令和2年前期

春  

 

 

おしょうがつ

 

 新年と春夏秋冬の月斗短冊五枚組がある。正氣が、昭和八年、先生をお迎えして句会を開いた際に揮毫して頂いたものである。句は、当時の『同人俳句集』を繰って正氣が選んだようだ。

その新年は「聖旦や蒼生の賀に 月斗」である。話に、句の〈アオヒトグサノヨロコビニ〉を音読した〈ソウセイノガニ〉では下五が足らず、落款も入れて〈ツキバカリ〉と読んでみせた人がいたという。

 「元日の計腸をしぼりけり 裸馬」では、先生の能筆を、「(某が)なる程これは近ごろ御名吟、感服々々、先づ元日の汁と来ましたな。元日の汁、猫、猫をしぼりけりですな、なアる程。(ラ)」とある。

 言偏を崩せば〈氵〉、肉月を崩せば〈犭〉に似て、成語ハラワタヲシボル(呻吟する)での中七は、旁の苗に似る〈昜〉での最後の撥ねた部分を〈々〉と見做して保ち、というわけで、又なかなか。

 正氣は、『字源』から一番長い訓読みを探して来て、「釂や櫻鯛」と、〈サカヅキノサケヲツクス〉という訓の一漢字を使ってみせたが、ルビには困るね。

テレビ歌番組の歌詞で何々の「(おんな)」のルビを見た。どうやらルビが無いと〈ひと〉と読むかららしい。あの新傾向末期のルビ俳句も、質的であり積極的な筈が、それでも陰に量の意識もあったりして、やはり言葉の軽視に終わったのだが。

ルビの問題は、幸田露伴『言語と文字の間の溝』(昭一三)談で、字の自乗みたいなことは望ましくはないが、向うの字を使って日本のことを書くのに、獨木橋にマルキバシのルビーは、丸木橋になるまでの暫時は仕方あるまいと、露伴は語る。

当時の山本有三による「一つの文章をつゞるに當つて、文字を二列に列べて書かなければ、いつぱんに通用しないといふやうな國語」への烈しいルビ廃止論には、多くの賛成者があった。

だが、ルビの多くは読む人への〈親切〉だし、神々の名や地名、人名(キラキラネームを見よ)、方言、術語などでは、文字の一方を細かく二列にする「といふやうな國語」こそ高邁な知恵といえる。

父は、月斗先生撰名時に読みをルビした「(トウ)(シュン)」をそっくり戸籍に登録した。今は法的にも不要だが、胸の内で、社会的存在のルビ付き島春と、俳句作りの際の島春とは分別させているつもりだ。作者の()の影が差すのは当然だが、俳人はそう心得ねばと(0201)

 

 

 

 

火は尽きない

 

 節目というので、読み始めは原富男の現代語訳『荘子』(春秋社 昭三七)より第三「養生主」にした。料理人丁の肉の捌き方から、薪は一本一本もえ尽きてもと、それも、現代語訳とはいえ短い章だから、声ぼそぼそと黙読とで再読もした。

 句帳の最後の句は等閑にしないでと、昨今は冗談めかして言っているが、自分の句帳は、丁の自在の腕前とは違って、未だに何重にも推敲の棒引きだらけ。だからそれをまだ浴びぬ句がページの末尾にあり、これがもし白鳥の歌となっては困るわけだ。

 月斗先生の辞世とされた「臨終の」の句は、句帳での「沈丁を達磨にしたり春の雪」なんか、純白でそれらしいのだが、「庭に鶯」とは、今は大阪への夢は措いて鶯を身近にというのであり、下山後の大宇陀をやっと宜うものとして、まあ心安らぐ。

 さても『荘子』だが、恰も而立の齢でも読まない読めないの私だったが、当時の裸馬先生の「待望の」の文字と、論語、碧巌録が第一ではあるが、荘子は雲際茫々黄塵濛々であるだけに気易くての「愛読書」の文字は記憶していた。これが、既に十指に及ぶ荘子研究書を渉猟読破された上での事だから魂消る。

菅裸馬先生のお人柄は、月斗先生の言「扇を使はぬ裸馬。傘を持たぬ裸馬。流汗瀧の如き中でも上着をとらぬ裸馬。夕立の中でも走らぬ裸馬」で、「夕立の中でも走らぬ」は、見て居られる。

 年を経し一寒燈の語るらく

 寒波来竹をくぐりて我家なり

裸馬句集『春の霜』の末尾、米寿をお迎えになる昭和四十六年の句である。その前年の百二十六句より、

 雪白の富士はだかりて草餅屋

 魚龍に化すべく滝の育ちけり

秋豊か玉子の黄身のよな太陽

 冬の月脱れやうなしビルが閉ぢ

「〈自分の亡い後に残るものは何も無いが、俳句と僅かの文章だけが残るかな〉と云われ、お亡くなりになる直前まで、真剣に句に打ち込んでいらっしゃいました。いつもお傍に又は枕許にメモをおいて、手さぐりで書きつけていらっしゃいましたが、後で拝見すると字が重なって読めなくなっていました」(清水栄)のに、身辺の燈も竹もありありと実存し、裸馬先生の〈心でみる〉視野の広がりを感じる。

〈火〉は、おのずからもえ伝わって、尽きない。 (0202)

 

 

 

 

魂の問題

 

 月斗忌句会を永年続けている。もう生前の先生を知る者は稀で、師の顕彰は弟子の務めなのになかなか及ばない。没後三十年に至って、正氣と福田清人との仲で、集英社『俳人の書画美術』7子規(和田茂樹 昭五四)の巻に、著者により鳴雪、青々、霽月、月斗、爲山、極堂が入り、ご縁が出来た。

その三十年後の『俳人青木月斗』(角川学芸出版 平二一)の著者角光雄君は、月斗選の春星俳句に出句し、戦後二回目の三原来訪の際の句会に参加して居る。その後大阪で句に復活、『うぐいす』の編集に当たって忌月号に現地古参よりの資料を得、後の語り部としての立ち位置で最適であったと云える。

ただ俳人月斗の句業が、大正末から戦前の昭和が本来で、その像から客観総括すべきを、本然の姿ではない戦後の印象からの演繹に止まる感がある。因みに、中西百代様の調べで、この大阪時代の資料の『同人』バックナンバーの揃いは、国会図書館も俳句文学館にも無く、近代文学館のみと聞く。

『同人』での真の月斗俳句を総括して論じた文は唯一つ、昭和四十年十月尽稿了の菅裸馬「『同人』創業の人々(その六)」で、月斗俳句を論じる際の基盤となろう。その末尾に、昭和二十五年三月号『同人』の「月斗学」を再掲された。

それは「句は人を示し、人は句を示す。それは故翁に於て余りにも明白に実証せられたではないか。故翁を学び取るには末を求め影を逐って居てはいけないと思う。月斗学は要するに我らへつながる魂の問題である」と結ぶ。これは戦後の発行東遷に繋がる裸馬『同人』の宣言でもある。

月斗先生の書に「荃蹄」とあった。『荘子』(外物第二十六)「荃者所以在魚、得魚而忘荃。蹄者所以在兎、得兎而忘蹄」より、原富男現代語訳の解に、而して「ことばは、意を明らかにするためのものである。意をえてしまうと、ことばなど、忘れてしまう」とある。禅でいう不立文字の俳句態度ともいえる。

とかくに師系が問われる昨今、そのことで、天保俳諧の特徴「師弟の継承が、実際的勢力の上に重要な関係」「守成から持久へ」「既成俳団の既得権力支持の手段」「師承の背景を得て名を成そうとし」「業俳の徒が都鄙に満ち」「大衆の量的支持によって自家の安固を」等々の語句を、岩波講座日本文学『俳諧史研究』(頴原退蔵 昭六)より引用してみた。 (0203)

 

 

 

 

豪でなく厚

 

 大河ドラマで、堺正章扮する医の望月東庵が着ている羽織の絵柄に目が留まる。上弦の月を穂芒に兎が振り仰いでいる。月に兎は、望月(餅搗き)でもなく、波兎文様でもなく、月面上でもないが、花兎に月を配したのは、役柄イメージだろう。

 亀田小蛄が本誌に寄せた文の「鈴木重胤翁記〈月兎釜〉銘」を思った。それは、「半輪月をつまみとすその釜に波涛を渡る兎あり」と、『竹生島』の想より永禄に鋳た古釜について、天保に鈴木重胤が銘を記したその紙片の軸装からの随想である。

 軸は損じてその出所も小蛄は記さぬが、月斗の母方は重胤と同じ淡路出身である。大阪へ嫁し子どもは月斗という俳人と伝える文化風土で、〈月兎〉の文字面は若年での刷り込みという暗示だろうか。ただ月斗自身が記したものがある為か、資料的な月兎命名の由来への小蛄の言は概ね緩やかである。

河東駿所有の碧梧桐宛月斗書簡は、岡本百合子の金庫から俳句文学館へ寄贈されたが、小蛄はその昔、茂枝夫人宅の古着籠から「三通選り出して頂戴に及び」、妹の思いを伝える一通を『同人』に発表した。

角光雄『俳人青木月斗』のこの辺りの記述も内容も俳壇史的に過ぎる。小蛄は、例えば井蛙の名すらも〇〇としていた。光雄は、碧梧桐宛書簡の前半と後半を「小蛄氏も・・邂逅させるまでには至らなかった」なんか云ってるが、小蛄へこれはと思う。

光雄は、書簡の二分を「何の理由であるかわからないけれど」と云うが、『河東茂枝刀自をしのびまゐらせて』(小蛄)の「ここで惜しい哉途切れたり!(略)大体のことは想像のつく其後の場面である」とは、刀自のプライバシーを慮っての小蛄の素知らぬ顔での「想像」と、私には読めるのだが。

句と人柄の月斗像を今のうち正さねばと思う。成書のそれが安易なものを作り出している。快通丸・天眼水「売薬本舗」なのに、往時の道修町「薬種問屋」の〈豪商〉イメージが世間にはある。小蛄の持ち帰った中の一通は家庭的経済的な内容で、碧梧桐とは判るがやはり小蛄は明記はしない。

内田百閨w大貧帳』に登場の月斗は大酒豪で、送金に「奥様から(略)お小言を戴く始末です。(略)お酒がお好きで、お酒のげっぷがげっと出る迄召し上がるから月斗と仰るのだそうです」と玉島の怪しい男に言わせるが、そこは百闊齬ャの書きぶりだ。 (0204)

 

 

 

 

 

記録と記憶

 

自身の記憶だとしても、実は後に周囲より見聞した事柄だったりする。己が宜うことの場合だ。具体的な細部を欠くと、凡そ己の客観視は至難で、首をひねりながら、再び体重計に乗ろうとし勝ちである。

片づけていたら通知簿の束が出てきた。学制は戦争がらみの複雑さで、小学校尋常科が国民学校初等科へ、旧制中学校から新制高等学校編入と、激変の時代だった。通知簿での特段の思い出はない。長男で跡継ぎなので、周囲にも切迫感はなかった。

本は不足し、活字の羅列なら何でも読んだ。探偵冒険ものや〈世界の謎〉みたいな博物ものは格別である。さて、躰が細いからか、小学校の通知簿も、手足を使う体操や書方などに屡々〈乙〉がある。国民学校の体操、武道、工作など〈良〉だらけ。

やることがないと手の指同士を様々組ませる。でも不器用で、河原の縞石や小草の塊茎などは蒐めても、とんぼや目高はすぐ網をすり抜けた。書字も、尋一の筆墨の習い始めに腎炎で一ヶ月余欠席したから、でもないが、正氣に不肖の子である。

大体が普通で特別なことは嫌い。勉強は学校だけ。夏休みの宿題なんか、提出前夜に最小限をベソ掻いて済ませた。唯一の生彩は、尋二の絵日記の「んこからみみずがでた」と一行、後段回虫一匹の姿だ。

尋三の担任は綴り方帳を常時提出の女先生だった。一度誉められた。祖父が釣って来た河豚の話で、私は事実から少しだけ〈表現〉をしたのだ。それが何だか意外で、覚えている。

初四は音楽の女先生担任で、通知簿の性行に、「極めて真面目。温順にして世話好きなり。非常に淡白にしてこだわりなく、ユーモアに富む」と。

初五は熱血青年T先生で、「明朗、無邪気」「ねばり強く丁寧に仕上げねば気が済まぬとこがほしい」「記憶力に富み知識豊富なれば人気あり」「読書、観察に興味を有す」「言語悠長、低声言ふところ的確なり、ため人をして傾聴ならしむ」とある。「学習にもっと迫力がほしい」「学友全部をひっぱって行くの気概で進むやう」と、人間たる私の基礎部分を育てて貰った。

T先生は、当時の家庭と結び付けた附属校の教育で、児童同士での日常生活体験を試み、数名で友達の家で寝泊まりもした。軍歌ばっかりのご時勢で、T先生とは中でも「大空に祈る」を合唱した。歌詞の始まりの〽風吹きゃ嵐にならぬやう、を記憶する。 (0205)

 

 

 

 

 

生徒の句作

 

 進学したのは、戦時特例で修業年限四年の旧制中学校だったが、二年生で敗戦、三年生で五年制に戻り、その五年生では新制高等学校の二年生に編入、翌年の総合制により地域統合、男女共学となる。私は市内だから、みな同じ学舎で過ごした。

 カーキ色尽くしの服装にゲートル巻きの通学も、終戦間際は藁草履で修練(勤労奉仕)の日々だった。冬は田んぼの暗渠排水、夏は建物疎開の瓦運びやらだ。それがあっと世が変わり、高校生の名になるや、白線入りの帽子に朴の高下駄で通学した。

 毎週の父の句会は、終戦前後を除き一貫継続で、今のコロナ禍はそれ以来の中断だ。『同人』戦時廃刊で、その秋に正氣は「中国同人会」を作り、筆書きで月斗選を仰いだ。私の句の起点であり、戦中募集の句集『時雨』では唯一の少年の肩書付きだ。

 中学四年生で校友会に俳句班が置かれ、父兄である正氣が子規忌の話に来たりした。私も、松山中学からの転校生木下隆一や国文学班の角光雄らと、放課後の月二囘の句会に出た。俳号柳石の国語教諭が指導、九峯子(体育)遊狂子(英語)寛(数学)碧湖(?)ら先生方の出句を見る。

地方では新聞俳壇と並び、教師による新派の普及が大きい。昭和初め、三原『浮城俳壇』の多くは芭蕉堂十二世岩井藍水門下の旧派に名を連ねた。昭和八年三原に来た正氣の句会の他、『中国新聞』選者臼田亜浪門の教師伊藤距石が三原師範在職中起した句会があり、昭和十年に三原石楠会が『景雲』を発刊した。

 戦後の月斗中国・九州行では、弟の男児に文武も出席する。島春や男兒の友人と思はれる中学生や新制中学生が交じってゐるのは他では見られぬ風景である」(月斗)と喜ばれ、付属中で男兒の句を例に生徒に講話をされた。今も男兒、晴雪、文武が残る。

 総合制高校に俳句班はなく、文学班を作る。男女共学でも本校・分校別で、話し合うて雑誌を三回発行した。私が二号迄編集に当たり、俳句内容もそこそこ。三号は受験で分校の女生徒が編集した。その彼女は息子が作家となり、自身は後に俳人になる。

 今や高校生の句作は盛んで、詩は個の闘争〈ボクシング〉向きだが、俳句の〈甲子園〉は群れで成り立つという適性がミソであろう。中学生正氣が、汽車通学の下級生誰彼に句を作らせたが、後の詩人伊藤静雄に声掛けしていないのはそれと宜える。 (0206)

 

 

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