平成26年前期
松 本 島 春
読み初め
静かなお正月になる。芭蕉は『机の銘』に、しずかを閨E閑・静と使い分けているが、こりゃ読書に限ると思い、それを辞書の『言海』に決めた。調べたら、この『言海』の見出し語に「しずか」は無く、「しづかに」(しとには変体がな)で、語釈は「音ナク騒ガシカラズニ」と「穏ニ鎮マリテ」である。
『舟を編む』という石井裕也監督の映画DVDを観たせいもある。松田龍平が主役、宮崎あおいやオダギリジョーの売れっ子が出るが、話の筋は『大渡海』という辞書を作る地味なこと。新解さんの愛称の三省堂『新明解』がモデルらしい。
『新明解』は知らないが、より厚い三省堂の『広辞林』(第五版 昭四八)なら使っていて、外装は満身創痍だ。これは、戦時中、旧版が何冊か中学生に配給となり、一冊を数学の担任が何かの理由で私に回してくれた由縁がある。
で、読もうとする大槻文彦の『言海』は、ちくま学芸文庫に入っているものだ。六合館の小型『言海』の昭和六年三月刷が底本で、明治二十二年五月刊行のまま。今の『広辞苑』なんか読んでももう無機的で面白くもないが、これはいわば有機的でいい。
山田忠雄の新解さんが好評だったのは、意味の解釈が現代風で人間臭くて泥臭いところにあったらしい。だから読まれる。お手本の『言海』の大槻文彦は、独り努力して言葉の意味を解き明かした。ひた向きでいい。寺は仏教以前にはないからてらは日本語でなく外来語だと、テラこやの表示にしたりする。
言葉の意味をどう解くか、例えば右は、『言海』でも従来の「人ノ身ノ南ヘ向ヒテ西ノ方」で、『広辞苑』も追従するが、『新明解』では「アナログ時計で文字盤に向って1時から5時までの表示のある方」とするらしい。確かにこれなら密室でも通じる。そして「明という字の月が書かれた側」とはお愛嬌だ。
単に語釈のことのようだが、説明は、実際に向ったり書いたりと、即物即身の表現のほうが判り易いのは明らかだ。句を詠むときにも心すべきだろう。そしてそれが月並み表現から脱する道ともなる。
当初から『言海』が五十音順を採ってよかった。もしもこの時代のいろは順で「芭蕉」を引いてごらん。いちばん始めのいろはのハはいいが、次はそう、終りも終りのゑひもせすのセで、それから唱え直して、うゐのおくやまのウなんだから。(26.01)
自分の言葉で
大槻如電の『媒酌訓言』(三章)という、既に印刷に付したらしい三枚の原稿がある。如電は『言海』を執筆した大槻文彦の兄であり、文彦没後、『大言海』の修訂を継ぎ、完成直前の昭和六年に世を去る。
兄弟の父親の大槻磐渓は儒学者で、その『二児の歌』に、大児(如電)は「白石」で、「鋭を養ひ機事よく密にして成を害せざるを」、小児(文彦)は「黒石」で、「重を持し終然収め来る全局の贏を」と、我が子の性格を見抜く。兄弟が五歳と三歳の時だから凄い。
如電は、父の言う「人に遅れず」で、二十九歳で官を辞し、翌年早くも家督を「ただ身を顧みる」の文彦に譲る。博識にして奇行多く、享年八十七。
『媒酌訓言』であるが、「やよ婿君よ妻を迎ふるは子孫の繁栄と一家の和合を求めんがためなるぞ繁栄和合の道は愛と忍とに基づけり慈愛は真心の篤きにぞ堪忍は思慮の深きにぞ やよ娵君よ夫婦は両身にして一體なるぞ両身一體の実を末永く伝へんには順と勤とを守るべし」云々は、明治三十三年徳川公の姫が大河内子へ嫁する際、松浦伯の依頼によるものである。
次は、翌年、五条天神の氏子の婚礼に神主に乞われて、「夫婦は人倫の基なり男も女も其心得あるべし心得とは互ひに気ごころを知りぬき見ぬくにあるなり人の心の同じからぬは其面の如しとか云へりされば良人は妻の心根を知りゐていたはり扱ふべし妻は良人の気質を見ぬいてまめやかに事ふべし」云々。
貴族の媒酌、商家の婚姻、次は職工の祝言にと思っていたらやっと活版所の依頼が来たと、「こんだおれが仲人親でおめへたち二人を夫婦にしてやるぞ夫婦中よくしろ夫婦中さへよきや貧乏所帯も苦にはなれねい。ある物知りの先生が夫婦の情愛は春の花でない秋の紅葉だと仰しゃったがちげいねい其通りだ」云々。
各章の冒頭部分である。今では多少問題だが、会話の言葉にはそれを共有する第二者が存在する。そして意味や気持をうまく伝えるのに、さまざまの場や相手によって言葉の使い分けをする。
面白くて如電の文の紹介が過ぎたが、如電は、三章目は江戸の職人言葉の正訓であって、心して読んでほしいと言う。つまり、言葉を、そしてその相手を尊重するのである。
俳句という言葉の相手は、日本語の上で少しく選ばれたる民である。俳句に相応しく正しく、借り物ではない言葉での句作りでありたい。(26.02)
古代えんどう豆
だいぶん前になるが、句会の人から、ツタンカーメンの墓の中にあったえんどう豆の後裔だというのを幾粒か貰って蒔き、芽が出て蔓が伸び花が咲き実となり豆が採れて喜んだのだが、たった三年ほど繰り返した後、なぜか失せてしまったのを思い出す。
この古代のえんどう豆は、墓の発掘者カーターが副葬品から見つけ出し、土に埋めて水を遣ると、三千年を遥かに越えても発芽したのである。無い袖は振れぬが、種も蒔かねば生えぬものだ。
全く初めてで俳句を作り始めた方たちの五七五を見るとき、日本語で育った者がみな確実に持っている俳句性という種のことを思う。きっかけで土壌に蒔かれさえすれば芽が萌えるのである。
父正氣は、私が一歳の昭和八年三月末に三原に転居し、その四月第一土曜日の晩から毎週、十数人での句会を家で開いた。殆どが二十代三十代の男性で、私がおしゃべり出来るようになると相手をしてくれた。お調子者だった幼児は彼らのやることを真似した。俳人正氣が父親なのが、私の場合の土壌である。
私の場合、けりとかかなとかでの物真似だから、いわゆる「こども俳句」ではなかった。それでよい。「こども俳句」とか「現代俳句」「前衛俳句」とかいうジャンルは本来無いのだ。こどもの「俳句」、そして現代のまた前衛のそれなのである。
同様に、特別に「初歩俳句」というのもある筈はない。ここらがちょっと厳しい処だ。初歩の「俳句」をたくさん作って、初歩から脱するだけである。その作る句が、我と我がことや家の者や友だちという心持の圏内から、やがては脱け出すことである。
家のインコと遊んでいてもそう思うが、ましてヒトは相手に対して何かを表現し、共感を得たいという願いを持つものである。一番に虹を見つけようものなら、虹が!とそこら誰彼なしに肩を叩いて伝えたいではないか。プライベートな相手でなく大いなるものと共感したい、そんな内容の俳句となろう。
私の俳句の一歩めがふんわりした土壌だったせいで、ふとした縁から俳句を始める人を私は尊重する。どう面白くて何の為になるのかの前に、早くもカチカチの地に鍬を打ち込み、そこで収め得べきを、得るまで耕そうとする、その進取の姿勢だ。
されば、私のツタンカーメンのえんどう豆が、そのうち失せてしまったわけが判るというものだ。(26.03)
ハンディキャップ
食べ物のことで何だが、駅前に立つ朝市で、ひと山越えた里の玉子や草餅なんか買って来たようで、商品名は記さないが、お汁に、丸々した生椎茸の一片で香りは松茸というのが浮いていた。
松茸の香り成分は人工合成が可能で、即席の吸い物が有名だ。その添加ではなく、松茸と椎茸の菌糸を一緒にしておが屑で培養したそうだが、交配してイノブタみたいな子実体となったのではない。
思うに、椎茸にも、松茸と同じ香り成分は含まれていようから、栽培方法でそれが増えたのだろうか。こうまで松茸に似せようと力を尽くすのは、一に松茸に希少価値があるからで、常に、量産栽培可能の椎茸よりも松茸が上位に座るのである。
書棚の上に、仲間内でのゴルフコンペのカップが埃を被っている。三十年ほど前、忙中の私にも一度は持たせてやろうと、仲間たちが超特別のハンディキャップを呉れたのだ。帽子の中の手というのは分かりづらいが、碁で云うたら井目に風鈴付きである。
春星初号の月斗選に、中学生の私の「父は碁を打ちに出でたり春の宵」がある。正氣は特に習ったのではないが自称の特級で段位者とも打てた。病院実習の頃、控室で見よう見まねで覚えて、帰省した際父と打ったが、置き碁にも限度があり勝負にならない。
そこに手心が加わるのは、いわゆる人倫に関わる句もそうである。生病老死の句は、かの松茸の香り成分たるエステルやアルコールのように、心をゆさぶる。人と人との関係では身内で、運動会はわが子わが孫の徒競走こそが刮目の見ものではないか。
文学以前のことが大きく働いている。病気の句でいえば、高熱にうなされるほうが、鼻水が垂れる句よりも身に詰まされるというものだ。ある種の感染症の文藝や文人を思うとき、茂野冬篝は、病者としての正岡子規を高山樗牛と比し、豁然開朗の態度として称えた。ここにも子規の文学の近代性を見る。
俳句は十七字の内で終始すべきだろう。内に含まれる味は噛めば味わえる。松茸は松茸のうまさ、椎茸は椎茸のうまさを内に持っている。それでよい。どのような境涯にある少年だ作者だというような、外からの付け足しは要らないのである。
さて前掲の句、碁を打ちに出た「父」が正氣のことだから抜けたのではない。それが春宵の父親なる存在であるからである。(26.04)
とうとう三萬日
西望先生も正氣も数え年で表し通したが、私はたとえ満年齢でも、まだまだ口にはしたくないと思っていた。まだというのは、到底胸を張っては言えないという意味である。老という文字の使用も同じだ。
ところで、思い当たったのは三月半ばだった。ジャバソフトで以前に試みたのが脳に残っていて、ふいと浮かんだのでしてみるとまだ間にあって、私は生後三万日目をこの四月五日に迎える。
三万日の心臓はご苦労様だ。一分間の拍動が七十で計算すると、なんと三十億回だ。それでも、心臓の筋繊維の働きは悉無律に従うから、同じ回数だけじっと休憩していると思えば気が軽くなる。
その内の俳句人生も長い。私は戦時下の昭和十九年秋、当時の正氣が、一に『同人』廃刊中の月斗先生を慮っての中国同人会を作り、その選を仰ぐことにした際、私も毎月見て頂くことになった。
人並みに多忙の時期もあったが、春星の出句があるお蔭で継続して居り、句作りの空白は一月もない。句が、少し枯淡の老というタイトルが付けられる程になったらとは思うが、なお道遠しである。
同じ藍染でも、時を経て色の薄くなった液を以てしっかりと染めるという技法もあるようで、それは当初から色の勢いが弱い訳ではないのだから、これからの我が句の行く末を楽しみにしたい。
幸田露伴は、『音幻論』(洗心書林 昭二二)序文の冒頭、焼けた「旧書斎の硝子障子に」「墨で天台畫巻、竹鹽論、八荒箋、夫白侖、音幻、邊中」他十項目余の「文字をしたためて置いた。それは他日或場合に余が書きたいと思ふものを羅列して置いた」と記す。その中の「音幻」が八十歳の最後の著書となった。
露伴は、その『努力論』の自序で、努力には直接と間接の二つがあるとし、詩歌なども当面の努力で上達するが、それでは「下手の横好という諺は世に存せぬであろう」で、「自性の醇化、世相の真解、感興の旺溢、制作の自在」への道の重要さをいう。
東洋の藝術では、創作の根底に、基礎となる人間作りがある。蕪村や子規も引く「多読書則書巻之気上升、市俗之気下降矣」(『芥子園畫伝』畫学浅説)とは、実技の基本に先立つ処である。
蕪村、子規、月斗、正氣と去俗の系譜にあって、『春星』は、俳句作りを以て、ただの生活の彩りや余暇の慰めとかに終らせたくはないのだ。(26.05)
我が家の燕
また燕がやって来た(らしい)。三階の客間の外のコンクリート屋根の裏に、十年来の巣があって、その入口を修理した様子がある。も一つ、出入りの姿は見ないが、或る感じで窓外を翻り、今朝は近くの電線に或る感じの二羽がいるのを見た。
巣の燕の確認に本当は何も要らぬ。燕の巣といえば糞害であり、例えばネット検索で、「燕 糞」はヤフーで百十万件、グーグルで六十万件と、特にその白い尿酸結晶への恨みは深い。ところが我が家の燕は、巣の下に糞という生存証明を一粒も落とさない。
以前は句会にも使っていた客間だが、階段の上がり下がりがあるので今はやめた。閑かだから軒の燕も暮らし易いはずである。だが居着かぬ。前号の川井教授の文では、燕が営巣するのは繁殖の際だけのようだから、子をなさぬのかも知れぬ。
人懐こくなくて、やや高所の巣、壺半切りの巣の形など、群棲しないのを難として、イワツバメの仲間だろうか。今朝のは腰の白さを認めた。ただ、岩燕で検索して、糞の始末の事の言及は見当たらない。
みな燕尾服を着ているから、個体の燕なんてこうつくづく観察することはないのだが、きっと部屋飼いのセキセイインコの挙措のせいだろう。気になる。ちょうど俳句を作り始めたばかりの頃に、路傍のすみれたんぽぽがしきりに目につくような具合だ。
以前に書いた先代のインコは、好事家で食べもので失敗したが、妻にはカアサンだけ、私には三割方はトオサンと呼び分ける程になっていた。肩にとまるとキマシタヨと、反応による条件付けだろう、言った。聴く者は言葉だと解したいのだが、音声だ。
つまり「言語といふものは二元のものである。即ち発する人が一つ、聴く人が一つ、その聴いた人が復現する時に至って、又、発した人が復聴する時に於て言語は成り立つ」(幸田露伴『音幻論』)だ。
思い出したが、大昔、仙台の瀬川虎年子さんが見えて芭蕉の話を伺ったのに、芭蕉がブシュウで句会諸氏には折角の内容がさっぱりだった。私も前夜のお泊りが、姫路ではなくて清水だと思った程だから。
それにしても、老いて尚の露伴の努力、言葉や文字の根源への探究心には驚く。俳句作りをすると、言葉や文字を安直に用いられなくなる筈だ。この言葉この文字がなんだか気にかかる、やはり気にかかる、とにかく気にかかるようになる。(26.06)