平成22年前期

平成化政の世

 

化政(文化文政)の俳人の短冊筆跡を暫く表3に載せようと思う。俳諧史を良く知るものではないが、一般には、遡って、「俳諧が大衆の平俗に化せられた天保時代」の前の、「中興諸家の余流がなお俳壇を維持していた化政時代」といわれる区分のものである。

この間の俳壇は、天明中興の俳諧が、量的にも広く大衆生活に浸透して行った時代と云われる。昨今、発行所めがけて、のべつに俳句関連の出版や旅行や地域イベントなどの案内やら勧誘やらが来る盛況は、あたかもその当時と軌を一にするようだ。

昭和元禄とは高度経済成長期の世相をいうが、こと俳句界について昨今は平成化政と名付けんか。数は力でマスメディアにも重宝されるが、これ以上多勢による世俗に曝され続けることで、子規が排した天保の月並に堕するのがこわい。

化政の俳壇は、全国津々浦々に展開し、質的には「特異性が失はれて、すべての流派を問はず一様に平明な句風に統一されようとして来た」(頴原退蔵「俳諧史の研究」岩波講座日本文学 昭六)もので、当時の既に成熟した文化と生活の反映である。

従って、わかり易く普く通じる句風が好まれ、「大衆の社交生活、趣味生活の一部として」、「業俳遊俳の数を増したこの時代には、互に来往する機会も多くなり、且つ一般にその風交の汎いのを誇る」(同前)など、平成の世にも見る思いがする。

天保俳諧の俗化を、明治の子規が月並と呼び、その革新を図った次第は、現在中川みえ女史により連載中だが、堕落に至る前の段階である、化政俳諧の守成普及、大衆化への過程は興味深い。

正氣が記した短冊帖のメモがある。時代や師系や地域とかで整理するほど多くはないから苦心している。今回の表紙3も、軽重もあるのだが、そこは、江戸には京、みたいな組み合わせで済ますつもりだ。

社交や趣味の化政俳諧なら、混合でも違和感はなかろう。はみ出すのは、一茶の幾つかの句業である。さて平成のマスメディアや商業俳誌や地方何々協会とかの俳句群の個性性は、後世どうだろうか。

渺たるわが春星だが、句作りは、ちまちま姿勢制御に微小噴射する補助ロケットとして、生きる上での彩りとか慰めなどに資するものとはせぬ。この高齢社会で、句作りは、生きることを推進するロケットエンジンでありたい。それが句の個性となる。  (22.01)

 

節目のはなし

 

来月号が通巻七百五十号だと気がついた。私も今月で七十八年間を存え、もう百号単位ではという境涯なのに、別に思案なしである。今月号に西望筆の「雪月花」の書を掲げてその寿齢に肖りたい。

同じ「花月三萬六千日」の軸も、風雅の日々の百年である。酒の李白は、「百年三萬六千日 一日須傾三百杯」だが、一日須らく三句を撚っての百年十万句は、月斗や正氣ペースならこれを上回るだろう。

私の七十八年は日数でほぼ二万八千五百日、その間の心鼓動数は計算したくもない。飲酒時限定の不整脈で頻回失神した病因は未詳だが、ここ数年のテスト断酒で一度も発作がないから、まあいい。

句友を見れば分かるのだが、ある種の句作は百薬の長である。というよりも、結果としてそのようになる句を作ることだ。そして足を休めないことだ。そのような歩き方をすることだ。

節目の話をすると、来・再来年は親鸞聖人七百五十回忌大遠忌法要に当たる。一昨年五月末の県立美術館での「本願寺展」で、私は右手が痛くて第一章の展示室の椅子で座りこんでしまい、頚椎症の診断はその旬日後だったと思い出す。数えの喜寿であった。

昨年十一月が金婚で、吟香画伯の表紙「菊雛」はその意であった。前号の王樹「鴛鴦」もその折頂いた。初め、「花野より選び摘み来しうつくしさ 王樹」の双つの鴛鴦の容姿の額装は、今度は諫早の松の緑に鴛鴦という枕屏風となった。

この十八日が裸馬忌である。先生からの結婚祝句の「島春新婚二句 冬さうび二人ここにて見む為めの。顔を寄せ合ふ冬ばらの色燃えて 裸馬」(『裸馬翁五千句』)は、短冊に書いて頂いていない。既にお眼が相当に悪く、医師より選句を禁じられ、『同人』扉吟もこの句が載った新年号以後長期中断された。

私は、父正氣がずっと句の師であったから、今でも場合に応じて正氣先生と呼んだりするが、昭和十九年秋から青木月斗先生に句を見て頂いた。その五年間が句の幼年期だとすると、継承された菅裸馬先生に、以後二十年間の句の青少年期、躯幹が確立する時期に教えを受けたのは幸せだった。

七百五十号を目睫にして思うに、今の私の句業の一切は、師はもとよりのことだが、これまで常にお仲間が周りにあって、自らそれに相応したものに賦形されている。銘肝したい。(22.02)

 

 

「うぐひすは」

 

 先生が鶯の声を聴かれた句信を載せる。日付は昭和二十三年三月二十四日、同人第三句集の挿絵(月渓画)の絵葉書で、宛名下欄に「九州より迎へに来り、四月中はつくし人の擒になる事也」とある。

 つくし人の植木の王樹、山鹿の鹿山、佐世保の皆春、博多の涼荷、芝鳴と、先からの旅信がある。帰路の五月一日、女々夫人と三原に立ち寄られ、本郷の燈古庵も含めると六泊されたと思う。善教寺で句会、瀬戸田耕三寺吟行、女子師範付属で講話もされた。

善教寺の句会には、中学の同級生で、この度好著『俳人青木月斗』を上梓した角光雄君も出席しており、「ことことと納屋の仕事や藤の花 光雄」が月斗選に入っている。男兒も入り、私はボツだった。

私はこの翌々年、進学のため上阪し、旧制中・新制高の仲間もばらばら、回覧雑誌など二三回したが、角光雄もすみ・みつをとなり、句を作らなくなった。私のほうは、正氣の息子がやって来たと大阪の句会は大歓迎で、月の内何度も出かけていた。

その後光雄君も上阪進学、卒業後も大阪で就職した。私はまだ在学中で、ある日訪ねて来てくれた彼は、もう大阪弁で、クリスチャンで文学青年だった。『野火』などを熱く語って、私を辟易させた。ここらは、彼の最初の出版『昭和世代角光雄集』(昭四九)に書いた。彼の文壇史的な視点にも触れたと思う。

休俳十年にして、クリスチャン光雄が、三原月斗忌席上で知った棚橋玲泉女さんと教会で邂逅し、復俳するのは何ともいい。玲泉女さんは、呉から大阪に移られ、『うぐいす』の句会に出ていた。

私は、月斗俳句の本丸は、大阪俳壇の月斗を脱する大正九年四月の『同人』創刊から、昭和二十年三月に大阪の人月斗が大阪を離れる迄で、それも『同人』誌面にて尽きると思っている。

何年か前、光雄君が、月斗の句集の話があるというから、それはいいが、『月斗翁句抄』に加えるにしても売れないぞと言ったことがある。主宰する『あじろ』連載の月斗考を一本にするのもである。

それが、『俳人青木月斗』には瞠目した。特に近年知見が増した子規在世期において、子規と日本派の周囲に、今回『車百合』から『ふた葉』にまで遡り、当時の大阪俳壇の月斗を関連付けた点がよい。月斗俳句鑑賞では随所に光雄君らしさが窺えて面白い。

この本にこの著者の縁とその必然を見るのである。(22.03)

 

 

デジタル評価

 

 バンクーバー冬季五輪の中継を観ていると、多くの競技で、その優劣を決める方法が考え出されている。碁将棋や競馬の順位などのように、相手との同時対戦であればよいが、そうでないと、自他共にその判定が目に見えることにはならない。

順位付けのため、それぞれの速さや長さの記録を比較するもの、射撃の的中度で罰走が加わるなど、レートの根拠は分からぬが罰時間に換算するもの、技術や表現などを幾つかの要素毎に審判員がデジタル化するなどの工夫がされている。

フィギュアスケートの場合、ソルトレイクシティ後、相対評価に繋がる主観性を排除し、規定の要素毎の技術点構成点・減点を複数の審判が与え、算出して決めてい技術点は、たとえばジャンプの回転数の評価の基礎点に、その技の出来栄えで加減する

評価の主観性を欠くのは採点カラオケである。音程とかビブラートとか抑揚などを採点の要素にし、そのメロディーラインと比べて、適合度やその持続時間を数量化して決めるらしい。当然、良いほうの評価はなく、劣るだけがある減点法である。

本来、物事の評価というものは、全知全能の神のそれによるしかないのだが、俳句では、本号に載せた旧派の「散桜の巻」に見るように、宗匠なる判者の眼力で、天・地・人の三光(三座)、五客、入選という具合に、その優劣を決めている。

互選形式の句会では各人の、大会なんかでは少数の選者の入れた合計数値を以てする。「季題集」はこれを折衷した。互選は作者即判者である。選者制は、優れた演技者たりしフィギュアスケートの審判員のように、力ある作者が判者を兼ねている。

それは、句(演技)を見抜く力が、自分が作句(演技)する場合にも働くものだからである。作句力と選句力とは相関していることになる。もしそうでないのなら、彼は作句の天才であろう。即力ある選者とはならないケースである。

選句は、採点カラオケの減点法はとらないし、メロディーラインのようなその基準は、選者それぞれが違う。だから選者それぞれの選句は等価値ではなく、ゲーム風に興じようとする目的で、その数値の大小に拘っても意味はない。

冬季五輪の採点競技を見ながら思ったのだが、春星作品のことはまた書くことにする。 (22.04)

 

 

 

春星作品の選

 

 昭和三十一年五月に、私は国家試験を終えて三原へ帰った。六年間お世話になった最後の大阪本句会で、月村さん以下それぞれ句を寄せ書きして下さった。句座の上席の方々の部分を表紙2に載せる。

 学生の私は可愛がられた。梅田の近くのお寺での句会後、常連が少し駅側へ歩き、一杯飲み屋で豆腐か枝豆ぐらいで句の話が弾む。『うぐひす』が出る前後だった。弁護士の富竹雨さんと大林の井耳さん、それに女流のつゆさんは一級酒が為来り。

と、へんなことを覚えている。初めの頃の句会の後で、月村さんが、今日はシマハルはんの句をとった、とにこにこして傍に来られたこともである。私のほうが月村さんの句をとったのかも知れない。

 互選は作者間の心の交流である。句会の清記が廻ってきて、一読ないしは数読、その中から択び取る。脳細胞は相当ドンパチするだろうが、瞬間の快か否かで決める。今年の月斗忌は久しぶりに神明会館で催したが、その折も選句のことを話した。

 春星作品の記名選は、三句以上十五句までの出句としている。五句限入選の五句出句ではストライクゾーンに球を置きに来るのを惧れるのである。なお、三句とは作者の側の、十五句は選者の側の労わりである。いずれも、春星は句作第一義がモットーゆえ、選者がAを取りBを落としたことの明示を意図している。

 自由な数で出句する短所は、選者丸投げとなり、作者側の自選の力が弱まることである。決闘に散弾銃で臨むがごとしだ。やはりそれぞれを一発必中で揃えて、選者を悩まして頂きたいものだ。それに、入選五句限度にも意味があるのである。

 また多くの作者のケースで、句の措辞において、カーリングでいうスウィーピング(ストーンの距離や方向を微調整するため進行方向の氷をブラシで掃く)を必ず加えている。これも、やはり選者の意をはっきり表すためである。

 春星の規模では、一人ひとりに立ち会っての勉強が適応する。従って、入選句の評価としての数についても、個別の基準であり、その進度を特に勘案する。作者個々を昨から今へと縦に見ての評価である。

春星は相互錬磨の町道場である。無鑑査といえる別室は設けず、上位組といえども、常にアクセルを踏み続けなければならないようになっている。だから道場主も必死である。(22.05)

 

 

橋のはなし

 

 私は瀬戸内の小島で生まれ、満一歳の時に三原へ移り住んだ。父の正氣は、当時、句会の指導に、島から三原へ出かけていたが、その人たちの請いによるもののようである。もともと故郷の諫早を発って、瀬戸内に至ったが、永住の地とは定めていなかった。

表2の絵は、当時の我が家(敗戦の秋に水害に遇った)の二階の窓から見た景色である。この山紫水明を以て湧原川の大橋(おおばし)畔に居を卜したという。俳句が本業、歯医者は専業と嘯く所以である。やはり借地借家であった。二階が診療部分と座敷兼句会場である。

 絵は、昭和十年のもので、根元に大八車が置かれた桐の木が、いわゆる月村の桐である。この二年後月斗先生のお供で湯室月村が来たとき、荷車の牛を繋ぐだけの桐一木を句材に十三句をものして、大阪の同人がその桐を見てみたいと名付けたのである。

 桐は水害で流れたが、川上に描いた柳は現存している。対岸は小早川隆景による櫨の並木で、そこから向こうが三原城域である。だから小高くして(はね)という石組を設け、洪水は東土手を破るようにされている。橋の東詰めの我が家は橋が落ちて来て崩壊した。

 月斗先生は、筑前植木の王樹と備後三原の正氣は覚え易いと、よく旅先から葉書を下さった。三原市(山陽線)大橋々畔、備後三原町大橋、広島県三原大橋、三原市橋畔、三原市大橋詰など、親切な郵便局が、ヘン?な葉書は東町の松本歯科へ廻している。

 橋の裏側のコンクリートは、夏でもひんやりとして、帽針ほどの胴体で細い脚高の蜘蛛が無数に群れ、何かあると網を撒くように一斉に移動する。水面の反射光の斑が、橋の裏天井を油滴みたいに滑走する。橋脚には蝋石で相合傘に名前が描かれている。

日が落ち、蝙蝠が出て、川筋の風が海からの向きに変わる頃、幼稚園の友達の小間物屋のお母さんが、浴衣着に白塗りの首で橋の上に佇む。あそこはお父さんがご飯炊きするという評判だ。町内の人もぼつぼつ涼みに来、真暗闇になる前に居なくなる。

 車が走り抜けるだけの今の橋梁に比べ、往時は何とも豊かな橋の景であり、滋養のあるという言葉であった。坂とか森とかの言葉自体が薄っぺらとなり、噛んでも味の出ないことか。がその力を失った時代の俳句が、痩せて行くのも当然である。

 を対象として重んじない、言葉遊びに似る当今の俳句事情もゆえなしとしない。(22.06)

 

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