平成23年後期

春  

 

復読・保存を

 

 春星の創刊は昭和二十一年七月一日で、六十五年を閲する。そのことにつき数か月前、常に俊敏な商業俳誌から結社紹介云々と来て気が付いた。文字通りの小誌に、克明なことだが、その要はない。

 それに俳句作りはまあ十年ほどが区切りだろう。今年は、平成三年八月に世を去った正氣前主宰から受け継いで二十年、これはしっかりと意識している。そしてその創刊の志を改めて思うのである。

 あたかも民主選挙、東京裁判、初メーデー、米よこせデモ等、占領下であり、日々の食に事欠く世相であった。七月一日は、ビキニ環礁で、日獨米の艦艇を標的とする戦後第一回の原爆実験が行われた。投下では目標がずれ、戦艦長門は損傷した。

春星初号の月斗選「春の蚊がアルゴンランプめぐりゐる 島春」は、対向する渦巻型の電極で放電する軍用の電球で、封入したアルゴンガスの発光は仄かで字も読めないほどだが、球は切れないし、当時の電力不足での低電圧(ほたる)送電にもよい。すみれ色のかぼそい明かりは夢の境地で甘美だった。

占領期の印刷物は、すべてGHQの検閲下に置かれた。春星は初め洋紙一、二枚の裏表ガリ版刷りだったが、それでも二部ずつ提出した。ウォー・ギルト・インフォーメーション計画の一環という。

十一月の新憲法公布後まもなく、当用漢字と現代かなづかいという、国語を変える告示が行われた。ガリ版の春星はそれに囚われないので、月斗先生は喜ばれて正字あれこれを使っての文章を寄せられた。

正氣は、その前年秋の水害後の年明けから、路地の仮寓に、残った診療機械で仕事も再開した。句会のほうは、虫が席題の句帳があるから、もっと早くからである。句作は生活そのものに融合していた。

文藝は身の内にとどめ置くものではない。表して他と共有するのが世に問うという行為である。何もかも物不足で、復刊した『同人』は遅刊続きであった。ならば、ストリートミュージシャンのように自分で木箱のステージを作らねばなるまい。現今の商業性の入り込む俳句界では尚更だろう。

文字通りの小誌、と言ったが、本来、俳句の雑誌は十七字に副う容量が適応する。実作者のためには、冗漫でスカスカでなく、願わくは粒選りの句や文で詰まっていて、容易に復読ができるのがよい。それに、薄いと永年保存にたいへん重宝する。 (23.07)

 

 

際物俳句

 

 正氣は、七月呉市街空襲の救護に出動したので、広島原爆の際は、終戦日の直前に当る第二陣だった。既に傷者収容所と云っても、刺さったガラス片と火傷の処置が主であったらしい。それにしても周囲の惨状は想像に余るが、殆ど句にしてはいない。

 翌々年の広島平和祭には、子供たちを連れて出かけた。まだ瓦解した建物が残っていて、駅前の闇市では灼けた瓦の破片を紙箱に入れて売っていたが、父は特に往時を語ることもないまま、甘いミルクセーキを子供たちに飲ませてくれただけ。

 先日、お寺さんのことでバス旅行をしたが、時あたかも沿線のどこも桜が満開であった。行く手のフロントガラスに見える桜は赤みがあるのに、座席の窓越しをありありと通り過ぎる時の花色は妙に白い。紫外線除けか何かなのだろうか。

 休憩したとき、ぽかんと花盛りの枝を仰いでいると、知人が寄って来て、いい俳句がたくさんお出来になるでしょうと囁かれる。ご挨拶だろうから、にっこり頭を下げるのだが、これがお一人だけではないから、せっかくの花がちと味気なくなるのだが。

 口を開けて感嘆しながらの俳句作りなんて考えられない。脇から見て、人が俳人になる時は、少し身を引いて傍観者の側に立っているものである。

  千早振る神鷲出でて勝つ秋ぞ 正氣(昭十九・十)

   伊勢聖域にB29暴弾す

  憤激の拳や胼に血が光る   同 (昭二十・一)

  大君の邊に死す譽桜人    同 (昭二十・四)

  朝東風や工場へ急ぐ学徒隊  島春(昭二十・二)

中国同人会の月斗選からの戦争俳句である。大政翼賛俳句の類いと片づけるのは酷で、報道媒体が現在のようにリアルタイムのビジュアルではないから、大本営発表を通した大戦末期の戦況に基づく、国民等しくが持つ感懐に近いが、仕方がない。

 国民等しくが持つ感懐というのに季題を按配しての句作りは、文学報国会の意図にも沿うだろうが、文学の本当の姿ではない。俳人にとっては、句の題材の拡張に過ぎぬことが多いようだ。戦後の平和詠募集などのイベントを見てもそんな気がする。そのことに選者を置き云々とは何だろう。

 句の題材の軽重と句の価値とは別物である。丹精のあげくの月下美人を詠んだ句は、路傍に伸びた捩花の句よりも目を見張るべきものなのか。(23.08)

 

 

ホニョホニョ

 

 久しぶりにセキセイインコと暮らして居る。以前飼っていた時は皆それぞれの事由で失くした。先代は、私が開腹手術の直前に帰宅一泊した際、もう老衰でよろよろしながらも、私の肩にすっ飛んで来たのに、朝起きると籠で絶命していた。何か天寿を全うしたとは思えず、それきり飼わないでいた。

 今回、映画好きが、ヒチコックの『鳥』を再びDVDで観たのが動機となった。さりとて、飼いたいというサイコとの因果関係は、上等の俳句がそうであるように、どうもよくわからない。

 チュンちゃんが代々の襲名だから、それはしゃべれるが、あとは遊びに熱中でチーチーパッパくらいだ。硝子や金属などの小さな光り物が好きで、銀紙を丸めてやると喜ぶ。声でわかる。ホニョホニョとご機嫌である。カ、サ、タ、パ行の強い音がインコは言い易いのに、こんな状況下での発音は軟弱だ。

風そよそよ花はらはらと、初心の句に頻出するが、擬音語擬態語の使用は日本語の特徴とされる。食感を言い表すにも、Aというグルメ氏の文章から抜くと、コース順に、パチーンと・ぱりっと・パッと・するっと・ジュワーンと・シャキッと・パリパリッと・ハラハラと・シャキシャキ・ピンと・ぎゅっと、と苦労している。ほとんどがサ行とパ行だから、いわば舌に挑発的な調理なのだろう。

私は飴を貰って口に入れても、最後まで舐め尽くすのが苦手である。ついうっかりガリッとやってしまう。父の正氣もそうだった。それが先日舐めたのは、小粒のピーチ味のナタデココが入っていた。チョコでくるんだアーモンドはカリッとだが、最近は、特に女性は、グミのようなぷにぷに感が好みだという。マシュマロのふわふわ感もいいらしい。

ちなみに、ベネッセの調査で、昨年生まれの女の子の名前の一位二位は、読みでゆあゆいである。短い音で、響きのやわらかいのが人気と解説がある。

アーモンドなら、時間かけて歯で砕き唾に塗さないと味がしないが、最近の食べものは、舌にするりとそのまま味がわかるのが、快適で手軽でまあおいしくて好まれる。俳句でいうと、一読にしてすんなり意も味も分かるのがふつう好まれる。

俳句は極度に短いのだから、本当は、一読しての口当たりのほうは二の次でよい。読めば読むほど意も味も深まるのが、佳句の必須条件となろう。(23.09)

 

 

まだ安座しない

 

 厚労省が発表した直近の「簡易生命表」では、日本人男性の平均寿命は79・64歳である。これを日数に換算して私の誕生日に当ててみると、九月十六日にめでたく達する計算である。ちなみに『カムイ伝』の作者白土三平が同じことになる。

 『カムイ伝』(三部作)は、昭和三十九年から八年かけた第一部以後十七年間の休みで、その第二部も平成十二年で途中止めになっているらしい。結末は遥かに遥かだ。俳句は一句一句で完結するとはいえ、私も今、俳句作りの涯を思い巡らす次第である。

 昭和十九年十月の中国同人会以来続く私の俳句作りだが、まずは父である正氣前主宰のせいであり、且つおかげである。前段であるが、松本の五人きょうだいは皆、作ってみいで始まった。うまいぞ食えだろう。後段は、今ごろにしてそう思う。

 正氣指導の下での月斗選が、私の俳句のいわば胚の時期である。例の動物発生学の胚の図なんか、爬虫類もヒトもよく似た形をしている。「美しき紅葉を本に挟みけり」と、俳句も、作り始めは誰も彼も皆似たような句になるものだ。名人上手といえども、初歩の俳句からその何の兆しも見ることはない。

 これは俳句という文藝の特徴でもあり、類句に類する俳句作りをこの時期にせいぜい励むことにより、その過程で、詩や詩人のそれとは異なり、俳句の大事なものが刷り込まれるのである。

私の場合、正氣・裸馬・月斗先生の下、あたかも「蓬生麻中 不扶自直」(麻の中に生えた蓬は、手を貸さなくても自然と真直ぐに伸びる)の環境は、幸せであった。そこで得たあれこれは生涯に亘る。

あとは命綱をしないでも自由に動き回れるというものだ。早くから小ぢんまりと物分りよく纏まるなんてつまらない。誰にも等しく映るよりも、具眼の者にだけしか見えない一句が快事ではないか。

句に縁が有り、その自分以外の誰もが作らなかった一句のために句を作る。正氣は、わが句がうちの小句会の皆にポンポン抜けても、簡単には肯わなかった。分かり易く気持ちいい句は、ではなくもう誰かが作って居るかも知れぬからである。

だが、平均寿命を俳句作りにも仮想すれば、その暁には、正氣もだったが、もう考えなくて済む。世のいわゆる伝統も前衛も無縫の境涯に収斂するものだ。その日までは、取り澄まさぬ句を作り続けよう。(23.10)

 

 

老の秋

 

 中国同人会の正氣句稿で、「筆蹟の老いたることよ獺祭忌」への月斗先生の雌黄「少し足らはぬ句なり。老いたるは老熟、老巧、老成と老衰、老退、老耄と両様あり、人を云はざる以上筆跡は子規居士なり、老いたることよ、云ひ足らはず」は、その通りである。

私と同年での句に、「六十七十八十の老の秋 正氣」があるが、前主宰は、けっこう早くからの句を作っていた。その老が老熟、老巧、老成であることはよく分かる。六十代の終りごろ、「老の秋てふ便利なる下五ある 同」ととぼけたが、どうしてどうしてには老の器が肝要だ。五十代の「美女多き世や映画見て老の秋 同」から、「庭に植えて野草友とし老の秋 同」「居眠りは百薬の長老の秋 同」老の秋俳六医四を以てせり 同」の七十代までは、老を肯うている。

不肖で、こうしたの句は作れぬが、正氣八十代での「句に遊ぶことに懸命老の秋 同」や「妻があり俳句があるや老の秋 同」の老を見る時、遡っての老の秋は、いうまでもなく季題であり、そこに「句の」という意が滲んでいることに気付く。

 小惑星探査機「はやぶさ」帰還までの様子をテレビで見た。宇宙空間で外から追補してゆくことはできず、かなり摩り減った能力を掻き集めては役立たせているのに感動した。座ってすぐ起てられないでも、片手が利けば手をつけばいいのだ。

 目や耳が遠くなるように、生来持っていた機能が経年逓減するのは仕方ない。だが俳句は言葉の働きである。言葉は生後に学んで獲得し、以来積み重ねてきた能力だから常に右肩上がりで、言葉を使っている間は、その本体は減りようがない。

 安田万十さんは、お目がわるくなると、スケッチブック用紙に太マジックの字で、定型外郵便で投句された。書字に手がご不自由な向きで、家人に口授されての句稿もある。拝見して、確かな句作の土台があれば、身体機能が若干欠けようが句の形は崩れていない。内容は自在で矩をえない。

 芭蕉は、自らの俳諧を「夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて、用うるところなし」とする。実益を求める世間の風潮に一線を画した芭蕉の俳諧であった。正氣は、「名利の欲望は進歩を期すことにプラスはするが、ホンモノの俳人にはなれぬ」と言った。
 
地方予選がある高校生の大会や何とか賞やらのご時世だが、それはそれ、末永く作り続ければよい。(23.11)

 

 

実感とは新

 

 運動器の退行を感じる。これではならじと外階段の踊場にあるコンクリ枠の小さな花壇の土均しをした。ここは平成十一年に、道路拡張で取り壊した春星舎の庭の月斗句碑を、満天星と銀木犀の間に移したが、その為、銀木犀はトネリコに替えた。

 満天星が衰えた後は、楓の実生が大きくなって困り、情が湧かぬうちにと極暑で葉枯れした折に抜いて、季節々々の草花を植えていた。それが今年は皆ひょろひょろで、指を挿してみたら、下の土は乾いており、絡んだ網状の細根がぎっしり詰まっている。

 句碑の台石の隙間から、トネリコの根が入り込んでいた。それが十年でいっぱいに達したらしい。植木鉢の底穴を塞ぐ役目のような具合で、そのいわば樹根のスポンジを除いて土だけにする作業である。

 トネリコとの境界面は、二度と根が進攻しないように、ポリファイルで仕切って少し石膏を流した。思いつきで、石ころを確認しやすいように底に置いた。これは父が旅行の際に記念に拾って来たものである。佐渡や八丈島の小石もあるだろう。

 トネリコには気の毒だと思う。小石とはまあ出会いの感だが、身近の樹木には、多少の時空を共に生きたという思いが深い。かつて西望先生が「落椿金魚の群るる風情かな 西望」と詠まれた、旧春星舎の中庭の椿は、今は診療室の窓外に移されている。

戦前住んでいた家の中庭、といっても盥の行水ができるほどで、パッチンやタマをしたし、蟻んこの巣だってある。そこに、一階の屋根の高さの柾(マサキ)が一本あった。常緑で、夏の蝉も鳴かないし、実が赤くなって目白がやって来る時だけ存在感が出る木だった。
 遊ぶものがないと、指で指と指を組ませるのが幼い時の癖で、祖父からは手ままんごするなと叱られた。そんな私だから、柾の実なら、皮を開いて朱色の種子を取り出し、その朱の薄皮を取る。純白の実質を爪で割くと、緑の微細な葉の形が現れる。

何が面白いのかと言われると困るが、そうした。私の句作りもそうだ。それがどうしたんと言われることを句にする。対象とするものの優良可よりも、それの把握と表出の高次を求めたい。

概観すれば日々は同じようなものだが、同じ散歩でも実際の場面自体は全部違っている。その違いとは、場面々々のデテールでの実感である。これを句として留める。言葉で場面を作るのではない。(23.12)

 

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