平成29年前期

春  

 

群れ生活者

 

四度前の酉年の「初鶏や寿・旭・東町 島春」とは、東方から順に列ぶ三原市の町名である。続いて和久原川を越えて城内の館町、城町となる。鶏鳴は、もうその頃は小学校の飼育のぐらいだろう。

三原城は、今年築城四五〇年を迎えるので、そのイベントにと、お濠端の復古作業が進められて来た。お濠には錦鯉を入れるのだという。元来が海城だから、堀から上がった鯔が水面に跳ねていただろうに。

自然が狭まって、はみ出た猪や狸の話題が身近となった。和久原川でも、鷺と街の烏が堰に並んで日向ぼこしている。川の片側は歩道もできて、そこから磧に下りる手立てはなく、遊ぶ子供の姿もない。

戦前の我が家は、裏庭の横の木戸から石段を下りればすぐに和久原川の磧であった。中央の水が走る箇所が大石を置いた共同洗濯場で、菜っ葉やおしめや焦げ付いた釜やこの時期では張替の障子を洗った。

幼い私は、一人遊びも結構こなしていて、家周りの細部を知悉する。その木戸から一歩出れば、梅雨時は櫨の根に猿の腰掛が生え、石段の右に細い梅とその横に太い幹の柳、ここに夏は油蝉が常駐する。左は赤いカンナ、その先の石垣から花石榴が垂れ下がり、煙色の下水の口がある。ここでは遊ばなかった。

だが、後に生物の試験で、蛙はどんなところで見つけられるかという問題が出た折りに、私はあの花石榴の下の様子を想いながら、当地の水辺で草むらがあり、常にじめじめして日が当たらず、蚊などが居て等々を生態学的に整理して述べた。

霊長類学の今西錦司は、晩年、個体から個体群へそして地域共同体へという階層でなく、個体から種社会へそして生物全体社会と置いて、種社会の上に〈群れ生活者〉を加えたらと試みる。

群れで生活を営む者に意識を見る。人間では、三原でも昨シーズン広島カープのリーグ優勝で、誰彼もが大騒ぎだったが、同じ広島県だからだろう。念珠ブレスレットの親珠の透かしに赤帽に優勝のカープ坊やが居るのを貰ったりもした。

夏に、ベランダに巣作りを始めた脚長蜂も、それぞれの役割での共同の働きは整然とする。人間めいたその気持ちが見える。群れ帰属意識(今西)というのだろう。退治しようとして止めた。

そんな自然界の営みは、造化の働きとしか言えないものがある。俳句作りで猶更にそう覚える。(2901)

 

 

 

♪PPAP

 

正氣前主宰の印刷所に渡す原稿は、原稿用紙にペン書きの楷書であった。それが翌月に用済みになると、裏返しにして使えと孫たちに呉れる。孫たちはそれに筋のある漫画を描き、ホッチキスで閉じて雑誌の真似みたいにした。

ペン書きは、インキにペン軸の付けペンだから、丁寧な楷書の文字の溜めの箇所が裏までインキが透っていたりして、それが多い紙片は、見れば終わりのほうのページにしている。納戸の奥の古箪笥の抽斗から出てきた。

音感のpenで、私の頭に浮かぶ形は、そんなペン軸と付けペンである。そして、ペンが紙を擦る微かな音やインキ壺の匂い、箱に詰まるペン先の光や畳に零した痕跡など思い出す。

今のこの原稿はパソコンのワープロだが、机上に、お宮で頂戴した筆立てを重宝している。銀杏の枝の丸切りの面に六個の穿孔があり、黒、赤のボールペン、赤のサインペン、四Bの鉛筆、蛍光ペン、ペーパーナイフが立っている。

それが、今流行の〈林檎に突き刺すペン〉の私のイメージはペン軸に付けペンなのである。あんな風の英語を習ったのが戦中の昭和十九年であったし、ボールペンなんかまだ無かった。

共感するとは、他者と色んな感情を共有することで、PとAとの音と短い曲を主に、それだけではあんな共感、共鳴はなかったろう。俳句作りから見れば、ペン、林檎、鳳梨のイメージを呼び込ませたことで成功している。

それらの現前する物体が、〈観念〉にこの世の生気を吹き込むから、聴者にある種の〈情緒〉が産まれる。動作が伴えば猶更である。十二音の形の無い観念文句に、季語を取っ替えて突き刺すような俳句作法の弱さはそこにある。

透明人間同士が、「君が好きだ」と、果たしてお互いに感情移入が可能なものなのか、考えさせるではないか。やはり面前に、客観的、具体的な形で互いに類似する個人的体験の持ち主が居るからこそ、共感は生まれる。

僅かな文字の俳句が、文字の間を読み解き、豊かに伝え得て成り立つのは、互いに似た仲間、俳句を知る者同士の存在だろう。それに適応する人数の『春星』である。三読されたい。(2902)

 

 

 

浪華俳人月斗

 

辞典も事典も字典も座右に置くが、ワープロ書きではネットのそれでつい調べる。もう我が国のネット上の情報量は本の五百万冊分だとか。大学出た頃、河出書房『大菩薩峠』の最終八冊目は遂に笹本寅の梗概で読んだ気にした私に、想像もつかぬ数量だ。

その〈青木月斗〉での検索は、やはり真っ先にウィキペディアがくる。このネット上の百科事典は、利用者が提供する知識(出典明記)に基づく記述である。五年前の内容で、〈青木月斗〉の生没両方の月日が誤っていたのは、作業時のミスだろう。

因みに、出典と記す『現代俳句大辞典』(三省堂)は未見だが、日付は手違いとしても、記述の豪商や山水老人や京阪満月会主宰とかが気に障り、手間かけて、二番手ヒットのわが〈青木月斗のページ〉から要約して一応だが取っ替えた。顔写真も入れた。

その後どなたかが写真を変えていた。佐多稲荷の石段を登る月斗・女々夫妻である。調べると、昭和二十三年の『アサヒグラフ』二月四日号(朝日新聞社)の写真らしい。この時期の夫妻での姿を見るのは切ないので、再び以前の昭和十四年の写真に戻した。先生満六十歳誕辰の日の写真である。戦前の昭和の俳人一方の雄たる時期に当たるが故である。

戦争は終わり、『同人』復刊(昭二一・四)の半年後、先生の大宇陀のあの写真の頃に近いが、講談社が純文芸雑誌『群像』を立ち上げた。初めの数か月は創作に詩・短歌・俳句もあった。編集者の観点での選択らしく、俳人は秋櫻子、蛇笏、波郷、たかし、汀女、虚子、孝作、草田男で、当時の俳壇的な定番だからか、短歌も俳句も一度きりで消えた。

その四年前を見よう。戦中の資料は乏しいが、俳壇に代わる日本文学報国会俳句部会(虚子)の下、上野市が開催した芭蕉生誕三百年祭(昭一七・一一)の選者を数で挙げる。第一部虚子ら二十四名、第二部月斗ら五名、第三部秋櫻子一名は、各『ホトトギス』、『同人』、『馬酔木』で、第四部から第六部はその他俳誌の計二十一名、第七部は自由律で三名。

思えば、『同人』の戦時廃刊(昭一九)から大宇陀疎開以後の月斗句業に、見るべきものは乏しい。その『時雨』序(昭二三)に記す「現代の俳句、滔々として新月並に堕してゐる。百年に通じる句はない。味と調を提唱する所以である」も、成果は遠かった。今や月斗の標が奈良大宇陀と京都洛北、とはと思う。(2903)

 

 

 

口絵短冊のこと

 

俳句そのもののような俳句雑誌、が理想である。本誌は、入れ物も中身もそれをと努めている。

俳句といえば短詩型。外に簡潔、内に充実を旨とせねばならぬ。俳句雑誌のボリュームは切り詰めて、ページの空間は必要なサイズの文字で満たすことだ。特段の飾付けは無くていい。作家をランク別して、活字のポイントを違えるなんか論外だ。

俳句作品は、一箸に摂取し、咀嚼し、嚥下できる大きさだから場所をとらない。一句はそれぞれ一句で独立する筈だが、これを並置するのは、便であると共に宜でもある。同じ作者の句を連ね、ページにすし詰め でもそれも、特性なのか、俳句らしい。

本来、俳句は短くて定型なので、読みながら、何度も無意識のうちに反芻している。また彼我の句を時を置いて再読、三読を行うものである。雑誌の内の句はその周囲の時空をも含み、私は、書籍にした句よりは雑誌の句を読むのを好む。だから、新聞雑誌は燃えるゴミ、という張り紙は胸痛む。

そして季節感。ぬくうなりましたねと、その共有から俳句の共感は発する。されば「俳句雑誌の四月号」とは今年発行の第四号という意味合いに止まらない。そこで、王樹さん健在の頃は、謄写版ながら、月替わりの風物の表紙絵であった。

翻って、薄いのに表紙が要るかといえば、戦後直ぐの西洋紙二つ折りで始まった本誌だが、紙にゆとりのある時代となり、表紙の役割として、内容を保護すると共に、一目で俳句雑誌『春星』たるを示す要がある。顔としての月斗題字の所以である。

事情で今は季節のない表紙で年間を通すから、せめてと、表紙を開けた処に俳句短冊を置き、季節感を点じている。嘗ての月斗『同人』を支えた選者連を次々に載せたが、暫くしてしまったと思った。筆跡の悉くが師の書風に似るからである。

オマージュであろう。正氣もまた古梅園「紅花墨」三ツ星をよく磨り、平安堂の筆「龍眠」四号の穂全ておろしてよく含ませ、軸の最も端をつまみ、左手に掲げた短冊に書いた。顰に倣うのである。ここらでと、本号は原点たる月斗短冊を以てする。短冊は一句の作品呈示で、あと俳号のみ、それにて足る。

さらに加えて言うならば、最短の詩形である俳句では、佳句は、記録しなくとも、そのまま人の胸の内深くに住み付くことができる。 (2904)

 

 

 

ボチャボチャ

 

碧梧桐宅で娘時代を過ごした月斗六女岡本百合子さんの文中、碧梧桐晩年の書に対する月斗の言いぐさが面白い。遠慮ない口が叩ける義兄弟の仲であった。

「五百子にこのようなハガキが届いた。イホコハヘキゴドウノヲジサンヨリジガウマイエノヤウニウマイ。

 五百子が一字一字嬉しそうに声を出して読み上げた日も、遠い遠い過去のことである」。(「父の書簡」)

「主人がうっかり床に碧梧桐叔父の書いたものを掛けて置くと、こんな字がなんや、酔っぱらいの字やと言って、主人をよく苦笑させました」。(「父の思い出」)

また、亀田小蛄編『碧梧桐句集』の月斗跋文には、「最後に一言。忌憚なき処をいふ。(略)子規居士の書に親しんだ碧梧桐も美しかった。後年の奇怪な書は迷惑なものだ、と言ってよからう。句も亦然り。」と。

 月斗によれば、子規の書を在世中は皆模倣し、碧梧桐は最も似、格堂、瀾水、挿雲らも似た。後に碧梧桐一門は六朝体、月斗一門の短冊も掲げた如しだ。

ぶは真似ぶ、習うは倣うで、昨今のお仕着せの俳句講座や教室とは違って、行住坐臥に至るまでの師弟間のそこには全人的な授受があった。無垢になり切れればそれはより濃いのである。

赤ん坊が口を突き出し有声で唇を開く音が、ウマウマと聞こえると、食べ物と初めて言ったと親は喜び、はいウマウマと呼んで食べ物を与え、仕草と声でまたウマウマを促す。赤ん坊はその繰り返しで、発声と食べ物とを結び付けて学ぶ。

 うちの上の子は、近所の踏切にポッシュシュを見に行くとせがんだが、三つ下の子では、ディーゼル車に替わり、シャーと呼んだ。片言の「ボチャボチャ、ウンニャ、シャー、オッオッ」とは、風呂に入るのはいや、汽車を見に行きたいで、ウンニャはノウ、オッオッはイエスだ。これでも意思疎通は充分だが、俳句の場合、初めから片言では作らぬことだ。

必要なてにをはも略し、意が通じればよいという片言での句作は、以前にはなかったことだ。練達の書も然りだが、上手の句に、一見して片言のようなものがある。その見極めがつくまでは、闇雲にただ不精しての句作が、結局は遠回りになるとこの頃思う。

一度言語機能が成立したならば、生涯に亘り保たれて居り、風呂がボチャボチャには戻らない。猶更のことに型を持つ俳句では、高齢者でも言語は崩れるどころか、磨かれても行くのである。 (2905)

 

 

花には花の座

 

連俳の花・月の定座のことでなく、ここは、「学校などの便所に花をいけて美化を試みる習慣?」につき、頼桃三郎先生が或る教育雑誌に書かれた「花には花の座がある」の話である。

紫桃郎、頼桃三郎先生は、竹原の頼家(春風)の血筋である。戦後日本放送協会を辞められての広島大学教育学部三原分校付属校長十年間に、私の弟妹達が在校していた。正氣は、PTAカリキュラム委員長で会報を発行し、離俗の両者投合したようだ。

会報誌十年間の小・中校長としては凡そ不敵な「PTA雑記」や教育雑誌への連載、『春星』に寄せられた俳文十四篇や大原士匡教頭の『真葛』への文、自作の童話を、付属小国語教諭の岡屋昭雄先生が纏めた『十菊随筆』(非売品、昭四九)に収めてある。

岡屋先生は、息子の担任であり、私もPTAで一緒に仕事をした。後に北海道教大、香川大、佛教大教授として直情を以ての国語教育に当たられた。『尾崎放哉論』(おうふう、平一〇)の著があり、『春星』にも長期(平一一より一九)の連載稿を頂いている。

話に戻ると、明治生まれには、「別に理由をとうまでもないのです。便所の中へ茶わんをもちこんで食事をしてはならない、というほどあたりまえのこと」であって、「花には各々そのところと役目とがある」と頼先生は仰る。はなはだ明快である。

「貧しい少女の屋根裏の小べやの窓辺におかれたデイジーの一はち」ならばよかろうが、「ほこりっぽい駅のプラットフォームには花は不要である。清掃と打ち水がいきとどいて、機械的な鉄骨の裸の美のみあるほうがかえってよかろう」とされる。

花を浄とし他の不浄を打ち消すとは、「花は美なり。ゆえに醜を美化する」という「幼稚な形式主義」である。戦後の西欧化に基づくのだろう。日本精神は、〈すべての物を綜合統一して、簡単明瞭に、易行的に把握せうとする〉(西田幾多郎)のである。

この幼稚な形式主義を、俳句作りでもまたその鑑賞に当たっても、持ち込んではなるまい。早い話なら、うちの句会の女流が、席題に虹ならともかく蛇はわあいやだと宣うようなのもそうである。蚊に食われたという句だって胸を打つのだ。

纏う世俗のあれこれ、まして誰彼との比較なんかを介さない、十七音(拍)の土俵にて句は足る。やはり俳句には俳句の座があるのである。(2906)

 

 

戻る