令和1年後期

春  

 

口絵の句短冊

 

 昭和二十一年七月の本誌初号を、正氣主宰は「俳句そのもののやうな」雜誌と後記で述べたが、物、特に食糧難で団栗や野草まで食した当時でも、文藝は人に必須であり、それもいわゆる小乗でなく、我・人共にという大乗のものでなくてはならず、共有できる場としての俳誌は、俳句に不可欠であった。

 占領軍の許可を取り、西洋紙一枚二つ折り、正氣が「燈下で、近來老いを覺え初めた眼で」ガリを切り、家族で刷ったそれは、事実、〈俳句そのもの〉のように必要で最小限の内容と部数であり、表紙もなく、文字もぎゅうぎゅうに詰まっている。

物が豊かになった現在だが、この初号のDNAは今も遺っていて、体裁は素朴であり、ページ数は、以前の定型郵便料金の限度で決めたのがそのままで、空隙を惜しみ、結果として、〈俳句そのもの〉のように再読三読に容易になっている。俳句作品に使うフォントサイズに作者を区別する増減はない。

本当は同時に、〈俳句そのもの〉のような季節感が欲しいが、現在は果たせないでいる。戦前の『櫻鯛』という戦時廃刊の前身誌の場合は、阿部王樹が月々描く表紙絵を、プリント社が勉強だと濃淡を重ね刷りなどしてくれて、手に取ると季感漲り、好評だった。

現在それは果たせぬが、せめてもと、その季節に合った短冊を口絵に置いている。このところ、化政からその後辺りを意識的に、どうかなと思う句でも載せているのは、平成の俳壇事情が、子規が指弾した幕末俳諧の前夜とよく似ているようだからである。

化政の宗匠連は、一律に「芭蕉に返れ」と蕉風に靡きつつも現実的で、衆に媚びた句作りで俳諧を世に広め、幕末に至る。博学で有能ではあり、今号の蟻兄の「茶瓶にもらふ」なんか佳い。月兎当時の地縁にと季が合えば関西人を載せた。蟻兄は、寛政二年出生・明治五年没の大阪久太郎町の商人である。

月斗が指導する立場に就く結社俳誌『同人』であるが、その第二号の新聞広告(大正九年六月)で、俳誌の心臓部、「同人雑吟」(月斗選)の募集に、「純真なる俳句の大道を示すものなり」とある。

この「純真」が、創刊当時の俳句界に於いて、月斗が立つその旗印であったと思われる。又、句を作るそのことを目的とし、それに尽きるとした。

改元でもあるし、化政・幕末を離れ、『同人』初期の中堅選者連の句短冊を載せてみようと思う。(0107)

 

 

 

 

大正十一年三月号

 

 諫早から大村中学校に通学中の正氣は、大正十年十二月、新聞で大阪の月斗の長崎行を知り、家人には別の理由をつけて、級友二人と句会に泊まり込みで出席した。その様子を、『同人』の「月斗先生に初めてお遇ひせし時」(昭二四・二)で記している。

 この度、中西百代さんが、大正の『同人』を調べて当日の句会報を見つけて下さった。今恰も、『春星』のバックナンバーを整理中で、国会図書館にも納入したが、およそ雑誌に居並ぶ俳句は、当時の周囲の時空を纏って居て、読めば生身の親しみを感じる。

 正氣は、「俳句を始めたのは大正九年三月十三日。一日の休み無し」と言い遺したが、言葉通りの生涯であった。胸に刻んだ日付けだが、小柳という友達の誘いらしい。彼は諫早農学校の生徒で、その教師に、大阪で飯田蛇笏門の中谷草人星が居た。

 諫早にも句作の素地たる旧派が在り、近所の宗匠の古賀九皐と生徒たちも句会を共にしている。子規新派の拡大は、マスメディアや学校、役場とかの都会に繋がるスポットの人による伝来に基づく。

 俯瞰して、俳句では今も概ねそうだ。テレビなんか観て俳句に志す人達は、本質的には旧派だが、それが今が旬の最大多数系に走ることで、意図せず、時勢を推し進める主人公となる。嘗ての『ホトトギス』や関西、九州での『同人』でもそうだ。

 さて、少年正氣は、当時超難関の『ホトトギス』雑詠に挑み、大正十一年三月号に入選した。恰も虚子の肥前の旅、雲仙行の時に当たる。二十一日、少年は本諫早駅で虚子に一目と待ち受けたが、その朝虚子は早く目覚めて一汽車変更し、すれ違った。

 長崎は、早くから新派の傘下に入り、「続三千里」の碧梧桐から月斗、虚子とそれぞれに大きな影響を受けて、その後に至った。二列車待った少年に対面があったなら、それは生涯に続いたかも知れぬ。

 技師を目指していた中学生正氣は、歯科医師たらんと、当時の福岡にあった九州歯科医専を下見に行き、校舎が移転直前で粗末で、というのは後でのお話らしい。大阪遊学は、かの句会で直に見た月斗の人間的に魅力ある印象が強かったからだろう。

 この号の句会報での月斗『同人』への最初の句を、正氣自身が目にしては居るまいと、当時の事は以前にも記したが、この際ここに纏めておく。

 正氣、春星居士の忌月だ。縁をどう活かすか。(0108)

 

 

 

 

字引のはなし

 

 俳句とは言葉なので、月々の選句に際し、老躯にはずしりと重いものだから、手の届く範囲に字引を置いている。本は横にして畳に置かない癖だが、許してくれているのが、永い付き合いの三省堂『広辞林』(第五版、昭四八・四)だ。理由はある。

 前身の『廣辭林』(昭九新訂版)が初の私の辞典であり、戦時の中学で、何かで配給切符の1枚を担任の代数の先生に頂いた。「そんな事じゃ駄目だ」が授業での口癖で、駄目だに一段と声を高められるのが「でん」と聞こえて、それが先生のあだ名だった。

 これが、明治四〇年刊『辭林』を増補改訂し、新語や百科関係の用語も含めたというから、私が二歳、言葉を覚えるようになった時期の語彙に当たる。それからまた年を経たのだが、そうした縁である。新しい言葉などは、もうネットで検すればよい。

 手を伸ばせば届くのが、岩波書店『広辞苑』(第五版総革装、平一一・一〇)だが、何かの記念品だったので、革装が親しめない。むしろ『逆引き広辞苑』(平四・一一)のほうがいろいろ使い道がある。

 ちくま学芸文庫『言海』(筑摩書房、平一六・四)は大槻文彦の息遣いの「某字ハ何邊ナラムカ、ト瞑目再三思スレ𪜈遽ニ記出セザルヿ多ク、ソノ在ラムト思フ邊ヲ、前後数字、推當テニ口ニ唱ヘテ、始メテ得ルヿトナル」と、いろは順の不採用は有難い。

このところ、よく手にするのが、平凡社『字統』(白川静、普及版、平一二・一一)で、何かの文字のことがあれば開いている。『字訓』(同上、平一二・三)の方は、それの後追い程度である。

腰を上げて、書棚の北辰館『字源』(簡野道明、大一三・六)は父のもので満身創痍だが、読んで「乍晴乍雨」を見つけた。名著刊行会復刻『大系漢字明解』(高田忠周、昭四九・二)は正字を、大修館書店縮写版『大漢和辭典』十三巻(諸橋轍次、昭四一・五〜四三・五)は今は熟語を、小学館『日本国語大辞典』二十巻(昭四七・一二〜五一・三)は語源や方言を確かめる。

武士が刀を、兵士が銃を手放さぬが如くである。これを使い、言葉が相手だから、専ら視覚、時に聴覚を以てその意味を知ろうとしている。

俳句を解するとは、字引など使って何か得る事ではない。担任の先生がどんな人かは、戸籍や履歴書などから解るものではない。そのちらりとした眼差しや声音で、ほろりと身に受け止め得るのである。 (0109)

 

 

 

 

ホ句の秋

 

 土曜句会の者達で、今年の正氣忌を文武君宅で修した。此の句会は、父正氣が昭和八年三月末に三原へ転居して、もう四月初めには発足した。以来現在に至るから、今も継続中としては稀有の句会だろう。

 月斗書の「俳句道場」額は、戦後の陋屋暮らしで煤けたが、その精神は変わらない。父は声を潜めるのが出来なくて、内向きの事への物言いが不器用で、意に反した受け取り方をされたりもし、系統だった言い方はせず、人により機会により違ったりもした。

 誰とも相手をする。損得で云えば、ディスカッションは負けた方が得することが多いという。貰える立場だからだ。それはその場の勝負ではなく、長いスパンでの結果でもある。俳句のことではないけれど、私もよく父とディスカッションした。

 私が口を噤むのは「若い者は年寄りのことが分からぬ」の処だ。年寄りは若者を経験しているが、若者は年寄りを経験していないから仕方が無い。ただ父は「然し」と続けた。「年寄りは〈昔の若者〉を経験しているが、〈今の若者〉を経験してはいない」と。

 気がつけば、父の年齢を越えた。父は「生来蒲柳の質で、少年の日父に連れられて、大雪の中を産土神に徴兵検査迄是非命を授かるやうにと祈願し、願成就の大幟を奉納した記憶がある」と記しているが、明治の平均寿命の二倍を生きた。

  ホ句の秋そのフィクションと神わざと 正氣

 正氣は、「俳句は〈まことごころ〉と〈あそびごころ〉との奇しき調和」という言葉を遺した。ここで〈奇しき〉としたのが正氣流である。句の評価は遂に人事の及ばぬところだから、選句に当たっては、まず「誰かが作って居るか」を物差しにする。

 句会の互選で、自分のある句が誰彼と無く抜けるものなら、何かがおかしいぞとするのだろう、その句の誌上発表を再考する。〈誰にも抵抗の少ない句〉こそがよく抜けるのだからである。「誰かが作って居るか」と先ずは顧みる。

 凡そ「後方の水を押しやることで船は前進する」のであって、〈押しやる〉のを〈フィクション〉と呼んでいたのではないか。そしてその行為は意図した作りものであってはなるまい。

 同時に、〈神業〉というのは、唯ひたすらの一所懸命のことである。その一所懸命の極みに天為はあり、もはや人為ではない。 (0110)

 

 

 

 

ボトルメール

 

 閑居の身で、電話でなくメールを用いるようにしている。忙中の相手の時を偸むのを憚るのである。それも今以ってパソコンで、である。

以前は好奇心があり、老眼が兆してワープロを広い画面のパソコンにした際は、付属の説明書を頼りにインターネットに繋いでみたりした。高い市外電話代を要し、メールはパソコン通信の頃である。

ホームページも作り、俳誌ではまだ珍しくて訪問者が結構あった。やがては函を開けてあれこれの部品を上位に換えたりもした。リクルートの有料ソフト「ボトルメール」はそれも過ぎた頃だった。

説明すれば、ネット上に、手紙の入った瓶を海に流して見知らぬ誰かとコミュニケーションをとるというもので、いつ誰に届くかいつ誰が送ったかは分からない。ただ届いたボトルメールに返信ができる。

だから、ボトルを流しても必ず返信がある訳ではない。開けば、画面は海岸の景色で、沖の方から波が押し寄せ、渚に砕ける波音が快い。日が暮れると暗くなる。その砂浜に時折にボトルが流れつく。

現今は、知らぬ人にでも何か伝えたいならばブログなど様々で、いつの日にか運よく拾われるというような模糊とした関係は、もう流行らない。

戦時統制下、俳句雑誌は発行できなくなり、句会の句をまとめて、活字印刷でなく、ガリ版刷りで月々配布、或いは本みたいのなら半年に一度と、俳句だけで文章とては無い形でも正氣は続けた。

正氣は、小乗と大乗という仏教用語を借りたが、俳句は自分だけの為のものではないと言う。駅周辺の路傍で楽器を弾いて歌っている若者を見たりするが、立ち止まって聴いて呉れる相手が要るのだ。それも上達のためには、耳の肥えた常連さんが要る。

俳句は言葉である。事柄を述べ、気持ちを伝えるが、備後の人が使う「海」と、土佐の人が使う「海」とは同じだろうか。この文字を作った大陸の国ではといえば、島国である『字訓』の「うみ」は居水で動かざる水だが、『字統』で「海」は晦冥の地とある。

 そもそも言葉自体がそうであるのに、ましてや言葉の機能を最大に駆使しての俳句という文藝の一見さんとお馴染とで、〈わかる〉という点では大きな違いがあるものだろう。通りすがりでは猶更だ。

本誌の場合、あ、何々さんは今月はこんな句を、と思いを馳せられるほどのお仲間である。 (0111)

 

 

 

 

未だし未だし

 

 正氣は、月斗『同人』最盛期の昭和十一年七月、死灰の号で難関の『同人』新選者に推薦され、七十余名に伍し、地方の指導に当たる。その祝賀句会席上の句が「夏袴答辞に立てば胸騒ぎ」で、参会者が挙って喜んだ。常日頃の一見憚らぬ弁舌が、実は単にひそめた声音が出ないだけのことなのに。

 祝句寄書きの隅のその筆致は、子規の書が「居士在世中は、誰も彼も、模倣したものである。碧梧桐の書など最も似てゐた。格堂なども似、瀾水なども似、挿雲なども似、似ざるものもことごとく匂ひを持ってゐた」(月斗『子規名句評釈』)で、師に同じる。

漱石の場合、「そのあとで鮨が出された。夏目が寺田の食べるのを見てゐると、夏目が海苔巻に箸をつけると寺田も海苔巻を取り、夏目が卵を食ふと寺田も卵を食った。そして夏目が海老を食べ残すと、寺田もまた海老を残した」(伊藤整『日本文壇史』所載)。

真似ると学ぶは同根である。それが全人的なのが良い。上達への捷径だ。就中、短くて〈きびしさ〉を要する俳句は、季語にせよ切字にせよ、全体的にもオマージュで成り立っている。だから俳句は、まだ文章の書けない幼児にもそれらしくは作れる。

基準というが、正氣が語るに、月斗先生が幾つの時と、自分の齢に二十五を足した。先生没後は、西望先生を知るや自分の齢に二十を足した西望暦計算で、書にもやや西望流が加味して来たようだ。

「新居へ電話局の工夫が五六人どかどかと來て、工事を濟まして歸りしなに、玄關に立ててある二折の落款集を見て、これは肉筆ですか。と問ふ。左樣です。と答へると。よく書いてありますな。と感心する。暫くして、皆同じですな。と云って歸って行く」(月斗)のだから、これは表2の弟子のは再考せねば。

でも、それぞれに個性というか癖というかがあるものだ。句会で「句を作る」とか「句が出来た」とか言う。つまり〈事柄の生起・成立〉だが、俳句は自然体でふわっと成るものではない。やはり「こしらえる」つまり〈意志的に工夫して作る〉ものだろう。

これが、正氣用語での〈フィクション〉に、更に月斗〈句と人とは別のものに非ず〉の言にも繋がるのである。正氣は、月斗先生同様、句会にあって一気呵成の速吟だった。それが、師の没後は遅吟となり、晩年では「鏤骨」の文字さえ浮かんでくる。

晩年と云ったが暦年のことではない。 (0112)

 

 

 

 

戻る