観察」で、BとCとが「詩を作る」ということであろうか。
傍の観葉植物の葉を虫眼鏡で見てみた。試しだから、甘藷ほどの葉が里芋ほどになるだけだ。これが生きたカマキリなら、児童の視界に現れるのは怪獣だろう。児童と怪獣は、虫眼鏡の枠の世界で向き合うことになる。まだ日常に近い倍率だからである。
俳句作りの手ほどきに際して、季題を与え、それにつながる身の回りの事物をよく見、その有様を言葉に置き換え、指折って五七五の形にせよと言ったものだ。季題と五七五を意識するのが句心である。俳句の場合、上記のBとCのプロセスをあえて踐み、比喩だの教訓だの概念的な感情だのを曝し、陳べるまでもなかろう。
身の回りの事物を見るのに、俳句めがねをかけることになる。虫眼鏡ほどがよいから、自分の方からカマキリに近づかなければならぬ。句心を抱いて視るのである。すると対象はその枠の中に入る。同時に自分もその中に入る。そこに一つの世界が成り立っている。
「自然に対して心を静かにし、意を凝らして、対象に観入し、境地に没入し、我を滅することによって我を発揮する」(菅裸馬)とは、自分を無くして自然にすっぽりと入ることで、はじめて自分らしさが存分に発揮できるというのである。「意を凝らして」が、臨んで俳句めがねをかけることになる。
秋高し。胸ポケットに俳句めがねをお忘れなく。(20.10)
身体感覚
「一ところ緑はしれり佛手柑 野呂」は、蜜柑でもネーブルでも句にならない。あの奇天烈な佛手柑の手の形を超えた塊、肌の色を超えた黄にとって、一抹走る緑は、まさしく此の世のもので、ほっとする。
日展五科の中原野呂刻の島春印は、病院生の時、臨床実習の配当の患者さんでは足らず、野呂さんの義歯を作らせてもらったのだが、その時頂戴した。もう一つは陶印で王樹作である。時に落款として用いている。
右手の指の巧緻な動作がちょっぴり不如意となり、箸やペンは使えるとしても、書字のほうはとんとご無沙汰勝ちになってしまう。マリオネットでフラメンコなど踊らせるのに、その操る糸数も混んでいてたいへんだが、それにしても人体の驚異を実感する。
手の五本の指は、一本ずつ曲るし伸びる。離れるしくっ付く。それぞれに機能する筋があり、それだけで四掛け五で二十の手固有の筋が働く。親指は他の指とも対立運動が可能で、また腕からの筋の助けもある。マリオネットできれいに島春と署名させるには、その糸捌きたるや途轍もないことになろう。
指先の動きでトンボの目を回してちょいと抓んで捕る技、末弟の文武はなかなか上手くて私は不器用だった。意思で動かせる筋の働きであっても、日々の反復練習による、ほとんど反射的な動作なのである。俳句作りも、言葉を選り出し使い切るスキルが要る。マリオネットやトンボ捕りのように、使い込むことが大事である。
胸から下の左半身の、触覚を除いた皮膚感覚が消えていて、氷塊を当てても積木片の如しだ。特段の支障はないが気持ちのいいものではない。そこだけ限定で団扇を使うなら、風見鶏みたいに、風は分かるが、寒暖の情報は脳へ上って行かないだろう。
もし全身隈なくそうであり、風は空気の流れとしてだけ感じられると想像して、秋の風とは何だろう。気温の変化は季節の移り変わりの基本だが、季題の秋の風は、夏の風よりも低温という物理ではない。秋の森羅万象を吹き、且つ先天的にも大脳に吹いている風である。
高校生同士が句合わせの団体戦を争う、野球試合を擬した名の催しがある。ディベート内容をも加えた審査で勝負をつけるらしい。口頭の格闘技が言葉遊びに堕するところを、季題、それも大脳の中にある共有部分が助けていると思う。
その季題のいわゆる本意に縋っての気の利いた句は、やはり、涼しくない団扇風や冷たくない氷塊のような、味気なさがある。即物即景の持つ豊かさは、その体感の幾ばくかを欠いた場合、よく分かるものだ。(20.11)
ならう、まなぶ
正氣前主宰は、晩年、暦年での算法をする場合、北村西望先生のお齢から二十をマイナスしていた。卆七寿西望の署名なら、このセイボウ暦を使って、正氣は数えの七十七と計算される。従ってこの月斗忌は三十二回忌ということになる。
月斗先生は享年七十一だから、もう一つの算法、月斗先生の齢から二十五をマイナスしたら正氣の齢、を使い、71-25=46,77-46=31,31+1=32 である。月斗先生在世時はこのゲット暦で、お齢が直ぐ判った。
満年齢は幼児の診察とか法の定めとかなどにはいいが味気ない。数えのほうは、元日にみなヨーイドンで分かり易くておめでたくてよい。西望先生は十二月生まれで、卆七寿はその数え年である。
西望先生が七十七の『北村西望彫刻集』(西望会 昭三五)の中で、長崎の平和祈念像(昭三十)に取り掛かる頃から、モデルを使用しないようになったと述べられている。「時々刻々変化しつつある世相と自分の主観を表現する事」を主とし、「人体は従」と決められた。昔からの仏像造りがそうであったように。
新制日展第一回の西望出品は、先生の人間主義、理想主義に基づく『人類の危機』(昭三三)、第二回に『自由の女神』(昭三四)である。前者は核爆弾を投じようと構える鬼、後者は駆ける馬上に双手を挙げる女性の具象であるが、作者の主観が「見る人の為にも、あまり難解の方法は取らない事とした」という。
それでも世人は、主観等よりも、作品を装飾や模様という形式として語ることが多い。そこで先生は「どこらで止めるかが大切だろう」と、一人きりではない此世の中で、「総て中庸を得る事は人間のする事としては大事な事かも知れない」とされる。
この明解さは、後に、「ひとの喜びをもって、おのれの喜びとする…これは私の信念である」と述べられていることに通じる。いわゆる芸術のための芸術ではない。大正十一年建畠大夢らとの曠原社では、人格主義芸術を宣言している。
芸術即人格の点において、正氣が両先生に傾倒したのはよく解る。正氣の戦時中の雑記帳にあった筆の試し書きで、最多の字が氣、次いで斗、あと春、正、月で、斗などまさに先生の字体だ。
正氣は、一字二字なら月斗先生と判別し難いぐらいに真似ができた。そして先生没後は、加えてどうやら西望先生の筆使いに似てきた。(20.12)