平成30年後期
松 本 島 春
洋酒のはなし
今、薬剤師の方からお借りして、直木賞作家伊集院静の『琥珀の夢』(上・下 集英社)を読んでいる。作家の見解でのサントリー創業者鳥井信治郎の人物像を確と描き込むからには、その背景となる時代風土についての多くの資料に基づいていると思う。
新制度とかで私の大学入学式は五月だった。クラス分けがあり、帰路コンパやろうと、枚方の淀川の草茫々の中で輪になり、一杯のビールと後は安焼酎で友人になった。朝鮮動乱の一ヶ月前である。サントリーなら当時豪勢なオールド発売の一ヶ月後だ。
翌春、木下隆一が三原を去り上京すると聞き、梅田駅のホームまで会いに行った。世は景気上昇でも若者には高値のトリスがポケット瓶で出た頃で、それを発車際にポケットから窓の隆一に手渡して見送った。東京からトリスはうまいうまいと葉書が来た。
私はそんなに飲まないので、以後はサントリーならオールドからロイヤルまでだが、この本への興味は、信治郎が青木月斗とまさに同い年であり、彼が十三歳から三年間道修町の小西儀助商店で丁稚奉公し、それが彼のその後の人生を決めたという点にある。
それぞれ名を成すまでは相識でなくとも、また当時の世間の立場は別でも、青木、鳥井両少年が、最も大事な人生の時期を同じ時空に居たことに注目する。大阪というか船場というか、その気質は、なかなかに窺い知れぬものがあるからである。
例えば、独立した信治郎が初めて上京した際の東京乃至東京人への見かたなんか読むと、月斗(兎)の子規庵訪問の感想の「東京俳士連も子規子をのぞくの外は余り重きををくにも足らず候」に、宛先ある手紙とはいえとひねった首が少し解けそうだ。
また、子規『病床六尺』(七十四)「あらゆる此種の形容詞を用ゐても猶足らざる程の嫌味」云々(ここを前号の田辺聖子も〈大阪の若手川柳家たちの気分にも該当〉として引用)の、各論ならともかく、大阪俳人らへの用語での苛立ちぶりも同質だろうか。
鳥井信治郎は、「ジャパニーズ・ウイスキー」を目指したという。大阪の俳人らも、東京の俳句・俳人に対する気持ちの上では同じだったろう。
正氣前主宰は、『春星』が地方俳壇でとか耳にするものなら、俳句の場には地方も中央もない。東京が中央とは行政上のそれであり、天皇、政府、国会等が置かれた場所だからだとたしなめていた。(3007)
故旧忘れ得べき
祖父の頃の長持の底に畳んだ蚊帳があったりし、小宅の整理が更に捗らない。戦争前の住家では蚊帳を吊って蛍を入れたり、畳の縁に蚤取粉の缶をペコペコさせてから布団を敷いたなあと、思い出は遡る。長持には春星のバックナンバーを入れよう。
ところで〽蛍の光の曲は、季題「去年今年」も去年への想いではなくてカウントダウンの果ての線引きとなり、それに向かって曲が頻用されるから、歌い出しが〈蛍〉なのに、メロディにはいつの間にか〈雪〉のほうの季節感が滲んでいる。
〈故旧忘れ得べき〉と前月号の木下隆一のことを思い出した。というのは、没後に、娘さんが彼の句と随筆を箱詰めにして送って来たのだが、いま書棚を片付けていてそれが出てきた。折に触れてのそれも題詠での句を残らず遺しているから、膨大だ。
早めに退職した後の十年間の俳句が、原稿用紙二十句のコピーを束ねた厚さ十三センチ強とは、己の句を捨てないことの結果であろう。己の生を捨てないのが常だから、隆一の句は、隆一の生そのものだ。
彼が仏教誌に連載した随筆で、三原で飼っていた犬の話を読んだ。虎徹という名で私もよく知っている。高校三年の夏休みが終わり、彼と私ともう一人でいざ受験勉強と、夜ごと母子家庭同様の彼の家に寄った。東大受験が隆一の父親の意だった。
彼は理数は苦手で、入試の国語だけは満点、上京の際に、車窓から、半分雪の富士山がばっちり見えたので、そのジンクスで落ちた。彼の『新春富士雑感』は日本エッセイスト・クラブ入選の本にも載り、その末尾でそう言っている。翌春、志望通り慶大文科に入った。三田とは佐藤春夫の詩が引き金だ。
同様に、その後の人生針路への暗示は、受験直後に手に取った「蛍雪時代」の横の「文藝春秋」誌の井上靖で、卒業後ラジオの制作畑を職とするのは『闘牛』であり、伊豆の住いは『猟銃』ということになる。因みに『漆胡樽』を推すのは私も同意する。
俳句が面白く熱心になるのは、福岡県での第三回国体に高校団体徒手体操で出場したのが転機だという。渤海湾周辺の数日の滞在で、その地勢や人情、瀬戸内とは違った境地での何かの触発であった。
一見、周りの状況に動かされるかのようだが違う。機に動いたのだ。常々、事に正対して丁重に処し、名利の外に身を置いたのであろう。 (3008)
潺湲の水
別掲「潺湲の水秋霖の狂ひ哉 月斗」の頭がなかなか読んで貰えないが、センカンで水の流れるさま。昭和二十一年、戦後初の九州行で「六月十六日。備後三原市の正氣庵に入る。前の正氣庵は洪水に崩れたる姿を三原大橋の橋畔に止めたり」(月斗)とある。
和久原川岸の住いは、昭和二十年九月十七日夜半の枕崎台風で橋が落ち、表側が半壊し流失した。その前に箪笥や仏壇を運んで二階へ上がった。男子三人は中を抜いた箪笥の抽斗を抱けと一個ずつ持たされ、妹二人は両親と一緒にと言い渡された。
今も子どもたちの語り草は、その前に当時貴重な砂糖をしっかり嘗めたことである。抽斗と砂糖と仕様もないことばかり覚えている。崩れる音を聞いたのは、既に二階から屋根伝いにご近所の家へ避難していた翌日の早暁だった。県内の死者は千名を越えた。
前々夜が土曜会の子規忌だった。この正氣庵の定例句会は、昭和八年三月末の転居後間なしの四月四日から始まり「雨をついて会する者田島横島の水曜会員、尾道の蘭知を始め十一名。散会後居残る者にて題を課し句作。句談徹宵」とある。
会員はほぼ男性が占めていて、火曜から土曜夜に変わったが、休会は、この罹災の時期と戦中の灯火管制発令下とである。庵主の境遇で隔週となっても庵主が替わっても、継続して今に至っている。戦後は女流が増えてきて、現況は量的には反転した。
正氣は元来俳句作りでの性差を言わぬが、『同人』も創刊時からつばな(後に圭岳)選の女流俳句という別欄があった。それが今や、ユーチューブの京都橘高校吹奏楽部の中に点在する黒ズボンを見つけたりすると可憐で、俳句の将来を連想してしまう。
月斗句は〈豪放磊落〉が定番で、「明朗である事。明歴々。露堂々である事。男性的である事」(改造社俳句講座「現代結社篇」昭7より)の漢語の響きで誤解された。〈潺湲〉のサ行カ行の澄んだ水音と〈秋霖〉と、漢熟語は、この短い詩型での大きな要素であり、戦前は、女「もすなる」俳句であったろう。
小鳥の声も、ものの本によれば「鳥の雌は、より複雑な歌をさえずる雄を選んでいる」そうで、例の才能ランク付けみたいだが、凡そ言語文化はこのことを内包しているらしい。より多くとはいえ、或る持ち帰り寿司の差別語的なコンセプト〈女こどものおやつ代わり〉の味のままではなるまい。 (3009)
題詠「天の川」
ずいぶん前、兼題の「天の川」がよく見える所へ行きましょうと連れ出して貰った。田野へ行き海岸へ行き、山頂までも行ったが、みな人間の明かりが宙に瀰漫していて、確とは弁ぜず仕舞いだった。
視力のせいもある。四つか五つの星に見えた昴も今やただのもやもやである。北斗七星の柄の先から二番目の星の小さな連星までが見えていたのに。
天なる星とは違って人界の変貌はめまぐるしい。本誌四月号で松本皎氏が、戦中の芭蕉忌の懸詠募集(兼題天の川)についての各選者の選句態度を書いて居られる。「読者の判断に委ねる」とても、氏の意はよく解るものになっている。
つまり「大部分が戦時下のもので、芭蕉を追悼した句は雨夜の星ほどもなかった。題の『天の川』は芭蕉の『荒海や佐渡に横たふ天の川』の吟にちなんだもので」(月斗)と敢然明言するか否かだ。又、五月号で挙げられた各選者の特選上位三句を見るに、さすがに月斗と虚子は、直接に戦勝に係わらせて詠んだ句をそこに入れてはいない。
この芭蕉の絶唱に、外山奏先生は『三冊子』(土芳)の「成るとすると有り。内を常に勤めて物に応ずれば、その心の色、句と成る。内を常に勤めざる者は、成らざる故に私意にかけてするなり」を引かれる。
時局に応じた事柄への文芸的な参加とは、する句作りであり、常日ごろ心を高きに置けば、自ずから四囲は風雅に映じて句が成るというのである。
もう一つ、「五千の句は選者が一人でない処に、選者としても、乗り気になれない。作者と選者が一つにならなければ面白くない」(月斗)とは、選の在り方へのこれまた痛烈な言だ。この方式では、信頼する選者の胸板を目指しそれぞれの作者が全力で打つかる、の反対となるからである。
選者月斗のこの態度は、遡っての『俳句三代集』(改造社)成立経過後に、いわゆる俳壇より遠ざかった延長にある。その選は、虚子は別格で主な結社代表十名の審査員の内三名選の句を以てする予定が、当然不足して二名選に変わり、これに主要俳人自選句、主な結社推薦句を加えたものだった。
正氣は、「俳句の優劣は、勝負事のように単純なルールによって決せられない。全知全能なるものの審判で決せられる」という。信じる存在たる「全知全能なるもの」に最も近いのは、我が信じる師であろう。 (3010)
烏飛兎走
昨今の感じは、四文字熟語なら烏飛兎走である。その前半の二文字、座敷での俳句会をちょこちょこ覗いていた小学生の私は読むことができた。その二文字の俳号の人のおかげである。気鋭な付属小の教師で当時新しい教育を主張していたようだ。
当時の俳句会は、大方が壮年男子であり、それぞれ号があって大声で名乗りを挙げる。それで覚えた。正氣の命名らしく、三樹は苗字が森、巨影は長身の巡査、季観は機関区勤め、同じ燈古は、以前にランプでの住居、北邨は苗字が北村、菓子舗菊壽堂の菊十、涼沙は夫の号と名前の眞沙子より各一字。
昭和十五年以降の正氣は名前の正喜の音読で、文天祥・藤田東湖の「正氣の歌」、その前一年余の死灰は歯科医で、史記の「死灰復燃ゆ」だ。中学生で句を始め誌を発行するや、心機一転を繰り返し、号を替え誌名を替えた。それが度重なると、面倒と本名の正喜で通し、俳句は本業で歯医者は専業と嘯いた。
我が家の場合、島春は島で二月生まれで「島の春魚寄り波の寄するかな 月斗」、男兒は先生東上中で「龍天に日本男兒生れたり 月斗」、餅搗きの日だった文武は「臘尾よけれ歳旦よけれ両ら 月斗」、みえは柞枝よりも「かな書きのみえこそいとど涼しけれ 月斗」、千萬子は戦中の同人誌廃刊時で、父が「寒凪や産屋の空に鳶の笛 正氣」である。
思えば正氣の子どもたちは、こと俳句では、正氣を師としたから特に俳号とてはない。今も昔も、俳人との俳句の話ともなると、ごく普通に正氣先生と呼称して居るし、居たし、そんなに不思議がられることもないし、自分たちもしなかった。
俳号は、俳優の芸名のように、出自や境遇など世俗の部分を、直接に句に関わらせない為だろう。そこで句会ではお互いを俳号で呼び合った。今では、それが実名では性別や年齢なんかで憚られ、花の女流が増えての源氏名にならぬ花では重複しそう。
それに近代では、作品発表に〈誰それの何句〉と作者を前に出したがるが、一句が主人公たるを歪めてはならない。発表は文字が媒体だが、大よそで俳句の文字数の最頻値は十三字、姓号が四字である。短冊なら号二字でギリギリはよく出来ている。
さて俳人烏飛は苗字が亀田である。別の話ではあるが、烏のほうにして兎にしないのが、俳句作りの手法としても参考となろう。 (3011)
とうこかな
今や〈化〉の字も取れたが、やがての高齢化社会の到来がまだ口先で言われていた頃は、五十五歳定年が普通だった。老年期の分類では、六十歳代がヤング、七十歳代がミドル、八十歳を超えるとオールドを付けてのそれぞれオールドと称されていた。
当時の私はヤングオールドだったと思うが、これを鳥井のウイスキーの銘柄に合わせ、それぞれ〈オールド〉〈リザーブ〉〈ロイヤル〉と呼称して一文したのを覚えている。六十代はまだ名目としてのオールド、七十台は次へ備えるリザーブで、八十超えればもう御意のままに振る舞うロイヤルである。
今やロイヤルの私も、老生という文字転換に馴染んで来た。学生の頃放課後に細菌学教室でシャーレ洗いを少しやったが、当時、教授の訪中があり、その帰国後の当分は、お互いが先生(シーサン)で、教授を老師(ローシー)と呼んだと思い出す。
字も書けぬ幼い私の句?の、書けば「酒飲んで頭を叩くとうこかな」は伝説だが、この人は若いうちから燈古老と呼ばれていた。仲間の季観さんは万年青年で、二人は句会を待ちかねて仕事帰りに寄り、席題で作っていた。燈古さんはよく酔ってて、相手する私に手で額を打っては頷く。それが「酒飲んで頭を叩くとうこ」で、「かな」は当時の句会の皆の句調である。
お調子者の私は座敷の句会を覗きに行っていた。他のきょうだい達の場合も考え合わせ、文語律の五七五拍と「かな」と「けり」は、国語を使う幼い子ども達には至極イージーなことが分かる。
ご覧のようにこの句?は季語を含んでいない。題詠の季語が与えられなかったからだ。前主宰は、老は老成・老熟なりと孫ができた頃から使い、古希を前に「老の秋てふ便利なる下五ある」と作る。俳句を〈俳句の味〉を持った詩の一ジャンルだとし、季語は用い、尊重し、思いを陳べんとした。
俳句で、昨今ほど季語が重要視される事はなく、量的に歳時記出版に資し、質的に現代俳句の川柳化傾向を制御するのに役立っている。季語が俳句になぜ不可欠なのかと問われても困るが、〈俳句の味〉というような言い方で済ますのはよい。
子どもは、父親の酒の肴をちょっぴり味見してみたくなる。私と俳句もそうだ。獲得形質が遺伝するかどうかは別に、子どもの頃の舌の経験は、やがて我が家の味として次代へと伝えられるのである。
(3012)