令和3年前期
松 本 島 春
御題「実」
自家謄写印刷に始まった本誌も、プリント社依頼となると、主に阿部王樹画による月替わりの色刷り表紙絵を用い、それも印刷となり、季を重んじる雑誌らしくなったが、やがて年間を通じた表紙絵となる。このため季感を希薄にせねばならぬ。
これも行き詰まって、時間を空間に代え、発行地の三原を持って来た次第である。今年の表紙は〈ヤッサ踊り〉だ。王樹スケッチのものである。昨年は、同じ時期の〈櫻鯛〉で、裏表紙に函の「ハマ吉」とあるのは汽車弁の老舗である。濱吉は明治二十三年五月に糸崎で営業を始めている。
昭和五十五年、少壮の和田克司先生が、本誌に一年間連載された『子規研究』中の「子規と尾道」で、二回の尾道訪問の中で、第一回目は明治二十四年八月廿七、八日。同行の太田芝洲から聞いた話を柳原極堂が『友人子規』に記した中に、「宇品より汽船にて尾道に赴き浜吉といふ旅館に投じた」云々がある。
先生は、旅館浜吉の所在を尾道商工案内等にて隈なく調べて居られるが、該当は無かった。平成二十六年、先生にお目にかかった最後だが、当時のファイルを下さった。同じ桃雨の号で生年もほぼ同じ尾道近辺の俳人探求の参考にと云う事であったが、先生の学究への生涯に亙る徹底さを感じた。
〈ヤッサ踊り〉の方は、昭和十二年四月十四日、王樹「十五日午後三原入り、十六日夕大阪入り」の葉書が来る。恰も三原は、十七日より三日間の市制祝賀の飾りつけが始まっていた。その夜の夜桜吟行で王樹さんは風邪を召され、翌日は臥床、祝賀第二日には、窓からスケッチされたりし、十九日出立された。
上阪は、月斗師の西国入りが延びていたのをお迎えへの挨拶参上であろう。帰路の三原俳句大会日取りが決まり、直前の広島での句会に挨拶旁に正氣が出席すると、旅に同行の月村さんから、王樹さんの言で、旅館でなく正氣の家に泊まる旨宣告される。
さあ、正氣は用意の宿をキャンセルし、急遽、座敷の障子を張り替え畳替えして師を迎えたと伝わる。王樹さんの来三は瀬踏みであったらしい。師弟の時間を正氣に多く与えんとするのである。
お歌始の御題「実」は「實」の俗字だが、何で〈家にお金〉が果実かと『字統』を見るに、読みは「みちる・み・まこと」で、充実・誠実がその意とある。挙げたお二人の生き様ではないか。(03.01)
島にて春
年賀状に、高校のときの友人の「今年は卒寿です。四月に同窓会を開催いたします」があってあれッと。彼は昭和六年の生まれ、私は翌年の二月十五日。この元日が三万二千四百六十四日目だ。
西望先生の軸に『花月三萬五千日』とあるが、先生は十二月の生まれでも、新年賀詞にはや数えの壽齢が記されている。すべてを肯定感謝の先生であった。父正氣も、寿齢の節々を貴んでいたなと、中でも赤い頭巾とちゃんちゃんこの姿を思い出す。
以前に貰った誕生日の中国新聞コピーでは、見出しに「常態に復すれば急速に全部を撤退 東洋平和の維持が目的 荒木陸相、決意を語る」と、あと「陸軍部隊上陸 けふ全戦線へ」の第一次上海事件。「新国家基本案 在満全民衆を包容」の満州建国だ。
妻の姪がサンディエゴのオールドタウンで見付けた小冊子「Pages of Time〈1932〉」では、国際的に、ロス五輪で米国が23種目中11に勝利、日本が満州を占領、ヒットラー、ムッソリーニの動静など。国内は、ロックフェラーセンター建築中、リンドバーグ家の誘拐、失業者千百万人。アカデミー賞は「グランド・ホテル」。平均収入1,652$、新車610$、新築6,515$。中性子発見。余命59.7歳。
この年生まれには、私より十二日遅れでエリザベス・テーラー、それにオマー・シャリフ、ピーター・オトールと、映画部門なら解るが。
こうした時空に私は生まれた。その春であり島である。祖父はいつも和服姿だから、胸をはだけて赤ん坊の私を包み、九州人だから、ネンネンコロリではなくオロロンオロロンと浜辺を歩いたらしい。文藝の常として、私が作る俳句には、誕生後のそれら一切が内包されている筈だろう。
作ると言ったが、十九歳の時に上京して荻窪の裸馬先生邸でお話を伺った際に、黄色い嘴で、俳句とは作るものではとお訊ねしたら、先生は言下に「君、人間が作れるのは自分の体だけだよ」と。先生は秋田だから、私の耳に〈作れる〉と〈作れぬ〉のどちらにも聞こえたのに、それで居てドンと腹に落ちた。
作るとは、意志的な行為である。物事の状態を変えたり、新しいものを形にする。こしらえるは、更に意図して工夫して製する。拵えごととは虚構である。気軽にさアこれから俳句を作ろう、もう出来たのか、なあんて言ってしまっているが。 (03.02)
継承者たるには
父正氣の時世は、晩御飯の後も仕事をし、日曜祭日は午後休診、盆正月だけが休みで、暮に父は診療を終えると夜汽車で師の許へと上阪した。戦後のベビーブームでの虫歯の洪水で、私が国家試験を終えて父の仕事を手伝って居た頃から結婚後も暫くは暇無しでも、俳句の方の私はどうだろう。
父は、その死の三日前、枕頭の私に『春星』の継続を頼むと語を改めて言った。当時、地方都市とて私でも仕事外のお役の年頃で出かけっぱなし。家での土曜句会もほぼ欠席で、春星作品はぎりぎり。それでも正氣は春星作品の第二選目を、見落としがあるとイケんと私に持ち込み目を通させていた。
以後の十年は更に飛ぶかのような明け暮れ、その隙間を拾い、後継者たる務めかと、昭和初期からのバックナンバーで、父の遺した文字を改めて読み込み書き抜いた。次に句帳から同じ作業をした。何しろ紙の乏しい戦中戦後は句帳とは呼べぬ代物で苦労した。その多くを便利なウエブに置いた。
次いで、父の師月斗のそれを、家に遺る『同人』誌より試みた。丁度、角光雄君が俳句史研究とか電話を寄こすので、私は実作者だからと言いつつ、或る思い付きから『同人』以前の月斗句と出遭う。句数こそ子規の俳句分類に相当するが、私は作者名の〈月〉の字を追うだけ。子規の偉業にはたまげる。
更に師の為人なる〈語録〉をウェブに上げた途端に、青木月斗の『同人』での主張だと卒論の中に無断でコピペした学生が居て当惑。「こぼれ話である。俳句に関する月斗先生の改まっての主張ではない。随筆文、紀行文、句評、改作添削、或いは窓の欄から云々」と急ぎ注釈を加えた次第であった。
師の生き様を継ぐとは、コピペでなく、可能な限りその時空を共有せんとすることである。正氣は、戦時下、俳諧史を読み、当時もう顧みられぬ古短冊を蒐集した。耳目に触れ得ない場合の最善は、その筋肉の動きに為る筆跡に接することで、本誌に短冊写真を載せるのもその思いである。
子規の句の筆写で、最も子規の字にそっくりなのは碧梧桐であったという。正氣は、筆は「龍眠」、墨は「紅花墨」、穂は全部捌いて、濃く磨った墨をたっぷり含ませ、軸尻を軽くつまみ、師とそっくりの字を書くこともできた。こうして全身に師から多くのものの刷り込みを享けるのである。(03.03)
草を歩けば草青く
弟子たるものとして、師を世に顕わす願いは当然であろう。それも人物像としては誤謬なく。
青木月斗のネット検索で、ウィキペディアが一番に出る。当初は、冒頭の出生死没月日が全く誤りだった。本文は人違いではないが、その人となりが「豪商の家に育つ」「晩年は山水老人」などは困る。参考文献は『現代俳句大辞典』(三省堂)とあるが。
福田清人は正氣の中学同級で、その縁があり、和田茂樹解説『俳人の書画美術』(集英社)の子規篇に、鳴雪、青々、霽月、為山、極堂と共に月斗が入った。昭和五十四年五月二十一日発行である。
茂樹先生の解説に「神薬快通丸、天眼水の本舗たる薬房」「多彩で、物に拘泥せぬ句を作り、華やかに、句作第一に生きた」とある。克司先生の年譜にも、「カラタチ」俳句欄担当、と正確である。
昭和五十六年一月一日付「朝日新聞」の大岡信『折々の歌』に、「元旦や暗き空より風が吹く 月斗」が載り、切り抜きを送って貰ったりし、月斗の名を知る人たちは挙って喜んだ。この句きりではあったが。
その後を継ぐ鷲田清一『折々のことば』では昨年、「何が悲しいといふのではなく、何となく遣瀬ないのである 水原秋桜子」を挙げ、「(前略)歓楽と悲哀の敷居はおぼろ。知らぬまにめくれ返っている。〈春愁や草を歩けば草青く〉(青木月斗)を引いて〈このやうに何でもない事ながら、それが皆春愁の種になるのである〉とも」とあった。語は『新編歳時記』(水原秋桜子編)よりと(春の執筆は林翔?)ある。
「元旦や」は角光雄君が月斗代表句とし、前記のウィキペディアでもこれと「臨終の庭に鶯」の遺句の二句を挙げていた。従来の同人衆では、「春愁や」の句がよく謳われていたから、前記が目についた。
ウィキペディアを一度全面的に書き改めた際、年譜的な句の初めは、王樹さんに貰った先生のBK放送稿を用いた。小野圭史の年譜もこれだろう。稿コピーは光雄君に渡し、彼の作った年譜も略そのようだ。
そこに、代表句と云うよりもっと先生らしくと各季、
初夢やうらうらとして金砂子 月斗
春愁や草を歩けば草青く 同
金魚玉に聚まる山の翠微かな 同
柘榴自ら侘しきものと思へるや 同
女狐の耳まで裂くる欠びかな 同
としてみた。どうだろうか。 (03.04)
三原土曜会
隔週土曜午後に春星社で句会を開いている。松本歯科が土曜午後休診だからだった。いま会者は僅かになり、句会後、誌の編集業務を併せて行っている。正氣前主宰が昭和八年三月末に三原に転居して直ぐの発会だから、長続きの点で希有だろう。
夕食後の毎週だったが、仕事多忙もあって隔週となり、正氣が晩年病を得ると午後に変えて、今に至る。最近は席題を詠むのも廃したから、見た目、選句会になった。清記用紙の無記名での作を読む。この頃は披講に際して句毎に一言させる。
私の今の土曜会選句について述べよう。巡る清記は一枚十句弱でまあ一視野にあり、ちらっと通読して今日のレベルが分かるから、その気で一句ずつ読む。一句は一度ややチルトさせての目読だが、その句より残る幾つかの文字が在るかどうか。
前にも言ったが、選のイメージは、「紙片を受け取るたびに水にひたし、とり出した際に二三の文字が残ってかがやいてゐるのをみとめたときは、その紙を書記にかへすと、書記はそれを大きな本に綴じ入れる」(ノバーリス『青い花』)である。
世に留めるに足る句か否か、消え残る文字の二三の有無を見ればよい。句三千で柿二の子規の選句単位なら、齢もとり、句会もあまりない現況はがたんと減って、もう春星作品も一選だけで済まし、みな合わせても月々一柿単位ほどになったかと思う。
土曜会の選に当たっては、消え残る文字の部分は選句帳に傍点を、それが作品として成り立っているか、つまり三回転ジャンプの着地の爪先の具合はどうか、その減点はどう取り戻すかの部分には線を引き、披講時に指摘し座中で考えさせる。
春星作品の選もだが、添削ではなく選者も作者と共々に推敲するのである。俳句作りの目的が、よい句を作ることにあると思うからだ。八朔や分葱にも生産者の落款を入れたりするのは最近である。『春星』に何々集作家みたいな階級制はない。
而して「句と人とは、別のものにあらず」(月斗)である。だから句会の者に、唯々「よい句を作る」ことを申している。「よい句」は、より良くの先にあると思うので、ちょっとだけ厳しくする。
句会の者たちは「もっと優しくしてもらったら、もっともっとやるのにね」と呟くが、そうかな。それには時間がないんだよ。(03.05)
本の始末の記
家の中を片付けている。活字欠乏の時節に育ったせいか、就中書物の処遇は悩ましい。何かの意でそこにあるからで、先ほど逝かれた白土三平氏の漫画『カムイ伝』が第一巻のみは、私と同年同日の生まれと知った折だ。同時代を過ごしている。
戦直後は、書く方も、鉛筆は両端を削って片方にキャップをはめると、一本で二本に使える。いい考えと私もやってみたら、隣席のМ君が、それは「ビンボー削り」というんだと言ったのでやめた。消しゴムには何かのゴムの欠けらを使った。
筆記帳の片面は滑らかでも、時に活字片が残ってて裏はざらざらが仙花紙とかいう再生紙だろう。『春星』は戦前の西洋紙を使っているが、謄写版と原紙とインクは中古で、歯科技工の器具で手入れし、正氣が低電圧の暗い灯で力を込めてガリを切った。
必要な数だけ刷る訳で、占領下の発行には軍の検閲許可を要し、毎月福岡に、後に呉に送った。プランゲ文庫に若干残っている。当時は百部に遠く足らず、正氣がそれを百部と記載したところ、月斗先生から、凡そ役者の年齢と俳誌の部数は言わぬと。
さて、正氣前主宰は、句の上達にはよく作ることと繰り返しよく読むことを勧めた。『春星』も一読で捨てないでほしい。一年間を束ねてかっきり二センチ、単行本一冊分で書架に場所は取らぬ。
私の少年時代、本は、友達で取り回し読むものであった。それも活字なら長いのがよくて、吉川英治『三国志』、パールバック『大地』はともかく、世界大思想全集の読物的な巻のトマスモア『ユートピア』やベーコン『ニューアトランティス』などまで。
前の二冊は、二年ほど戦後疎開かで近所へやって来た一年下の子から借りた。この子と何も遊ぶ事がなくなると、小紙片に文字一つ書いて裏返しにかき混ぜ、順に七枚並べて取るのに、全部が無意味。唯一〈シリノヘロヒト〉で二人とも笑ってそれっきり。
七文字の並べでも無作為ではそんなものだろう。文字一つでなく、辞書の中にある言葉一つでのそれをやっても同様だろうから、およそ俳句の言葉の選択、排列は、大量の用意がそこにある。
辞書で「片付ける」の意味の最後に「じゃまな者を除く。殺す」とあるが、その感じもなくはない。初期の『春星』は、安価な定型郵便たるべく二つ折りにしたが、それさえ正氣は「胸が痛」んだ。(03.06)