平成23年前期

春  

全人的に学ぶ

 

 昭和十五年、軍備第一で、文藝雑誌の発行は内務省の意向から困難となり、正氣主宰の『桜鯛』も九月で廃刊した。どうしたかというと、文章一切をなくし、表紙も奥付も付けずに、俳句のみの『桜鯛通信句会』(昭十六)の八頁か十二頁立ての謄写で一年続けた。

 次に、雑誌はだめだが、書籍は六ヶ月一冊が許されると聞き、桜鯛会作品集(非売品)と銘打ち、半分の版の『松鯉』『東風萬里』(昭十七)、『菖蒲』(昭十八)を刊行した。戦時ゆえのネーミングの工夫が面白い。米国なんか、バーグマンの「誰が為に鐘は鳴る」「カサブランカ」の頃だ。

 昭和十九年四月『同人』廃刊。月斗先生の「何か妙案なきや」の葉書で、中国同人会を立ち上げるが、その前身は、今度は謄写に正氣が鉄筆を握った『俳句道場稿』(昭十八)である。無記名清記による月斗選・太郎選・富竹雨選の洋紙二枚八頁が残っている。

  笹鳴やヨードチンキが疵にしむ   鹿王

 戦時下、病篤く句作を始めて一年ほどで世を去ったこの若者について、彼が遺した山積みの哲学書のことで以前にも書いたが、これらの物は古書商へ消えた。「疵にしむ」の句は彼の生のしるしである。

 芭蕉の「つひに無能無芸にして、ただこの一筋につながる。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり」(笈の小文)は、句作りが生に関わる行の道であるとする、伝統的な藝術観である。

今や花盛りの俳句界でも、ただ面白おかしく楽しむのに徹するという向きはまだ少数派で、概して自由や個性を主張し、一見エンタメ風な句作りでさえ、人の在りように触れる。だがよく検すれば近代文学由来の西洋タンポポのようで、在来種と紛らわしい。

表2に闍獅フ句を載せたが、これは、電話局の工員が「玄關に立ててある二折の落款集を見て、これは肉筆ですかと問ふ。左樣ですと答へると、よく書いてありますなと感心する。暫くして、皆同じですなと云って歸って行く」(月斗)が如く、師月斗のオマージュは書体にも及ぶ。さらに言えば生き方にまで通じる。

「この一筋」とは、句を作る意識の型というか態度の謂いである。践むべき何かの徳目ではない。つまり俳句に切字があるからといって、俳人に禁煙ができるといった類の話ではない。全人的に学び取ることである。『春星』はそうした俳句態度に立つ。 (23.01)

 

 

続・春星作品の選

 

 二十歳前後の頃、『同人』投句につき、選者である菅裸馬先生からお葉書を頂戴した。「うねうねと寄す冬浪見る態」を、冬浪にかたちなるものを見るとして、「うねうねと寄す冬浪見る態」としたいが如何かというのだった。

 まことにそうだから、有難うございます、でよいのに、青い私は、対象とする景物は即ち自分の心の投影、みたいな付けたしを記したと記憶する。小さい自分をさらけ出す羽目になってしまうものだ。

本来、選者に提示した作品は、作者が持つ手を離れているのだから、作者といえども、その距離感での視点で自分の作品に対さなければなるまい。自選つまり推敲も同じことである。選者の目と手を経るのは、そうした作品に対してである。

評価のことは今回は擱くが、選者の手になる字句の添削が一字でも、内容に及ぶのであれば改作ともいえるから、選者の手を経るのはいやだという向きもあろう。だが作品を重んじる立場からは、選者もだが、作者とてもただ良き作品をと期することだ。

春星作品の場合、既に自分のスタイルを確立されている作家では当然必要としないが、より良き作品へとの意で、おおむねは手を加えても採録することにしている。治療に似て、そのことが作者名を傷つける行為とはしない。

年初に富十郎の訃報が載った。昭和二十年代後半の鶴之助の当時に、芝居好きの友人がいて、千日前の歌舞伎座四階奥が学割の安い席でよく観た。壽海・壽三郎・鴈治郎・富十郎などの関西歌舞伎では、鶴之助は今は藤十郎の扇雀と扇鶴コンビのころだ。

名跡の襲名は、近代的な個人性を抹殺するように見える。だがこうした再現藝術の場合、録音録画などの手段がない時代、型は残るが個々の演技は観た人の脳裏に在るだけだから、父の正氣が言う鴈治郎の名は初代で私の時は二代目、それでよかった。

俳句はもちろん再現藝術ではないが、五七五といい季題といい、他の文芸よりも作者名に関わる一回性の部分は寡少だともいえる。選においては、その値するところを見出し尊重するのである。

烏兎怱々を感じる今、春星の選は、寺子屋ほどの規模を生かし、水没しないような個々の水位にしているが、それは、甲乙の標高差がはっきりする取捨をして、上達への自得を俟つためである。(23.02)

 

 

 

選句と句の真価

 

 卯年だから、月斗先生の生誕百三十二年になる。正氣は、先生から二十五を差し引く月斗暦でよく計算していたから、この伝で行くと百七年だ。先生のお歳を越えて長生きすると、今度は西望先生の西望暦を用いた。これは二十を差し引くのである。

正氣は、職業柄まるまる休める日は盆正月ぐらいだったので、戦前、大晦日の仕事を終えるとそのまま夜行で上阪し、師月斗の年頭句会に参じるのを楽しみにしていた。師の膝下で一泊し、翌日の句会にも出、又夜行で帰って来たりした。

基準となるものを持つことは幸いである。そこに届くための努力ができる。父は、同人派の主要行事である子規忌句会にも大抵ならば出席した。幼い私を連れて行ったこともあるのだが、同行した句会の人から聞いた話の記憶でしかない。

汽車が満員で、話によれば、小さい私を網棚に乗せたというのは嘘だろうが、「おしっこ」「停まったら窓からせい」。出んというと、通路に座る人たちが一斉に頭の上を手渡しで運んで呉れたとか。こうまでしてわが子を師に会わせようとした。

裸馬先生の場合はこうである。大阪の歓迎句会に参じた正氣が岩国行の日程をお聞きし、私と私が腕に抱いた息子と三代で三原駅ホームに出て、当日延着した特急かもめの僅かの停車時間に、三歳に満たぬ子を高く差上げての窓越しの送迎であった。

結果的に見て、人がある特別の人に相まみえた時空で、多くのものが注がれる。同様に、私の句が月斗選や裸馬選や正氣選を経た後、改めて見るに、その句が、何ともしっかりした顔付きとなって頼もしく、背丈が伸びたようにも感じる。正氣も、旧作を短冊に書く場合に月斗先生に抜けた句が多い。

月斗先生の病篤く春星俳句の選が中断した昭和二十四年二月、正氣選の春星作品とし、加えて、指名による「万朶集」という無記名互選の場を設けた。互選句はそれを誰が選んだかを併せて発表した。当時の句風を知るために高点句一句集を掲載しよう。

椎の友社の運座の互選方法を採った子規だが、一月号のみえ女史の子規俳論で、東京俳人と地方俳人の選の違いを検したのは、いかにも子規らしい。互選高点という評価は、単なる評判の高さではならぬ。句の絶対評価は、正氣のいうゴッドの領域である。それに限りなく近づく選の在り方を要する。(23.03)

 

 

 

私も紙屑宗

 

正氣前主宰が編集していた頃の春星の印刷原稿は、段組みも特殊で、正氣が楷書のペン書きで原稿用紙に全部清記して渡していた。済んだ後、裏返しに綴じてメモ帳にしたから、残っていない。あの見事な正氣楷書体は、月斗選への句稿も同様であった。

 現在は、選稿は当然としても、おおむねの文章稿を手分けして清書し直しているそうだ。ご苦労だが、割り付けや校正に便なのだという。ワードなどのファイルならそのまま渡せるのだが、まだ二割ほど。

 私はほとんどがワープロ文章だが、手書きならこの字は何かと訊かれたりする。手の働きは、ヒトたる根源の精密な動作である。道具は手の延長だが、毛筆の動きが書き手そのものの表現とは、怖い。

頸椎術の直前、ペンの署名も、箸で魚の身をせせるのも難しくなっていた。で、術後は小細工せぬいい字になるかといえば、そうは行かなかった。

竹筆ではどうかと言うたら句会の人が呉れたが、短冊には太め。ではと六月の若竹を切って来て、節の先を穂の長さに槌で叩いて繊維を解したのに、咄、一打ちが節を叩いてしまった。

今は隔週だが、正氣が三原に移って以来の我が家での句会は毎週一回、空襲警報下と台風禍の他は欠かさなかった。私が満一歳の時からだから七十八年間、概算で二千三百回程とは記録ものだろう。

その句会で、戦前は各自の筆と墨壺を備えて半紙を使っていた。戦中戦後は、句箋も清記の紙も用済みの紙の裏面を使い、現在に至る。この時世にと思うし、作品の尊重もあろうが、止められぬ。紙は神に通ずである。使わぬ空白を棄てては罰当たりだ。

月斗曰く、裸馬という男は一等汽車に乗り、豪勢な真似をするくせに、紙屑ばかりは大切に取り扱っている、の菅裸馬先生の文『紙屑の説』(昭二九)は、転々して融通無碍の状態が本質であり使命である金銭と、実物であり、拵えた人の生命が吹き込まれ、まだ効用の残る紙屑の何れが尊いか、と説く。

物を粗末にせず、ムダにせずとは、人と物との関係は物質的なことだけではなく、精神的な繋がりを保つが故である。さらに物を使い切る実践に、勿体ないという我が国伝統の宗教的な感覚・情念を見る。

日本人にとって、自然界のがただの物質ではないとすれば、世間の約束に拠り存在する言葉のほうを主と戴く俳句作りであってはなるまい。(23.04)

 

 

 

俗談平話

 

 春寒の日が続く。温くなったらしっかり歩いて筋肉を鍛えようと思っている。月斗先生の齢はとくに越えたが、父正氣にはまだまだである。私の去年に当る齢で正氣は、海水浴でクロールをして見せたが、去年の夏の私は浮身すらもやらなかった。

人は、空気を吸って生きているから、水中の魚のような泳ぎ方は出来ない。人体そのものの比重は、普通の体脂肪率なら1.07ぐらいで、肺に空気が入れば、水の1.00を切るから浮く。犬掻きというのがあるが、直立二足歩行の人は、沈まないように手と足を動かして進む。それを練磨したのがクロールである。

俳句の中の言葉も、辞書の中でじっとしている時と違って、絶えず手と足をうまく動かしていなければなるまい。それが俗談平話でもだ。

表3の短冊写真は、化政期から、天明の中興後の俳人へと遡っているが、天明も化政も、その後の天保も、革新はいつも芭蕉へ帰れであった。それが時代を下るにつれ、「天明中興時代の溌剌たる意気を持たず、化政時代の洗練された清新さを失い」「天保初頭の諸家は、理想への精進よりは現実への執着に、より多くの精力を費やした」(頴原退蔵)という。

芭蕉のいう俗談平話を、その後の業俳たちは、大衆に迎合したわかり易さに置き換え、そのため俳諧は世間に汎く行われるようになった。態度の上では社交化と趣味化ということになる。句は交遊の場であり、生活をエンジョイして足るのである。

この過去は繰り返され、当節いよいよ盛んな、俳句の業界誌や歳時記やイベントのPR依頼など、すでに世は化政から、子規が月並として排した言葉遊びの天保の再来に至っているのかもしれぬ。春星の俳人の本当の楽しみは、句作りそのものである。俳句を何かのダシに使ってはならない。

「和而不同」と並ぶ春星のモットー「句作第一義」とは、俳句は一にも二にも作ることが本意で、論議するのはその次だとするだけではない。俳句作りに派生したりする点数や表彰や賞品や懇親やらは、はるかに次の次の楽しみだとする。

句のわかり易さが、この頃の粉食味付けの食品みたいではならぬ。俗談平話を支えるのは風雅の志である。句を擱き、弁ずる評者の感想のほうを深いと感心するのは、その句が浅いのに過ぎぬ。俳句の中の言葉はみな励起して居らなければならない。(23.05)

 

 

 

裸馬先生の句

 

 句集の中の句は幾分作者離れした感があるが、雑誌掲載時はまだ生々しく、句帳のそれは書いたり消したり変えたりの息遣いを感じる。そこで万十さんに貰った菅裸馬先生の『同人』扉吟の草稿を別に載せた。

@ お狐の岩屋へ花は雨しぼり

A 菜の花を距てゝ家に子の啼くも

B 菜の花や我家の見ゆる午の刻

C 菜の花や日は荒海へ入るべくて

D 山こぞるなかにも坊主山笑ふ

E 春雨や片岸寄りの瀬を早み

F 高きよりいとも豊かに下りる蝶

G 野をつゝむ俄曇は薊にも

H 石垣のめぐりて遅き日をとゞめ

I 日は花にこもりぬ睡たければ寝よ

J 行春の秘佛胸乳(ムナチ)を掻きひろげ

K 鍬打って暮春の土にひゞきなし

L 茎立や土蔵の黒さ日を映し

M 牛は尾を振りて菜の花深曇

とナンバーを打って見てみよう。

 昭和二十六年六月号の十二句では、AとBとIがなく、別の一句が加わる。AとBの農作の生活ぶりは、私には面白いが、表現が不十分とされたらしい。

 ひとまとめで発表する場合、心すべき句の配列順であるが、@DFGLE○CMHJKとなっている。Iは翌月号の@へ回っている。

 推敲の後、@は、花の雨しぼる、Fは、かがよひ下りる黒き蝶、Eは、瀬を早め、Mは、紫雲英(げんげ)の深ぐもり、Kは、在るひびき、として載った前記の句に傍点を振ったので、それぞれ当って頂きたい

Kの場合、一見逆の言い方となった推敲だが、有る無しを超えての在るの用語が的確である。結果として、鶉衣編集長による「暮春の土に在るひびき」は「土に在る暮春のひびき」で暮春のうら淋しさ、という鑑賞は妥当だ。

裸馬俳句は、即事実景の中から、作者にとって意味を持つ箇所を注視する。その場面より発想し、構想し、連想し、句に仕上げるという俳句態度である。従って作句の中にいつも作者の生が実在している。

Fの推敲では、「いとも豊かに下りる」で鳳蝶が抽象されると思えるのに、これを説明として排し、「かがよひ下りる黒き」の描写とした。ことば細工のような俳句作りではないのである。(23.06)