平成25年前期
松 本 島 春
人生の投影
表紙裏に掲げた裸馬先生の短冊の句
元日の軍人酔うて哀れなり
は、先生満八十歳に際し同人社が纏めた句集『裸馬翁五千句』で確かめれば、大正十四年の作である。
「元日の軍人」という表現が面白い。軍装であろう。一年の中の一月一日を特別に「元日」とし、人間の中で特別の状態の人を「軍人」という。特別で特別な中の普段の日の人間としての「酔うて哀れ」である。「なり」は有無を言わさぬ。
前記の句集の末尾辺りの句を少し挙げると、
雪解川あはれ釣らるゝ魚ありて
芽を擁す樹相四辺をはらひけり
落第やカーテンに蝶喰ひ入りて
梅見客みな彼女をば憎みけり
枝蛙在りき十指のさすところ
滝尊しそれを青竹筒に汲む
焼酎を野越え山越え酌み交はす
虎のよに鯊は太れり釣冥利
と八十歳の力の漲りを感じ、我らも元気が湧く。
先生は生涯をまことの句で終始された。従って、どの句にも先生の身辺が顕現されて居り、先生の人生観が窺える。これを見るとき、初めのうちはともかく、いつまでも言葉の知的遊戯という句業のままで了っては勿体ないと思う。
句集発行当時既に先生の御目は悪く、最晩年は殆どご失明に近くて、句は口述され、以後の句は『菅裸馬集』の「春の霜」に収録されている。歿直前の昭和四十六年一月、八十七歳でほぼ最後の句、
年を経し一寒燈の語るらく
寒波来竹をくぐりて我家なり
の御目には見えぬ燈も竹も、しかと実在感がある。
同じく『菅裸馬集』の「解と評」で、一寸した嘱目の即景句に、「それでいてそこに止まってはいぬ。句のうしろに、作者の胸奥につながっている遠い深い何ものかが存在する。それが俳句の価値、否、それだけが価値といえよう」と。また或る句では、「すべてウソでないものは力強い」と述べられている。
それがどうしたというような事物を叙した句からも、その目を持てば「作者の胸奥」が見える。抽象の言葉で「句中に点出する素材そのものにある変色を加え、あわよくば深みとか陰影とかいう好もしき価値を与えようとする試み」は、虚しい。 (25.01)
日常身辺の句
正氣のスクラップ帳にこどもの詩の切抜きがある。「パサ パサ」/とつぜん 大きい物が/とんできた/よくみると ハトだ/頭をひっこめて/「クークー」と 鳴いている/よちよち足で/うろうろ歩いている/と とつぜん/飛びたって/はるかむこうに/消えてしまった」と、小学生の長男のものである。
詩藻豊かとはとうてい言いかねるが、担任が送って何かの賞の佳作に入ったものと記憶する。だしぬけの出来事を言葉にしただけで、まあけれん味がないのが取り柄なのだろうと、当時そう思った。
前号の『子規俳論』ではないが、同人派の句は、淡々として白湯の味、と言われたりした。水の味というのは、ふつう何となくおいしい感じだが、白湯は違い、前半の言い方から、後半は、せっかくの水の味を一度煮立てて飛ばしたような語感がこもる。
余談だが、鰈の料理を食わせる座敷の壁に、「真味只是淡」(菜根譚)の額が懸っていて、これでは作者が鑑賞者にもの申すようだと思ったことがある。私は食通ではないから、魚丸々の煮付なんかどちらかといえば漁師風にお醤油どぼどぼが宜しい。
単なる五官の衰えにも似るから、年経て漸く「醲肥辛甘非真味」が判るようになったとは言い難いが、真味が濃よりも淡の側にあることは確かだろう。
味覚の基本味ではない六味として、苦酸甘辛醎の五味に淡という名の味が加わる。五味のほうは、カレーライスに何か隠し味を入れてみて想像ができるが、淡は君子の交わりのほうで薄情ではないのだから、淡味も水で薄めてみたカレー味ではないようだ。
毎日がお祭りごとではないし、淡味は日常の暮らしの属性だといえる。「酒池肉林敢て辞せないが、喫飯来の一汁一菜の米の味が真味だ」(月斗)である。酒池肉林はお祭りごとだ。一汁一菜の日常は平凡につながるが、お祭りばかりが句の対象ではない。
草焼くや眼前の風火となりぬ 裸馬
草焼きを見て居ての「眼前の風」という把握に尽きる。可燃物の草が加熱され空気中の酸素で炎上するのだが、句は、「眼前」という一種の境地にあって、文字が意味する風なる存在が火と化すのである。
ハトが「とつぜん」やって来て、「とつぜん」消えた。文字に留まるとは、存在したのである。身辺あれこれの出会いも、自他の関係の意識がなければ存在とはなるまい。そんな一日は空虚である。(25.02)
平明で写実的
昭和二十四年『同人』四月号付録の一枚ものの「俳誌『同人』継続宣言」は、文面では同人一同とあるが、菅裸馬先生の意による内容であろう。
先師の句生涯を、「この長い間、名利を求めず、正しきを持し、強き信念を以て一生を貫かれました。而も能く人を容れ、任侠の念に満ちて居られました。道に厳しく、人に優しく、豪宕の反面に細心と洒脱味を有せられ、全く俳句に徹し切って居られた」と述べ、現俳壇が戦後の悪風潮に沁み、先師の努力が薄れ行くのを見るとき、「師は一代であります。然し藝術の道は永遠であります」と、「先生に因縁深き菅裸馬氏に雑詠選を一任」し、「誌面の刷新、内容の充実、句作の指導に当たらんとする」とある。
文中、弟子たちが常日ごろ「師とも親とも頼んで」来たところを述べた件は、即ち、俳人月斗の作風そのものだと云えよう。〈句と人とは、別のものにあらず〉(月斗)だからである。
月斗俳句が、平明で写実的で民衆に共鳴され易いところを、世上の評価は凡そ平俗浅近に流れるとし、詩人性の不足だと指摘するのに対し、裸馬先生は、それは「却って詩人性の過多、感激性の過剰」によるものだと切り返す。題材で日常市井での些事をも珍重しての「魚島の鯛を毎日貰ひけり」「宝恵駕の中は富田屋八千代かな」のような月斗句も、かばかりの事が常人以上に嬉しいのであると申される。当時、なるほどうまい言い方だと思ったものだ。
『病牀六尺』の「渡辺さんのお嬢さん」こと渡辺南岳「四季草花図巻」が一覧できる原色コピーを、和田克司先生から以前に頂いたが、子規の草花への思い入れがよく分かる。『仰臥漫録』のスケッチや『草花帖』など、常臥の子規にとって、自然界とは僅かに目に入る庭の一木一草だけであり、愛おしいのである。
棚ノ糸瓜思フ処ヘブラ下ル
臥シテ見ル秋海棠ノ木末カナ
朝顔ノシボマヌ秋トナリニケリ
こんなことにさえ感じ入る病床の子規である。裸馬先生曰くの、余りにも普通で誰もがつい見過ごしてしまう物や事が楽しくてたまらぬ月斗俳句は、これに通うものがあるともいえる。
俳人月斗は「民衆を友としてそれに共通する感情を詠嘆する人生肯定、楽天主義の詩人」(裸馬)だと、今は、それが容易に首肯できるようになった。(25.03)
緊張ということ
知人らとの旅行で、恰も満開の桜を仰いだり、涼風の展望台から見渡したりしていると、よく耳元に、きっといい俳句がお出来になったことでしょうねと囁いて来られるものだ。そんな時私は、はいはいと愛想笑いをすることにしている。
ほんとは業俳ではないのだから、メニューボタンを押して俳句モードに切り替えなければ、そんなに二六時中俳人しているわけではない。俳句モードとは、俳句的に緊張した状態である。俳句は、うっとりとした境地で生まれるものではない。
短詩型の俳句は、励起した言葉で成り立っている。辞書の中で臥していた言葉と同じものが、俳句で用いられるときは、人の手で高所に立たされるのだから、その言葉は位置のエネルギーを持ち、頭に落ちて来たらこぶができるほどだ。
よそから横滑りさせた言葉並べの句では、当たればこぶができるようなエネルギーは到底宿らないし、美麗な言い回しであるほど詮ないのである。まして句の素材までが言葉だったりしては、それ以上使う言葉の持ち上げようもない。
『春星』でも、二十年三十年の先輩ならば、いつでも言葉をうまく使って楽々と句を作るのかと思ったら大きな間違いである。句作を始めたばかりの後輩のほうが、言葉をかんたんに使う、という点ではおよそ先を行くのではあるまいか。
花の奥人は鵞鳥に罵られ 裸馬
本来寓意ではなく、花盛りの遊園地あたりでの即事の叙景であろうが、心しての「花の奥」という文字に至ればこそ、以下の十二字の中の「人は」がなんともシンボリックな感じを持つではないか。
裸馬先生曰く「上手は上手なりに、下手は下手なりに、作句態度の緊張していること、張り切ってかかることが要件中の要件である。上手に任せて小器用に間に合わせた句、浅瀬でぼちゃぼちゃやっているような句よりは、下手は下手なりに真剣に自然人事と取っ組んだ句がより尊い」と。
句作りを「浅瀬でぼちゃぼちゃ」とは厳しいが、人が相手の俳句ごっこに興じている暇はなかろう。名句を生む天地自然の力は、上手にも下手にも平等に与えられている。それに出会う機会は均一である。寸時を使い、緊張して、使いまわしの言葉に頼らず、「真剣に自然人事と取っ組む」ことである。(25.04)
自然界の力
鰻(ニホンウナギ)が絶滅危惧種に指定されるという新聞記事を見た。近い将来に野生での絶滅の危険性が高いというランクで、イヌワシやライチョウがそれに属する。それらに比べての実感は湧かないが、五十年前からずっと漁獲量は減り続けているという。
さて、私は目を瞑る。もう二十年前を足した子供の頃の私の家は、父正氣が、山紫水明を理由に決めた和久原川大橋の東詰であった。名は大橋でも三十米足らず。すぐ上手に砂止めの堰があり、その直下だけは深みで、潮はここまで満ちて来る。
裏庭の木戸を開けると石の段々の川岸で、夏にギン蝉が来る高いセンダンの木が二本とアブラ蝉が来る太い柳が一本あった。溝からの水が年中垂れ、糸ミミズの赤い束がゆらゆら踊っていて、それにおしっこしたら罰が当たってチンチンが腫れる。
下手の今橋までは砂礫の浅瀬で、晩春に、チーチーと呼ばれる超ミニの鰻が海から上って来る。底が平たい小石をはぐったら、ほぼ必ず一匹はチーチーが居て、どんくさい私でも簡単に掬えた。
チーチーが水際に居るのは梅雨に入るまでである。夏休みになると、曲り角の淀みで、潮が満ちて来た時に真似事の水泳が出来るから、チーチーのことなんか忘れるのだが、実際に浅瀬にはもう居ない。
現在は公有地からは川原へ下りようがなく、確認しようもないが、河口の先まで埋め立てられ、家も建ち込んだ今では、もうチーチーは上がって来ていないだろう。水辺に遊ぶ子供もなく、その代わりに鷺の仲間などが増え、街の烏も混じっている。
うちの句会で「細道もコンクリートの上の雪」と作ったが抜けない。地べたの上「の上」で、「細道も」は細いでなくて天神様のの範疇と陳べるがだめ。理屈だもんね。由って今使うが、街中の自然は、川原の烏と鷺を見飽きさせないほど貧相になった。
自然が羸痩する時代の俳句も亦ひょろひょろして来る。言葉の操りが前面に立つからである。私意のままをそうして句に拵えるのでは詮方ないではないか。やはり「松の事は松に習へ」であり、だから「俳諧ハ三尺の童にさせよ」である。
文学方法としてのリアリズムが持つ力は、芭蕉の水の音、蕪村の二三片、子規の歯磨粉で分かる。鉛筆舐め舐めしての作意での句作りは止め、さしずめ五月の光と風にすっぽり浸ることだ。(25.05)
芋扱ぎ水車
俳句を語る場合、父のことを正氣先生と呼んでいるのに気付く。げっとせんせい、と恭しく父やその周囲が話すので、幼児の私は、その人のことをそういう長い名前のえらい人だと思い込んでいた。
春星を継承して今に至るが、俳句雑誌は外見内容共に俳句の如くありたいという思いは貫いている。誌の基本は毎月の春星作品である。だから俳句の何々賞とか俳人に等級づけなんかのイベントはない。
テレビドラマの町道場では、剣術の師範は一段上った場所で弟子たちが打ち合うのをじっと見ている。道場破りが来て弟子たちが打たれるとやおら床に降り立つ。小高い位置に座を占めるのは、稽古がよく見渡せるからだろう。
一般文藝で本文の活字のポイントを作家で差別化するのは稀だが、春星作品のディスプレイも特に工夫はない。主宰の句でなく、主宰の句である。戦後の紙不足の名残かも知れぬが、正氣がそうだったので島春もそうである。どうぞ遠慮なく打ち込まれたい。
月斗先生もだが、御徒町の島田道場なら机龍之助が武者窓から覗いても主はそれと判る。桃井や千葉や斉藤ほどの規模ともなると考えなくてはなるまいが。
子規庵訪問の際の月斗文章では、子規子と鳴雪翁を別に、把栗、青々、四方太、虚子、牛伴その他等しく君の敬称で呼ぶ。新派の俳句への入門であり、旧派のように特定の宗匠に入門したのではない。
当時の大阪俳壇は特に仲間の意識が強い。月斗先生と呼称する形の弟子の存在は、月斗改号前後あたりかららしい。その点、松瀬青々は、『車百合』に対する『寶船』の創刊やこの時代での個人句集『妻木』など、近代的な結社意識が早くからあったようだ。
正氣による俳誌にも精進する同志という色合いが濃い。春光帖は、春星作品から一句を挙げての俳句の鑑賞や評釈で取っ組み合い、スポットライトでは、中核を占める三句欄から注目の作者を探る。
中川みえ女史には、実作者のための子規の総説としての執筆を引き続きお願いした。新派俳句の興隆は、リーダーの作品そのものもだが、当時の大衆が、メディアに載るその被選句を通じての方向付けに、挙って共感し随行した故だろう。
切磋琢磨とは今どき聞かれぬ言葉だが、テレビで、加減が判るお婆さんの手による小川の芋扱ぎ水車の仕掛を視て、小俳誌ならば可能だと思った。 (25.06)