平成26年後期

春  

 

青梅雨

 

じめじめ、というのが梅雨だが、青葉の茂る時期でもある。だが若葉雨などの語もあり、青梅雨はうまくないと思っていた。

永井龍男の『自撰作品十一種』(昭四九)の函のカバーは、収録作品名と、微かにサイズを下げ新潮社 定価五、五〇〇円と記す。上質紙に、本文以外のノンブルなどは薄緑の印字という特製本だ。

この人の雑誌小説で、題名(忘れた)と内容との対応が俳句的だったので購った本だった。俳句的とは、季題的ではなくて、東門居の句作に関わりなく、いわば上五にを置くポテンシャルだ。

『青梅雨』はその収録の一つ、老いて事業の失敗の借金が返せず一家が服毒心中する前夜の次第である。「これで、降っているんですか?」「降っている、ぬかのようなのが」。妻も妻の姉と同じように訊く。

『青電車』は、方向指示器の色電気の終電は赤、その前が青。青電の車掌は、跳び込み自殺を図った家出中の妻の死に目に会えなかった。「永い間、誰を待っていたろうな‥」と医師は呟いたそうである。

どちらも違った意味でが利いている。どうやら青梅雨の語はこの一篇に尽きる。誓子の一句は季感を持つが、季寄せに青岬(夏岬)を立て、青葉岬の略だとすると、春岬、秋岬は何だろう。

緑なのに、青葉も青信号もそう見える。葉緑素の若葉の緑は明るく、青葉の緑は勢いがある。その青は、青に見えるからか、緑では語を成さないからか。

緑と青との使い分けはする。先日も、はらっとした雨で、西山に、こちら向きなら左の脚辺りの虹が掛った。すぐに薄れる色彩の五つはとっさに数えて、抜けていたのは藍とオレンジだった。

今井むつみ『ことばと思考』(岩波新書 平二二)からの以下はコピペだが、世界の言語の中の119で、色の名前の数が十を越すのは、日本語を含め11しかなく、最多は六から七色で、34の言語である。また緑と青とを区別する言語は30しかない。

そして、なまじ色の言葉を持たないほうが、色の認識はむしろ正確だという。色の言葉があるために、認識が言葉に引きずられる(範疇知覚)らしい。

なるほど、あの虹も、日本の私はつい七色の虹として見ていたのだ。よく見て、見た通りを言葉にしなさいなんて言うが、日本人が見、日本語という言葉にするならば、已にして俳句となる。(26.07)

 

 

 

句は和而不同

 

月刊俳誌には季節感がと、表紙をめくった処に俳句短尺を載せている。今年は、月斗『同人』(大正九年創刊)早期の人をと心掛けている。月斗先生もだが、ましてその門下が語られることは稀だ。

今月は花木伏兎だが、『現代日本文学全集』(改造社昭四)の短歌・俳句集は、俳誌ではホトトギス、倦鳥、俳星、同人と並べ、同人から月斗、月村、圭岳に伏兎の四人を収載する。社は、「宗派的な偏狭さを超越して厳正に公平に、史的観点に立脚した」という。

史的観点とは何だろう。古郷は『大正俳壇史』に、編者不詳「大正拾壱年俳人番附」を載せる。正氣が句を始めて二年目に当たる。新派の名人格最上段に虚子、青々、碧梧桐、東洋城、鼠骨、格堂、鬼城、月斗、素石、亜浪、井泉水、水棹、水巴と並ぶ。

古郷は、以下これに続く顔触れを見て、当時の「俳壇諸家の正当な格付け、評価などと称せるものではない」とし、それは「ホトトギス派の人が案外少ないことからそのように推量される」ので、編纂は碧派の流れかとまで述べる。

まさに今に続く虚碧史観である。俳壇史的な見方に立てば、「旧派など影も形もなく、その勢力は地を払った」のに、この番付にまだ「旧派宗匠がかなり多く挙げられて」いたのを訝しむのは当然だろう。

この大正後期、諫早でも正氣ら中学生による新派俳句が芽吹くが、零から生まれたわけではない。諫早の俳句の土壌よりの、つまり一からの出発である。

地方に親和して遺るものが、新式の俳句の格好でないのは自明である。それでも、俳句史を作るのは、実にそれら地方の俳人の挙動である。以前に本誌連載の子規の新派俳壇形成もそうであった。

正氣の場合、近くの長崎俳壇は、明治後期より商用で数年置きの月斗、続三千里(明四三)の碧梧桐、大正十一年雲仙行の虚子の来訪を機に、動いている。中学生正氣は一度きりのチャンスを努力したが、月斗に会えて、虚子に会えなかった。

希求しての縁あればこそ、大事なものが深いところに刷り込まれる。それが今や、俳句の出会いも例えば液晶画面の前に座し、巨大な媒体に適応するほぼ常連からの見聞きのまま、それを誰も彼もが規範みたいにして、暫らくは世を覆う。

この娯楽性と社交性を、いわゆる偏狭さの超越のように語るべきではない。(26.08)

 

 

 

句作が第一義

 

 焼鮎を丸ごと食っても頭の先が残る。石に付いた藻を食む鮎の口の辺は硬い。顔学の提唱者原島博教授は、動物が「生きるために顔ができた」と言われる。餌を捕食するために体の一番前方に口ができ、餌を探知するための目や鼻や耳を口の周りに、その近くに情報処理の脳を置くのは当然なのだ。

ところが直立二足歩行のヒトは、餌を捕えるのに、手が伸ばせるし、手の延長である道具も使える。口は引っ込み、柔らかくてもよいから自由に動き、言葉に関わる器官ともなった。こうして、口の近くに感覚器を配し、毛のない平面で表情が見える顔が、立つヒトの身体の上の方にできた。

こんなお互いが会話すれば、正面にある感覚器で、声と共に顔の表情までが同時に分かるものだから、たくさんのことがよく伝わり、共感することができる。一口食べてウーンとあらぬ方を見ても、きっと美味しいんだろうという具合である。

言語の起源は何万年前など論ぜられるが、文字の方は何千年の単位である。その文字を用い、原則として同じフォントサイズを等間隔に並べ、視覚的に俳句の発表がされているが、句稿や短尺の書字の句に比べれば、およそ表情に乏しい。

それでも、UОうおのような表音文字が世界の主流なのに、日本語は、という表意文字をも併せ用い、それを音と訓で読み分け、かなと漢字を取り合わせて漢熟語も使えるから、遥かに有利である。短い文字の詩が日本に生まれるべくして生まれた。

ならば、女郎花、をみなへし、オミナエシ、日、太陽、日輪、お日さま、これらの句面の持つ情報量を活用せねばと思われるだろう。それもあるが、単に言葉の言い換えの問題をここで云うのではない。

一人ずつ違う肉声の言葉ではない印刷の文字は、使い手によって形が変わったりはしない。十人が十人同じ一つの形を用いる。それが、演じていない能面の一つの表情が、演じ手によりさまざまの変化を見せるのと同じく、使い手の使いようによって文字にも表情が生まれ、俳句が成り立つのである。

それには、少しばかりの伝統的な俳句の約束事が分からねばならないが、能もそうかもしれないが、俳句は、読者のままではなかなか分かり難いけれど、演じ手として演じる過程で、いつしか身に刷り込まれるのである。句作第一義である。(26.09)

 

 

俳人の庭

 

 父正氣は、晩年になって三原に骨を埋めることとし、二階で俳句会ができるほどの春星舎を建てた際に、小さな前庭を作った。

庭は、主から見て一幅の絵のような景色を想像して作るものだろう。日の当たる広縁からの眺めがそれだが、正氣の場合は違っていた。庭というよりも、門扉から爪先上がりに玄関まで数歩の路の脇に、何やかや配した野草園と呼ぶに近かった。

「脚下照顧ものの芽其処に此処に哉 正氣」で、正氣を訪う人は注意が要る。句会の人や近所の人までが父好みの植物を持って来るから、足の踏みどころもないし、およそ一人静も都忘れも、花をつけるまではそこらの草と大差はあるまい。

当初、庭の小高い中央に月斗句碑を据え、句会の人が野梅を掘って来て二度も植えたが根付かず、小賀玉にし、それからは、山土にセンブリからススキにナンバンギセル、ウラシマソウやらコンニャクイモまでが一時生えていた記憶がある。

「苗札にヂゴクノカマノフタとある 正氣」が、角川の季寄せの例句となっていたが、それはないだろう。こんなもの(野草のキランソウ)を植えて踏ませないようにするのは、ここの主ぐらいのものだ。

一息つくと、この庭を、主は搦め手に当たる広縁から眺めて、毎日朝に夕に、草木の位置や取り合わせを検討し修正し続けた。蛞蝓を抓むピンセットを手にしゃがむ姿が目に浮かぶ。こうして俳人「正氣の庭」の形を呈して行ったのである。

「水打って昨是今否や庭手入 正氣」は、昨日も今日も、更に明日も、より良くを目指して進む姿である。かねがね「推敲は秀句を作る手段に過ぎぬが、推敲の過程は人生の楽しみに似ているように思う」と言っていた。米寿の記念に贈られた句碑となった。

正氣選の春星作品は、二十句以内の出句だった。五句選で五句の出句は、(凡夫として)フルカウントでは甘いストライクを投げたくなるやも知れぬ、思い切り投げろという親切心だった。各自の推敲力、自選力への危惧がありながらもである。

投げられる側はたいへんだと思われるかも知れぬが、いわゆる句の添削は、ほんとうは作者の推敲の不十分さを選者が共同して補う営みなのだから、作者は、「人生の楽しみ」にも似る推敲を横取りされたことになる。何とも勿体ないではないか。 (26.10)

 

 

インコの言葉

 

 今飼っているインコは雌なのか、言葉がよく話せない。チュンチャンとコチョコチョシヨカぐらいで、あとチョーとかテバーとかマーチャなんかは言葉とはいえまい。家人が最初にお相手してやったのを覚えたら、それで脳みそが一杯になったらしい。

 U教授が戦中に覚えた広東語が暫く研究室で使われた。私を呼ぶのに松本(チョンプン)先生(シーサン)()だ。老師(ローシー)(先生)いわく、腹減ったら食べる真似をする。日常会話はたった一つ、ゴーションホイチーソー(トイレへ行きたい)かチーソーピントーレ(トイレはどこ)で、こりゃあその格好をして見せるわけには行かんからやと。

 人が相手に何かを伝えるには、言葉のほかに仕種や表情がある。南洋の鳥だったら、雌の面前で様々なディスプレーを雄の方が懸命に展開して、雌に熱い思いを伝えている。口で云えたら簡単なのだが、だからインコも雄の方が言葉をよくしゃべる。

声で表す言葉では個人が識別できるが、その言葉さえ今では文字という記号になった。個人識別のための似顔絵なら、印象的に整理された目や鼻の配置の問題だが、書いた文字(肉筆)の場合は、その筆跡の様々な分析により個人の識別がなされる。一画一画が同じである活字ではそれは出来ない。

春星舎での句会は、少人数でも継続していることでは他に引けを取らないが、常に古い人新しい人(期間的に)が混在する。分担する清記での無記名の一句にも、この規模(俳句的に)では、一人一人の姿が映り、今日は頑張って来たかどうかが分かる。

 俳句を始めて間なしの方ばかりの句会にも出るが、少し続けると、どなたでも真摯に作れば、あたかも人の息遣いのように、それなりの個性(乃至は癖)が感じられて来るのは、俳句の不思議である。たぶん定型という制服を着るおかげだろう。

 これまで数で云ったら万に及ぶ句作りのベテランも春星に多く、私自身もこの秋で満七十年を経たが、同じ句というのは作れない。うかと出来たとしても何だか落ち着かないものだ。労せず作れて、句会で皆に抜けそうな句は、自分でも要注意である。

 何度も言ったが、句の評価は、縦並びに見て、その人の昨と比べるのである。頑張り時が選者の褒め時でもある。そしてそれが更に作者の頑張り時となる。頑張るとは、これまでと同じような句を作らぬように励むことである。 (26.11)

 

 

 

春秋七十年

 

 共著もある二人、まど・みちを『ぞうさん』は親という結びつきの絶対さを、また、阪田寛夫『サッチャン』は別れと無いのとは全く違うことを思えば、胸奥深く沁みるものがある。

 その阪田寛夫が九歳の時の童謡がある。その第一節、

  ぼくのおぢいちゃん 七十七で

  いつもにこにこ してなさる

は、「おぢいちゃん いつもにこにこ してなさる」の五七五を骨格にしている。祖父の喜寿の祝いに、「せめて5・7・5に逃げることで恥ずかしさを免れようと思ったわけだ」(『桃雨』阪田寛夫)

 「5・7・5と音節を並べたらそれが俳句だと、小学校二年生の時に教わった」(同前)のである。

  日めくりはいつもめくられへるばかり

  たけのこは雨がふったら高く出る

  ポスト君いつもあかふくきています

  ヨーヨーは上ってきてはまたさがる

などがクラスの者の作で、「Aは常にBなり、と述べる形が多いのに気がついた。5・7・5という枠でものを考えると、どうしてこんなしらじらしい陳述になってしまうのだろう」(同前)という。

 「そのうち、俳句に飽きたませた級友が俳句式会話というものを組中にひろめた。

 「阪田くん少年倶楽部貸してんか」

 「貸したろか、と思ったけれどやめとくわ」

 「おんどれあ意地悪せんと早よ貸せや」

 「その代り掃除当番代ってや」

こんな具合にやるのである」(同前)

 「ふしぎなことに俳句式会話で話すと、自分のことでもひとごとのように聞えるし、悪口を言われても腹が立たない。その代り真面目にものを言ってもふざけているように聞えてしまう」(同前)

 長い引用になったが、五七五定型の属性ともいうべき点をうまく抽き出していると思う。これがあるから、簡単に幼児でも俳句は作れる(俳句になる)し、それに安んじているうちは、そこからなかなか抜け出せないものである。

 しかも、手拍子足拍子での俳句作りは、気を抜いたら、いつでも誰にでもあるものだろう。私も、昭和十九年秋に月斗先生に句を見て頂いてより七十年を経たが、到底、矩を踰えずの域には達するべくもない。大いに自戒せねばなるまい。(26.12)

 

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