平成28年後期

春  

 

新ということ

 

 『春星』の前身となる正氣の俳句雑誌で、昭和二年長崎で仕事を始めた頃の『句鐙』があるが、鐙は馬に乗る際の足掛かりだから、俳句へのそれという意味だろう。次いで諫早から『夕立』発行。以来誌名を替えながら続け、『桜鯛』で戦時廃刊となる。

人には表現し発表したいという衝動がある。長男が大学の頃だから三十数年前の大阪で、東京原宿に始まった竹の子族の流れの若者たちを見た。竹の子とは、店主の竹が付く姓名からのブティックの名称だが、伸びようとする若さと稚さが名に付随する。

彼らがステージとしたのは路上だが、俳句の発表の場はペーパー上だから、場がなければ同じく作った。若き正氣の念頭に築地小劇場があってか、『句鐙』は正喜編集小俳誌と銘打っている。そしてその形質は後にも及び、『春星』に至って名称が固まる。

『夕立』が出た時、中学時代の友人が「その頃より頻繁に誌名を変えて小俳誌を出していた。むろん半年も続刊されたものはなかった。そして今度の『夕立』は十何回目(略)。熱し易く冷め易しと評するかも知れぬが当たらず、それは中学の頃から今日まで句作没頭に忠実であったのを見ても解る」と記す。

進歩というのは、常人の目を以てしてはおよそ確認し難いものだが、変化というのはまあ分かる。そして進歩は、いつも見た目の上での変化という形をとるものである。そしてほんとうの進歩は、人でなく天の裁定に俟つのみだろう。

俳句の僅かな言葉の容量と、古今東西の多くの俳人による句数を思えば、対象となる素材の拡張を除き、新の入り込む余地は少ない。軸として、能のような再現芸術に似るような気さえする。だからこそ作り甲斐があるとせねばならぬ。

正氣は、自分の句についても、「誰かがもう作っているか」を以て判断の基準とした。句会の互選で皆にぽんぽん抜かれたりするならば、いったんは、その自分の句は凡なるやと自警するのである。また奇なりとのみで斥けられるや、奇は大可なりと嘯く。

発明発見とはゆかぬなら、せめて実用新案でもとさえ言った。句で云えば一語、二語にて足るのだ。これを、概観すれば単なる日常だが、生活の端々の無限の微細な揺らぎの感触から見出すことである。

その人の生来の固有振動に共鳴するのだから、余人を以てしては代え難き句となる筈である。 (28.07)

 

 

 

チチンプイプイ

 

  いまでも忘れられない一枚がある。《熊が転んで、金太郎が落ちて、お手々うったと泣き出した、母さん痛いよ、チチンプイプイ》というふざけた歌である。誰に訊いても知らないという。でも確かにあった。私は、毎日のようにそのレコードに合わせて歌っていた。歌詞は四番ぐらいまであって、最後がいずれもチチンプイプイであった。謎の歌である。幻の歌である。

この歌にもう一度巡り合うまでは、死んでなるものかと、私は思っている。

これは、「あのころ、こんな暮らしがあった」という傍題での『昭和恋々』(山本夏彦+久世光彦 清流出版 一九九八)の第二部の春、「蓄音機」(久世光彦)という短文の後半部である。

山本夏彦は大正四年生まれ、久世光彦は昭和十年生まれであり、久世は、第三部の山本との対談で、それぞれの「あのころ」とは、「先生は昭和十年から遡って関東大震災(大正十二年)のころまで、私は(中略)昭和十五年ごろから、東京オリンピック(昭和三十九年)の前あたり」と述べる。つまり「あのころ、こんな」とは学齢から成人前であり、共感できる。

これを以前読んだ時、憶えている私も歌えると胸が高鳴ったが、戦前の我が家にもあったレコードだ。それが片付け物の中から縁が欠けて出て来た。蓄音機を買った時のレコード函に入っていたおまけの様で、演芸ものが多い。久世家もそうだったらしい。

蓄音機をかけた記憶に父や母は居なくて、女中さんが一緒か独りかで、浪花節の〈吉田御殿〉は何だかよく解らず、〈天野屋利兵衛〉の男でござると声を張り上げる部分は槍平だと思っていた。流行歌の〈緑の地平線〉なんかは付属したもの、〈春よいづこ〉〈別れのブルース〉〈湖畔の宿〉や〈愛馬行進曲〉などは買ったものだと思う。童謡はあの一枚だけで、久世が「毎日のように」と言う筈である。

久世光彦のすごさを最後の二行に見る。忘れ得べきとは、懐かしさを超えた斯かる根源のことであろう。生の細事をも疎かにせず、ならばこそ拘る。剥がせば血が出る。俳句作りにおいて時空を観ずる我らも、およそ生半可なものであってはなるまい。

「チチンプイプイ」(桑原邦夫)は、ニットーレコード「ポッポノハトサン」(今井すみ子)のB面、レーベルに和田古江詞・長谷川堅二曲・藤原正生編曲。 (28.08)

 

 

 

句会の奨め

 

正氣前主宰は、句の上達のための手段として、よく句を作ること、よく句を読むこと、句のよき友を持つことを挙げた。

同行した人が旅先の風景を褒めた上で、あなたなんかなんぼでも俳句が作れたでしょうねと言ってくれるが、宿で美味しい御馳走を食べた折にはそれはない。俳句をそのように解しているらしい。

それはそんな気分ではないとしか言えないだろう。俳句を作る際に、韻文(詩)である俳句は、普通に筋道を立てて語る散文のことばとは違い、論理的でないがゆえの何らかの緊張関係が含まれてくる。

〈作る〉とは、材料を加工して製品にしたり、耕して作物を実らせたりすることだ。作るからできるのであり、句がふと口の端に浮かんだとしても、自覚せぬ内に明らかにある種の精神の起伏を経ておるので、普段の気持からの産物とはいえない。

わが土曜句会では、皆が揃う前に席題を出す。すると大相撲の仕切りみたいに忽ち気合が満ち、席題の出句に続き兼題の清記・互選の運びとなる。済んで、今日はいまいちだからもう一つ席題を出そうかと言っても、もう誰も肯わないでお茶になる。

お茶の話題は食い物のことが多い。前回は子供の頃の「山のガンスは甘もがんす(あります)、町のガンスは酸ゆがんす」の木の実が判らずじまいだったのを、Tが調べてきてスノキ(酢の木)だという。薄い記憶のツツジ科の実なら、釈然とした。

さて、句会兼題の出句を以前の九句から六に減らした。数作らせたいが、投句が、ブルペンでの腕慣らしの投球のようでは困る。数で一球二球見るべき球筋はあろうが、野球試合は、句会も、春星作品も、その人なりに、全投球が全力でなくてはなるまい。

句作りの間は、選をする場合もだが、気圧の高いカプセルに入り、無意識に密度の濃い息をしている。だからお茶をして、海中から浮かび出た潜水夫のようにマスクを脱ぎ、大気中で息を整えるその快さ!。

句会は二人以上で成り立つ。冒頭の句の上達への手段の三つが、句会に於いて満たされる。選句の際も、一句一句、その句の作者と同じ場にまず立つことに始まるのだから、一所懸命に読む。

序でながら、〈読む〉とは数をよむがその原義だが、春星の句それ自体を反復読むことである。我が句入選の「数をよむ」事で終わるのではないように。 (28.09)

 

 

 

造化への参入

 

題詠の菊で嵐雪の「黄菊白菊其の外の名はなくも哉」のように、無花果なら「いちじくに目の無き女子供かな」から先が進まない。これは昭和初期の土曜句会の人の句だが、矢がうまく的に当っている。

改造社の『俳諧歳時記』(昭八)は、七月の夏の部(月斗)に始まり、九月に秋(青々)、十、十一月に冬、春(虚子)、十二月に新年(句佛)と半年掛けて出版した。新年季題(陽暦一月と陰暦一月に属する)を別にするが、四季に各題を分類という基本では変わらない。

その翌年十一月、虚子は『新歳時記』を三省堂より刊行する。序文に「文学的な作句本位の歳時記を作るのが目的」とあるが、当時の有力結社が分担した『俳諧歳時記』では、何かと不満足だったろう。

例えば、夜の秋、「俗に土用半ばにはや秋の風などの諺語より近時作られたる新題なるべきも、否定すべきなり。古人の夜の秋と詠ひたるものは、総て秋の夜のものなり」に対し、『新歳時記』では、「夏も終りの頃になれば、夜は秋の如き感じを催すことがある。それをいうのである。秋の夜のことではない」と。

『新歳時記』は、四季による区別は残しながら月別の分類で、冬は巻頭と巻末に別れる。『俳諧歳時記』では、時候、天文、地理、人事、宗教、動物、植物と分類する。『新歳時記』はこれを廃し季節の推移に従うが、個々を月別に定めるのは難しそうだ。

以後の山本健吉『最新俳句歳時記』(昭四七 文藝春秋)では四季と新年の五巻で、四季各冊は、三月に亙るものと初・仲・晩の四部門に分けた。更に時節、気象、暦日、山野、園芸、水沢、海洋、田園、行事、飲食、遊戯、雑とも分類する。検索の便だという。

菊と無花果を検索すると、『俳諧歳時記』では共に秋で植物である。『新歳時記』では共に十月に置くが見付けにくい。『最新俳句歳時記』では菊が三秋の園芸、無花果が晩秋の田園、新しくなるほど難渋した。

序でに、『俳諧歳時記栞草』(曲亭主人纂輔・藍亭青藍増補)では、旧暦で一年を春夏秋冬四巻に分けるが、並びはいろは順なのがたいへん。で、無花果の「一月にして熟す、故に一熟と名つく」が面白い。

カテゴリーに分ける仕方の違いは、その国の文化である。検索の便をとるべきではなかろう。吾人は、春・夏・秋・冬、天・地・人、これを尊ぶのである。

各四季の季題を通過するという句作りのプロセスにて、吾人も容易に造化へ参入できるのである。(28.10)

 

 

 

自然に即す

 

 本棚の隅から丸まった小冊子が転げ出た。古い囲碁雑誌の付録である。私は父と井目風鈴で打っても全部取られる程で、碁の手筋に興味はないが、達人の藤沢秀行なのでめくると、「定石は〈常石〉と解すべきです」とある。

 短いので続いて読む。「定まった石ではなく、その場における常識的な石と考えるべきで、そう思っていれば、変化の自在について行けます」「碁が生きものだからでもあります」と。

 恰もノーベル賞の季節だが、人の考えや人の気持にはそれほど開きがないもので、出来そうなことには誰でも手を出し、思いつきそうなことは誰でも思いつく。短い俳句なんかそうだろう。それでも!発明発見は成され、佳句は生まれて来る。

 物の名や画像という題材を与えての句作りゲームでは、連想や用語の工夫で、他を引き離すことはできる。また十二音の既成の語に、最適の季語を斡旋するという句作りの手段もある。優劣のバトルも成り立ち、俳句の形を習うには便利だろう。

 これも又何かで見た「偶然完全」という勝新太郎の語呂というか言葉を挙げよう。黒澤明監督の『影武者』の役を降りた彼は、現場の即興性をこそ尊重する。やっと演技が完全となるのだ。けだし偶然とは大いなる造化の仕業なのだろう。

 新聞俳壇なんかでも、詩歌での〈寄物陳思〉のは即季語ではないのに、季語という僅かの具体の他は、抽象の語のみに終始したものが目に付く。そんな句が読みに入り易いのだろう。その句の評釈とか感想を自由に展開させるには、作者身辺の現物の語があっては時に始末が悪いらしい。

 いわば物証の不在は、作者と読者が一様になるというか、評釈の際に、作者の住所氏名年齢性別などの外部情報を忍ばせて、作者以外が己の領分の具体を提げて一句に入り込み、勝手に展開することもできる。かくして、極端に言えば、作品内容を変えた一見「深い」鑑賞が容易となる。

 演技の「偶然完全」(勝新)や、詩作での「機会詩」(ゲーテ)を絡めて考えていて、一時の〈写真俳句〉熱を思い出した。俳句で伝えられないイメージを外から写真で広げるのだ。外からや写真では駄目だが気持ちが解らぬでもない。

 旦暮また生涯を俳句に過ごす我らである。その句作りが、自然とその機会に即すべきは、俳句が「生きもの」だからである。 (28.11)

 

 

 

草花の一枝

 

 年男であった申年もとうとう去るのかとしみじみ感慨を覚える昨今である。曜日でいうと、誕生した日が月曜であり、今年の誕生日もまた月曜であった。さて私の年齢は?。

最近走ったりすることが無くなったのに気が付く。つまりどちらかの足をいつも地に付けている。そして背筋を伸ばしての早足を心掛けている。二足直立歩行というのを用心するのである。

サルからヒトになるように、連句からある時俳句が一本立ちしたのかというと違って、芭蕉の辺りよりの俳諧の発句の姿はそのまま、明治の子規によりはっきり俳句という名と形が定まった。

正氣師は、子規が俳句分類をして、歴世の俳諧の総括をしているから、我々は、安んじて子規以後の俳句を学べばよいと言っていた。

正氣師の大村中学時代の諫早の下級生に、詩人の伊東静雄がいた。大抵は句を作れと命令されるのから外れたのは、当時、身に文学の匂いを付けなかったのだ。彼は佐賀高校で短歌を作り、京大文学部国文の卒論では『子規の俳論』で首席となる。

サルの生態を研究したりする霊長類学は、人間性へのアプローチを意図しているのだろう。つまりサル性と人間性との違い、その進化の経過を見ようとするのである。俳諧の発句と子規による俳句との間のそれは、子規の写生主義程度なのか。

伊東の卒論は、子規の芭蕉論、写生論、蕪村評と新派俳句の原理に対する芸術論的な評の上で、子規の写生主義を肯んじなくともその史的意義として、知識と陳腐を脱することへの啓蒙を評価する。

子規は、一本立ちした俳句の立場で、芭蕉の俳諧の発句を俳句として論じたのだが、伊東が応じたのも同じで、穎原退蔵に注目された。虚子が、花鳥諷詠の語を唱えた時期に当たる。

結びに伊東は、子規晩年の飛躍として、「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると造化の秘密が段々分って来る気がする」(『病床六尺』)の文と、『仰臥漫録』の句を挙げている。

 洗ひたる机洗ひたる硯かな

 山吹と見ゆるガラスの曇かな

 梅干すや桔梗の花の傍に

 鶏頭の十四五本もありぬべし

 芍薬の衰へて在り枕もと

 火を焚かぬ暖炉の下や梅の鉢

この句々やよしと肯うわが昨今である。(28.12)

 

 

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