平成27年前期
松 本 島 春
笑い初め
壁に穴が開いて外界と繋がっているのが窓である。目は心の窓というが、顔には、他にも鼻、耳、口の窓がある。窓の開け閉めは周囲の皮膚に付く筋肉の収縮による。口の窓を閉じるためには口を取り巻く輪状の筋が、開くには口の周りの放射状の筋が行う。
皮膚に付いて動かす筋肉は、牛や馬なら全身にあって背中に止まる蝿が追い払えるが、人は手があって道具も使えるから不要で、顔と首にしか遺っていない。この皮筋で、人特有の複雑で奥深い感情を、表情という形にすることが出来たのである。
笑い初めという季題は、新年初めての嬉笑をいうとあり、笑いでも嬉々としてのそれであるから芽出度い。嬉しいときには頬が緩むという。笑顔はもっと能動的であり、特定の皮筋の働きが関与する。頬骨弓の外面から出て口角の皮下に付く「大頬骨筋」である。口角がきゅっと挙がると笑顔になる。
逆に泣きべそをかくときは上唇が挙がるが、これはその内側で上唇に付く「小頬骨筋」が働く。泣き初めが季寄せにあるが、笑い初めあっての語で、「泣初をしに参りけり市村座 虚子」の一句に尽きる。序に、泣くは新年の忌み言葉で、米(ヨネ)こぼすという。
いねつまん黄金水をあたためよ 月斗
赤汗のたまりて脹るる齦かな 正氣
古来、言葉の持つ力を畏れ、それが他に及ぶのを慮ったのである。寝るを忌みて稲積む、血を忌みて赤汗という。前句の先生は名水といっても寝酒のことだろう。歯科医の後句は歯槽膿漏の発作の急患か。溜まるも膨れるも字面では福だね。
新年の季題で、年改まっての物事の開始に初を付ける。それでも初売りはお店側の言い方で、株屋ならともかくお客の初買いは言い難い。買い初めであろう。掃き初めは言うが、掃き始めはない。初箒である。本当は箒も忌み言葉でお撫で物、はたきは采配。
日本語はややこしくて、はじむは端占むでそこからの事の起こり、そむは染むでその状態になりはじめること。ためしに初電話・鍬始め・縫い初めを、電話始め・鍬初め・初縫いと言ってみたら分かろう。
日本人の表情筋は発達するが、個々の筋の融合傾向があって複雑に働く。「笑筋」というのは口角を外に引いて笑窪を作るだけの筋だが、大頬骨筋のほうは、頬骨の下を指先で押さえてニコッとしてみるとその筋肉が分かるから、これをしっかり鍛えるべし。(27.01)
暖かい日は
三階ベランダの物干しの脇の雨が当たるところに置いた鉢やプランターに、名草やら名無し草やら植えたり生えたりしたのが、昨今しゃがみ込むのが不具合のままに、茫々と収拾がつかなくなっている。
それでも去年も、種芋に畑の土と肥しをつけて頂戴し、発泡スチロール函に植えた。例年、葉が茂ると緑がいっぺんに豊富になり、夕立後の燦たる水玉が楽しみだったが、その夏は雨続きで、側の白粉花が枝を張ったものだからそれに押された。
またせっかく忘じ難き日に蒔けばよいと貰った豆の粒なのに、木枯らしも吹き始め、よく出来ていた子芋を掘り出す序に、許せ後で季節に追いつけよと呟き、やっとこさ辺りを片づけてから埋めた。豆が、寒くなる前に蒔くのを知らなかった。
寒い時期で思い出すのに、戦時中、山を越えたお百姓さんのお家へ二人ずつ一晩泊りの勤労奉仕をした。山で落葉を掻き、朝は牛小屋の敷き藁の湯気が立つのを畑へ撒き、芽が伸びた麦の頭を踏んで歩く。白いご飯を食べ、お餅をもらって帰った。
寒中、池普請にも出かけた。水を抜いた池の地面を、亥の子を搗く石で打って固めるのである。わあわあ喚きながら縄を引っ張るのが、足で踏んでも同じようでだんだん馬鹿らしくなってきた。
麦踏んで見渡す畑の廣さかな
池普請亀を捕へて遊びけり
が、中学一年生の月斗選一つ丸の句である。
田んぼの暗渠排水もした。山で柴を刈って、ザブ田の溝を深く掘り、柴を埋めて水はけをよくする作業である。泥に潜っていた泥鰌がバケツ一杯取れた。今、芸術文化センターが建ち、イルミネーションが設けてある辺りである。
山に入り肥松の根っこを掘ったのも、農仕事のない冬だったか。刻んで釜で煮て油を取り、飛行機の燃料にするのだという。これらは時間割では修練という教科だった。隔週にある休日は、教頭が朝礼で舌を舐め明日の日曜日は家庭修練とする旨を告げた。
授業で習う代わりに、生き物たる熱さ、大地に備わる弾性、土中深くの暗黒、木の根っこの剛力と、実体としての自然なるものに接したのはよかった。
嘱目即事とはいえ、人はカメラではないので、一旦は、胸中の山川のそれとして収め、句に詠むことになる。須らく自然に接し、胸中を間断なく養うこと。(27.02)
五風十雨
五日に一度風が吹き十日に一度雨が降る。その雨も風も至ってほどほどで、雨なんか夜中のうちにだけ降ってくれれば、それはもう五穀豊穣で天下泰平というものではないか。
身辺が常にそうであるならばそれに越したことはなかろうが、一方で、可も不可もない人生とは味気ないもののようにも思われる。そんな連続テレビ小説なんて平板であまり人気が上らないだろう。
青木月斗の句は、健康的で肯定的な句、いわば座標XもYも正の値の領域の句ばかりで、平凡退屈とみる向きもあるが、これは生来のものというか、浪華町人的といってもよいだろう。浪華町人といっても、喧伝される船場の豪商云々のそれではない。
大正末、秋田の島田五空は月斗に会い、東北人ででもあるかのように思ったという。「荒削りなところ鈍重な態度、大まかなしうち」と辛口だが、「未成品」として肯う。そもそも大樹とはそう見えるものだ。
さらに五空は、当時の月斗句に、新知識を摂取しながらハイカラ味も知った風も、洋臭も漢臭も、禅臭いのもないが、「その副作用で平凡にすぎたものもある」、また「句を作り過ぎる」とも言った。
月斗の重要な俳句活動の時期は昭和であり、明治大正ではない。その句業は、大正後期創刊の『同人』誌に尽きるが、纏められてはいなくて、その唯一の句集『月斗翁句抄』の読み通し難さは、類題句集の例句の集成ゆえばかりでもないようだ。
これを、菅裸馬流の言い方では、「月斗式多感にはその種類が至って少ないことの代わりに(常識的に過ぎるものも含めて)その量が充分乃至過分な」のであり、「健康で快適で人生を肯定し、幸福を追求してこれに満足する」のが月斗俳句である。
「いつでもどこでも素材と詩因にこと欠かぬ徹底的諷詠主義者」であり、これを大量生産で平凡で退屈というのは、読み手のほうの感情性の問題か、人生肯定、楽天主義に対する親疎の度合いだとする。
大正後期、トルストイ『藝術とは何ぞや』(春秋社)は震災後も版を重ねたが、「藝術は快楽でなくて、人と人との間を結合させて同一感情に結び合せ、人生及び個人を全人類の幸福に向わしめる」(木村毅訳)の人類愛が、当時一つの文芸事情でもあろう。
月斗俳句を見るに、大樹は、大樹なるが故に、どんな天候をも、これを五風十雨たらしめている。(27.03)
松の緑を守る
花粉症の時期には杉の実鉄砲を思い出す。細い女竹の筒に、自転車のスポークを柄に埋め差し込む。弾にする米粒大の杉の雄花(実と呼んだ)ほど短くする。弾を込めると筒先に留まり、次を込めて勢いよく突くとポンと飛び出す。同時に込めた実は筒先に届くから、口の唾で濡らした弾を次々連射できる。その発射音と手に来る反動、煙ってツンと薫る筒先。
松の花粉の方は、今でも雨上がりの水溜りを黄色い縁取りに染める場所がある。松の雄花は玩具にはならぬが、新芽の若緑は、ちぎって滲む脂を松葉に付けて水面に浮かべると、油分が薄く広がり、あの「はやぶさ」のような具合の微かな推進力となった。
私は杉よりも松が贔屓、は仕方ない。戦中の松根油のことは前に書いたが、別に松林を開拓した時、藷に似た握り拳大の堅い塊が地中から出る。割ると中身は純白の粉で、誰かが祭の香具師が売っていた薬「松の魂」だと言った。漢方の茯苓であったろう。
そんな自然に包まれた勤労ばかりではなく、街中で鉄道沿いの家屋疎開など辛いだけの記憶も多いが、造り酒屋の勤労は愉しかった。Y酒造では、空の酒瓶を防空壕の中に運ぶだけなのに皆顔を赤くした。麩の滓の団子を呉れた。О酒造では、酒石酸を取る軍需の葡萄を運んだ。たとえ皮になっても一粒も戸外には出すなの厳命で、酸で歯が浮いてスースーした。
さて、「日本の松の緑を守る会」顧問の松下幸之助は、守るべき日本人の伝統的な精神として、和を尊ぶ、衆知を集める、主座を保つ、の三つを挙げた。主座を保つことは、漢字由来である日本の文字を挙げた。俳句の伝統もその例に漏れないはずだ。
俳句は奥が深いんじゃねとテレビ番組を見た理髪店の主が訊く。あんな処までとは解釈に当たる部分だろう。文芸は画に描いた餅でも、昨今の句は、餅のようなものばかりが描いてあって、のようなものならその方が、評者が引き取りあれこれ勝手に話せる。
蛙でも鶯でも、のようなものとして詠むに至った王朝和歌を思うと、生活感ある素材を詠む俳諧から、さらに「飛び込む水の音」「餅に糞する縁の先」の芭蕉へ、天保の月並宗匠より明治の子規へと、常に文芸を賦活再生させたのは、のようなものとは違い、現物を掴んで帰納するという写実の手法である。
ゲーム画面の音と光の兵器よりも、杉の実鉄砲の放つテルペン臭こそが、生きた証しとなる。(27.04)
全きに迫る
車移動の社会となり、街中はすっかり舗装されて土の露出を見ない。緑化された緑のある公園などの土もどこからか運ばれてきたようで、土着の土と云えるものは少なくなった。少子化時代の子供たちが外で遊んでいる姿もあまり見ない。
子供の頃の道路は遊び場だった。車と名がついてもパカパカ威勢のいいのが荷馬車で、牛が引く肥取り車、犬も引く八百屋の大八車や夕方の魚売りのリヤカーなど。自転車やバスもあったはずだが。
腎炎で往診の先生は人力車で来た。二階の窓で遠くに見えると寝床に潜った。もっと小さい頃の私の事故、橋の上にあった盛り砂を三輪車で越えようとして、ハイヤーが来て転んだ。目を開けると父の治療室で赤外線を当てられ、父と運転手さんがいた。
雨上がりの路上は、薄いコーヒー色の水溜りが出来て、ズックの底で片足を水面に触れて通った。初夏なら微小な線条のアメンボの子が群がり、日が差して乾びると居なくなる。縁には、指で触るとクリーム様の泥が暫く残る。中央でもそんな土だった。
泥だんごの話をするのだった。道端の黒土を握って作るあれである。はじめ小さく丸めて、土をまぶしてはだんだんと太らしてゆく。よく手の平に転がせて真ん丸にするのが肝心である。長い時間をかけ、最後に乾いた土埃を振り掛けてつるつるに磨く。
それが、材が泥と云えども何とも神々しい。限りなく真球へと形を窮めて行くからだろう。
歴史物が得手の桂児なのに、遺品に小山ほどのフィギュア群があった。初めはプラモデル作りからでも、車や飛行機どころか、軍艦から戦車、米・独軍隊ものに及び、極細部の再現度も値段も高いやつだ。現実の高速交通や軍事では、不要な空間を極限まで無くそうと努めるのだから、形の厳しさの美は解る。
デテールまでがきちんと満たされると、そこに秩序ある世界が浮かび上がるものだ。泥だんごは、もともと相手とぶっつけ合い、壊したほうがやった勝ったと喜ぶのだが、あまりにも真ん丸に出来上がれば、とても勝ち負けの武器には使えない。
ただの泥土だと見るか、ただの模型だと見るか、それともそこに一つの価値世界を見るか。
花時や浮かれ烏に薄月夜 月斗
纖手よく蜂拂ふ花見扇哉 同
朝月に濡れもやすらし花の鈴 同
(27.05)
腹を空かせる
昭和二十一年七月創刊のわが春星は、これから七十年目に入る。和紙は千年、洋紙は百年というが、保存してある初号は、当時の粗悪な西洋紙二つ折りだったから、脆くて取扱注意だ。正氣前主宰が鉄筆で楷書で切った原紙を、家族が器械の四隅を抑え、手を黒くして力いっぱいローラーで擦ったものである。
だから編集・印刷・発行人が松本正喜で、第二巻五号からは綴って目次も入り、第三巻七号からはプリント社に出しやっと雑誌の形が整ってきた。プランゲ文庫(占領下の検閲出版物を収集)を国会図書館サイトで調べると、雑誌の項目に第三巻(昭二三)五、七号、第四巻一号から八号までが存在する。
古きを以て尊しとするのではない。今、当時の情熱の甦りを希求するのである。戦直後、食うものと同じく国民皆が「文化に飢えて」いた。文化とは云え、書店との馴染みで買える『リーダーズダイジェスト』を持ち歩く程度でよかった。
戦中閉ざされた文芸発表の場も再開した。文芸は発表せねば意義がない。当時の日本出版協調査の文芸雑誌約三百のうち、詩歌は俳句六十五、短歌四十五、詩ほか二十五。戦前より激減している。
占領下の三原の出版物を調べると、文芸の多くは、会社や組合、地域や学校の機関誌に発表されたようである。文化講座なる催しもいつも盛況で、昭和二十二年夏、三原だからと正氣と同窓の作家福田清人もやって来た。太宰治の「トカトントン」を語った。
戦争末期警報が出て灯火管制になると句会はできなかったのが、終戦で再開して間なしの九月十五日に子規忌を修し、その翌々日夜、枕崎台風で川端の我が家は壊れた。少しして図書館で句会を続けたが、戦前はほぼ働き盛りの男性ばかりの座に、若い女性も加わるようにもなった。
今や俳句も飽食の世の中で、その手軽さ!ゆえか、小誌ごときにも全国各地から地域起こしに関わるらしい俳句イベントの用紙を次から次へ送って来る。孵卵器の中のような、うんざりするほど快適な環境での切磋琢磨はないだろう。
俳句そのもののような雑誌、と正氣前主宰は初号の後記で書いている。春星は、体裁も分量もそれは素朴で文字通りに小誌。一汁一菜にして、主食は春星作品だ。よく噛めばよい。而して栄養充分の俳句雑誌を期している。今こそ腹を空かせるのである。(27.06)