平成24年後期

春  

 

島のはなし

 

 広島県内の島数が百四十二、うち人が住む島が三十五との記事から、ふと生まれた島を訪ねることを思い立った。三原市内でも名のついた大小八つの島のうち、ごく小さい六つは無人である。ちなみにその中の宿祢島が新藤兼人監督の『裸の島』だ。

 島とは四方を水に囲まれた陸地だから、人里と隔絶したというのが島のイメージだが、陶淵明の桃源郷は岩穴を抜けた先にあり、トマス・モアのユートピアも元は大陸との細い繋がりがあった。私に懐かしく響く島という空間への思いはこの類だろう。

一方では、無人島での暮らし、デフォーの『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険』が思い浮かぶ。その胸躍る場面は、島での二十八年間でも、独りで工夫をして文化生活を作り出す前半の部分にある。

 徒手空拳ではならぬから、クルーソーに、座礁船から食料品や穀物、道具類、銃火薬を持ち込ませている。後のジュール・ヴェルヌの『神秘の島』では、気球で漂着した五人と一匹の財産目録は、マッチ一本、手帳、懐中時計二個、犬の首輪、小麦一粒である。

 ヴェルヌへの思い入れは深い。昭和十七年秋、父に連れられての伊賀上野の芭蕉生誕三百年祭の帰途、京都から神戸へと巡ったが、五年生の私の記憶と云えば、神戸へ転居した中島南颸さんの古書店で得た『神秘島物語1』の表題のこの本のことである。

第三部まである最初の「空の難破者」は、博物学の知識を駆使した島の資源利用による生活基盤作りの場面で、煉瓦から陶器、鉄器、爆薬作り、経度緯度の測定等々、読むだけで次々やったーという高揚感を覚えたものだ。本は「それは小石ではなかった……それは一粒の鉛の霰弾だった……。」の謎で終わる。

この本は、続編もないまま、友達の間を転々として戻っては来なかった。新書版の全集で通読が叶ったのは、息子が私の当時の年齢ぐらいになった頃だったか。遂に果たしたぞというのと、謎解きの方は読まなくても良かったかなという感じと半々だった。

隔絶された地にも存するは、自由であり、理想であり、独立であり、創造である。若き正氣が郷関を出て島に来た時、月斗先生は、「まさか無人島でもあるまいし、王様にはなってゐまい」或いは女護が島かと、軽口めいた葉書で、大阪へもやって来ぬ父を心配されたが、父はこの島で人を集めて句会を起こし、『魚島』を発行した。やはり島には近々行きたいな。 (24.07)

 

 

写生の奨め

 

 自分の背中は見えないが、脊柱の七個の突起が平べったくなる手術をしてちょうど四年が経つ。ヒトの直立位に与る深部の小筋の力不足か、気が緩むと首や腰の辺りがだるくて一休み、歯がゆいこと。

 よく働いていた時分には、若くてもよく肩を凝らせていた。当時出現したばかりの電動按摩器は、お猿がシンバル叩く玩具みたいに、左右に開閉する動作しかせず、腕力ばかりは強い代物だった。

 最近ではそれも、リクライニングで、手足の先まで器用に撫でたり圧したり揉んだり、タイマーが付いて、強弱や振幅やリズムを意のままに変えられたり、もっといろいろと機能を持つらしい。

扇風機も、強弱や風向など、意のままを超え、アトランダムに自動調節される。誕生日ケーキの蝋燭を吹いて消すのだってうまくゆかないのに、機械の方が逆にその不正確さを正確に真似している。

小窓を開けて吹き込む風とか、団扇で送り遣る風のほうが、人にとっては快いからだという。それは、規則正しく吹く風ではなく、一点の非の打ちどころもない美人のようでなく、人に癒しを与えるある種の所謂ゆらぎがあるかららしい。

さればと、ややこしい恰好をしながら、我と我が手で、自分の肩を揉んでも駄目だろう。自分の意思で手は動くから、自分でその動きが刻々分かるからだ。だが小窓からの風は、自然界の営みに属し、人の思慮分別を遥かに超えるから快い。

青葉が繁り、下草が伸びた。風が吹き渡ると、自然界はフラクタル構造だというが、巨細に見て、一枚一枚の葉っぱの動きたるや何とも複雑である。葉っぱ自体の色や形も、その複雑さに息を呑む。

庭の草花の手入れをする晩年の父に、通りがかりの人達が、きれいですね、まるで造花みたい、と精一杯のお上手を言うと父が苦笑していたが、近頃の造花は巧緻で多彩で、まるで美辞麗句のごとしである。

言葉だけに終始するいわば造花の俳句では面白くない。それは造花が常に人の予測可能の範囲に在るからで、直に行き着いてしまう。身辺の一木一草を具に見ての句作りは、自然界がフラクトルと呼ぶ入れ子の構造ゆえに、どこまでも底が知れないのだ。

至れり尽くせりの按摩器よりも、自分の手で揉んだりするよりも、誰かにとんとんして貰うほうの物理作用が、底抜けに気持ちいいわけだ。(24.08)

 

 

俳句と川柳

 

 明治三十三年根岸子規庵の礼帳の句、「元日に鶯鳴くや根岸庵 月兎」は、年始の御挨拶そのままだが、同行した松村鬼史の「病室の寒暖計や福寿草 鬼史」には、彼の俳句の才能が窺える。

三年前に鬼史(大正八年没)の「秋風」四十句を載せたが、同じ号に大橋菊太(大正五年没)の句帖の連載もあり、本号の久世車春の句もだが、通覧して、季題を詠むという態度の俳句は、明治の末にほぼ完熟の感がある。行き詰まりの時期には、詩とか川柳への擦り寄りがあるもので、今もそうかも知れぬ。

鬼史が柳珍堂に転じるのは大正に入る頃で、岸本水府とその時代を克明に描いた田辺聖子『道頓堀の雨に別れて以来なり』に出て来る。以下同著に拠れば、水府が『朝報』記者の明治末年頃、俳句の秋窗(「月斗派の重鎮」とある)や墨水(「子規派の巨匠」であり、鬼史は「子規門の鬼才」)が関わり、月斗も顔を出す。俳人たちの批評から、水府は、新しい川柳のよそ行き顔を自戒し、その川柳観を確立する。

俳句から川柳へといえば、鬼史が俳句を手ほどきした小島渓水〈六厘坊〉・川上虹村〈日車〉は、早熟の中学生で『日本』を購読し、子規選に投じた。子規没後、新川柳欄の井上剣花坊選に投じ、厳選の子規よりも数多く抜けて二人は熱中した。六厘坊は、月兎選の『大阪新報』に柳壇を設けさせて選者となる。

明治末の碧梧桐の新傾向の向生活性・接社会性に魅かれながらも、大正以降の流れの急激さに乗れない処もあってか、碧門の観魚・地橙孫・游魚らは柳珍堂と共に、川柳との一体化を考えるが、川柳から見て、この「柳俳一如」が成り立つ筈はない。

よく俳句と川柳の違いを訊かれるので、正氣に倣い、俳句を作ろうと思って作ったら俳句、川柳を作ろうと思って作ったら川柳と答えている。菊太句帖を見れば、当時素石や之石も柳珍堂と川柳を作るが、菊太が明確に俳句と分別して試みているのが分かる。

俳句をいつも面白く感じるというのは、その人の俳句がずっと進歩し続けているからである。月斗たちは真率にジャンルを守っている。一方、柳珍堂の川柳を田辺聖子は俳句の素養があるので芯があると評し、水府も彼を敬慕するが、その後、日車らと新傾向川柳に走り破調にも至る。柳珍堂らしい。

 行き止まりはない。今我らが縁あって俳句を作るからには、首を挙げて前を向いて行けばよい。(24.09)

 

 

限りなく向上

 

 『春星』は、和而不同と句作第一義をモットーとして、句有る者同士が切磋琢磨し、併せて新人育成にも努めるというのが、その存在理由であった。前者は何度も述べたが、「春星作品」がその場で、目が合い、仲間が組めるスケールとして適応する。

今回、後者について述べる。嘗ての寺子屋みたいに、各自が進度を異にする集団でのマンツーマンの指導ができるのも、小俳誌のメリットである。例えば、手習いならテストのお浚いに当たる月々の句稿に、朱書きを付してお返しができる。

寺子屋のお浚いでは、いろはの良く書けた箇所に朱の傍線を一本二本引いたようだが、誌上に入選の句を発表するので、今は、一考すべき語句の横に点々を付している。推敲の上、再度提出されるお気持ちがあれば、そうされればよい。

句の添削だが、おおむねは可能な限り行った上で発表をしている。点々をするよりも有効だろう。添削をするのはその句を尊重するが故である。あえて両者を分けて言えば、作品のほうをより尊重し、作のそれは二の次という俳句伝統の態度といえる。

まずは俳句以前だが、文字使いの不注意による過不足乃至は誤りを正すことをする。更に本来の意味での添削として、原作の作意を汲み取り、その句のため選者も共に更に推敲するという作業である。より適切な語句、語順に変えることを考えてみる。

俳句の上達に捷径はない。這うたり立ったり歩いたりのようにいつか自得する外はない。選も添削もそのための機会である。はずみで一度やれたらあとは楽で、更に次に進むことが出来る。その機会に早く出会うには、この時期、多作することである。

父正氣は常在句座の生活だったから、私の場合、題詠で五七五が一日平均三句近い時期があった。同じ句は二度と作れないものだから、土地の造成のことを思えば、この堆積はずっと役立っている。

句の向上のためには、句の素材を拡げるか、対象への見方を変えるか、作る自分が変わるかだが、三番目は、老いてゆく上でたいへん楽しみである。

それから、五輪競技では、いつも手に届く難易度の技で完全でも八十点、を狙ってはならぬと分かる。より高点の難易度へ挑もう。そしてよく推敲して、一点二点、いや〇、〇一点〇二点を手にしよう。メダルの色の差はそのへんで決まっている。 (24.10)

 

 

 

成る句、する句

 

 「月が出た出た、月が出た」の月なら、いわば子分だからいいにしても、自転する地球に居て、私は東方から太陽が出るのをやおら待つ。汽車の窓から「森や林や田や畑、後へ後へと飛んでゆく」のも、カーナビ画面も、自分が中心の見方である。

 ここぞと句座のスナップ写真を撮ったら、片隅に不要のじゃまな写り込みがあったりして、そこをトリミングする羽目になる。撮る人はうっかり見て居なかったのが、カメラにはばっちり見えて居たのだ。

 庭で開きかけた桔梗の莟を、理科する目では、覗いて雄蕊の様子を見る。初めて今年庭に手植えしたのなら、もう莟の膨らみようだけでいい。場面では、それを包むピンと張った空気を認めるだろう。

 あれこれと見ることを言ったが、そこには対象とする自然界の物が存在する。目で見、耳で聞き、手で触れるという感覚を通して存在する実体がある。俳句作りの対象はカメラレンズの写実でなく、人の感覚によるそれである。

俳句作りは言葉を使っての知的な娯楽という態度が殖え、言葉が重用され、さすがに季題は実体だとしても、それ以外は実体のない言葉が羅列する。付句がある俳諧の五七五のいわば不完全さが、俳句として成立し埋められたものと思ったが、今また実体のない言葉によるスカスカが生まれている。

この隙間に乗じ、読者のほうが、時には作者をも上回る虚像を結び、評者となって気分よく彩りよく解釈することになる。これを共同作業というのか。この場合も、一語の具体物があるだけでスカスカでなくなり、解釈の作業の邪魔となるようだ。

ちゃんとした俳句は完結していて、読者が余分に付け増すという隙間はない。写真にコラボして五七五を付けるテレビ番組があったが、さすがに純正の俳句では無理だし、主題が判然とした写真では成り立たないものである。

俳句は、自然界の実体をこの身で感じ取るものでありたい。『三冊子』(土芳)にいう「内を常に勤めて物に応ずれば、その心の色句と成る」である。内とは心の位取りであろう。「内を常に勤めざる者は、成らざる故に私意にかけてするなり」の、私意の言葉による知的娯楽の句を目指すのではない。

「俳句は作者の〈人〉としての投影以外の何物でもない」(菅裸馬『月斗学』)を奉じるものである。(24.11)

 

 

 

初めに多作を

 

 『桜』の某氏の句「アネモネや飲み物も無き食堂車」は、取り立てての句ではないが、生活物資が戦時統制に入る直前の世相がある。当時の特高の目には、国家への不満とも映ったことだろう。発行人の正氣に対して特高氏、飲み物もだが花の一本もないとは国民の士気云々、としたわけである。

 特高氏とて、「古池や」の句は勿論、ラムネやミカン水、の「や」ではないと十分に承知の上であり、助詞の意味の問題でやって来たのではない。このように、文藝の評価なるものに国策が係ってはならないが、一方で、昨今の商業主義が絡んでの大衆が醸す人気による評価もまた同じく困る。

 さて、アネモネが食堂車に飾られていると解するのは、俳句が持つ構造の「や」に多少慣れてのことである。俳句の「かな」や「けり」も、戦前はそんなに難しくはなかったろう。十歳の児ですらもである。松本正氣の子供たちのことを見ればわかる。

そこで、私の場合の少しずつ俳句を知る過程を、特に最初の部分を句と共にお示しして、初学者の参考になればと前月の別冊で試みたのだが、俳句作りの初め頃は誰が作っても似たり寄ったりだから、紙面が勿体ないとそれらの句を省いてしまった。

 恥しの花の御宴に召されけり     月兎

 花満開ボートレイスに勝ちにけり   同

 塀越えて曲者去りぬおぼろ月     閑月

 目の欲は窓の破れより時鳥      同

 母校を訪へば桜の花の盛りかな    筍外

 遠く見る菜の花の上や一帆行     同

 挙げるのもどうかと思うが、月斗(虚子選)、裸馬(和風選)、正氣(皐選)の歩み初めの句である。

俳句作りのよーいどんの辺りで、その載せても仕様がないと思った句の箇所を十分にやることである。個体発生は系統発生を履むというから、俳句作りも、進化してきたこれまでの時代の形質を過程で現すのであり、そこら似たような句をたくさん作るうちに、俳句の何たるかが身中に組み込まれる。

これを早い時期にやって置くに限る。そして二度と同じ句を作らないことである。一旦自分が生んだ句を疎かにしてはならない。その句がいないとまた同じものを作ってしまうから、ちゃんとして置くのである。初めにたくさん作るという事は、一歩前へ進まざるを得なくするためである。(24.12)

 

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