平成28年前期

春  

 

 

句作りの母地

 

昭和壬申生まれの私には八度目の申年である。サルから直立二足歩行のヒトとして進化する過程で、わがホモ・サピエンスの種だけが滅びず今に栄えている。呼吸器で喉頭が下方に位置するのと、出産しなくなった後のおばあさんの生存が特徴だという。

前者は言語の使用につながり、後者は育児に与かって、文化とその伝達に役立ったらしい。日本語とその伝統の上に成り立つ俳句であることを思えば、日本人は、俳句を作り、また俳句を味合うことが可能なのがその特徴という言い方もできる。

少年正氣の俳句第一歩は大正九年三月十三日、近所の小柳種衣が誘った句会らしい。種衣は諫早の県立農学校の生徒、その教師に中谷草人星がいた。草人星は、大阪で中学生の大正初めから大毎俳壇(虚子選)等に投句、大正七年から『雲母』蛇笏選を受けた。

句集(蛇笏選 昭二)で大正九年春先を検するに、

春暁の雨霽るけはい窓に見し   草人星

道沿ひに川も曲がりて朧かな

春の霜消えたる畦のますぐかな

と、既に「霊的表現」(蛇笏序)が窺われるとも、少年らにそこらは解るまい。また草人星による指導の点は判然としない。因みに、草人星が『雲母』で進境を見せるのは「大正十一年十二月」(同前)と。

 お四面さん(神社)での少年らの句会の他に、種衣宅で大人参加の句会があり、近所の旧派の宗匠古賀九皐も顔を出していた。後に作家となった福田清人はその選の巻をもらっている。句会の九皐は「物静かな物腰で少年達を見守って」(市川青火)いた。

諫早の民衆に底深く俳諧の根は広がっていて、例えば長崎日日新聞俳壇などからの新派の種子をも容易に芽生えさせた。元禄以前の三原で云えば、明暦二年(一六五六)令徳編『崑山土塵集』に在三原の十名を、本誌で檀上正孝教授が記されている。

そうした土壌に発芽して本葉が出るまでを、特に私の場合は父正氣が命じての句作りで、月斗先生に見て頂き、引き続き裸馬先生にと、鍛えられた周囲を含めて、現在誌上に録しているところである。

万能細胞が云々されているが、普通は胚の分裂に伴いロックがかかってその先の姿が決まってくる。春星のモットーは和而不同である。その後各自の道を歩んだ句少年らは、最後に、清人も赤司里鵜も野中丈義も青火も、春星に顔を揃えることとなった。 (28.01)

 

 

 

キラキラネーム

 

二月の島生まれだから月斗撰名の(トウ)(シュン)である。出生届の傍訓記載(昭六、局長回答)を父は先生の書かれた通りに名前にも振ったらしい。それで歯科医籍(昭三一)も同じだ。その後、「傍訓は名の一部をなすものではない」(昭五六、局長通達)となり、今は「傍訓を記載しない」(平六、局長通達)である。

小学校に入った私は、自分の名前が人とは少し違ったように思っていた。洛中さんとこは「姓は甲斐、甲斐は峡なり」と先生は山人と撰されている。音読だろうか。下って戦後、本郷町の燈古さんの孫は銀河と撰された。「燈古庵をぐるぐる巡りて苦しみ候。雨乞の鉦ひびく夜半銀河歴々たるを望み候」と。

昨今のキラキラネームは、字面や音感のマ、ヤ、ラ行などの優しさ、読みは重箱と湯桶を駆使し、語の部分だけでも可、更には意味の方から持って来て、こんなのありかと思うが、寛容なというか日本語の復元力である。(シュ)(ララ)はどうじゃ。シュは音読の春の一部でララはきらきら光る星という具合。
 七月で七十年を経る『春星』は、『同人』復刊と重なり遅延するも、春の内に創刊を決めたようだ。誌名に当季の季語が多いのは俳人の発想ゆえである。前身の『桜鯛』『魚島』『夕立』も、『同人』は中島華水によるが『カラタチ』も、遅延した『車百合』もそうだ。シュララではならぬらしい。

『桜鯛』と本誌の或る時期、王樹さんの季感の濃い表紙絵を月々頂いていた。俳誌は斯くあるべきだが、事情で年間通しとなり季感は薄めてきた。今年は、まあ即せばよいかと春の鶯を使った次第。中井吟香は菊池契月門、枚方住、昭五二没。

名を言えば体も言うべきか。創刊時、正氣は「俳句そのもののような」俳誌と言っている。俳句とは、形が小さくて隅々まで俳味に充ち、よく噛んで味合うもの。容れものの俳誌も素樸が何より。

対面学習での寺子屋は数十人規模だった。サルが毛づくろいして維持できる群れをヒトの脳に換算すれば百五十人だという。人は言葉を代わりに使うから、もう少し大きな群れが可能である。句数で云えば本誌ほどで、子規の「三千の俳句を閲し柿二つ」だ。

最適規模での群れの意識が醸されれば、月々の春星作品の端々まで、あ、何々さん気合入ってるねと、句座に同席する感じさえ生まれよう。そんな俳誌で犇めき合う作品は幸せである。(28.02)

 

 

 

温故知新

 

青木月斗選で始まった本誌が第七十一巻なので、今年の月斗忌は、巻数引く三の六十八回忌に当たる。三原では毎年修忌の句会を営んでいる。

表三に、正氣宛ての先生晩年の葉書を載せている。本誌創刊前後の周囲をと思ったが、特にお励ましも頂いて居り、順序の後先はそのままに、大宇陀での晩年のご様子を引き続き録すこととする。

月斗選の春星俳句は、先生の病状で遅延するや、正氣選の春星作品で先生没後を継続した。生を終える直前まで努め、最後は、見落としがあってはならん、島春足せと、私に第二選を命じていた。

春星継続の遺言を受けた私は、日夜時を得ては、春星とそれ以前の誌のバックナンバーを再読、正氣の大半を転写した。更に、残欠の戦前『同人』から、月斗句文の若干を抜書きしてみた。

級友の角光雄君が『うぐいす』で句に復活、やがて編集を担当すると、古老より資料を集め、忌月号月斗特集等に努めてくれた。文学青年つまり文壇的興味の持ち主だった彼には時恰もと言えるが、大阪俳句史研究会等の動きもあって、俳壇も、大阪で肝心要の筈の月斗の忘却に気づく。彼のお手柄である。

光雄君から月斗関連の照会が増えた。句は誰が作っても直しても世に佳き作品ならばと、私は作家云々は後回しのほうで、天理図書館での『ふた葉』か『車百合』かの苦労話も聞き流しだったし、月兎時代の句を探すのは大変じゃ無理と答えた記憶がある。

光雄君は、昭和が終わる前年に『あじろ』を発刊し主宰となる。お祝いに正氣が三原神明達磨の形の絵馬に「がんばれ」と書いて送ると、創刊号の表紙に使った。『青木月斗考』が「車百合ノート」に始まり、以後二十年続いた。がんばったのである。

折に先生の事績を書くのに一つは光雄君向けでもあった。私は、月斗句業を語る際の立ち位置は、明治大正ではなく常に戦前の昭和をと光雄君に言い続け、彼も肯いた。青々全句集の次もあり、光雄君は最後不自由な身で努力していたと思う。

和而不同、句作第一義、正氣が春星創刊時に掲げたモットーである。そして「新しい句を期する勇猛心だけでは、火薬力だけ強い砲丸の如く、遠い標的へ達しきれないのである。伝統を温ぬる砲身の長さが必要である」と言った。新しい句を期するがためである。温故はその捷径なのである。(28.03)

 

 

 

土曜会のこと

 

家での句会を隔週の土曜午後早々に開いている。正氣が三原に来た昭和八年三月に発し、当時は十数名の男性が主で毎週土曜夜の深更に及んだ。四十年ほどして隔週にしたからあと三年で三千回を超す。作り、読み、選び続けた人と句の総数を思う。

今は、正氣の春星舎跡に建てた息子宅の仏間が句会場である。壁に月斗『俳句道場』額を掛け、仏壇の春星居士に面前している。人数が居た頃は診療所の三階だったが、齢をとってみな階段が怖くなった。

大橋際の戦前の我が家は、二階が待合室と診療室と技工室で、窓に湧原川の清流と桜山の三角の常緑が見えた。廊下を隔てた八畳の座敷は、父が煙草を吸い玉露を喫し来客を遇し、夜は土曜が待てぬ連中の溜まり場で、父の仕事が済むまで席題で句を作る。

床の間横の押入れに、句会用の座布団や火鉢と炭斗に各自の号を記した墨壺と筆を記憶する。中庭側の障子窓の鴨居に席題の半紙を重ね貼りした。窓外は狭い縁側で、雙六盤に上がった幼い私が手摺越しに中屋根に落ち、小さ過ぎて雨樋に引掛った伝説がある。

その私はよく座敷に出入りした。鉄道員の森田燈古は、仕事の後一杯やって毎日のように句を作りに寄っていた。幼い私の話に「いかさま、いかさま」とペタペタ額を手で打って相槌する。それが私の「酒飲んで頭を叩く燈古かな」で、これも伝説。

『大河ドラマ「花燃ゆ」特別展図録』(HK)所載の海原徹教授「松下村塾の教育」によれば、初め幽室に二、三名、やがて塾舎とした厩舎跡の当初八畳一間に七、八名が詰めかけた。以来二年十か月で総計九二名が確認されている。入塾の動機が流行や世俗の利を追う者は消え、時間割とてない「塾生各人の興味や関心に合わせた」個性尊重の教育が、「師と弟子というよりも、一堂に会する仲間友人同志の関係」で和気藹々と、松蔭その人が範を示す「何も教えない、というより、無為にして化すやりかた」で行われた。

松蔭は、入門時にその才能の有無を云々せず、上からの押しつけ教育はしない。志有る弟子たちはそれで自ら伸び、やがて世を動かした。

学ぶ側から見て、句会もまさに自得の場である。字の書けぬ幼児にすらそれは通じる。五七五とかなの切字が俳句として、部屋に共に居る間に、幼い脳に刷り込まれたのである。句会場で同じ空気を呼吸し、共に作り、読み、選ぶことで、化すのである。(28.04)

 

 

 

粗末にしない

 

 初学の方ばかりの句会に出るのは楽しみだが、ちと気も張る。最近は俳句人口とかの数の威力で、マスメディアも市場開拓とばかり、俳句を取り上げるようになった。各地での町興しの催しにも有用らしい。戦後直ぐの例えば杉浦民平の今はそっとしたらの俳句の安らかな終焉論など、どうなったのか。

 正氣が「蚊が減れば蛍が減り、蛍が殖えだしたら蚊も殖えだした」と言っているが、取りあえずは蛍が殖える環境の復活は可であろう。

パソコンでも始めるように俳句の教習本が書店に堆い。私は正氣の子どもでいつの間にか句作りしたから、その辺り判らない処がある。ほんとに白紙でのスタートですと言われると何だかホッとして、五七五に季題を入れて先ずは作って貰っている。

例えば、上京するには三原から東へ踏み出すわけだが、一路西へ向かう人も居て、広島空港から飛行機に乗るという知識があってのことである。東方への道標として右手に広がる海の景色を語るには、その人にいったん三原まで戻って頂かねば始まらぬ。

折角だからと、空港から三原へ戻らぬ違う道を探ろうとすると迷う。出直すのが捷径である。生地の染み抜きの如しだ。そして俳句の道は東京への道ほど遠くはないと観じ、幾つかの日の出日の入りを経る人の足での歩み程度がよい。

会話はお互いに時候の挨拶から始まるが、季題は俳句の入り口として、特に暑い寒いは、景色としても共通して気持ちが開けるから、するりと後々の内容までもが入り込めるものだ。だがもっと表面的な意味での題を課しての句作りに始まってもいい。

最初は、句帳を開き鉛筆を舐め舐め季題の連想ゲームが始まる。まあ十ほどで種が尽きたら、そこでやっと本ものを見る気にもなる。この経過を粗略にしてはならない。個体発生は系統発生をなぞるもので、伝統を学ぶには必須の過程である。

 ただ、十の連想を半分作り余して置いたり、一度噛んで味の抜けたガムを又噛んだりはしないことだ。自分が産んだ作品を大事に扱う人に、およそそれは出来ないはずである。水中工事の際の捨て石は、流れずに結果として働き続けている。

 句は、名画を臨摸(敷き写し)するようによく読みよく詠み、要は、それを粗末にしないことである。されば寸時の集中を重ねるうち、必ず自得する。(28.05)

 

 

 

句集『玄酒』に

 

 菅裸馬句集『玄酒』(近藤書店 昭三三)は、昭和二十四年から三十三年までの十年間の主宰句より、石田波郷が纏め、跋を記している。恰もこの間、私は裸馬選入選をひたすらに目指していた。

思えば、島春俳句の躯幹は、その態度やスタイルも含めて、高校生から結婚するまでの期間に当たるこの十年間に形成されたものと言える。翌三十四年、第二期同人選者として認めて戴いた。

波郷の俳句態度は、この跋文に「俳句は生の證の歌であり境涯自照の詩」また「ことごとく草木蟲魚を詠んだものであっても、その作者の境涯は必ず背後に浮かんでくるもの」と、実にその通りである。

ただ、後半の裸馬句に目立つ叙法の傾向として、

 先づ槙に曇れば枝蛙訴ふ      裸馬

 雲の峰のかさむに旁観者たり    同

等の「破調感からは、私はどうしても、よりよき明日の俳句を想見することはできない」という件は、昭和初期の新興俳句で、俳句内容を定型律の範囲にとどめる側からの破調への否定的な考えであろう。

思えば句またがりは、裸馬選の結社句集『地表』(昭三四)にも多く、今の春星作品でも、私を含め裸馬先生を知る方々に濃いような気がする。

ところが、またぞろ俳句界では、季語や五・七・五の定型律を言挙げする傾向にある。本来、句またがりは詩の一つの技法で、意味の繋がりを敢えて改行して思考の流れを操作するが、改行も押韻もなく一行で成り立つのが俳句である。

新興俳句に次ぎ、句にもリアリズムが叫ばれ、対象に内在するリズムが定型律に合わなくなる。俳句基準律を提唱したのは、『同人』を離れた中田青馬で、中身はやや曖昧だが、定型性と定型感と十七音量感とに拠った、最短詩での凝縮の精神の形式化とする。

初心の方に指を折っての575を説くのだが、皆さんがシュンセーは4と、その数を上手に数えて居られる。日本人の拗音シュ、撥音ン、長音―、また促音ッは1である。因みにその単位はモーラという。

波郷の友人山本健吉は、俳句は「読み了えたところから再び全句に反響する性格がある」(加藤楸邨)を卓見だとしたが、まさしく、ほぼ同時的に再度読み込む際、三々七拍子的(モーラの訳語は拍)な具合に、頭の中で手を拍って読んでいると気づく。〈俳句を読んでいる〉という意識が、そんな間を生むのである。(28.06)

 

 

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