平成22年後期

立体構造

春 

 

 3D映画が話題になった。テレビにもそんなのがあって、それ用の眼鏡で見ると、人がこっちへぴょんと跳ねて出る。わっと驚くのは、二六時中そんな世界に住んでいるくせに変である。額縁からはみ出して見える騙し絵のほうがよっぽど不思議なはずだ。

  目は3D耳はステレオ青き踏む

 もともと幾何よりは代数系で、占領下、大学が新制となり、みな受験の前に進学適性検査を受けたが、直方体を積み重ねた図形からその個数を推理する理系知能の問題を憶えている。まあまあだったが、大学の図学での投影作図はやはりいやだった。

 川井正雄君が、名工大教授定年後、今度は文系の学生に、人の身体と生活を分子から見た生命の立場で講義された経験から、分子についてよく学んでいない一般をも念頭に執筆された『分子から見た私たち―やさしい生命化学―』をこのたび頂戴した。

 学生時代に枚方でお世話になった川井かすみさんのご次男である。小学校の頃お兄さんの龍太郎君と枚方句会に出ていたはずと古い号を出して見たら、昭和二十七年一月号に「夕空に小さな凧がただ一つ 正雄」が初出で、調べればもう何句かあるだろう。

 本書にも載るフィサリンは、京大工学部合成化学科での「ホオズキの苦味成分の構造研究」で、細切煮沸したホオズキの液から、成分を分離抽出しその化学構造を決定したものである。現在月斗句碑があるあの広いお庭中に酸漿を植えたと聞いている。

ベランダに酸漿の一鉢があるが、なぜか毎年宿根の薬効も空しく虫は繁殖し、しかも虫には甘いのかファーストチョイスでまるまる食われてしまう。葉の先っぽを噛んでみたがヒトにはとても苦い。

 有機化学といえば亀の甲が目に浮かぶのだが、これに分子の立体構造とか分子模型となると例の3Dだ。本書なら図式をぬいても読めるのでご安心を。

さて、分子の化学式は同じでも、分子内での原子の並ぶ順序や立体配置が異なると、その性質つまり人体への効能にもたいへんな違いが出る。

 俳句の十七字を便宜上一文章と看做せば、五つほどの文節という原子から成り、原子の順序が変るだけで、分子に当たる俳句の意味も違って来るはずだ。定型・季題・切字が次元を増せば尚更である。

推敲ないしは添削で、言葉の排列を入れ替える(テニヲハも変るが)などの操作の所以である。 (22.07)

 

 

百尺竿頭

 

 一年前の本欄にゼニアオイのことを書いた。その折に、「花大如五銖錢」(時珍)でなく、種子が銭を念珠状に束ねた姿という別説を、道端の花で確かめたが、細かくてよく分らなかった。そのまま鉢に蒔いて忘れていたのが発芽して、今年もう花をつけた。

『大漢和』で、銭葵(センキ)の他に銭のつく漢語の植物を探すと銭蒲(センボ)があった。李時珍は菖蒲より小さい石菖蒲とする。盆を卓に夜間書を観れば「烟を収めて目を害する患なし」という。字を引くのによさそう。

『字統』に、戔に薄くて重なるものの意あり、は耒(すき)で、その形の貨銭があったという。貝の通貨は丸い鋳銭となるが、五銖錢は径二、五センチ、肉厚〇、一センチで、我が家の銭葵を測れば、径三ないし三、五センチに収まる。何か似て来た。

みえ女史の『子規の俳論俳話』は、子規の革新が芭蕉に帰れではなく、なぜに蕪村かを鮮明にし、「俳人蕪村」に入った。前号の蕪村用語の漢語に注目する。

漢語を用いる理由の第一は、簡短にしてよく複雑精細に及ぶことで、W杯での「予定より早い帰国、残念」を、やまとことばで言うならどうなることか。十七音の俳句の成り立ちに、外的に漢語、内的に季題の存在は、強力であるだろう。

第二に、漢語の意匠効果で、視聴覚を超える一種高踏の感じがある。七五調の「見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば 天地の正氣溌剌と」は、『愛国行進曲』の冒頭である。W杯応援のニッポンチャチャチャは七七調だが、その風景は異なっている。

第三の点を重視する。漢語の成語の引用である。「我国の事を言う場合」でも、それが漢籍の用典というレトリックになっているわけだから、本元の漢籍が含む考え方というか、その文化が、漢語の成語には当然沁み込んでいるわけである。

子規門の中でも、「蓋し百讀蕪村を了解し、五百讀八百讀蕪村を味解し、千讀して茲に初めて眞我の發露を見る。俳道の捷徑この一路に存す」と、一貫して蕪村を奉じ続けた月斗俳句の味と姿には、極めて濃く漢語文化、文人趣味、離俗の精神が滲んでいる。

 日日是好日や樟若葉       月斗

正氣も師に倣っての蕪村宗であったが、晩年は富山奏教授の芭蕉研究連載を愛読していた。一歩を進めるのである。満七十八でクロールで海泳ぎする父の写真を見たら、しゃがんで草取りをする気が起きた。(22.08)

 

 

 

句が第一義

 

 正氣忌の会場に、西望先生筆の「南無天満大自在天神」の軸を掛けた。旧派の俳諧会席の床に、菅公像かこの書幅を飾り、時の花を生け、燈しを点じたというから、句会の連中の上達にちと効くかも知れぬ。当然無落款であるが、先生とすぐ分かる。

 俳誌雑詠欄で、一行書きである俳句に、作者の俳号だけでなく、姓をも記すようになったのは、ほぼ戦後のことである。短くて新聞コラムに便利がよいと、俳句がよく引用されるが、その場合にも姓と号(名)を書き加えてあるのは、目障りだ。

 十七音の俳句は、漢字漢語を使うことから、字数でいうとざっと十二、三字の見当だろう。姓号(名)のほうは四、五字で、そこに空きまで入れると、俳句の作品は、肝心の中身の部分が六、七割にしかならないから、他のジャンルに比べて体裁が悪い。

 短歌でさえ、短冊に書くときは姓を入れなかった。まして俳句の短冊に、綾小路きみまろと七字の長さでは不格好だ。これは外観上の量的なことだが、ついでに言うと、俳句鑑賞なんか、本体の部分よりも、作者名の部分のほうがもっと増大している。

 量的なほかに、ご維新後も、姓氏の社会性を持ち込まないのは、俳句は身過ぎ世過ぎではない、実用のものではない、世間でのありようを問わないという離俗である。句座で、句女史をあえてその姓で呼ばぬのは、世間の誰々さんの奥様、を避けるのである。

 今風ではペンネームだが、戦前は雅号という言い方だった。近代文芸では、誰が作ったかの個人名が必要とされる。しかし、世間での元の役職地位とか、境遇が定住とか放浪とかは係わらないはずだ。

 中学生の正氣は、句風一新を期して俳号を次々と改めた。上阪後、面倒なのか改号が追い付かぬのか、永らく本名の正喜(マサキ)で通した。『同人』新選者のころに暫く歯科医の死灰(シカイ)と号し、ほどなく正喜音読した正氣(セイキ)を以てし、以後生涯用いることになる。

 島春はどうか。本名は月斗撰名の(トウ)(シュン)である。ルビなしはいわば字(あざな)で、そのままいつしか句を作るようになり、そのままになった。

 正氣も島春も、句に自分マークを付けることの必要性には鈍いようだ。世に発表すれば、句は句であり、自分の句ではない。良い句とは、誰が作ったかを離れるものであるといえる。名のある俳人よりは、すぐれた俳句こそが求められる。(22.09)

 

 

 

よく読みよく作る

 

 化政の頃から、俳諧は急速に大衆の間に広まり、月並句合も盛んになったといわれる。それらの句風は同調した。すぐれた宗匠たちによる俳諧研究も大いに進んだ。平成の俳句界を彷彿とさせる。

その興行とは、催主が点者を依頼し、連や社中を通じて広くチラシを配布して募句した。その内容は、課題、選者名、入花料、締切日、届け所、景品名等というが、これまた当今復古の流行ごとに似る。

今これが観光などの地域興しに利用され、小誌如きにまで、いろいろとPRの依頼が来る次第だ。漱石の熊本はまあ分かるが、十二回を数える大分県宇佐市の横光利一のそれはやや意外に思っていた。

宇佐の場合、投句料はなく観光案内パンフも覚えていないから、ちゃんとした俳人横光利一の顕彰らしい。句をよく知らなかったので、少し探ってみたら、

 無花果を押し潰しみる薄疲れ

 白菊や衰へし人礼正し

など、いわゆる文壇人俳句に見られるある種のヨワさがなくて、おやと見直した。

よく引かれる件の「彼は小石を拾ふと森の中へ投げ込んだ。森は数枚の柏の葉から月光を払ひ落して呟いた」(『日輪』)という擬人法の新感覚派の文体は、当然濃くその俳句にもと思っていたのである。

昭和二十四年、高3の夏休みはクラブ活動の文集のガリを切って終り、秋になって大学入試の勉強を始めたから、学校の図書室が月々入れていた『横光利一全集』(改造社)を通読したのはそれ以前になる。

『日輪』から読み始めたはずだが、その配本は第十六回、夏休みに入る七月末である。記憶にある『春は馬車に乗って』の巻がその一年前の第四回配本だから、夏休みに遡って読んだのだろう。でもそれで私の句ににわかに擬人法が増えたようでもない。

文体として、地の文よりも会話の部分のそれが、少年にはより印象的だったらしい。横光の句作は昭和初期頃からのようだが、この小説の大正末でも、俳句では、比喩そのものは新感覚ではなかったろう。

句をよく読んでさえ居れば、後付である句の理論は不要だ。俳句の取り合わせが、ほかのジャンルの二物衝撃に改称してリターンしたのを見ても、伝統の俳句の表現は相当に練磨されている。

命みじかし。「俳句を読めばよい」「俳句を作ればよい」「自力悟入の外はない」(月斗)である。 (22.10)

 

 

 

 集印帖より

 

 季感を生命とする俳句の、しかも月刊の誌であるが、掲載する作品は前々月が締め切りなので、常時季節遅れの誌面であるのは仕方がない。プリント社に依頼するようになって表紙が付き、戦前の『桜鯛』のそれのように、主に阿部王樹翁にお願いしての、月替わりの季節々々の景物での表紙絵であった。

 現状ではそうはゆかぬが、懐具合もだが、せめて表紙をめくった目次上段だけは、横広でも、季節に合う何かを心がけている。今月は正氣の集印帖を使ってみた。昭和十年十一月十五日で、三原駅と尾道桟橋でのスタンプがある。句は、丸いスタンプの空きを使って、

  横島に我が着くまでに時雨来ん    正喜

  遠山の海月に似たる小春かな     正喜

おそらく三原から汽車で尾道へ行き、そこから横島へと巡航船で渡った、その道中での即吟だろう。矢立持参のようだ。当時ここに十人ほどの句会を残していた。三原に転居してから二年半、『桜鯛』の前身『若魚』の頃で、正氣数えの三十二歳である。

昭和十年とは、10.10.15の福山駅のスタンプが直前の頁にあるからで、そこに、毛筆での両親の名前とちょうど三歳八ヶ月の私のマツモトの署名がある。島春最古の墨跡だが、モの縦棒がうまく右折しないで長くなり、トをマツモの横に書いている。

スタンプをルーペでよく見ると、三原は、小早川隆景公城址の文字、高い石段のお寺、銘酒の薦被り、工場煙突三本から煙。尾道港は、錨の柄に海陸旅客中継とあり、左に尾道水道の帆掛舟とその沿道の乗合バス、右には立派な汽船という回漕店のスタンプ。

これらのスタンプの図柄は、幾つかの物体を列挙しながら、その当時の土地柄がよく伝わるではないか。明快で的確、俳句作りもかくあるべきだろう。

実は、十一月だから、五十一年前の王樹画の扁額をと考えていた。雌雄の鴛鴦を描いた「花野より選び摘み來しうつくしさ 王樹」の新婚祝句である。ただ鴛鴦の場合、雄に比して雌の姿がちょっとと思されてか、諫早の鴛鴦の枕屏風も後で頂いた。

口がきけない動物では、雄が装ったり羽を広げたり踊ったりのディスプレイで、雌に選択されようと健気である。現人類が出現すると、意を伝えるにこれが適わず、ことばで以て代用するようになった。そして言葉も進歩し深化して来たが、やはり代用品が俳句作りをリードするようであってはなるまい。 (22.11)

 

 

 

一読で済まさぬよう

 

 訃報欄で見た名のマンデルブローを覚えていた。掛け算と足し算の簡単な数式で、入れ子のような自己相似性の複雑な形(フラクタル)が成ることを見つけた数学者である。以前、パソコンにカブトガニに似たあの図形を描くのを入れた筈だが見当たらない。

 枝分かれする樹木や盛り上がる入道雲を絵筆で描いてみれば、自然界もフラクタルである。一本の木に、林や森どころかもっと広く大きなものをも窺うことができることになる。それに、複雑な自然界を短い形で表すのは、ちょいと俳句を連想させる。

ティッシュを丸めたのを、更に手中に握り緊めるともっと小さくなるのに、一枚の名刺はそうはゆかない。つまり複雑なものであればあるほど圧縮効率がよいので、そのことで複雑さの度合いが測れるというのである。圧縮というのもいい響きではないか。

よく俳句で、言葉の省略とか、いやそれは切れとか間とかと云々されるが、やはり短詩型は、圧縮だろう。俳句の読者は俳句の方法によりそれを解凍する。それを成り立たせている俳句の定型や季題やそれから切字も、圧縮のツールだといえる。

いわゆるキャッチコピーや警句などは、言葉の圧縮とはいえない。それに短い形の自由律の句の場合も違うだろう。禅林の語句だってそうである。

 庭前の柏樹子冬日弄ぶ       裸馬

この句の上半分に当たるのは、無門関第三七則からの趙州の語であるが、その言葉自体は句においては素材であって、この作者の場合は、句は即景即心、その場の冬の日差しの実景というか、実感である。

人の世では、特に近親の情愛とか、生老病死の場面を直接に示す言葉などは、句の素材であっても、とかくズームインした授受となりがちになる。だから人倫の句は難しい。手を加えられないのだから、そこは他のジャンルでということになろうか。

フォトで埋めねばすかすかの五七五は論外として、俳句という場の内にある言葉は、季題などはその最たるものだが、どの言葉一つ取り出してみても、当然、辞書に載ったのと見かけはそっくりでも、何倍も密度が高くなっているはずだ。

「俳句はまこと心とあそび心の奇しき調和」(正氣)の上に、俳誌もまた、俳句に似せて、小さくて圧縮の効いた形であるべきだろう。『春星』のページ数は、再々読、再々々読に甚だ便であり、宜である。(22.12)

 

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