平成21年後期
松 本 島 春
井の中の蛙
今月号で創刊六十四年目に入る。占領下の出版物を収蔵するプランゲ文庫を検索すると、第三巻(昭二三)からの計十冊がある。西洋紙一枚二つ折りの両面にガリ版刷りの初号に始まるが、今でも、こと数量体裁に限れば、中流とも呼べないだろう。
正氣前主宰は、『春星』以前、何度も誌名を変えながら、小俳誌を発行し続けた。よく路傍で、若者が楽器を鳴らして歌っているが、自分の信じるところを自由に発表するには、その舞台であるミカン箱を自分で用意しなければならないのである。
ミカン箱に立っての歌は風に消えるが、句ならばペーパーに録してあるから、寄贈のバックナンバーに残るだろう。だが、歌が聴き手の心にずっと留まることもあるように、俳句の言葉は短くて、そのまんま人の記憶に染み付くから、その方がよい。
これが大劇場ともなれば、雅だけでは済まされなくなる。いわゆる俳句ブームで、俳人や俳句周辺のあれこれもメジャーになり、市場の俗が侵入し蔓延っている。その昔の室積徂春が俳誌の簇出を憂えたのは、発行に伴う援助者の問題であったが。
メセナ活動は別として、句作者向けの数々の商業俳誌が成り立つ現在である。結社を通じ、その記事広告的なものとか、発行者の名義を貸しての私家句集出版などを兼ねたりしている。一般俳誌に商業俳誌の広告が載る奇妙さも分るというもの。
『荘子』(原富男訳)で、初めて海を見てその極め難い大きさに畏れ、それまでの自分を省みて嘆く河伯に、北海の若は、「井のなかのカワズの海が話せないのは、おるところになずむからだ」と語り出す。
これは何も、蛙が『春星』ならば、蛙に、井の外にある海について言っているのではない。井と海の広さ大きさによる比較のことでもない。井の外に出ることを言ってもいない。
大小を語るのは有限の世界でのことである。どちらがよいのかというのは、海を以て井には代えられないから、置き換えが利かない以上は比べようがない。井は井、蛙は、「独立自在〜物を物として物に物とされない」(原富男―荘周とその書の研究)であればよいということだろう。至難の道ではある。
エコーが利いた井の中で歌って一人ただ漫然としていたのでは、北海を見る前の河伯の、自分が一番という驕りと同じことだぞ。 (21.07)
ホログラムのように
広くもない三階のベランダに、鉢やプランターや発泡スチロール函が窮屈に並び、種々雑多な植生がある。多少意識的に天然に放置して居り、植えたもの生えたもの、前者でも買ったもの貰ったもの、後者でも水を遣るに値するものそうでないもの等々。
最後の辺は露草や蚊帳吊草などで、今や竹煮草が伸びている。長い間屈んでいるとまだ腰が痛いから、そんな時は近所を歩きに出るが、近年少なくなった銭葵の花に立ち止まるのがいわば習癖である。大人にならない頃に何かの刷り込みがあったのか。
歳時記などで花葵を探るに、多くは立葵の句である。花も姿も目立つからだろう。比べて銭葵はまあ中の下ぐらいで健康的で句に仕立て難いようだ。遠い日の私との連関についてはとんと分らない。
葵(あふひ)は「仰日」で、こぞって空を仰ぐ葉を持つものを、種属を問わず、何々葵と名づける。銭葵のゼニは、時珍本草に「花大如五銖錢、粉紅色、有紫縷文」だが、大きさだけで、しかも五銖錢ではね。金盞花みたいな譬えようもあろうに。
執念で、園芸通販カタログなんか見るが、これぞ五銖錢という花卉は当然見当たらない。和名の寡勢の中で、金盞花がカタログにあってほっとしたが、実物はともかく、その新種の大輪の写真はまるでチアガールのボンボンの如きではないか。
新で珍で奇で派手で異国風で華奢で微妙で一代限り等々の花卉でないと売り物にならない。これでもかと、冬に花咲く冷凍百合、途切れず三冬を彩る早・中・晩生の冷蔵チューリップ商品とは。
カタログを見ていると、そこら中がこんな花ばかりのような気がしてくるが、普通の金盞花も著莪の花も百日草も千日紅もまだ残っている。この思い入れの花たちのことは分る。藁で程良く束ねて、昔々お婆さんが荷車を引いて売り歩いていた仏花である。
銭葵は二年草だが、町なかに生を継いできて、その変らぬ姿には、まだ思い付かぬが、共有した生活の空間、時間の記憶を内包している筈である。高額紙幣に仕掛けられたホログラムのように、別の角度で見える絵柄があるのかも知れない。
新しい季語は、それを詠んだ秀句に拠って成り立つとよく言われるが、季題は、その中に、それを詠んだ古今の句を既に内包しているのである。俳句そのものがそうした構造を持っている。(21.08)
魚や兎と生き方
奥付に大正十三年一月震災後六版発行とあるトルストイ『藝術とは何ぞや』(木村毅 春秋社 定価金壱円)は、前々年の七月以来震災前に十二版発行して居る。この少々読み難い翻訳での月々の重刷というスピードは、当時の文藝論の状況を示している。
訳者は、「本書は一面から言えば、藝術のための藝術に対する人生のための藝術の最も大胆にして露骨なる宣明である」という。そして大正に起こった「民衆芸術論」から「階級文学」などの問題の底にも、此の書が与えた暗示を見ている。
トルストイは、藝術を美(或る種の快感を与えるもの)の概念で定義しない。報酬を得、民衆でなく評論家に評価され、特殊教育を経るものは、一部階級のための模造藝術だとし、全民衆の中に成り、人と人との間を同一感情に結んで幸せに向わせるものが本当の藝術であると、宗教的意識を基に置く。
人を殺傷するための武器の術が、武道として人格練磨に至るのが我が国の習いである。文藝、特に短い定型である俳句は、いわゆるテレビ番組のエンターテイントメント(知的快楽?)の範疇には居づらいだろうにと思ったりする。
その機会はあったのだろうが、正氣もその師月斗も生前に句集を持たなかったし、また句の指導書とてない。専ら実作に対する対機説法で指導に当たった。禅でも不立文字といわれる。言葉は筌蹄である。
『荘子』外物篇に、「筌は、シバを水中に集めて、ウオをとまらせるためのものである。ウオをえてしまうと、筌のことなど忘れてしまう。蹄は、ウサギをとまらせるためのものである。ウサギをえてしまうと、筌のことなど忘れてしまう」(原富男訳)と。
俳句は言葉を使うのだが、「言者、所以在意也、得意而忘言」なのである。意味が大事であって、言葉自体はそれを表す道具に過ぎないという。されば句作自体はどうだろう。ただ後世に筌蹄のみを残して終わるならば、俳句人生何だろう。
菅裸馬に次ぐ『同人』主宰川瀬一貫は、実業家であるが、師月斗には、俳句を習うと同時に人としての生き方を学んだ、そのお蔭で自分は大過なく生きてきたと常々述懐した。これは結果である。
われわれはよい句を得るためによい努力をするのである。そして、よい生き方に繋がらぬ句作りは、よい句を産まない。(21.09)
句は人のつながり
九月号に松村鬼史の「秋風」を載せた。新聞雑誌のための稿らしい。内七句もが『最新二万句』(今井柏浦編)に入っていて、明治四十年か四十一年の作であると分る。やがて碧梧桐の新傾向の時代で、青々は、露石、墨水、鬼史、月斗らと後に暫く離れる。
月斗らの仲間は、お互いを大阪俳壇と一括りにするいわば開かれた間柄だが、『宝船』の青々は、早くから個人句集も出し、師弟関係のある結社的な意識もあったように思う。ちなみに月斗が弟子と呼ぶ俳人は、明治の末にはまだ現れていないようだ。
かつて子規が『病牀六尺』(明三五)で、青々は別として、「畢竟、之を率ゐて行く先輩が無いのと少年に学問含蓄が無いのとに基因するのであらう」と、大阪の少年俳家の傍若無人ぶりを痛罵したが、地方にある連帯の気風の故のことでもあろう。
この子規の一文は、川柳人岸本水府の生涯を描いた大作、田辺聖子『道頓堀の雨に別れて以来なり』の中にも引用され、「全く明治末の大阪の若手川柳家たちの気分に該当するではないか」とある。
序でながら、この三巻の文庫本上巻に、鬼史が句に誘い、子規没後は、『日本』の俳句から川柳(剣花坊選)に転じた渓水(六厘坊、『大阪新報』川柳選者)、虹村(日車)や、水府が『朝報』記者時代に関係した墨水、秋双につながる月斗らの様子をも散見する。
鬼史は、関西では青々に次いで才能を期待されていた。この本で、明治四十三年正月、鬼史は川柳人柳珍堂として現れる。この時期、俳句から川柳に転じるのは、新傾向俳句の動向とも無縁ではなかろう。
連載中の大橋菊太句帳(大四、五)の中に、菊太が柳珍堂や画家たちと川柳会に出ている。大阪俳壇は、ジャンルを越えた連帯意識が濃かった。
本号の短冊写真に、『新選俳諧年表』(平林鳳二・大西一外著 書画珍本雑誌社 大一二)の記述を用いたが、平林を、篆刻家の楠瀬日年は、「いつもドテラを着込んで黒い書画を散らかした中に大胡坐をかいて、一見山賊の頭のやうな風で、法螺と諂笑とで人を煙に捲いては、其処ら辺りに散らかした書画を〈割愛〉しつつ世渡りしてゐた」が、この男の家で月斗と「妙に出合ったものだ」と回顧する。
岸本水府周辺のあれこれと併せ、子規没年以降の大阪俳壇というものがぼうと浮かび、句のつながりは人のつながり、情のつながりであると感じる。 (21.10)
俳句の楽しみ
一見に如かずというが、古人にまみえるには筆跡によるほかない。書画の展示にあって、レプリカでは解説に過ぎない。ただ連載中のみえ女史の文の参考にと、子規忌月に載せた所蔵短冊から、つい旧派へと遡ることになったが、今月は天保の俳人にした。
一般の実作者にとっては、子規の俳句分類に基づく総括の上に立てば、とくべつ子規以前の句について学ぶこともあるまいと思われる。子規の俳句革新とは、本当はそうであったろう。
ところが、旧派の俳諧で、子規が切り捨てたはずの月並、或る意味では俳諧的な部分が、現代俳句では再び繁茂している。これまでも、ももすもも(蕪村)で、写生というリアリズムとの間を、俯瞰すれば行き戻りして、俳句は堕落から立ち直って来た。
前月の月の本為山の短冊の「棭の花」は何の木かと訊かれる。木偏に夜なので推理してごらんといじわるするが、大まけのヒントは『おくのほそ道』の象潟で、もうお解りか。夜は葉を閉ぢる合歓の木である。晴れて好しで、美女西施はその瞼を開いたらしい。
雨に合歓の花は、中国詩でいう用典であり、一万円札の左下隅にあるホログラムが、見方で、桜と日銀ロゴと数字の10000と、イメージが重層しているように、短詩型に有効な修辞法ではある。
命日に修した子規忌の翌々日、三原各句会の連中で、松山の子規記念博物館に行った。初めての者が多かったし、大型連休でも、常設展示だけでイベントの隙間の日のせいか、ゆっくり筆跡に接し得た。
さても、昨今の俳句付帯イベントには、趣向好きの子規も如何か。俳句が、出版や行事など商業的にもペイできる時代なのだ。江戸時代末の月並句合の入花料(出句料)は、点者にもよるが、三句一組二十四文と何かで見たが、円とのレートや如何。
落語の「時そば」で、あれは二八の十六文数えさせるのだから、二十四文は、単純には今の屋台そばの値段の一倍半だが、形のあるものの値段が高く、形を持たないことの値段が不当に安い時代であったことを勘案すれば、相当補正してまあ頷けるか。
肝腎の俳句の中身の方でなく、得点数による優劣とかディベートの勝ち負けやら、賞状賞品やら、包装の方の楽しみが主になってはつまらない。句を作るとき、また句を解するときの、あの三昧の境地を体験したならば、である。(21.11)
フレッチャーイズム
昭和五十年頃に正氣前主宰が楷書でペン書きした紙片をお見せしたい。用済みの原稿用紙を裏返しに折った数枚をホッチキスで綴じたのに、孫である当時小学生の次男が漫画を書いていたのが残っていた。
春星舎雑記と題し、春星作品欄の下欄二十二字の割付の空きを、正氣が、いわゆる編集後記に消息やら所感やらを加えて埋めたもので、これには、「春星は何度も繰返して読んで貰ひ度い」とある。
字面は、日頃の正氣の短冊などとはずいぶん印象が違うが、本来、編集印刷のための稿や郵便の宛先はかくあるべきである。月斗先生に句稿をお出しし、その雌黄を受ける場合は尚更であった。
そこに、文字の判読し易さが求められる場合か相手かを弁える必要がある。鳴雪翁の書状など甚だ読み難いが、その封筒の住所宛名の文字は、配達人にもよく分るように丁寧に書かれていた、心すべき、と月斗先生の言がある。
肉筆は、その人自身の手の筋肉の収縮弛緩の軌跡であり、触覚も筋覚も、思考も視線も脈拍や息づきまでもが紙背に在る。古俳人を知るには、他人の手になる肖像画の比ではない。正氣は、月斗先生や西望先生の書かれたものは、断簡零墨、宛名封筒から筆の試し書きに至るまで保存していた。
正氣は、戦中、古俳人の短冊が反故同様に扱われるのを惧れ、手の届く範囲での蒐集を試みた。終戦直後の水害で断念し、その分類整理も未完だが、中で皆さんご存じかと思われる俳人の筆跡を、俳諧史を遡ってお見せしたい。
正氣が整理した分はともかく、正直、筆の字には弱いので、短冊の解読には難渋する。よく勉強してからと思うが、もう時間が無い。季題や五七五調などからの意読で、まるでパズル解きみたいだ。
俳句を鑑賞するのに、短冊の一句は最もふさわしい形といえる。俳誌も、俳句に適した小容器がよい。飽食の時代で譬えは難しいが、肉が極端に乏しい時世に、シチューの具の中から肉の小片が匙にかかったとしよう。彼はその一片を、いとしむように噛みしめ噛みしめして味わうことだろう。
一世紀前の少量よく噛む健康法は、現在も俳誌にも通用する。一読する前から満腹する俳誌よりも、通読、再読三読五読が自在の量で、それに耐え得る質の濃さの俳誌でありたい。(21.12)