平成27年後期

春  

 

腹を空かせる

 

昭和二十一年七月創刊のわが春星は、これから七十年目に入る。和紙は千年、洋紙は百年というが、保存してある初号は、当時の粗悪な西洋紙二つ折りだったから、脆くて取扱注意だ。正氣前主宰が鉄筆で楷書で切った原紙を、家族が器械の四隅を抑え、手を黒くして力いっぱいローラーで擦ったものである。

だから編集・印刷・発行人が松本正喜で、第二巻五号からは綴って目次も入り、第三巻七号からはプリント社に出しやっと雑誌の形が整ってきた。プランゲ文庫(占領下の検閲出版物を収集)を国会図書館サイトで調べると、雑誌の項目に第三巻(昭二三)五、七号、第四巻一号から八号までが存在する。

古きを以て尊しとするのではない。今、当時の情熱の甦りを希求するのである。戦直後、食うものと同じく国民皆が「文化に飢えて」いた。文化とは云え、書店との馴染みで買える『リーダーズダイジェスト』を持ち歩く程度でよかった。

戦中閉ざされた文芸発表の場も再開した。文芸は発表せねば意義がない。当時の日本出版協調査の文芸雑誌約三百のうち、詩歌は俳句六十五、短歌四十五、詩ほか二十五。戦前より激減している。

占領下の三原の出版物を調べると、文芸の多くは、会社や組合、地域や学校の機関誌に発表されたようである。文化講座なる催しもいつも盛況で、昭和二十二年夏、三原だからと正氣と同窓の作家福田清人もやって来た。太宰治の「トカトントン」を語った。

戦争末期警報が出て灯火管制になると句会はできなかったのが、終戦で再開して間なしの九月十五日に子規忌を修し、その翌々日夜、枕崎台風で川端の我が家は壊れた。少しして図書館で句会を続けたが、戦前はほぼ働き盛りの男性ばかりの座に、若い女性も加わるようにもなった。

今や俳句も飽食の世の中で、その手軽さ!ゆえか、小誌ごときにも全国各地から地域起こしに関わるらしい俳句イベントの用紙を次から次へ送って来る。孵卵器の中のような、うんざりするほど快適な環境での切磋琢磨はないだろう。

俳句そのもののような雑誌、と正氣前主宰は初号の後記で書いている。春星は、体裁も分量もそれは素朴で文字通りに小誌。一汁一菜にして、主食は春星作品だ。よく噛めばよい。而して栄養充分の俳句雑誌を期している。今こそ腹を空かせるのである。(27.07)

 

 

続・島のはなし

  

 父、春星居士二十五回忌を子供たちとそれに繋がるものとで修した際、「備後横島にて松本正喜島の女を妻に迎へしと云ひ越すに」の前書に「汝が妻は椿の花の島乙女 月斗」(『同人俳句集』昭六)の島へ出かけた。私が生まれ、初誕生まで居た島でもある。

三年前の夏、本欄の「島のはなし」で、近く行きたいと書いたが、事態突発で果たせなかった。それ以前に島の土を踏んだのは、アルバムの写真では一九八六年で、妻をお供にし、尾道から横島行きのフェリーを下りると、桟橋に「ようこそ内海町へ」の絵看板があった。本土との橋が架かるのはその三年後なのに、看板にはもう橋が描かれ、若者が群れていた。

実際の島は古色のままで、人通りはないし食事をする処も見当たらない。島言葉でなら「ワラヨウル」(可笑しい)だ。突堤の下の砂浜が好かったので足を投げ出して、道端の自動販売機から、妻が当時「こんなのもあるんよね」と感動したライスものを食べた。

小学校の夏休みに従兄弟らと遊んだ母の生家は、もう以前から空き家となって居り、島の劇場もない。父が正装して宮参りの私を抱いた写真が遺る八幡様の石段も登った。それらの島のあちこちの何でもないスナップ写真を母に見せた。母が亡くなったのは、あたかも橋が開通する二カ月前である。

この度、私は生まれた呉服店の離れの辺りを歩いてみた。道は広く家々は新しく、呉服店の瓦もピカピカで、そのご一家と一緒に撮った古い写真の複写を持って来たのだが、近所で尋ねると、独りになられ誰かが引き取られて今は無人とのこと。

その先の母の生家跡の辺りは区画整理もあってか、家が今も新築中でうまく見当も付かない。大工さん達がじろじろ見るので引き返す。神社の山でホトトギスが鳴き続けていたのにその時気がついた。

本土化とはこういうことか。昔は島で生まれて尾道へも一遍も出なかった人もあったみたいだ。とうかい(渡海?神原雑草子による)と呼ぶ一日一便の櫓と帆の便船は、やがて巡航船に代って便数も増えたが、「広島句会。本田屋楼上、正喜参加す」(昭五、月斗「西行記」)の出席は二日掛かりだったろう。

当時の正喜は、島の青年たちを集めて新しい島を作ると息巻いていたらしい。島には、自由・理想・独立・創造がある。隔絶が、低俗とのそれであるならば、大いに可なのである。(27.08)

 

 

 

本歌取り

 

東京五輪のエンブレムが、どこか外国の劇場のロゴマークからの盗用だと訴えられたとか。そっくりではないので私にはよく判らない。人が歩く格好からでも、コンピューター分析により個人の識別ができるそうだから、形の類似の度合は計れるものだろう。

NHK大河ドラマ『武蔵』第一回五十五分間のシーンの内、二十五分が黒沢映画『七人の侍』を想起させるとして、盗用だと裁判で争われたが、誰が見てもその通りで、たぶんオマージュだとしても、翻案権とかか著作者の人格権とかややこしい。

今思えばなんだが、若気の砌に映画『赤い靴』を俳句にして、裸馬選に初めて五句入選した。

冷まじき落日となり黒き森

むらさきの森や魅魑に月垂れて

靴は跳ね夢舞ひ廃墟月しるく

寒涛の渚に踊る影を貼り

空に白き雲となり野辺の百合となり

進歩は一般に変化の形を取るものだから、一応その変化を以て良しとされたのであろう。

和歌における本歌取りは、意識的に作品に奥行きを持たせる手法であった。中国詩においては用典であり、短詩型の有力な手段である。俳句はもっと短い詩だから、言葉の羅列だけでは成り立たない。季題がそうであろう。句に用いられた季題は、古今著名なその季題の句の中身を内包すると云える。

本歌取りに於いて形式的に許容される量は、二つの句つまり四割程度で、主題を合致させないことが作品で必要とされていた。『武蔵』第一話での時間量はまあまあで、『七人の侍』のほうは三時間二十七分でも、その主題ということで問題があるのだろう。

季題に即して連想ゲームのように作句すると、ほとんどの句は同想のものとなる。本誌「季題集」の当初の企ては、適切な例句の乏しい季題について、巾広く意欲的な季題例句を求めることであった。

以前の正氣前主宰による「万朶集」は、選抜された者のみによる互選の誌上句会で、春星作品選者に(語は悪いが)阿らない自由闊達な冒険的作句を望むものであった。当初はその気が漲って居った。

正氣前主宰は、自身の作句の第一評価として、誰かがもう作って居るか、を問うて終始した。俳句の語数で言って九割方は誰かがもう作っている。俳人たちは僅かなその残りに全身を投じるのである。(27.09)

 

 

 

秌の字のこと

 

ワードでは「秋」を変換しても「秌」は出て来ないので、ユーザー辞書で入れた。表2に昭和初期の同人派の季節短冊を掲げるのに、今月の喜一さんもだが、月斗仕込みの「秌」の字を書いている。

さすがに戦後すぐの『時雨』(昭二四)は「秋」だが、『同人第三句集』(昭一七)は、解説以外は「秌」に統一している。その前の『同人第二句集』(昭九)は、「秋」と「秌」とが句で混在するが、肝心の先生の句は前書の句を含めすべて「秋」なのである。なお『同人俳句集』(昭六)は「秋」。

『同人』誌は、昭和十二年より戦時廃刊まで「秌」の活字を造り使っている。岡本圭岳編集長が脱退、新興『火星』を立ち上げたのが昭和十一年で、関連付けてよい。その翌年が『第三句集』の募集となる。

『第二句集』での混在は、出句稿でのそれに基づくらしい。月斗短冊での「秌」の始まる時期は特定できていないが、簡野道明『字源』(大一二)に、「秋」はもと秌に作る、「秌」は秋の本字とある。昭和一ケタの時期に、弟子たちは顰に倣ったらしい。

同人派の最盛期に入るが、改造社の総合俳誌『俳句研究』創刊は昭和九年三月で、ホトトギス本流は別格意識だが、同人派は参加した。だが、目次の青木月斗の名を村山古郷『昭和俳壇史』は略す。この後の同人派が俳壇的に鎖国の姿勢を取ったからだろう。「秌」の活字造りとは何とも象徴的ではないか。

月斗短冊での「秌」は、もとは正字俗字の問題だったろう。蕪村や子規に同じて俗を万事厭うのである。『古籀篇』(大一一)高田忠周は、「漢字は一字一體なり」と正字俗字を明らかにする。およそ自を退き視野を広げれば誤差は少ないし、文字も、時間的に変化の前の古きに置けば純一に近づくのは分かる。が、この「秌」の活字は攻めばかりなのか。

次は先生が大宇陀蟄居の時期、「春星俳句」は先生が選の上加朱返稿して下さっていて、ガリ版刷りだからと、俗字もよく正されて来た。高田忠周『大系漢字明解』(昭一一)も座右にあったと聞く。

先生の句には、人事の題材でも、どこか高踏的というニュアンスがあると思う。俳句の中に人間臭を出すことを排した。「秌」の字の時期に当たる昭和八、九年の青木家の事は、義弟碧梧桐の語る僅かでしか知らぬが、大宇陀蟄居の時期と思い合わせ、正字俗字という事柄に、多少の感なしとはせぬ。(27.10)

 

 

 

テレイドスコープ

 

着色したサングラスを付けて外出すると、こちらの視線が隠れるから、誰の表情の中にも密かに入り込むことが出来る。こちらの視線の存在を意識して相手が対応するのは解るが、存在を意識させない視線を送るこちらの方が変質するのだからおかしい。

造化の世界は、こちらの視線に動じるものではないから、そこにこちらが目を留めると、こちらの方が変ってしまう。そこに取り込まれるのである。こちらの大きさに適うようにと、自然界からほんの耳かき程取り出してきても、やはり同じことだろう。

小さい時におもちゃ屋さんの紙筒の万華鏡を覗いて飽きなかった。手元に示指大の金属製の安物があるが、これは中のセロファン片の反射ではなく、先端の魚眼レンズから見える景色を万華鏡式に映す。
 これで今、部屋の丸い蛍光灯を見ると、少し回せば光ったハート形が三つだ。手のひらを差し出すと、肉質の松葉蟹から窪ませば妖しげな花となる。レースのカーテン、これは白百合だ。一本の指は、二本くっ付いての三組六本、僅か回せば指は扁平になる。

外へ出てみよう。白黒の微細なイラスト風に広がる街路図に入り組み、いくつか三の倍数の塊がある。それぞれにくっ付いているブルーの小片は、雲量ゼロの今日の青空だ。やはりその塊の中をよくよく見て、過ぎ行く芥子粒の動きは、車列らしい。

うちの句会は席題を一句作らせる。団栗を二種類持って来たのが居て、それを課した。横太がクヌギで、縦長はマテバジイ。後者は、待てば椎、で渋くなくその気なら食べられる。思えば、終戦直後の颱風で家を流された折に、団栗を金槌で叩いて割り実を砕き、水に晒して干して石臼で挽き、メリケン粉と混ぜて団子にした。それでも渋かった。

今の団栗の矚目では狭いから連想ゲームになる。その属性の硬い、丸い、滑らか、転がる、坂道、里山、トタン屋根、落ちる、拾う、手のひら、ポケット、子供、独楽等々が初めだ。渋いとかは思い浮かべない。凡々。されば、題を箱に入れてその上に立ち四方を見回すという手もある。

あの団栗に泥鰌の、青木存義作詞「どんぐりころころ」は絶唱だ。「ころころ」から「どんぶりこ」の展開がいい。二番の詞の終りはいつも胸が詰まる。

大いなる造化に抱かれてさえ居れば、テレイドスコープみたいな句作りは要らないのである。(27.11)

 

 

 

俳句の生体性

 

開戦時の東条内閣の文部大臣橋田邦彦は、優れた生理学者であり、一高の校長から近衛前内閣に入り、その継続再任であったのに、開戦閣議の責任を問われての東京裁判を前に、自決した。

学生時代、生理学の講義に特定の教科書が無くて杉靖三郎著のものを使った。私はどちらかというと、身体の働きという生理学や生化学などよりも、形ある解剖学や細菌学などの方が取っ付き易かった。

杉靖三郎は、自序冒頭に恩師橋田邦彦への献辞、緒論に「全機性」の項、最後の章の末尾に「全機としての生体」を置く。橋田邦彦は、「生命の把握とは実は科学以外の体験の問題」で、生命現象が学問の対象だとして居り、後で気づいた箇所である。 

ややこしくて恐縮だが、生命現象の全機性(橋田)とは、因果の系列は生体活動という全一態に統一されて、部分過程は常に全体への連関に於いて現出する特性をいう。つまり生体では、全体は部分の総和ではなく、部分は全体に統合されるのである。
 橋田邦彦は、道元や藤樹を尊び、《正法眼蔵』の研究をしたが、全体とか個とかいう単語は、当時の全体主義的風潮の中では、そうした耳当たりで受け止められたのかも知れない。

さて、定型詩である俳句も、そこに連ねた個々の言葉の総和ではない。俳句の形をとった言葉の羅列は、一句という全体の中に統合されていて、俳句にある言葉は生きて働いていると云えよう。

季題・季語の場合が解り易いかと思うが、俳句では、現在、メキシコ原産できく科の多年生植物の皇帝ダリヤは季語で、つばき科の常緑小高木の山茶花は季題と呼び分けてもよいだろう。

その季題としての言葉は、俳句という全体の中でのそれであるから、俳句ではという括りの中で、皇帝ダリヤに比べ、山茶花の方は、同じ名詞としての有り様ではなくなってしまう。

前記の「全機としての生体」に、「水について考えてみても、外界の水と内界の水とは絶えず交易し循環している。しかしその水は体内に〈飲んだ水〉として役立つのみでなく、〈水を飲む〉ことに於いて我々は生体として働いているのである」とある。

水が内界に入ることが生体に影響する。俳句では、単にその言葉の持つ意味ではなく、その句にその言葉を使うそのことを重んじるのである。(27.12)

 

 

 

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