平成21年前期

初めはまねること

 

正氣の子に生まれた私は、幼い頃から俳句を作る大人たちに触れていた。戦前はそのほとんどが男性で、週一回の句会のほかに、昼間の仕事が済んでから我が家に寄り合い、席題を一つ二つ出されて句を作っていた。毎晩のことと云っていい。

 私は大人たちと小生意気なおしゃべりをしていたらしい。「まなぶ」は「まねぶ」で、「ね」は「似る」であり、「ならう」も手本を何度も真似しての「慣る」だという。それで「雪だるま日がよくてるととけにけり」が『桜鯛』(昭一四)に載っている。

 これはそのまま五七五でできて、父の手が入る余地はなさそうである。「よく」がミソだが、日がよう照ってきたというもの言いからだろう。「溶けにけり」は特段のことではない。切字は、いわば俳句の部品とも云うべきものである。

 模倣は独創に先駆するとして、湯川秀樹博士は、「人まねが上手だということは、見方をかえれば、自分に欠けているものをとりいれる能力、自分と違った考え方を理解する能力がすぐれている、違った環境に対する適応性がある、ということをも意味しているのである」(『模倣と独創』)と述べられる。自分を空しくしての取り入れは、句作第一歩の心得である。

 ならば、子供の言葉を単に五七五のシラブルの枠に囲み込ませるだけでは、サイダーをお猪口に注いで飲むがごとしで、いつもと様子が変わって、それはそれで言葉遊びとしては面白いが、本当の俳句作りには繋がらないのではないか。

正氣の子供たちが作る俳句は、校友会誌の文芸欄などの他の生徒の句に比べると、形が整い過ぎて味気ない大人の句の形骸のように見え、こんな句作りのおかげで、上達にはたいへんな遠回りをしてしまったと後から思ったものである。

だが、幼稚園のお絵かきで、普通に男の子が描いていたのは、緑の半円の山の頂上に日の丸、青の空に赤の太陽が赤の線条を八方に放射し、地上に左向きの戦車、という至って観念的なものである。フレキシブルでないのは前と同じことだ。

子供の句、大人の句、女流の句、外国人の句、伝統の句、現代の句等々の特殊な俳句があるわけではない。それぞれ誇張変形があるとしても、本性は俳句である。天才は別として、打ち込みの基本を欠いたチャンバラごっこのままでは上達はない。  (21.01)

 

本当の人間像

 

 前年評判の『篤姫』で、「今のほんとにあったこと?」と事ごとに訊ねられたものだ。だからほら写したのだと茶化しながら、それで本当になるのだろうなと思う。カメラに写るのは現実であり、それが事実となり、真実であることに至るのである。

思えば卒業試験の後だったか、南座へ新派を観に行ったのだが、それが川口松太郎の小説による新作『皇女和の宮』だった。水谷八重子(先代)の和宮と、テレビ劇のそれとは、およそ別人に近いが、虚に於ける真で、どちらも本当なのである。

 本当のことが知りたいのは、知というよりも意や情の分野に属するようだが、人物像の真実は、それらの立場によって違ってくる。戦前の国史の視点での『花の生涯』の井伊直弼、『太平記』の足利尊氏、『新選組!』の近藤勇などもそうだろう。

 松本皎氏より頂いた『懸葵』のコピー、「日本俳句発祥三十周年を記念すべく子規居士を中心としたる諸家の感想」(大正十一年十月)という大特集によれば、その第一問「子規居士に就ての貴下の感想」に、青木月斗は端的に次のように答えている。

 「子規居士は世の中を白眼に観てゐた様に思はれる。従て燃ゆる様な熱は持てゐなかった様に思はれる。

子規居士は厳正な批判を俳壇に垂れた。月並の俳句界を批判して、厳正な俳壇を築き上げた点は誰もが是認せねばなるまい。感謝せずばなるまい」。

ここでは、新聞人でもあった正岡子規について、その詩的な情熱を超える冷静厳正な批判精神を、弟子としてではなく、一般論で、知の観点から真率に述べている。感謝は感謝、批評は批評の態度である。

後に『子規名句評釋』(青木月斗 昭十)の中で、「我々は子規居士を師父としてゐるので、居士を凝視し、居士を批判する事は出来なかった。然し、時が経つと、漠としてゐるが、死んだおやぢが幾分、客観出来るやうな気持で居士を看、居士の作品を看得るのである」と述べているが、よく分かる。

名付けの親でもある月斗先生の句業について、すでに七歳の年長となった私が云々することもないが、実作者としては、常に創造へ向かい、己の句業に連なるところは見極めて行かねばなるまい。

接近視した感想では像は肥大化し、その人物がノイジーなメディアから距離を置く場合、俳壇史的な視点では矮小化される。そこらを心得ればよい。  (21.02)

 

 

 

深沈厚重の人

 

「だんだん」を口にする人がいる。NHK朝のテレビで繰り返し強調される山陰言葉の真似である。松江で直接に耳にしたことはないが、「ありがとう」の意味で、昔の学生語のダンケを思い出した。

歴史上の人物評価もだが、昨今の俳句上のそれはメディアとの親疎に関わり、その聰明才辯(呂坤)ぶり即俳人の力量となる。そしてそれらノイジーマイノリティが俳句史を綴るかに錯覚する。

此人や時雨のみにて律する非   虚子

昭和十七年、伊賀上野での芭蕉生誕三百年祭俳句大会の祝句である。これまでに喧伝されてきた俳人芭蕉のイメージを以て、一方的にこの人を捉えてはならないというのである。

良寛研究の東郷豊治氏は、良寛の生涯を語る資料が甚だ乏しいのは、「もっぱら庶民の間で生活しつづけ、ひとときといえども権門と結びつかなかった」からだと、良寛の特徴として挙げておられる。

月斗先生のお人柄についても、己を多く語らず、またマスメディアを俗とする後年の態度の故もあろう。前号の『文藝春秋』の切り抜きでも分かる。この号での短歌は前田夕暮と土屋文明、俳句は大谷句佛と先生であったが、先生は、文学作品とは申し兼ねるところの前書付きを以て応じる。

先生はいわゆるプロの俳人ではなかった。その家業また家庭について語られることはほとんど無い。ある時期から句にすとんとはまり込んだまま生活して来られた。それが戦時疎開で大阪から引っ剥がされ、晩年、その空虚の埋まらぬまま失速したといえる。

お酒のことも、先生を大酒家とは呼べない。酒座を愛されたが、風雅を知る者との仲を好まれたのである。当時はその悉くが男性といってよい。風土のこともある。これに侍る者たちのノイジーな言からは、結果的に、豪放磊落のイメージ一色になる。

初会の人にも、座中の先生はそれとすぐに分かった。その謦咳に接して、忽ち月斗党となった。句が大好きで人が大好きで、情義に厚く、世の寂しさを解し、だから人が寄ってくるのである。それは文学以前ともいえるが、全人的な傾倒につながるのである。

先生を、磊落豪雄(呂坤)を以て律するはノイジーマイノリティ側の見方である。先生を知るサイレントマジョリティは、本来の深沈厚重(呂坤)の先生を懐かしく有り難く偲ぶのではないか。 (21.03)

 

 

 

自然からの帰納を

 

 「ポッシュッシュ」を見に、長男は抱かれて踏切まで行っていたが、三つ下の次男では、それが「シャー」になった。その間に、山陽本線が電化したのである。単語から少し構文化すると、外へ出かけるのに「アッチ、オッオ。コッチ、ウンナ」と言う。

 あっちがいい、こっちへ行くのはいやだ、である。片言とは、言葉の省略ではなくて、言葉足らずのことだ。ジグソーパズルの何片かがなくなって居ても、何の絵かが判るようなものだ。片言はそうだが、もともと平面を埋めないのが韻文である。

シラブル合わせの片言の「芽木」が芽吹いた木ならば、葉が茂ればハギなのか。序でだが、人事の夜桜とは別ものの「さくらの夜」とは何だろう。夜の梅はあっても、うめの夜、あんずの夜はないのに。

 大橋菊太句帳の連載で、川柳は文字サイズを小さくした。当時の多くが、季題趣味を排し人間生活を詠む碧梧桐らの新傾向に惹かれても、その向かう先の無季、非定型を肯定しなければ、時を同じく川柳が俳句の方へ傾くと、それを近いものと感じたのだろう。

かつて本誌に、兼崎地橙孫が、この句帳の年、川上日車が刊した柳俳誌『雪』の鬼史(日車の幼友達)や菫哉、遊魚、鵜平、和露、地橙孫ら碧門の名を挙げた。そして、川柳と俳句とを比べ、足触り(靴と下駄)が一寸違い、味覚(パン食と米飯)では無季俳句よりも同じところが多いと述べた。

 いつ来ても同じ着物を着てる恋    日車

短詩形は一読直後に再読するもので、そのとき、これは上十五字で折り目があって下二字、だろう。ふつう川柳は季題や切字が無く人間諷詠の五七五、というのは、俳句の側からのことである。

大正川柳は、その後「柳俳一如」ではない方角へ行くが、 昨今の俳句の内容を見るに、むしろ俳句から現代川柳へと近づく気配で、それかあらぬか、季題に加え、切字が格上げされて力説される。切字の論理を老大の生徒さんから質問される始末だ。

「傾向と対策」という受験対策の本があったが、目の前の事物とそれからの連想と、切字を挟んで調合して一句を作る、という手法までが語られる。そこで、照応に役立つ属性を持つ季語を、この頃の便利で親切な歳時記で探すというわけである。

これでは、誰もが感づかなかったものを感じ取って、誰もが作らなかった句を作ることは難しい。(21.04)

 

 

 

選のちから

 

虚子没後五十年ということで、本誌昭和三十四年五月号を取り出してみた。当時まだ謄写印刷の冒頭、虚子翁遺墨として、ペン書きの句稿の葉書を載せている。

 とり互に(まミ)ゆ寒牡丹

 冬日今障子の隅に落ちかゝり

句を珠と暖めてをる炬燵かな

草も木も心のまゝに枯るゝまゝ

           高濱虚子

 英文学の宮森麻太郎翁を通じて近詠をお願いし、昭和二十二年一月号に頂いたものである。

 後記(正氣)に、「四月八日に高濱虚子翁が逝去された。虚子翁の存在は俳句急新に対する厚き壁として、小生はその意義を認めていた」と、今の俳句急新が俳句の脱線を惹き起こすことを恐れ、「俳句の健全な進歩は厚き壁の存在が必要である」と率直に述べ、「小生も中学時代にホトヽギス雑詠へ投句して入選したことがある」と懐かしむ。

 大正後期、正氣(赤甕子)や里鵜(春夢)が見事入選したのは、虚子が病を得て、雑詠投稿が二十句から半分の十句限になった時期であるが、一句入選は至難のことであった。既述の当時の行動から、正氣が己の誌に虚子翁の句をと望んだ気持ちはわかる。

 十乃至は幾十の中から見出された一句は、そこに選者の相当のエネルギーが集中していよう。だから、以後の句作りに大きな力を発揮するのである。就くべき選とはかくあるのだろう。

 この号の春星作品も、十句出句で最大五句入選、従って二、三句組もなかなかの厳選である。有能者を求める選抜試験と、相応の程度に達すればよい資格試験とでは、難易の違いがあるのは当然である。

 秀句とは、通俗ではなく、新たな経験を与えるものである。やあ、自分とおんなじ思いを述べている、よっくわかる、という再生産ではなく、あっ、そうなんだと、これまでの観念を改めさせる表現を意味する。選者の選はそちらへと導くものである。

 この号には、王樹翁や長門句会を迎えての月斗忌に併せた島春新選者祝賀句会の記事もある。この年の『同人』二月号で、菅裸馬先生による新選者推薦六名の中に、私も加えて頂いた。

五十年、「新旧選者中の最年少者である。しかも正氣君と父子師弟の相伝関係を兼ねて」(裸馬)の私だったが、まだまだである。(21.05)

 

 

 

高カロリーの言葉

 

玄関の壁に掲げている西望先生の額を、丑年の新年号に使ったのは、蝸牛の「牛」が理由である。「かたつむり百年春風を歩く」と、十七字に読めなくもないので、北村西望句集『春風悠々』(平四)に、幾つかの我が家での作に加えて入れて貰った。

この「蝸牛」とは先生の自画像であろう。実に、四季を通じての春風の如きご生涯であった。だから「怠らぬ歩みおそろしかたつむり」は太祇だが、上五を「たゆまざる」として、自他を超越した、先生の言葉ともなっている。

夜を寐ぬと見ゆる歩みや蝸牛     太祇

今朝みれば夜の歩みやかたつむり   同

蝸牛だけを対象にして観ている。太祇の句は、いわゆる客観写生の静止画像よりも濃くて、人事句などでは小さい動画ほどの情報量になろう。

田園作家と呼ばれた湯室月村老だが、太祇の句を好まれていた。五十年以上も昔の事だから危うげだが、

山吹や葉に花に葉に花に葉に     太祇

の句を口ずさまれていたのを記憶する。そしてやはり太祇の観る目を言われていたと思う。月村老にとっての太祇といえば、「藪入の寝るやひとりの親の側」の領域と思い込むところから、この句で、花の黄と葉の緑のモザイクが目に浮かぶのは当然だった。

 それが、かの道灌の話のみのひとつだになきぞかなしき」で、山吹のそれを求めているのが、後になって解った。それでも、この句が通俗的な判じ物に終わっていないのは、太祇がしんじつ強い視線で、山吹を観ているからであろう。

 蝸牛なり、山吹なり、それだけを区切って見るという行為によって、自然は自分と一繋がりになる。視野に入っているだけでは、ごく薄められた関係であり、相手とは呼べないのである。見ることと見えていることとの大きな違いである。

 俳句作りは、対象を見詰めることから始まる。視線の濃さが求められる。言葉に置換するのもである。「室戸の沖で鯨釣ったという便り」に比べて、「わたしも負けずに励んだ後で」はノンカロリーだ。

 句の言葉は、薄めてはならない。少数の言葉を生かすため、排列を工夫する際もまた然りである。「石に矢の立つためしあり 石に立つ矢のためしあり」(「敵は幾萬」山田美妙斎)の言い換えは、退屈しのぎ以外に何の生産性もなかろう。(21.06)