令和3年後期

春  

 

 

春星七十五年

 

 戦後創刊以来、四分の三世紀を経た『春星』である。『同人』復刊が遅れたために七月発行となり、誌名の季節感では、八月『ふた葉』付録の『車百合』から十月となった本番の『車百合』の如しだ。

 戦時下廃刊直前の『櫻鯛』は、淵石馬による佐世保勢や青江竹里による信州勢の参加で、所謂郷土俳誌を脱する向きにあったし、戦中の通信句会で関西勢も加わり、誌名も瀬戸内海を脱したのである。

プランゲ文庫で検するに、空襲を免れた三原の戦直後の出版物は多い方だが、他に歌誌らしき名が一度のみ。当時の文藝作品の発表は、学校や会社や地域が発行する会報雑誌で行われた事が分かる。

正氣は、俳句は大乗のものであり、世に発表せざれば無意義としていたから、何よりも、その場を失うことを惧れていた。戦中、中古のガリ版器を手に入れて自ら鉄筆で切り、句会報を家族で刷った。

昭和二十一年六月、戦後初の月斗先生ご西下の際にお許しを得、七月一日付で発刊。この日は、恰も米軍のビキニ環礁でのA実験に当たる。戦艦長門は沈まず後日の海中爆発のB実験で沈没した。

すべての出版物は占領軍の許可を要し、古い日本を破壊する占領政策での検閲下にあった。当時の国語改革にも繋がるのだろうが、手書きの謄写版では自由だから月斗先生も喜ばれて文章を寄せられた。

その内の三十年、私にとっては、平成三年九月、題字のみの表紙で社告の入った第四十六巻第九号以降が相当する。翌月を『松本正氣先生追悼號』とし、継承刊行に至った意を述べた。

その末尾の部分を再掲すると、〈先師の指導は、活字による体系的なものではなかった。肉声による対機説法であった。指導は繰り返し耳に入っている。方針は不易である。それは句作において実現しなければならない。それが先師の遺志であり、『春星』継承者の使命と心得るものである〉と。

春星作品の選は、規模(数)的には恰も往時の寺子屋の如しで、その進度に応じて個別的にと心がけている。試験もなくご褒美も出ない。月々の春星作品がその全てであり、主が無精者なので、何々大会といったイベントも何々賞のようなアワードも不在。

モットーは〈句作第一義〉〈和而不同〉である。既に

烏兎を語れぬ齢を重ねたが、禅語の「更参三十年」とは、数値のことではない。(03.07

 

 

 

辰年月村・正氣

 

正氣忌月であるが、一日違いで湯室月村さんの忌でもある。正氣のほうが二回り下で、互いに辰年生まれは句がうまくて長生きすると云い合って居た。前半が月村の言、後半はプラス正氣の提案である。

 月村さんが我が家にお見えになったのは二度だけ。昭和十二年夏、月斗先生に御伴して九州行の帰路、宮島見物を止めにして先生に同行三泊された。目前の川岸の平凡な桐の木一本で十三句作り、大阪の句会人らはその句の桐を種に三原に来たがった。

 もう一度は昭和三十七年八月の三原吟行で、月村、一央、喜一、二月堂、井耳、翠西、魯庵氏ら三十余名と三原勢とが佛通寺傍らの湯宿に泊っての合同句会。翌日、生口島の耕三寺から酔心醸造を経て春星舎へ。少し前に御静養の月村さんはお達者だった。

 佛通寺散策では、若い人は滝見にも行ったりし、多くは寺苑を見下ろす位置にある開山堂へ石段を上がったが、月村さんは「わてはここで」と腰掛けられた。ゆっくりお話ししたのはそれが最後だ。内容を全く覚えていないから、普段の会話だったろう。

 月村俳句を解する上で、蕪村はともかく太祇の句の尊重を知るならば、なるほどと納得できる。特にその根源に迫る為には、「山吹や葉に花に葉に花に葉に 太祇」を実在感で解説される、その口調を一度お聞きしたかったものだ。
 句集『能勢』(昭四四)は、凡そ田園自然の題詠に発する月村句の集成だが、検して山吹の二句を得た。何れの句も「折る」とある。太祇へのオマージュだろう。
  山吹や腕さし込で折にけり    太祇

折りくれし山吹紙に包みけり   月村
  誰折るとなく垣山吹の減り    月村
 正氣が、自分の句の発表に当たっての基準とするのは、「誰かがもう作って居るか」である。陳套でなく新奇をと云うことになる。『同人』選者に推された際の「鬼才縦横。時に軽車無軌道を走る如きの観あり」とは、若さとはいえ、その底に一貫して流れるのは、恒に〈新〉を希求する態度である。

 後に「奇は大可なり」と嘯いたのが、楠本憲吉氏のお気に入られた。その憲吉氏が三原へ見えた時の小集で、誰かが憲吉選の後で質問したところ、僕は風と少女の句には弱いんですと笑われて皆も笑った。

 辰年月村・正氣の俳句態度は、互いに〈同〉ではなく、それで恒に〈和〉し、生涯それを貫かれた。(03.08

 

 

 

「大地の歌」

 

 大学予科二年間のカリキュラムに美術があり、デッサンなどしたが、音楽や書道は無かった。それとは関わらず、絵も描くS君と出かけたマチス展で田舎者の私は強パンチを食らい、続いてピカソ、ブラック、富岡鉄斎など美術館や百貨店展示を観た。

 同学年のT君が、卒業後何十年かして、レコードのマーラー「大地の歌」を君にと送って来てくれた。結婚後にN響を聴きに行った程度の私に、何を思いついてかと、久闊と感想を述べた。T君は年上で神戸の高校時代からドラムを叩いていた。

 音楽と云えば、戦時下の私は、六年生の放課後の音楽室で反復、敵国機の爆音鑑別のレコードを聴いた。防空監視哨が学校の裏山にもあった頃だ。ハーモニカは、敵性語でないハホト・ハヘイ・ロニトの三和音の吹き穴のあるもの、など思い出す。

楽器を使いこなす人を見れば、私には神技の如しだ。つくつくぼーし、と文字で聴く側にある私だから、音感の評価では劣るの方だ。戦時とは関わりはないが。さて、「大地の歌」は、唐詩の世界に依るのだから、そんな私へのT君の意だと思った。

  一片の冰心存す櫻人    月斗

  (タチマチ)(タチマチ)晴や今年竹        

は、それぞれ

「・・・一片氷心在玉壷」(王昌齡)

「・・・乍雨乍晴花自落」(欧陽修)

よりのいわば〈用典〉である。

 この場合では、「櫻人」「今年竹」と置く季題の技を言うべきだろうが、一般的に俳句のような短詩では、言葉一つ一つへの負担が大きいものだから、季題そのものが偉大な〈用典〉となると云えよう。

 曾て、季題趣味として遠ざけられ、今や季題の本意と名付けられて歳時記がよく売れるが、誰の「秋の風」の句にも、押しなべて「あかあかと日は難面も」「白木の弓に弦張らん」等が根源に滲む。ここから立ち上がる。且つ定め、高め、深められる。

 ア、ベ、チェを予科で一緒に学んだが、単語も易しく、T君が私を高く買ってくれても、歌唱でのヒヤリングは無理だ。その第一楽章の「なんと美しいことか、この金杯を満たす酒は」の出だしは、「悲來乎 悲來乎」に始まる李白の『悲歌行』に依る。

 喜怒哀楽というが、春秋を重ねた当時、T君は深い意味での〈哀〉を提示してくれたのであろう。03.09

 

 

 

 

 

ディスプレイ

 

 ディスプレイとは、表示、陳列、展示といった意味で、羽を拡げた孔雀、コンビニのケースのお弁当、或いは講堂での絵画展などが相当する。更には、商業や文化の活動に際し、その場面を演出してメッセージを広く強く伝えようとする。

 その点、俳誌のメインステージである雑詠欄での本誌の演出は些か素っ気ない。フォントサイズ等も同等である。いま、五句を限度とし句数の順に並べるのは、それによって入選の閾が変えられるからである。寺子屋的な対人方式も執れるというわけだ。

閾が高くて一定した正氣選に於ては、一時、句数による順を不同にしたこともある。ページの端々に五句を配し、その間に二句も一句も入れる。不都合はない。『同人』選者クラスの第一部と第二部にもしたが、これは短期間の試みだった。

創刊時の「春星俳句」は、月斗選(半紙に墨書、加朱、選後、稿返送)だったが、先生没後、正氣選の「春星作品」となり、正氣の作品を選句の最後の箇所に置いた。別のページを考えないのは、創刊時の用紙不足により、ページに空白の部分を残さぬ事を期した名残である。意味のない無駄を排する俳句の十七字定型を思わせる行為であるから、私も倣う。

 前月号で、さつきさんがその春星作品中の「昔も昔カルメラ焼など作った梅雨」を取り上げられ、編集子も附記しているように嬉しいことだが、句は長梅雨みたいにダラダラしているので、五七五定型のことをお礼に代えて記して見よう。

 季題趣味を排した曾ての新興俳句も、定型は問題にならなかったようだ。それが、以後の戦前の文芸のリアリズム運動から論議となるのだが、定型性、定型感、十七音量感を基本とした俳句基準律(中田青馬)という処で、自由律との区別をつけようとした。

 〈定型性〉とは三音節、でなくとも〈定型感〉がある、とは〈十七音量感〉を持つ、ということだとする。そのどれかがあればで、論は粗くて難しい言い方だが、〈五七五のこと〉を言い換えたに過ぎない。戦後の定型の説はよくは知らぬ。

 難しそうだが、正氣は、俳句と川柳の違いを尋ねられた時、俳句を作ろうとして作れば俳句、川柳を作ろうとして作れば川柳だと云った。つまり態度である。また正氣俳句は最後まで確と言葉が整っていた。一語をも最適のものを求めた。励まねば。03.10

 

 

 

人が分かる

 

 書庫に故立花隆著の大冊『サル学の現在』があるのは、私が申年だからである。序でだが妻は戌年、犬猿の仲とは、互いに干支の順を争ったからだという。この著での山際寿一氏のゴリラ研究の二つの章は、実はその題材から、読むことをしなかった。

 著書発行から三十年、研究は随分と発展したようだ。今の紙の山際寿一氏「科学季評」を楽しみにしている。この秋は、「心を読むのに言葉は要らない」「必要なのは言葉の持つ意味ではなく、声や身体の動きで作られる全体的な感触なのだ」ということ。

 「霊長類は視覚優位」で「次に聴覚」。物事を見聞きして理解しそれを共有できる。更に人類の言葉は、「五感を音によって表現する手段」で、それを記録する文字が出来ると、時空を超え、発し手がその場にいなくても伝えられる。作り事でさえもだ。

「言葉は、五感を代替して想像させる手段」であり、本当は「他者と共有しにくい感覚が重要」で、「気持ちを伝えるためには、何百という優しい言葉を投げかけるより、じっと抱き合ったり、手をつなぎ合ったりする方がいい」と結ぶ。

 テレビ画面は、視、聴覚から成る。松重豊『孤独のグルメ』で、食は〈孤高の行為〉だと解説し、視聴者に食品の嗅覚、味覚、触覚を直に感じさせる訳ではないが、表情と独白で美味しそう。曾て「ビフテキの切口南風に向き」(関本夜畔)で作者は味覚の句だと云うけど、〈言葉〉からなる詩歌ではね。

 句帖や短尺に書かれた句はともかく、俳誌は似た様な形をした文字だらけだ。それでも、俳誌上の句には句集とは違って群れのザワザワ感があり、親しまれる。投句も一句だけ見たのでは個体感さえ薄く、春星投句箋に三句は見せて欲しいのは、そのためだ。

 群れはヒトの脳では百五十人(ダンバー数)が限度とか。俳誌での作者の何処の誰さんの場合もそうだろう。『春星』程がよい。居住が固定しなくなり、苗字は昭和前期頃から大俳誌面に載るようになった。俳号は世俗的な事柄を取り除く手段だ。

 芭蕉以後の伝統は離俗である。『芥子園畫傳』では、「寧ろ覇気があっても、市気あらしめてはならぬ」という。「市なるときは俗気が多い」と。

「元時代の畫には大抵款がない。時としては石隙に隠してある。書がまづくて畫面を傷ることを恐れた」のである。句を読めば人が分かる。03.11

 

 

 

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