令和2年後期

春  

 

 

ペーパーナイフ

 

 六年制となった父の母校に進学、新制となる前の予科二年間はスカスカで、必須の理系の他は哲学、経済学、法学、倫理学、美学等の選択科目で当時は身が入らず、田舎出でゲルピンでも京も奈良も近いし、演劇好きの親友がいた。芝居なら扇鶴時代だ。

 いま〈宝箱〉の記の中川巴さんに関わる劇団新派は花柳・八重子を南座で観た。南座は、末妹の京都修学旅行の際に市川少女歌舞伎が懸かり、自由行動に連れて行った。『先代萩』で、今計算すると小学生、元来が理科系なのにかわいそうだったな。

 それでも予科長から、終業時に銅製のペーパーナイフを頂戴した。時を同じく、戦後初で鎌倉市主催の実朝忌の募集句が裸馬選の三座に入り、その市長からの賞品が、鎌倉彫のペーパーナイフだった。

 アンカット本なんて見ることもなく、学生生活は、机と布団と行李だけが持ち物、とても演劇風ではなくて、手紙はそのまま指で開ければ済む。なのに、二つのペーパーナイフがまだ遺っているどころか、仲間たちを書棚の一隅に増やしていた。

置けば、出張旅行などの記憶は薄くても溜まる。修善寺の竹を削いで細字の般若心経を彫ったのが始まりだったか。あとは旅先の土産店や免税店で小金で得たものだ。現在、あの形状が、空港ではナイフにチェックされるので売れないらしい。

少年の頃は書物にする紙のない戦時だった。戦前の句集は、句びっしりと、没後の紙碑たる本だった。現今の句集は一頁二句版が定番でコスパらしいが、せめて五句だな。二句では勿体ないし、見れば、つい組み合わせで読んでしまうから困る。(0207)

 

 

 

 

芭蕉・蕪村に問う

 

 正氣忌月である。父が数えの七十九の夏、海でクロールで泳いで見せた写真がある。私と違い足も速くて、学生時代は蹴球部や水泳部に属していた。たった一度高石と一緒に泳いだ事が自慢だった。でも生活は、自身では拙速よりも巧遅派だと言うのだが。

青木旦さんが大阪での用を済ませ、三原までお見舞いに来られた翌日に入院した。旦さんは親子でも古いものはあまり持たぬからと、秋双が飴屋、青帰が烏を描き「螽取飴屋の鉦もくれ初めし ちゃん」の月斗賛の幅を形見にと支度する。

 七月初めの入院から僅かすると、ベッドで辞世の句を思案し始めた。何度も述べたが、父は滅多に引かない風邪で八度でも越えるや、幼い子ども達を枕元に召集して何事か言い渡す。子ども達は又かと座っていたものだが、最後までこうだった。

 (芭蕉・蕪村に問う)と前書きしたが、自分の句業の是非であろう。句は「ホ句の秋そのフィクションも神わざも」と「ホ句の秋そのフィクションと神わざと」の〈も〉と〈と〉とを推敲していた。

 未だ晩夏なのに、「ホ句の秋」と定めた。島春、どっちだというので、まあ〈と〉の方が解り易いねというと、そうか、という。そこで、難し過ぎるから、「みやびなる八十八の花火哉」の方にしたらというと、「辞世の句は島春一任」と言った。

 〈フィクション〉とは、虚構、いわゆる架空の事物での作句の意ではない。正氣がここで言うのは、対象をある状態へ持って行く作者の行いだろう。物を高い位置に置くには、うんと力を込める要がある。精一杯の句作りである。少し慣れて句作りがうまくなると、この力が薄まってくる。「フィクションがこの頃足りぬぞ」と言われた者が多い筈だ。

 〈神わざ〉とは、人の能力の及ばぬ意だが、これには一所懸命になること、他にそこへ近づく方法がないからだ。「天狗さんが出たね」と言われるのは、まだ力不足の者が、ひょいとした弾みに、思わぬ佳句をものした時だ。牛若丸は、親慕う一心で、鞍馬山で剣の修行をした。真実、必死になった時に天狗さんが現れて、それで牛若丸は強くなった。

 〈芭蕉・蕪村に問う〉は、その態度の肯定である。これに先立ち、「句を始めたのは大正九年三月十三日。以後一日の休み無し」と口に出したので書き取った。私の知る限りで、それは事実だ。

俳句は、作品としては一句で終始するものなのに、五句とは、従来の俳誌一般の出句数からの慣れで、個人的なのかも知れないが、正直なところ、五句もあれば、一句では判らぬその作者の力が見えてくるのが、日ごろの感じである。

一頁一句、それもアンカット本なら最高で、その日好みのペーパーナイフでやおら披いてはどうだろう。その一句に出会うのである。が、詩ならともかく、どうも俳句では具合が悪い気がする。俳句にはやはり群集と反復の要素が存するようだ。

それ程の句作への精進は未だしだが、選に当たって句稿を開く際は、いざ、ペーパーナイフで披くかにも似た期待感をば、毎月覚えている次第だ。(0208)

 

 

 

 

日常に在って詠む

 

 つくづくと日常という語を思う昨今だが、字引を見ると、つねひごろ、ふだん、平生、平常とある。『字統』の〈常〉は一定幅の織物で、『字訓』に、〈つね〉は綱のように強く変わらぬとある。

 日乗とは日記のことだが、私もそうだったが、次男もよく遊び回った末に、夏休みの日記を億劫がり、山で虫を取ってとか海で泳いでとかに、おもしろかったです、で済ませ、担任の先生の日々の講評は、それはよかったね、だった。

春星作品の正氣選に、こうした意味での日常、日乗たる句は入らなかった。前号表3に、昭和十三年当時の正氣の俳句態度を示したが、これが月斗『同人』調であり、ずっと正氣俳句の芯になっている。晩年、小庭を作って草花を植え、手入れした事から、しきりに「写生」の語を口にするようにはなったが。

角光雄君が、昭和四十九年、当時属した「昭和世代俳人の会」の彼の初の句集に、一言書けと言って来たが、最後に彼の俳句は「日常性の中から見付ける詩」という言葉に触れて置いた。「日常性」の語が気になったからだ。その日常に、人倫というか、彼の肉親がよく登場する。原裕は「この作者にとって主題は明らかに私生活にあり」と、有馬籌子に「ひたすらな人生派作家」というような言い方がある。

ところで、

緋目高一熱帯魚一、〇〇〇希少価値 安藤秋羅

の裸馬先生評は、大幅に略して「最後まで緋目高と熱帯魚との比較対照という概念に執着しているものではなく、即物性がある。具象化されている。場面が確実に印象されている。だから俳句である」と、そう高く買っている句ではないが、この作者にはこういう行き方はむしろ奨励的、とある。

 ここには、『自注 菅裸馬集』のあとがきに「各一句づつそれが出来たときの場面はもとより、発想、構想、連想、句に成るまでの心理の変り目さへ、今あったばかりの事のやうにこまかな点まで、不思議なほどありありと再現する。それはどんなに念入りに認めた日記でもノートでも、かほどまで行届いた記録を残し得られる訳のものではあるまいと思った位である」との先生の作句態度が根底にある。

 だから「飾り窓にこの二つの魚をならべてガラス瓶か鉢の中に藻と共に浮かばせている」程の即物性・具象化・臨場感で解されるのであろう。 (0209)

 

 

 

 

句会のすすめ

 

 弁当箱の蓋を立てて食べたり、本のカバーの上から覆い紙して読んだりするのは、人様の眼を意識しているのだが、俳句(といえば作ること)は、そうは行かないもので、現在、マスクしての句会は、顔面下半分の主な表情筋が隠れ、何だか味気ない。

 我が家での句会は、一九三三年春以来の持続だが、記憶では、二階八畳間に十名ほどが、夕食後集まり夜更けまで談笑していた。幼稚園頃の私は、句会が始まるまで、その大人に、と言っても主力は二、三十代の男盛りだが、お相手して貰っていた。

 戦後は、水害で転居した狭い家の二階の六畳居間か、畳敷きの待合室で、土曜の夜、所謂文化に飢えていた時世であり、三十代の会社員らと、其の位の文学好きな女性らに、私や男兒の同級生らも加わった。

 今の地に転居すると、二階の二間で、月斗忌や子規忌も修した。診療所を新築、隣に両親の家が出来ると、その二階が句会場。正氣最晩年に鼻管酸素吸入となり階段を管を延ばして上り、「皆さん心配しないで」と言いながら、暫時盛大な声で息遣いをした。

 父が言い遺したので、私の三階客間で句会を続けたが、階段の上がり降りの問題で、仏間に月斗書「俳句道場」額を掲げて句会場とし、廃院と共に、待合室に椅子掛けとし、今に至っている。床の間が無いと季節感を出すのに苦心する。

 二人では対座吟、三人では鼎座吟とかいうが、互選を伴うからには、やはり句会という性質上、またそれぞれの句会の特色を示すには、固定化せずに顔ぶれは多少流動しつつも、数的には一部屋にぐるりお互いの顔を見て座れるほどがよい。

 春星作品の正氣選は厳選で、所謂「万年一句組」も多かった。俳句の場合、発明発見は困難だが、せめて新案特許の題材、それも叶わねば実用新案を要する。更に、それと不可分ではあるが、表現の技もある。句会での互選は、その眼力を養う場である。

 作句を続ければ一歩一歩の上達は当然だが、句会では、作句よりもむしろ選句に際し、自他の句から突然あ、と悟る機が訪れるもので、そこでポンと一足飛びに上達する。句会に特段の指導者が居なくとも、幼児の何気ない仕種から教わるようにである。

我家での句会の様子を縷々述べたのは、クラスターが単なる数の塊ではなく、寄り合うことで何らかの性質を帯びる塊の称であるからである。(0210)

 

 

 

 

 

造化と造花

 

 学生には当時の大金を払ってメニューヒンを聴きに行った友人が居たが、彼の口遊むのが、オペラ「リゴレット」の〽ラードンナーモビレー 何とかのベントー、つまり〽風の中の 羽のように(堀内敬三訳詞「女ごころの歌」)だったな。

  句ごころがころころころぶ秌の風   正氣

 正氣は「秀句を得るには、手段として知識を豊富にし、技術を磨かねばならぬが、決定的なのは〈心〉である。手段の方は身についたら安定するが、〈心〉の方は不安定である。こころはころころころぶ″もので、油断大敵である」という。

「心」は心臓の象形で、強い筋肉で凝り固まった形。「こころ」は凝るところの意、心臓が感情の動きにより強い衝撃を受けることから、知情意の全ての作用が茲にあるとされた。たしかに、胸キュンとかあって、単なる血管系の筋肉ポンプとは思えぬ節がある。

先般、動脈カテーテルを入れて、我が心臓の姿かたちやその内部の弁の映像を我が目で見るという機会があり、局所解剖学図版とは違う感銘を受けた。「我が」ということの齎した処であろう。

心は脳にあるというのが概ねの考え方だが、実感で一寸ずれがあるようでならない。容易くは解せないが、脳が作り出す意識とは別に、内臓にも心があるとも言われる。いわば遠い祖先から伝わる〈魂〉みたいなものが、奥深い処にあってのことだろう。

細密なボタニカルアートが感動的であるように、最近の造花や精巧な戦艦の模型も、美というか胸に沁みるものがあるが、生き物の尊厳には届かない。命のある心を持たないことの悲しさである。

アニメ「ちびまる子ちゃん」のおじいちゃんの〈友蔵心の一句〉は心に浮かぶという意味だろうが、更に突っ込んで現前の一草一木を視て、そこに宿る造化の神(正氣は紛らわしいのでゴッドと呼んだ)の御手を覚えることの大切さを思う。

晩年の正氣は、庭の草花の手入れをしていて、しきりにその事を言うようになった。通りがかりの人が覗き込んで、様々な感想を述べて行く。「中には島春、まあきれい。まるで造花みたいですね。と褒めるんが居るんで」と苦笑していた。

心ある句作りとは、置炬燵で鉛筆を舐め舐め、ただ単に首から上の頭脳が作り出すものではないと云う事になる。全身を以て大自然に浸りたい。(0211)

 

 

 

 

 

東京と大阪

 

 第三巻第三号(昭二三・三)に、月斗先生の「日本の人口」の文がある。「戦災の都市は家が失はれたので人口が著しく減ってゐるが、その人々が近郊に散って」の交通混雑より、大正十一年のポケット本地理辞典で調べられ、「六大都市は東京五八七萬、大阪二九九萬、名古屋一〇八萬三千、京都一〇八萬一千、神戸九一萬二千、横濱七〇萬」。以下廣島、福岡、仙臺、長崎、八幡、函館、札幌と五萬以上の五十余都市を挙げて、「皆なじみの所でそれぞれ思ひ出」があり、「島春君に頼む。昭和の人口数を調べて下さい」と。

次号で「学生年鑑(昭二二)で、六大都市は「舊東京が三四四萬二千、大阪一二九萬三千、京都九一萬五千、名古屋七一萬九千、横濱七十萬七千、神戸四四萬三千」。以下十萬以上の四十余都市を福岡、仙臺、横須賀、札幌、川崎、金澤、熊本の順にお答えした。

 舊東京とは、三年前の六年生で府が都となったのである。国民科地理の授業は四年生からで、〈府〉の大阪は少し考えたが、六年生の時の〈都〉への記憶がないのは、東方遥拝などの戦時意識だろう。

 子規の『車百合に就きて』(明三二)は、「(略)初めて大阪に参り候節より小生の心に感じ候は只俗の一字に有之候(略)此間に在て美術文学などの連想は出て来る筈も無之」と始まるので驚くが、二百年の昔を述べ、「風流洒落なる太閤様の城下は殺風景なる権現様の城下よりも先づ文学上の進歩を致したる事、因より恠むに足らず候」と、「第二の蕪村は諸君の視線内のそこらに生れ居るかも分かぬ事に候」と激励される。

 長文の中で次の部分に注目する。「江戸には江戸風あり、京には京風あり、美濃に美濃風あり、伊勢に伊勢風あり、しかも大阪に大阪風と云ふ俳風は未だ成立不申候。其訳は大阪に大俳人無かりしとに又継続者の常に出でざりしに因るべく候。談林は二三代継ぎたれど来山の後継なく、鬼貫、淡々の派亦一代にして消え申候。不思議なるは大阪俳人の一代にして消ゆると且つ其句風の斬新にして他に例無きとに有之」。

先生は「奈良は五萬五千である。何と驚くべき古都の寂寞さよ」と、茲で「奈良びいき」のご心境にホッとしつつも、帰阪が叶わなかったご無念さを思う。『同人』は東京よりの復刊となった。

「現代の俳句、滔々として、新月竝に堕してゐる、百年に通じる句はない」(『時雨』序)の宣言も、遂に大阪的な具体化はならなかった。(0212)

 

 

 

 

戻る