平成29年後期
松 本 島 春
国民文学・俳句
俳句の発表は、作品に住所と姓と号(名)という形が戦後は一般的である。昔は姓はなく住所と号だけだった。世俗の身分境涯は問わずであり、住所は同号異人の区別になる。仲間意識の濃い文藝である。
仲間うちに家族みたいな秩序が成り、流派が生まれる。本誌の下垣内和人「近世芸備地方の俳諧」(昭四三)では、三原も貞門以来談林から蕉風特に野坡、その流れの風律から幕末の多賀庵の系列と、明治までを述べられた。子規らの新派俳句は、この後、地方へスポット的に齎されたが、三原では詳らかでない
村山古郷『明治俳壇史』(角川書店、昭五三)の明治三十二年、博文館が募った俳人番付の順位は、永機、幹雄、聴秋の宗匠連の後ろに子規、紅葉、竹冷の名が挙がる。月兎(月斗)が子規庵を訪うた年である。
活字という媒体での新派の動向は、海面の波のように目に見えるが、旧派と呼ばれた側の動向は、風も無く波を起こさぬ底にあり、桃雨の探索でも感じたが、その姿は新派俳壇史観ではなかなか見えぬ。
『大正俳壇史』(昭五五)の大正十一年、また別の俳人番付では、旧派の名の多さを古郷は訝しみ、且つ新派の顔ぶれが偏る(それは虚碧俳壇史観の目だが)として、「碧派の流れを汲む」人の編纂かと疑う。少年正氣が長崎の句会で月斗に出会った翌年だ。
正氣が育った諫早でも、明治初めに花の本系の多くの俳人が居て、やがて〈段々句〉の形が流行り、明治末の荒川一々に至った。「大正十年ごろから新しい芽」(市川青火)とは、都会から来た教師や長崎日日新聞などの俳句に触れた正氣ら少年たちである。
宗匠制度を以て旧派として、そこに集う衆の俳句の種はその土壌で芽吹くが、「新しい芽」とは、少年たちが別の土壌に触れて芽吹いたのである。この地方俳句風土の在り様は、俳句の種はこの国土の民の誰もが持つから、全国に及ぶ。そして俳壇史的な流れは、こうした無名の多勢が靡く方向性が左右する。
その国の特性をよく表し、広く愛読されるのが国民文学だが、俳句は、短い日本語で忖度という受け渡しを要し、読み手即作り手だから、量的には今も全国各地に瀰漫している。何々協会とか更に行政区画別によるその支部なんてあるほどだ。
マスメディアが俳句を重宝する現況で、ある種の好みが集団内に広まると、それしか選択しなくなる運びとなるという〈ランナウエイ説〉は頷ける。(2907)
所詮は行
その年の八月には、もう父正氣は自分で字を書かなくなって口述した。日常の会話とは語調が違うと、それをベッド脇のメモ帳に筆記する。雑誌のための幾つかに「俳句を始めたのは大正九年三月十三日、以後一日の休みなし」とある。
日付までと思ったが以前に考証した。後段は重々承知しているところで、きっちり正味の七十一年五ヶ月である。地球の公転での数字上は、島春は戦中の中国同人会(月斗選)からでは父を越えるが、ようやくその言の持つ重みが解り始めた。
父の晩年、私は世俗多忙の年頃で、春星作品も父の第二選に一日で間に合わすという不肖ぶりだった。今のわが身を見るとき、月々、子規の〈柿〉単位でいえば一つ余りの選句と、六回の句会、句作りと調べものやこんな文章書きとで半日満たしている。
正氣は「俳句のある生活」と呼ぶ。どこか片隅にというのではなく、生活全般に溶け込んだ有様を指すのだろう。正氣は、その楽しみは、所詮は行そのものにあるという。随伴する慰安や娯楽ではない。また世俗の名利に塗れぬは月斗、裸馬の系譜だ。
凡そ生活の装飾、人生美化のための手段というのが昨今の西欧風のトレンドだが、短詩定型の俳句作りの現場では、東洋の道としての〈切磋琢磨〉が似合うのではないか。句作りのその実技も、気張らず地球の重力のままに、とは現実には難い。
中島敦『名人傳』の紀昌は、弓を射る前に、師の飛衛に瞬きせざることを学べと命じられ、家に帰り、妻の機織台の下に仰向いて瞬きせざる修練を重ねる。二年にして、彼の目の睫毛と睫毛との間に小蜘蛛が網を張る。飛衛がいう。次には視ることを学べと。再び家に戻り、虱を一匹髪の毛をもって繋ぎ、窓に懸けて終日睨み暮らす。三年の月日が流れた。ある日ふと気が付くと、窓の虱が馬のような大きさに見える。
これを射るのは楽だ。句作りでは、ただ見るもの聞くもの、自ずから句と化する境地だろうが、そんな技に至るまでの修練は人わざではない。だから、本誌の永い句歴の方々の毎月の句作りにも、持てる全力を費やされている姿勢が窺える。
白川『字統』で、〈作〉は木の枝をまげて垣などを作る意とある。これは分かる。俳句作りもそうだ。生来非力の私は、過日裏庭の椿の高枝を引っ張って切っただけで背中が痛くなった。
(2908)
子規忌に思う
子規の九月、月斗の三月と、正氣は遠方からも人を寄せ周忌句会を催した。正氣の八月十四日はお盆最中なので土曜会で修し、子規忌に併せる思いである。
中野三允は「九月は十八日に石井露月逝き、翌十九日に正岡子規逝き、二十三日に高田蝶衣、(略)その後岩田鳴球が二十二日」と述べ、自身は二十四日。
本号にその前年の三原での三允文を再録した。私は遊学中で、小集には弟妹達も入り、薔薇、昼寝、蚤の席題で、柳俳一如を想わせる三允翁の句に皆たまげたらしい。文中、乗船名まで記録する辺り、三允の伝える子規の事歴に信を置く根拠としたい。
故和田克司先生は、私如きのお尋ねにも懇切に応えて下さった。椎の友の片山桃雨を、複数成書の筆跡とその生年、在阪との予断を基に、状況より当地三原にも絡む身上として殆ど特定したのが、一転、別人の大阪の旧派の桃雨との確証を得たことがある。
このプロセスで、先生は巨細に桃雨の資料を探って下さった。昭和二十七年三月号の片山桃雨の一応の総括と参考文献に「松本島春宛私信 和田克司」とのみ記したのは、メールの往来だったからである。
その一つとして、同年十月号の「子規五十年祭川越展目録」では、長瀬雲屏に関わり、その先生の緻密な考察をお示ししたが、その他についても少し整理をした上で、記録に留めておきたいと思う。
この時、先生は、今治での河野美術館講演会への途次に次男の弔問に寄って下さった。同行叶わぬ私に、メモリーの講演レジュメとスライドと、俳人名簿明治四十一、四十二年版、「俳諧木太刀」、神戸和露文庫目録ほかの画像を下さった。予定の汽車を次のにし、それもぎりぎりで、遅れたらUターンと話し続けたのが、お目にかかった最後になった。
それ以前に、桃雨究明にも役立つかもと古い「尾道商工案内」を示されたが、この宿のことは、著『子規の一生』での明治二十八年三月八日「古島古洲と尾道行きか。」の「か」一字の推敲であろう。
また耕三寺博物館の明治短冊展にご一緒した折、桃雨短冊を見て貰った後、ランチ中も先生は子規の遠い係累を語られた。子規は偉大でもややトリビアと拝聴の私だったが、そんな思いが消えた瞬間をはっきりと記憶する。続きの船中で、子規、小蛄、月斗の何かの話題の内に、つと声高に先生の発せられた〈俳句は素晴らしい〉の胸底からの一語である。(2909)
水そして露
私の小学校時代、男子には工作、女子は裁縫という学科があった。戦後の新制中学校の必須科目の家庭科は、私が結婚する前年の昭和三十三年からで、その後男女が同じ内容となってからは二十年を過ぎる。今の成人は誰でも家事万端営めるはずである。
父正氣のことをいうのは何だが、平時は、母が傍に居ないととても暮らして行けなかった。父のところによく人が訪れていたが、皆さんが母の名を覚えて帰られる。父が例の大声で、のべつ「つゆこ、つゆこ」と連発するからである。身辺のもの探しなんか、父は母のことを名人と言っていた。
不肖でなく私も、老大に俳句を教えに行くよりは料理でも習うほうになりなさいと、皆さんの温かい言葉を戴く。以前に住職さんから、先々代の袈裟の襟に、
父の袷が似合ふ一事を孝とせむ 正氣
と父が先代にと墨書したのを下され、先々代と父は昵懇でも恐縮だったが、まあ親に似るのは孝だ。
別病に別居し老のこの秋思 正氣
母は父よりも遅れて病を得、それでも父の世話のために早く元気にならねばと手術し療養したが、父より二年早く世を去った。母が入院すると、父はその間煙草断ちをすると宣言した。本当はもうとっくにCОPDで吸えなかったのだが。
妻つゆ子忌日
妻と呼ぶ水よ女と呼ぶ露よ 正氣
この句は、正氣没直後の春星作品に遺句として載せた。当時は妹のみえが助勢に来てくれていて、八月七日、父の言動をメモした中に残っている。忌日は七月二十九日だが、以後も頭にあったらしい。
あれと思ったのは、以前から推敲していた筈で、記憶で〈妻〉と〈女〉とが入れ替わったかなという、私の勝手な思い込みでいえば、それは、女性が水という一般的存在であるとして、わが妻はその水の凝った存在、露であるとするのである。
しかし今また思うに、〈妻〉という作者にとり必須の存在である水と、〈女〉と呼ぶ個としての存在の露、ということでもある。まあ、どちらか折り紙のだまし舟みたいであり、そこがまたよい。
推敲するというのは、かくもこの詩型を尊重するがゆえである。器用な才ではないからこそただ一筋につながり得る。常套を以てわかり易さとしたり、練磨せぬことを以てうぶの侭としてはならぬ。(2910)
国民文学・俳句
俳句の発表は、作品に住所と姓と号(名)という形が戦後は一般的である。昔は姓はなく住所と号だけだった。世俗の身分境涯は問わずであり、住所は同号異人の区別になる。仲間意識の濃い文藝である。
仲間うちに家族みたいな秩序が成り、流派が生まれる。本誌の下垣内和人「近世芸備地方の俳諧」(昭四三)では、三原も貞門以来談林から蕉風特に野坡、その流れの風律から幕末の多賀庵の系列と、明治までを述べられた。子規らの新派俳句は、この後、地方へスポット的に齎されたが、三原では詳らかでない
村山古郷『明治俳壇史』(角川書店、昭五三)の明治三十二年、博文館が募った俳人番付の順位は、永機、幹雄、聴秋の宗匠連の後ろに子規、紅葉、竹冷の名が挙がる。月兎(月斗)が子規庵を訪うた年である。
活字という媒体での新派の動向は、海面の波のように目に見えるが、旧派と呼ばれた側の動向は、風も無く波を起こさぬ底にあり、桃雨の探索でも感じたが、その姿は新派俳壇史観ではなかなか見えぬ。
『大正俳壇史』(昭五五)の大正十一年、また別の俳人番付では、旧派の名の多さを古郷は訝しみ、且つ新派の顔ぶれが偏るとして、「碧派の流れを汲む」人の編纂かと(それは虚碧俳壇史観の目だが)疑う。少年正氣が長崎の句会で月斗に出会った翌年だ。
正氣が育った諫早でも、明治初めに花の本系の多くの俳人が居て、やがて〈段々句〉の形が流行り、明治末の荒川一々に至った。「大正十年ごろから新しい芽」(市川青火)とは、都会から来た教師や長崎日日新聞などの俳句に触れた正氣ら少年たちである。
宗匠制度を以て旧派として、そこに集う衆の俳句の種はその土壌で芽吹くが、「新しい芽」とは、少年たちが別の土壌に接し芽吹いたのである。この地方俳句風土の在り様は、俳句の種はこの国土の民の誰もが持つから、全国に及ぶ。そして俳壇史的な流れは、こうした無名の多勢が靡く方向性が左右する。
その国の特性をよく表し、広く愛読されるのが国民文学だが、俳句は、短い日本語で忖度という受け渡しを要し、読み手即作り手だから、量的には今も全国各地に瀰漫している。何々協会とか更に行政区画別によるその支部なんてあるほどだ。
マスメディアが俳句を重宝する現況で、ある種の好みが集団内に広まると、それしか選択しなくなる運びとなるという〈ランナウエイ説〉は頷ける。 (2911)
句日記のこと
前号まで、『櫻鯛』の戦時廃刊前後の正氣の句帖を載せた。第四十九巻(平六)十一号から二十回にわたって収録した昭和十六年後半の「正氣句日記(二)」の前年に当たる。この間を埋める句作はまた捜す。
昭和十六年八月、「先月より句日記を始めた。楽しいものである。身辺のこと尽く俳句と迄は行かぬが、それを期してゐる。日記といっても記録句の羅列では面白くない。一句一句芸術するのである。毎日毎日続けてゐれば作句が苦しくない」と。
十月、「相変らず句日記を続けてゐる。一日として白頁はない。平均六七句くらいか楽作苦作である。良き句ができる生活を期してゐる。机上の作を否定するのではない。幻想は飛躍の基因である余の生活実践のため暫く凍結させてゐるのである」と。
戦時体制下という時代の句作は、俳誌というステージが閉じられて、路傍の踏み台に立つようなもので、ついつい気合は削がれたことだろう。即事即物のほかは「暫く凍結」と言っている。それでも呼吸するように絶やさず作っていた様子が窺える。
ここに至るまでの正氣は、自分を「机上の作家」と称し、俳句は〈胸中の山川〉を最も純粋に表現するに適した詩型だとしていた。それがこの期間は、即事とか偶感とか断ったりもして、題詠にせよ、身辺雑事を五七五にしているようだ。
また句帳の書き込みで見ると、折々に俳諧史を披いたりして、古短冊の蒐集に心を向けたのもこの頃だ。正氣の雑誌でも或る句で、昭和十六年十一月末、特高情報係松井某の来訪を受けたが、その場を、芭蕉以来の伝統を滔々と述べ、事無く済ませた。
晩年、住いを建てて十坪ほどの小庭に山野草などを植えた。その名前の方を愛でたのかも知れぬが、以来写生の事をよく言うようになった。
芽がすでに一人静であることを 正氣
苗札にヂゴクノカマノフタとある 同
正氣が俳句を始めたのが、原月舟「写生は俳句の大道であります」のホトトギス誌連載の頃で、それへの反応からか「写生の軽視が少し過ぎた」、というような言い方をしたこともある。
私が育った幼稚園が創立九十周年を迎えるが、八十年前在園した私の記憶は、園庭のポプラの葉柄や泥を固めた団子での遊び事に過ぎない。だが、かかる些末が内包する大きく豊かなものを想ったものだ。 (2912)