平成30年前期

春  

 

 

 

物のみえたる

 

駅の周辺で「ようこそタコのまちへ」の看板が目に付く。こんなコンセプトでの三原の紹介はいつ頃からか。三世紀半遡ると、松江重頼の『毛吹草』の名産に「三原酒」と「野路浮鯛」とが見つかる。

春酒満酔尚も許さず鯛茶漬    月斗

は、昭和二十一年に来駕の折の句であるが、それを言い当てられている。句は一見豪放だが、実際は戦後の酷い食糧難の頃とて、先生の為の細やかな事を深沈厚重なる先生は大きく感謝された。

さて酒も鯛も共にめでたくて、どこでも名が挙がるのだから、期せずしてとは申せまい。およそ〈観念〉と〈汎用〉とは近い関係にあるので、酒と鯛がそれほど印象的だとは思えぬ。鉢巻した真っ赤な蛸は即物的で印象が強烈で、記憶して貰えるのだろう。

記憶と思い出とはすこし違うようである。幼い私が太いすっぽん(虎杖)を採った木陰とか、石を捲ってちいちい(鰻の稚魚)を掬った川瀬とかは後者だ。懐かしいのは「故郷」ではなく、「青き」山、「清き」川でのその細部(デテール)にある。

前記の年の正月、長崎の風習で、祖父が男手で元朝のお雑煮を作った。当時の調味料といえば、醤油は、何か蛋白質の加水分解物を使ったアミノ酸醤油と称するもの、食塩は、塩田経営の患者さんからの濃縮鹹水である。ど苦さが後に話のタネだ。

その一月の一日ではない「正月」なるものを私は懐かしむ。「祖父」たる人もそうだ。祖父は早くから隠居し、碁を打ったり魚釣りをしていた。戦後だが、竹を伐って、焼け火箸で節を抜き、釣竿を作った。継ぎ目にラミーの繊維を巻き、青柿で渋を取って塗った。そして鯊釣りに連れて行ってくれた。

別の技には、冬山に入り片栗の球根を掘ってきて、搗いて晒して純白でキシキシする澱粉を作った。後に近隣の植物採集家に訊くと、自生は見ないから姥百合ではなかったかという。確かめていない。

弟たちは年子だから小さいときよく喧嘩をした。ある度合いになると祖父は、突然、火鉢から火箸を抜き、一本ずつ手に握らせるや、長崎弁で、ばば(門外)へ出てせんばと大喝した。それで終わり。

何人たるかを語らんとするに、その言行の一片を以てでよい。俳句とても、徒に言葉を舞わすことはあるまい。その人のあの場面でのあの仕種で、生涯の伴侶が決まったり、ともなるのである。(3001)

 

 

 

句帳・句会・俳誌

 

正氣は、中学生仲間で俳句を始めたころから、その作品を集めた回覧雑誌みたいなものだと思うが、その都度名前を変えて、友人の小柳種衣によれば十何回も発行していたらしい。

当時のもので、誌ではないが、近所の旧派宗匠古賀九皐による巻「散桜」が手許に遺っている。大村中学の同級入学の福田清人が天位で得て、作家となった後もずっと保存していたのである。

学校を出て故郷で仕事するようになった途端、掌ほどの俳句雑誌を作った。俳句小誌『句鐙』で、この小とは築地小劇場の小の意であるという。以来、心機一転の度ごとに誌名を変え、刊行し継いだ。

昭和十五年秋『桜鯛』が国策で廃刊となり、通信句会とか、月斗指導の中国同人会のプリント「道場稿」として細々と続けた。この間の正氣の句作りは、見れば日記の如しで、およそ間断はない。

正氣自身で清記の句帖は、既に誌上に転記したが、この度、松本皎氏が戦時下の俳壇での月斗周囲を記されることで思い立ち、当時の俳人の在りようの一例証として、断片のものも余さず綴っている。

当時まだ刊行が許されての誌には、例えば関西の統合俳誌『このみち』などでも、けっこう国策に翼賛の句の発表が目につくが、暮らしの中で、二六時中これを俳句に仕立てるようでは無かったろう。

昭和二十年に当時十三歳の私の「火を噴いて敵機墜ちけり春の海」なんか、三月の因島空襲だが、実際は撃墜機の記録はないから、伝聞らしい。東日本大震災の直後に震災俳句を募集した新聞や、俳句でなく短歌を作った俳人のことも思い出すではないか。

戦中戦後、紙は不自由で、印刷物でも裏が使えるなら、土曜句会で置屋の主人が花代の綴りなんか持参したのを、紙質が良く学校の帳面にもした筈だ。この句会は、私が誕生一歳で正氣が三原に来た直後に発し、今は隔週だが、ずっと続いている。

途中まで使った手帳など、正氣は、残りの白い部分にまたメモしたり句作や選句を書いている。弟の男兒なんか幼くても句帳を持ちたくてか、正氣の書いた空きを二三使った跡が残っている。私は今、それらを判別しながらの作業をしている。

俳句は、戦時の状況下でも、大衆の中のこうした発表の場と仲間たちの存在を、図太く、その属性として保ち続けた。(3002)

 

 

 

麻の中の蓬

 

三原の我らに、歳時記の春の月斗忌と秋の子規忌とは、季題として生きている。共にお彼岸の前に当たり、元来は子規居士にと、お好きな秋花・秋果を各自が持ち寄り修していたのを、月斗忌が加わってからは、春のそれをお供えするようにしている。

月斗先生は、大阪町人として育ち、市井の嘱目や季題での句作りをされたから、この席題として使うためにと皆が提げて来るような草花のことは、余りよくご存じではなくとも、先生に田園への羨望の文字もあることから、きっと喜んで頂ける筈だ。

自称机上の作家の正氣が路傍の草花を愛するようになったのも、晩年の十坪の庭づくりからであった。といっても、年寄りに樹木の生長は待てぬと、句弟子が持ち込む山野草を植えたが、まずは古来の植物の名前が興味の行くところであったようだ。

月斗先生の場合もきっとそうだろう。その文字面も、簡野『字源』や高田忠周の『大系漢字明解』など見て居られて、殊更に正字俗字のことに厳しかった。またよく揮毫依頼を受けるので、短い文言の禅林句集なども座右に置かれたらしい。

酒座が更けて、潜水艦長西野海雲が先生に短冊三枚をお願いした。先生独特の丸い字で〈露堂々〉、〈三十年〉、笹の葉の集まったような〈麻三斤〉と揮毫され、声で読まれる。先生、これは何ですかと海雲。よろしか、海雲と指し示し、ろー堂々、三十年、まー三斤と先生。分りませんと海雲・・・。

「その都度お口は一文字に引き締まり、心なし頬のあたりを膨らまされ」、「お声は次第に力を籠め」凡そ十遍位読んで下さったと、最初受けた直接の教えを海雲は記す。「私は先生の目をじっと見上げた。先生も読むことをやめられて私の目を見据えて居られた」。

海雲は戦後生還した。境涯もその句作も、やはり〈露堂々〉〈三十年〉且つ〈麻三斤〉と見える。

今は麻の栽培は禁じられているが、私の戦前の小学校の校庭の端に何故か麻畠があった。「麻の中の蓬」(『荀子』勧学の「蓬麻中に生ずれば扶けずして直し」)の語でずっと後に思い出すのだが、あとそこが棉畠になってその実の記憶なら少しだけ。

この語は、新暦の端午の湯に菖蒲は未だで、代わりに川岸で切って来た蓬を折り束ねながらいつも思う。そして子規・月斗・正氣系譜の弟子たり得て、運良く麻畠の畝間に生い育ったことを。(3003)

 

 

光明へ向かう

 

五輪スピードスケート金メダルの小平奈緒選手の滑りについて、長野での金メダリスト清水宏保氏の評の一節「そして今は、背骨に付着する多裂筋をも使いこなしている。(略)自分の体を熟知している。だから小平は強い」の〈多裂筋〉に目が留まる。

人の運動能力は、手足の延長である道具も使い、飛んだり跳ねたりに磨きがかかって、今や超人の境地だが、黒のウエアで氷上を前傾で背を曲げ腕を垂らし全力で滑走する姿のことで言うと、直立歩行のヒトよりも、躯幹はむしろ類人猿のそれと見えた。

直立位を可能にする強力な三つの脊柱起立筋は、これはふつう尊重されるけれど、その下層にある横突棘筋(回旋筋、多裂筋、半棘筋)群にまで思いが届くものではない。これらの筋は、脊柱の椎骨の横突起に起こり棘突起に停まるものである。

半棘筋はある横突起から四つ以上、多裂筋は二つ以上、回旋筋は二つまでの椎骨を飛び越えた棘突起に来る。こうした立体的な構成で複雑な動きに対応するものながら、その存在を意識したのは、十年前に私が頚椎症性脊髄症の手術を受けた際であった。

術後に手で背中を撫でると、頚椎の五個と腰椎の二個の棘突起部が無くて、そこに付着の筋はどうなったのかなと思った。元来が短い筋ほど奥のほうで実習での記憶もないし、猿との比較解剖も知らない。背中こそが実はヒトの一丁目一番地なのに。

清水氏の言はこの短筋群の操作だが、氷上の短距離スピードのトラック競技では、多裂筋らの小筋の僅かな伸縮もじかに結果へのファクターとなり、その微妙なコントロールは実際上の問題である。メダリストは  その片側ずつの筋訓練をも行っている。

まさに熟知するだけでなく使いこなしている。この種目競技の有り様を見ると、短詩定型の俳句を想起するではないか。句作りも又それらの細心の反復のトレーニングを要する。それらをしっかりと経た後に、やっと自在の境地が言えるのだろう。

スケート靴で初めて氷上に立つ。どんなに胸が高鳴ることか。うまく滑れればもっと速くもっと何べんもと思う。コースを走ったらもう選手気分で、マイペースで構えてなんか居れるものか。

虚心の取り組みが、ただ粗末に扱うのと同義ではならぬ。月斗、裸馬、正氣の句への態度は厳しかった。初めから必要とする力まで省いて何が出来よう。(3004)

 

 

 

野心を持つ

 

本が読みたい年ごろが戦中だったので、その飢餓意識がまだ残っている。で、息子が遺した院長室の書棚の始末が後回しになった。彼はけっこう広く多読のほうで、手が届く床に積み上げた一般のそれら(歴史ものが多い)だけは一応箱に収めた。

書棚の医書でも、解剖や生理とかの基礎は進歩というか変化は乏しいが、臨床ものは日進月歩でハードカバーには及ばぬようだ。まして今の世間向けの本には淡雪同然も多いことだし、私は理系の天文ものや生命もの以外は慌てては買わない。

成書の語は世間の信頼を意味するが、昨今では、それが自家出版の句集であっても、奥付の発行者が著者ではなくて出版社のそれになって居たりする。昔の矜持ある出版社なら、本の内容に発行者たる責任を持って居て、ちゃんと区別したものだ。

さて、幾山かのソフトカバー本を収めた箱を整理して、上のほうに栞の刺さった一冊の新書に気付いた。奥付を見ると二〇一三年五月八日第二刷とある。彼がその年初に意を決し岡大のベッドを脱けて帰宅、残る生に対し白衣を纏った時期に当たる。

その本は、林真理子の『野心のすすめ』(講談社現代新書)で、今年の大河ドラマ『西郷どん』の原作者だが、私はこの人の本は読んでいない。栞も第五章まであるうちの第一章「野心が足りない」の終りに挟んであった。そこまでは開いてみたらしい。

だから、この本の帯の「”高望み “で人生は変わる」よりもずっと小さな活字での「人生は何度でもリセットできる」がキーワードであろうかと、私もその第一章をぱらぱら読んだ。その中で〈一生ユニクロと松屋でオッケーじゃん〉の節から抜き出す。

それは「野心を持つことができる人とは、どのような人なのでしょうか。それは、自分に与えられた時間はこれだけしかない、という考えが常に身に染み付いている人だと思います」である。先ずはドラマの西郷どんもそうなるのだろう。

私の分かる内にと仕事場を片付けている。時の流れる速さを覚えるや切で、秒音がするようだ。それに句帳一ページが六句、で句作を途切らせてしまうが、息子は壮烈に生き切ったと思えば、末尾の句が、いわゆる〈UやМでオッケー〉ではなるまいぞ。

有終の美なんていうが、それはこの次に来る一句のことではない。 (3005)

 

 

川柳のはなし

 

今年の花は足早だった。句会が時分に当たれば「プチ吟行花の公園から寺へ」、つまり、ぞろぞろ直ぐ近くの児童公園の桜を仰ぎに行き、さらに元気があれば、道路の先の石段をよぼよぼ登って曹洞宗の松壽寺の境内にまで出かけるのに。

境内には川柳の岸本水府の句碑「仕込み桶三原よいとこ冷でよし」がある。田辺聖子の小説『道頓堀の雨に別れて以来なり』(下、中公文庫)によれば、水府最初の句碑となった。『酔心』の酒造場の句だが、こんな言葉の飛躍は俳句ではできない。

長編は「〈水府はん〉と、私の父などは呼び慣わしていたそうである」で始まる。私の場合は、大阪へ遊学した最初の下宿先の主が実業家の出で、私が俳句を作ると知ると、月斗はんの書は歌を詠む人のようではごわへんな、と言ったように記憶する。

著者の父が水府の名を「嬉しげに、誇らしげに母に教え」「大阪人は水府を川柳家の代表」『番傘』を「大阪の自慢としていたらしい」とは、我が周辺で、カープとその選手に声を嗄らすファン気質さながらだが、贔屓が記録として残るはただ入場者数だ。

文庫で上中下、計千六百ページに及び、水府の生涯とその時代に関わる関西の川柳史をも描く。この直木賞作家の小説を私が読んだ動機は純とは呼べず、上巻の明治の大阪の町中の暮らしぶりや、「大阪新報」「大阪朝報」文化部の空気などを知りたかった。

膨大な資料に基づくものであるが、近代俳句関係では村山古郷の『俳壇史』(大正・昭和)ぐらいで、俳壇外からの視点として、色が付かず静的に見定めることが出来る。鬼史のほかの秋窓、墨水、月斗や伏兎らの普段の振舞いが時に文中を過ぎる。

鬼史の柳珍堂は、子規や碧梧桐にその才を認められたが、柳俳一致の流れに先んじて川柳に走った。没前にはそれも碧梧桐の影響か自由律に傾く。なお著者の観点での柳珍堂に、寡黙、頭脳明晰、風丰清爽、人格清冽の語を宛てる。作品からは宜える。

月斗の文に、柳屋三好米吉の追悼の席上、水府が、娘の教科書で月斗が故人で享年六十一とあるのを見たと言い、脇で高安吸江や白川夜舟がめでたいとしたとある。一番に川柳人の目には触れるのだ。

月斗も正氣も川柳とは遠い俳句態度だった。水府が三原に来た際に正氣も会っていて、葉書と『番傘』一冊が遺っている。月斗を語ったのだろう。(3006)

 

 

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