令和1年前期

春  

 

常に光明へ

 

 元旦、街の南方に立つ筆影山の中腹の闇に、車列のライトがジグザグ樹間を点滅して上るのが見える。多島海からの初日の出を、標高三百十一mの頂上で待ち受けようとする人たちである。

 趨光性は、多くの生物が持っているが、趨性の点では、人類はロケットで頭上三十八万キロmの月にまで達しているのに、足下へ向かっては、マリアナ海溝潜航記録の十キロmで比較にも及ばない。人は明るくて高いところへ行くのが好きなのである。

 光に向かって常に移動するという点で思うのは、正氣前主宰の作句態度が、終生「小生は、小生の信ずる光明へ向かって、一歩一歩不断の努力を重ねているのみである」の言葉通りであったことだ。

「光明」とは、人を遥かに超える存在のことであり、現世での評判は知らず、句の価値判断はその存在に預けるのである。しかも「小生の信ずる」と言ってそこは一応の節度を以てする。

そこで、正氣の「芭蕉の求道的、蕪村の離俗、子規の懸命的、月斗の純粋、裸馬の閑日月、小生のほれ込むところである」という語は、具体的に、正氣の「信ずる」光明の方向を指し示していると思う。

裸馬先生の〈閑日月〉は、経済界の雄としてのお働きに相当するエネルギーを、それと関わりなく同時に俳句に傾注された態度であり、月斗先生の〈純粋〉は、今回改めて気付いたキーワードだが、共に世俗に塗れぬことの謂である。

この〈純粋〉の語の拠り所を確認したいと思ったが、若き正氣の「抑々、俳句は、胸中の山川を創造し、これを最も純粋に表現すべきであり、これに最適したる詩形である」が、これを月斗相伝のものであるとすると、その一つになるかも。

今年で私は正氣の年齢に達することになる。父はその夏になると、〈芭蕉、蕪村に問う〉と前書きの辞世

ホ句の秋そのフィクションも神わざも

の推敲をベッドでした。枕頭の私は、まあは強すぎるし普通にはかねえ。じゃそうするか。それでもちょっと難しすぎるかね。とか。

およそ人為と天為とは分かち難い。私ら子どもがまだ幼く、父は、少しの風邪など引いて熱が出ようものなら、皆を枕頭に呼び寄せて何かの大事を言い渡す。そらまた始まったと空耳にしたりしたが、その日もまあそんな具合だった。(3101)

 

 

 

凡山凡ならず

 

 旧臘、即時入院という羽目となった。イレウスとはあれと思ったが、まあ絶食点滴のほか特段のことも要せず、それに新年号の選句など例月より早く済ませていて、半月と少しをゆっくりした。というより何もしないほかに選択肢はなかったが。

 白い病室の窓は東向きで、景色の二割の空に灰色の雲が動き、八割は雑木紅葉の山肌である。その正面に城のようなお寺の石垣と白壁、白緑の銅葺の本堂の屋根、その背後の三重塔が見える。塔と同じ背丈で並ぶ銀杏は、散り尽くして大きな箒のようだ。

 塔の相輪の脇に、日が差すと真紅の花のような箇所が浮かぶ。櫨か漆の紅葉だろうか。紅葉なのにここで花を持ってくるのは変だと思うが、花と人が見るのは花にそうさせる気配があるからだ。春があっての秋というような観念もあろう。

 この山のことは前にも書いたが、小学校歌の冒頭に「筆影米田桜山」と並べてある中で、街の北側の桜山は「桜山どこから見ても握り飯」だが、東側のこの米田山はうまい形容詞のつかない山だった。戦前は赤松の山が今は麓から竹叢と雑木林だ。

 〈平凡〉という言葉がある。『字統』で見れば、〈平〉は手斧で平らに削るとある。特に引っ掛かりがなくどこにでもとなるのだから、人にも容易く伝わるのである。一方で〈凡〉は盤にのせて運ぶというから、こちらは右から左への流用と云っていい。

 誰でも何時でもの発想では、文章はともかく、短い俳句なんか簡単に常套句で埋まってしまう。黄色い声とか真っ赤なウソというのはお目にかかれぬが、落花の絨毯に、紅葉の絨毯、山茶花の絨毯などよくある表現は、早めに使ってしまうことだ。

 一度使えば一里塚というもので、俳句作りは前に進める。そのため使ったという事を覚えておくことである。すぐ棄ててしまってはくたびれ損だ。

 窓の様子だが、陽射しのある夕方に、寸時、お寺の墓地が奇妙な景になる。研磨した墓石が一斉に日を反射して輝くのだ。微妙な入射角のせいだろう。感嘆している私の脳にモニカ・ビッティとアラン・ドロンの映画「太陽はひとりぼっち」の曲が流れる。

 こりゃなんじゃと思って居たが、ツイストだし、私の脳はこっそり我が病態を気にしているらしい。窓が切り取っているこの凡なる米田山の景も、しっかり見ればなかなかのものではないか。 (3102)

 

 

 

暗き空より

 

 その俳人の代表句とは、自選のものでないならば、評判になった句の謂で、芭蕉の「古池や」の句のように、世間への露出の頻度による。『俳文学大辞典』(角川書店、平七)の青木月斗の項は角光雄が書いたが、

元旦や暗き空より風の吹く

を挙げている。

昔の『同人』の連中が愛唱した月斗句といえば、

  春愁や草を歩けば草青く

であった。〈春愁〉という当時『同人』調の漢語季題の句でありながら、そこに巷間寡少とされたリアリズムと近代的な抒情を見たからであろう。

「暗き空より」は、菅裸馬主導の『月斗翁句抄』(同人社、昭二五)冒頭の句である。この句集は、類題結社句集『同人俳句集』から『同人第三句集』までの三冊所載の月斗句から集めたものだが、この句は何故かそれに該当しない。句集の続いての〈元日〉の句は、

 聖旦や蒼生(アヲヒトグサ)(ヨロコビ)に(同人俳句集、昭六)

 元日の心古人に似たるかな(同人第二句集、昭九)

 元日や鶴の羹一啜(同前)

であり、『第三句集』の二句は省いてある。

「暗き空より」の句は、詩人の大岡信が、昭和五十六年元日の朝日新聞『折々の歌』で取り上げた唯一の月斗句でもある。そこで、光雄君の『俳人青木月斗』(平二一、十)でも月斗の代表句と言わしめたようだが、彼の付言の「あたたか味さえ湛え」「年を迎えた安堵の気分」とは、と少し気に懸かって居た。

頃日、月斗、素石ら世話人での小西来山二百年忌法要記念句会の冊子『虫の聲』(大五、小西久兵衛発行)に、虚子、露月、四明、繞石、霽月、為山、東洋城らや青々、露石も句を寄せているが、兼題「虫」で、

暗きより虫弱る風下し来る  月斗

の句をうまく見つけた。

晩秋の道修町界隈、大正九年の軒切り以前で、今の半分の道幅に揚店があり出櫃が置かれ、昼間は荷車やリヤカーで混み合うのを、虫更ける夜々、俳人月斗が狭い通りの暗闇を、簷に碧梧桐の六朝書「天眼水」の金看板が垂れる店へと戻り行く姿を想う。

 大岡信が『折々の歌』で、この元日の句を〈清新にして幽遠の趣きある作〉と述べたのは、嘗てよりの生活感が元旦のこの境地にも表れている故であろう。同じく〈生と句の接する機微を見る思い〉とは、俳句作りでのリアリズムの手法を意味する。 (3103)

 

 

 

 

昭和の俳人月斗

 

 元号を以てよく俳句史は綴られる。十年足らず前のこの欄に、大盛況の平成俳壇を〈昭和元禄〉の呼称に擬して〈平成化政〉と記した覚えがあるが、化政(文化・文政)の後に続く天保俳壇での、子規が強く排した月並俳句の再来への当て言ではあった。

今や「一様に平明な句風」「大衆の社交生活趣味生活の一部」「業俳遊俳の数」「風交の汎いのを誇る」等々、昭和初期に頴原退蔵が、俳諧史概説で化政期の特徴を示した文中の語だが、大衆による句業の平俗化は、この化政期と同様に進んでいるようだ。

 誰でもいつでもどこでも、との俳句人口の増加は有意義らしくて報道出版界にとっても有用だ。体育としての相撲でも、四股や鉄砲だけで体を鍛える目的は果たせようが、やはり土俵上での勝った負けたの機会と結果での人の順位付けは必要らしい。

 天保初頭の宗匠たちは、優れた才能を有し芭蕉へ帰れと理想を掲げながらも、前記の頴原退蔵の天保期概説を引けば、「理想への精進よりも現実への執着」「師承の背景を得て名を成す」の語の如しであった。

今や、俳諧より生じた雑俳の大衆への流行も参考となる。まず興行だから、優劣の判定の便宜のため、冠句付けに始まっての何かの課題を要したものが、それも面倒と遂にはただの暗示でもよくなったから、そこでは突飛な連想が賞美された。

元号のことから飛んだが、最近〔大阪の俳句ー明治編〕というシリーズの『月斗句集』(ふらんす堂)が出て、その内容は『月斗翁句抄』からというから、昭和五年から十四年までの句の範囲のようである。〈明治編〉と無かったら良かったに。

角光雄君の『俳人青木月斗』の冒頭での「明治・大正を重要な活躍の時期としたのである」を4Bの鉛筆の線で消した。彼に会うと体を弱らせていて、その他の事もこれも言えなかったが、青々全句集の話題からの『同人』バックナンバーのことは言った。

とかく類題での個人句集の面白無さは仕方ないが、主に句会題詠での月斗句では、類題結社句集からそのまま並べるとやはりそんな気になる。そこで前号と今号で、一か月通しの句作を御覧に入れた。

さて〈大阪の俳句〉の謂はいい。漸く都構想が言われているが、俳句文化の上での大阪とは、大阪なるものの中央を示すのである。青木月斗は、昭和が真の活躍の舞台であった〈大阪の俳人〉である。(3104)

 

 

 

 

一押し二押し

 

 押し相撲の貴景勝が新大関となり、「武士道精神を重んじ、感謝の気持ちと思いやりを忘れず」と言った。相撲が、土俵という定型の中での業だからであるが、その「押し」のことである。

 月斗先生に「作品本位である。第一、句作。第二、句作。第三、句作。ちょうど、相撲における、一押し、二押し、三に押しといふ如きである。四十八手裏表の相撲の手があるが、堂々と押し出して勝つといふ正面攻撃が第一である如く」とあるからだ。

 これは、『続俳句講座』(改造社 昭9)第八巻「俳壇現勢篇」に於いて、『同人』の特色を、「我が同人は、よき句を作る、よき句を残す、これを第一義としてゐる」と述べたものである。

 当時の俳壇の動向を展望したことでもあり、句作上での論議や試行の是非を言ったのではないのだが、同人の中には、これを、文句は言うなただ作れと解する向きがあり、正氣の『桜鯛』や金窗の『新樹』発行は、それに対しての補完でもあったろう。

 余分だが、この後に圭岳を擁して『火星』に拠った中田青馬や真島吾水などの名前があった『同人』目次の評論が、圭岳脱退後は月斗ばかりみたいだし、それと誌上の活字の〈秋〉が〈秌〉になった。

 先生の離俗の強い意を感じる〈秌〉は、簡野『字源』では「秋の本字」とあるが、『大系漢字明解』は「篆及古文」だけである。もともと先生の短冊での書字ではあったが、雑誌での使用が弟子の忖度としても、頻用の文字だけに、どうかなと思って居た。

この〈句作第一義〉は、もう一つ〈和而不同〉と共に『春星』創刊時の正氣のモットーである。俳句は作るものであり、読むものではない。俳句作りの苦しさは楽しめても、知らない人の句集が始めから終わりまで読み通せるものではない。

よい句とは、誠の句の事だから、それを信条に作り続けて、誠の人となれるのである。才能の有り無しではない。名ある昔の月斗門下の句集を開いて見ても、〈堂々と押し出して勝つ〉句の作者が、良き為人の持ち主たり得ているのがよく分かる。

貴景勝の「武士道精神」は、万事に通底する日本の良き伝統を指すのだろう。凡俗ではならぬ。一押し二押しで、一所懸命に作り続けることだ。「水辺でぼちゃぼちゃ」してはつまらぬと裸馬師も申された。その上での「奇は大可なり」(正氣)である。 (0105)

 

 

 

 

ことりの話

 

 「小鳥の小父(おじ)さんが死んだ」というのが冒頭にあるからあれと当惑した。小川洋子の名作『ことり』のことである。

もう半世紀ほど前だが、先輩に付き合って街角の手相見に立ち寄ったことがある。帝人通りという当時まだ賑わっていた商店街の或る路地を覗いて、珍しく人の行列がないという。ここらで一番繁盛しているのはこのことりのおじさんだそうだ。

何か小鳥を使って占うことりのおじさんというのでもなくて、その時は何とも思わなかったが、小さな露店の名称のことが、今になって気に懸かる。

小説では、これは兄弟だけで暮らしていた弟の方の老人の呼ばれ名である。近所の幼稚園の小鳥たちを、二十年近くそっと世話をする奉仕活動をしていた。鳥小屋を完璧に磨き上げるのだ。それを或る日園児たちに見つかって、「小鳥の小父さん」となった。

六つの彼に昔の鳥小屋を見せてくれたのは、七つ年上の兄である。兄はその二年前から〈自分で編み出した言語〉でしか話せなくなり、その言葉が通じるのは弟だけだった。十数年後には両親とも亡くなって兄弟暮らしとなり、兄のほうは、五十二歳で亡くなるまで鳥小屋を眺める長い長い時間を持っていた。

唯一人兄の言葉を解し得る弟が、兄の死後に「小鳥の小父さん」となったのは、おそらくは兄が小鳥の言葉を解すると知り、小鳥たちが〈お兄さんの言葉〉を運んでくれていると感じたからだろう。

我が家にもセキセイインコが同居していて、昼間は籠の戸を開けているから、居間と台所を遊び場にしている。言葉の事に限れば、チュンチャンコンニチワ、唱歌はチイチイパッパ、お伽話はムカシムカシ、アルトコロニ、イマシタ、センタクニ、イキマシタ等々。これは口述教育の結果である。

小鳥のほうは、袋や箱なんか開けようとすると飛んできて鋭い口調でチクイ、チクイを連発する。翻訳すれば、何だ何だ早く見せろである。また承諾はチョロン、気に入らぬ時はギイだ。これらは人間界に対応のもので、鳥界に属することばとは言えまい。

気持ちを伝える言葉の神秘を思う。言葉を扱って笑うという人固有の現象に至るお笑い芸人が、現実生活でも存外にモテるのは、言葉に関わる身辺些事への尊重とその深い洞察力と人への愛であろう。我が家のチュンチャンを見ていてもそう思う。 (0106)

 

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