平成24年前期

春  

 

大切にする

 

 昭和十五年、皇紀二千六百年が辰年だった。正氣は恒例の同人社年頭句会に夜行で上阪し、席題のぽっぺんの「双龍を金で描きしぽぺん哉」で最高点だった。月斗先生宅に泊めて頂き、翌朝は先生と街の銭湯で初風呂、生玉神社へ初詣、句会の二日目を終えて帰り、翌三日が三原での長丁場の初句会である。

 昨年の表紙が王樹画の兎だったので、辰年もと、『春星』の前身『桜鯛』の昭和十五年新年号の龍を使った。当時の謄写版刷りでは画の感じが出難かったから、再度の用とした。『桜鯛』のバックナンバーは終戦直後の水害で多くは流失し、市内の人に譲って貰ったのだが、この画のほうは残っていた。

 『桜鯛』は、内務省の指導により、この年の九月号で廃刊する。国を挙げての非常時体制で、文藝のための紙の使用は、凡そ無益とされたのである。正氣は頭をひねって、合法的に、表紙も文章もなく俳句だけの「通信句会」、更に、単行本は半年一度が許されることから、謄写の小句集の形を何回かとった。

 雑誌とは何ぞやと言いたい仕打ちだが、正氣は『桜鯛』は自分の生命だったと当時書いている。又、雑誌をすぐ半分に折ってポケットに入れたりするのを見ると「ちょっとイヤだね」と言っていた。実際本を畳にじかに置くのも何か躊躇われるものだ。

 俳句は尚更である。自分が作った句を疎かにしてはならない。どうせつまらぬものと紙切れに記し、作りっぱなしのまま見捨てては、句が可哀相ではないか。それに、自分が作った句とはいえ、句になった時点でもうわが物とばかりは言えない。

 私の中学生からの句帳は全部保存してある。一度作った句と同じものは一句とて無いから、それだけで、初歩の頃の誰も彼もが作るような句とはいえ、過程として現在の句作りに内包され、結果として進歩を支えてくれるのではないか。

 正氣が心弾ませ馳せ参じていた年頭句会は、時局柄この年が最後になった。正氣は、月斗先生に大いに甘えることをしたが、これは師との縁を尊び師に全託する態度であろう。先生は、正氣を可愛がったが、こと俳句に関しては甘やかさなかった。

 正氣だけではない。互選でぽっぺんの句が皆にあんなに抜けたのは、恰も月斗先生の句調だったからだろうが、作も選も決して迎合ではなく、オマージュ(深い尊敬、称賛)に基づくものだと思う。(24.01)

 

 

 

「花ありと」

 

 クラス会の案内など、満年齢と数え年と、私らは八分二分の感じでのダブルスタンダードの世代だ。昭和二十四年初頭の「年齢のとなえ方に関する法律」までは、専ら数えで幾つの日常だったからである。学校は早生まれの七つ上がりと呼ばれた。

正氣の俳生涯をまとめるのに、当然数え年を以てしたから、見比べる折には一つ足している。本当は、父誕生前々年の明治三十五年の暮、既に満年齢を使用する「年齢計算ニ関スル法律」が施行済みだが、実際には、お正月は一斉に必ず年を一つとった。

数え年は、生まれたときが一歳で、新年が来ると一歳加わる。新年とは元日である。「昨日生まれたミッちゃんは、年は二つで名はミツコ」である。満年齢は、生まれたときを〇歳とし、以後一年間が満了する度に加齢する。出生日を慮り、満了は年齢の場合に限って誕生日の前日となる。へぇー。

このように、デジタルな区分での加齢というのは生活感としてはない。お正月は形があって良かった。そのお正月も、デジタル時計では、カウントダウンという飛び飛びの注視で、一月一日の表示になる瞬間を「去年今年」と句にしたりする。

私は、二月のバレンタインの日に年齢の八十年を満了する。生物学的な日数では二万九千二百二十日だ。文藝の評価を、甲乙丙丁の選者の持ち点から割いた数の合計で決めるなんかもそう思うが、デジタルとは何とも味気ないものだ。

目指す境涯に至るまでは落ち着かぬぞという句作りを心がけているうち、いつまでも、我が句帳に、短冊に書ける句が見当たらない。子規の糸瓜三句の絶唱を若くしてとは、生物学的な時間の謂いである。時を経てということではないのだ。

旧臘急逝された市川森一さんのテレビドラマ『蝶々さん』の自決の場面に、リアリズムのドラマ作りではないから、辞世のしかも現代俳句の色紙が出てくる。その「霧立つ海に花ありと」のあたり、一見していかにもお父上の句風だなと思った。

果たして景に即した青火句であるのを、「蝶は往く」と理想を追う蝶としたオマージュでよいだろう。このドラマ中の辞世の句が、期せずして「物書き」森一さんご自身のそれにもなった感がある。まさに森一さんの文藝に、「おやじの思いが僕の心に集約し」たという強い繋がりを見るのである。(24.02)

 

 

 

幼時の記憶

 

 近頃物忘れが増えたという傘寿の同級生の中で、旧制中学校入試の試問を覚えているのが居た。初日が「必勝の信念」、翌日は「海行かば」の歌、次は「水」についてだというのだ。私自身は、戦中の学区制でのせいか、入試自体の記憶すら全くなくて驚いた。

そんな私だが、幼時の記憶は幾つぐらいからだろうか。生まれて八十年以上になるとといい、七年の以下と共に刑を免れると『礼記』にあるそうだが、つまりは、そういう罪なき生き方をしているから、その期間の記憶は免除されるのだろう。

私のでいえば、小学校に入る試験での微かな記憶に、卓上に並べた品物から、「お客さんが見えたときにお出しするもの」を選ぶなんかある。だが一般の記憶を手繰ってみて、それが直接のものか後日人に聞いたものなのか判別しかねるのが多い。

幼稚園時代の直接の記憶では、年一回の模擬店で丸い厚紙のお金が品物に替わること。お寺さんの行事での精進料理のこんにゃくがいやで、ちり紙に包んでポケットに入れたこと。中でもビビッドな記憶は、何人かで幼稚園の外へエスケープしたことである。

ポンプラという遊びは、黄色いポプラ落葉の中から葉柄の丈夫なのを選び、互いにその柄を掛けて引っ張り相手を千切ったら勝ちである。その大きなポンプラがあるからと仲間と小雨の中を行ったが、そこは塵捨て場で、それは桐の葉だった。

急いで靴脱ぎ場に戻ったら、先生が、雨にぬれたら髪の毛にシラミガわくよと、当時おかっぱ頭の私の髪を撫でた。シラミは見たこともなかったが、そんなはずはない、そう園児の私は窃かに思った。

家の内での記憶の方は当然それなりにあるが、俳句に関わることを記そうとしても、大概が伝聞による疑似記憶のようだ。写真とか文章として残っているのから話がうまく動き出すのである。

だが例えば我が家での月斗先生について、小学生の私の記憶たるや、マサキのほうが惚れたのかね、細君かね、という夕食中の話の一片だから、当時こんな語彙を持つはずもないし、ぼんやりした意味が、その記憶のプロセスで言葉となるのだろう。

記憶に引っ掛かるのは、物事の大筋ではなくて、端っこの綻びみたいな箇所のようだ。しかしそのビビッドさが生の実体を表す。俳句もそうだ。目の前の瑣事の直截な描写こそが、生の記憶・記録となる。(24.03)

 

 

 

旦暮の実感を

 

 昭和十九年の『同人』廃刊後、正氣は、月斗先生の指導を受けるための中国同人会を立ち上げた。中学一年生の私も父に言われ、半紙に筆で俳句を書いて出すことになった。この時の、月斗先生が朱筆で選をして返して下さった句稿が残っている。

戦況も既に「警報の鳴る十二月八日かな 島春」で、B29が高空に飛行雲を曳いて通り、授業代わりに修練と称する勤労奉仕の日々となる。二年生は市内の工場へ動員されたが、私達は日雇いで、田圃で麦刈・稲刈や冬の暗渠排水、山で松根の掘り出し、町で建物疎開の瓦運搬、郊外で暁部隊の整地等々。

 もう戦時体制が常態であったが、前年の国民()学校ではそれも純真で、放課後、菊水の幟を先頭に行進して河原に畑を拓き、屑鉄を集めたりした。悉く愛国少年であり、降伏した伊太利のバドリオ首相をバカ鳥と罵り合った。卒業の寄せ書きに、十二歳の私が何かで見て「不惜身命」と書いた。

 いわゆる戦争俳句はなかなか月斗選には入らなかったが、「千早振る神鷲出でて勝つ秋ぞ 正氣」「脚絆巻くや襲ひ来る蚊を払ひつつ 正氣」「火を吹いて敵機墜ちけり春の海 島春」などもある。正氣句の前者は戦意高揚の翼賛俳句のようだが真面目であり、後者は警報発令時の様子である。

 少年島春の句は、状況も分からぬ白い筋を曳いた機影を見て、新聞かラジオでの知識と結び付けたのだ。近頃のいわゆる震災俳句なんかが、テレビ映像での知識を、少年の場合は幼稚だったが、巧みに五七五に置換したって同じことだ。題材の拡張に過ぎぬ。

国や戦争を十七音で語るのは、当時の俳人の臣民的責任だったろう。戦後暫くして参加の(アンガージュ)文学が説かれたが、直ちに国とかに絡めて俳句が能動的であるのは難しい。山路を登りながら「芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を舞するようなものではない」(『草枕』)画家は考える。行動は実際に手足を使えばよい。不自由な俳句で街頭に繰り出すこともなかろう。

文学報国会的ではない句「弁当持参の客に粕汁すすめけり 正氣」は、日常生活の実態であって、表現者の態度として、傍観ではない。今でも私は、路傍の草本に、これは食へるぞという属性を認める。あの戦を経なければ獲得し得なかった見る目である。その変化がなければ参加とは言えない。(24.04)

 

 

 

事と言と

 

 又もや我が家のセキセイインコの話で恐縮だが、チュンちゃんと呼ぶと手元へ飛んでくる。自分の名前が解っての事だと思っていた。ところが、最近はインコの方から「チュンチャン」と呼び掛けてくる。篭から出してくれとか相手して遊んでくれという折に使う。何ともか細い声音だから気持ちがわかる。

 知人といつも散歩する犬で、立派な名前もあるのにワンちゃんと呼ぶと、向きを変えて走ってくる。すると飼い主からキャベツ一片が貰える。これが条件づけられて、言葉を掛けないでも、私を見るとキャベツが貰えるから走ってくる。そしてワンとだけ吠える。もう一片欲しくてまたワンと吠える。

 インコの場合は、チュンチャンを、自分固有の名前ではなくて、相手への呼び掛け語と解しているらしい。つまり、鳥として相手の新しい発音を学んで発声するだけでなく、私が呼び掛ける際の私の脳の働きをそのまま鳥が自分の脳の中で再現して、呼び掛け語と解するミラーニューロンが働いているのだ。

 インコは、この言葉をのべつ駆使するようになった。篭の鳥だから外へ出たがるのだが、これまでは単にしつこく啼きわめいて思いを貫こうとするので、こちらも意地を張って戸を開けないでいた。それでも終いに負けていたが、それが一生のお願いみたいな言いぶりに変ったから、いちころで参る。

 まるで黄門さまの印籠だが、その代わりなのかもしれないが、桃太郎の話もチーチーパッパも、いつも通り傾聴はするのに、暗誦する方の進歩は近頃あまりない。暇なときは滔々と喋っているが、オジイサンとイキマシタぐらいしか判然としないままだ。この点では以前に飼っていたインコと大差ない。

 人への呼び掛け語を持ったらしい今のチュンちゃんにとって、口で言って聞かせるだけの桃太郎話そのものは、こと()とこと()とが一致しないただの音声の並びなのだろう。自然界にあって、事と言の中身とは本来はイクオールだから、これでは面白くないし、胸に抱く思いも伝わらない。俳句もだ。

小鳥は私の手に乗っては唇に嘴を接して、短い言葉を考え考え私に次々と発する。それが皆異なっていて、中にはどうしたんとかとうしゅんさんとかに聞こえたりするが、私はそれに応じ小鳥の発音を反芻して唱える。映画『未知との遭遇』の五音階レミドドソの交信をもしやと思っているからだ。(24.05)

 

 

 

スリーセブン

 

 スロットマシンで、777と並ぶ目は特別で最高だが、今月号が通巻でその数字の号になった。ほぼ九年毎のぞろ目もナンバリングで気付かなかったのに、きっと7という数が持つ何かの力のせいだろう。7のそれは洋の東西で普遍的に染み込んでいる。

 個人的に7のことを言えば、病院実習に入り、基本器具の消毒を、各自がメタルケースに入れてシンメルブッシュで常時煮沸していたが、ケースに77と刻したのが松本ので、百あまりの人数のアイウエオ順の名簿ではそうなった。古い話だ。

 配当の患者さんが見えると、七十七番松本さん受付までと学生控室のスピーカーで呼び出され、何をさておき受付へ急行するので、わいわい喋ったり将棋なんかしていても、ナナという語音には、私の聴覚は敏感に反応していた筈である。

 いつか三原に楠本憲吉氏が来られた際、家で何人かの句会をしたその選後の感想で、私はどうも少女とかいうのがある句に弱い、と氏が言って皆が笑ったが、その種の胸に特別に響く言葉を、誰もが個人的に持っているからだ。

 アキレスみたいな選者にも踵の部分があって、単なる素材でころりとなる。受験参考書風に言えば、神社仏閣の素材を遠ざける一方で、戦争や震災の句には飛びつく傾向がある選者といった具合である。

選者としては意識すべきでないが、作者ならば、こうしたいわばホームグラウンドで常にプレイすればよい。昔の『同人』に、どんな句題でも牛が必ず登場するので、牛の房女と称された俳人がいた。

「抑々俳句は、胸中の山川を創造し、これを最も純粋に表現するに適し、見、聞、読、より得たところのものは、創造の材料に過ぎぬ」とする立場の正氣は、「碁に夢中になっているときは何でもかでも碁石に見えて攻め合いをさせてみる。また撞球に夢中になっているときには、何でもかでも球に見えて、金玉だ、押だ、引だと頭の中で撞いて見る」とうまい喩えで、房女の牛への愛情深い句を評した。

なるほど、本号に男兒君の今年の花の句を載せているが、これも同じである。句の読者は、桜を媒介にしての男兒世界を視るべきであろう。

日頃から努めて、ここならお任せというそれぞれの胸中の山川を創ることだ。魔法のポケットである。いざという時にそこから句を取り出すのである。 (24.06)

 

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