令和4年前期

春  

 

日過ぎり月過ぎり

 

 一階部分を片付け中なので、久しぶりに月斗筆「俳句道場」額のある仏間で句会をした。以前の正氣の春星舎では、玄関を開けた正面に掲げてあったが、当時既に紙面が相当に煤けていた。

 終戦直後の水害で移った仮住居が十年、今の場所に移った。表通りに面し、城下町の常で奥深い造りの旧家で、表側が診療部分で奥が生活部分。風呂場は、台所や奥の離れへの中庭の廊下を隔てた土間に薪の焚口があり、煙突でも時に家中が燻った。

 水害は額が出来て五年後、橋際の家の二階座敷で無事だったが、隣の部屋は倒壊、押入の『櫻鯛』残冊やら、沢山の講談社『キング』付録「名俳句集名川柳集」が、家の裏の砂泥中に散乱していた。

 付録とは、第十二巻第一号(昭十一、一)七大付録の内、四十銭の本誌とは別送の一つで別に送料二銭を要する。俳句は藤井紫影編で川柳は岡田三面子編。同時に、西條八十編「東西名詩集、吟詠漢詩集」、武者小路実篤編「名言名訓集」など。

 観光バスのガイドみたいに、所謂大衆の知識教養欲望に応えるものだったろう。送料を要する点から、当時別に古書肆へ流れ、大量に正氣の許に来たものなのか。子どもの私は川柳の箇所を読んだ覚えがあり、古本で見て懐かしくて求めた。

 処が「春愁や草を歩けば草青く 青々」を、所有者が鉛筆で青々を消し月斗と書いてある。紫影は、選出は古来名句として喧伝されたもの、近代は俳壇に於ける代表的俳人の代表句の他に学校読本採録の句から、と序で述べていて、後者での勘違い?だろう。

曾て月斗先生は教科書に載せたい句として、純客観でなくと、蕪村の「鶯の声遠き日も暮れにけり」を挙げられた。この句は或る詩人が「春の暮方の物音が、遠くの空から聴こえて来るような感じがする」と云った。主観が背後にあるとする。

 風呂の焚口の高い屋根裏に嵌った小さな天窓のことを書こうと思ったのだった。御題〈窓〉への意識から、今頃になってやっと気付くほどの明り取りで、換気の役目は無い。時間の経過の中で、晴れれば光の日過ぎり月過ぎるのみであろう。

 

 その屋根裏の小さな景色は客観である。しかし、胸中、同じく過ぎり行く日暮れの家の内のあれこれは、その一日の物語であって、日々に、人々で、違って居り、哀歓がそこに滲むのである。(04.01)

 

 

 

自選すること

 

 色々あって急遽取り掛かったせいにはしないが、師走も半ばにパソコンが起動しなくなった。剰え、プリンターも。ウェブ保存の稿はともかく、新年号から暫く、聊かの不都合が残るかと思う。

この二月に誕生日がやって来る。三萬二千八百七十余日の数となる。胸元もほぼノーネクタイでいるが、〈卆〉の文字の真意は、この機器が先んじて呉れたに相違ない。感謝せずばなるまいか。

鋭意、核心の毎月の春星作品欄は守らねばならぬ。『字訓』に「えらぶ」は、多くのものの中から少数より出して取ること。『字統』に「選」は神前の二人の舞の姿、〈そろう〉から〈集まる〉で〈選ぶ〉と、数に関わる問題である。

数の点で、当初の月斗選、後の正氣選も厳しかった。指導が出句稿の選によって為されていたからである。内容と形式は不可分ではあるけれど、多少の語句の添削は許すも、多くは自得せねばならぬ。

戦後の『ホトトギス』が若干残っているが、『春星』も『同人』も未だの時期で、その一冊の投句票が切り取られていて思い出した。二句投句であったと思うが、父が命じて二度ほど句も覚えないが、中学生の私はそれを貼った半紙に墨書し小諸へ送った筈だ。

恰も父も中学生で『ホトトギス』へ投句した年ごろに相当する故か。父の当時は二十句以内だったが、その一句「蝉時雨林間学校参観人」が見事入選した。私にそれに当時相当する程の句はない。

春星作品の句稿は、正氣選(入選五句)の頃より多くの出句を許していた。その本意は、五句を以て選者に迎合せぬが為である。いわゆる選者好みの句を揃えず、選者よ如何、の句の提示を歓迎する。

句作は、多くは句会を経たものであったから、作りっ放しではなく客観視し得る機会があった。繰り返して「練り上げる」ことが出来たのである。このプロセスは、寺子屋教授における進歩にも、というよりは、にこそ必須で、捷径でもあろう。

自選を経ての出句を希望する。その意にて現況の十五句以内を十句以内に変更するが、固執しない。ただ従来通りでも、ひそかに意識はしてみてほしい。勿体ないではないか。

少年正氣の句の三人置いて後ろに「おだやかな火色となりぬ櫻炭 草城」があるが、彼が巻頭を取ったのはこのすぐ後だ。進歩とはそういうものだ。(04.02)

 

 

 

 

 

以て瞑すべし

 

 定数以上の立候補がないと投票にはならない。投句のための自選を述べたが、数を作らなければそれには及ばないことではある。天才ならそれでもいいが、概して天才は名人とはなり難い。

 三十年ほど前だったか、ソウルで歯科の会合があり、オプションのツアーで、一度ピストルを撃ってみたことがある。一回五発で、照準を合わせて上に外れたら、次は少し下に合わそうと思うのが常だろう。又はもう一回別のピストルで試みるとするか。

 句の評価は、概して言えば、正氣のいうゴッドのそれに任すしかないが、それでは何だから、私は、その人がこの世に生まれ、その句を作らなかったら、この世に生まれなかったであろうという句を作れと申し上げている。

 俳句は短い形なので、そのことばのままで脳裏に住み着くことができるのがよい。或る人の句の二つか三つ、何かの拍子で、お名前か、お声かお顔かと共にあたかも自分の句を思い出すが如くである。

 『月斗翁句抄』の初句は、出典の諸『同人句集』にはない。裸馬先生の格別の計らいであろう。先生主宰での『地表』は、冒頭の「猫埋めて春の地すこし膨れたり 苳雨」での題名となったと思うが、「春」は利き苳雨さんの句ではこれを思い出す。

 短い生涯の中で短い句作をした人であっても、土曜会の某の場合「栗剝くや特大を一つポケットに」だ。句は幼いが、〈栗〉たる価値判断は〈特大〉である。この人のお人柄として〈一つポケットに〉が、披講時みんなの不意を突いたせいもあるか。

丁度二十年前、句の縁で七回忌に建てた正氣句碑の脇に、文武君が図ったのか、句会の人たちでいつの間にか石材などを仕度し、お気に入りの一句を選べという。就中は書、もだがさあ困った。

父の句は、昭和十七年の「夕立雲八雲路山に現はれし」。参詣の神社印がある即時の句の短冊を使った。句碑の背景の山で、山路は出雲へと通じる。私が十歳の年に当たる。私の石を後ろへ引いても並列ならば、せめて私が二十歳台の句をと思った。

句集『地表』より選び、「瞑りて真赤な天の雲雀聴く」とした。〈雲〉が通じる。二十歳、日光を浴びる私の瞼は分厚くて血色に富んでいた。そして昔は神社の背後は稲田だった。

今や〈目つむる〉の本来の「瞑」が思えるなあ。(04.03)

 

 

 

 

「花の友」とは

 

 中学生の正氣は句を始めて間無しに俳誌を出した。友人の小柳種衣が「俳句を熱心に作り、俳誌を多刊する。自分が出した俳誌を半年続かせようとか一年保たせようとか、そんなことはお構いなしらしい。躊躇なく廃刊してしまえばはや次に出す俳誌の名前や編集方法などを考えている」(『夕立』)と言っている。

 種衣は『夕立』が十何回目だという。俳号も次々と変えたらしい。中学生だから手書きの回覧誌かガリ版 誌だろうが、昭和二年、長崎で開業と同時に出した活版の小誌『句鐙』が遺っている。『夕立』は、翌年の夏故郷の諫早で独立開院して直ぐのものだ。

 仲間が寄り集まって、所謂「同人誌」を作り、中の一人がそれを纏める。彼が秀でた材であれば、周囲をリードして方向付けるに至る。もう一つは、已むに已まれぬ個性が、その表現として、自己の責任で一誌を興す。誌は志であり、正氣の場合は後者である。

 進歩は、常に変化という形をとるから、誌名を変え俳号を変えたのも、理想へと近づく具体的なものだったのだろう。〈筍外〉というのが近所の旧派での巻に遺り、〈赤甕子〉が『ホトトギス』雑詠と『同人』句会報に印されている。やがて本名を使い、遂に落ち着いたのは、〈正氣〉と誌は『春星』である。

 俳句は近代詩とは違い、紫雲英やクローバが幾つか群れて咲く方がいいのに似ていて、雑誌発行に適している。季感のある月刊だから、銘々の読者(≒投句者)が持続性を持っている。こんな年月を経て正氣の『春星』が成り立った。

 手ごろな大きさ、適度な情報量と言えば何だが、それぞれの心の居間に入り込み、談話するに足る人数というものがある。誌上の俳句は、作者名を伴い、それで何かが補完されて、というところがあるから、そうした作者・読者の気持ちの交わりが必要だ。

一度もお目にかからなくても何となく、あれ、この人は今月、というところがあるものだ。正氣追悼号以来の現存は、男兒、晴雪、いをぎ、耀堂、敬子、みえ、千畳、文子、蓮、遊、友絵、千茶女、弘 (脱漏あれば失礼、お報せを)の各氏を数える。

正氣は、俳句での連なりを「花の友」と呼称した。その数は、運営効率の点からの俳誌の最適規模とは勿論大いに異なるが、それがその俳誌の理念に適したものであれば、恰も俳句の如く、夾雑物の少ないポテンシャルの高いものとなろう。 (04.04)

 

 

 

 

フィクションとは

 

再々放送の市川森一さん脚色の大河ドラマ『黄金の日日』(市川染五郎〈当時〉・栗原小巻ら)が終わった。通しては観ていなかった。確か父正氣が、市川青火さんからシナリオを一部戴いていた筈だ。

森一さんは、シナリオを書くのは人を幸せにするためだが、既成の幸福感はリアリティがない。現実もフィクションなのが真実で、自作自演が人生だと、魂というもう一人の自分でものを見、想像力を以て生きるのが豊かな人生だとされる。

正氣が、七月初めに最後の入院をして暫くすると、辞世の句を作り始めた。(芭蕉蕪村に問う)と題して「ホ句の秋そのフィクションも神わざも」の「も」と「と」を推敲していたのを思い出す。

正氣は「フィクションが近頃足らぬぞ」という様な言い方で、誰が作っても同じみたいな句になることを戒めた。時を積み姿が整って来てもそうした句を春星作品には選ばぬから、当然、厳選となった。

フィクションという言葉で思いついた。遊学したのは昭和二十五年。予科の二年間はあまり勉強しなくてもよく、昔の父を知る人達は『春星』に出句して私をご存じで、呼ばれては同人社各句会に出席した。

恰も獅子文六『自由学校』の頃で、樹下と号する人が「世と闘ひ妻と闘ふ春愁に」「目を三角にする女房や初袷」」「蝿を打つにも間に合はぬ男かな」「女房に罵られけり冬籠」等の女房俳句で名があった。

その樹下さんと句会の後に京阪で一緒になり、なんぼでも話する人で、下車が駅一つ私より次と分かるや、じゃ晩飯を家で食おうと引っ張られた。『自由学校』の五百助・駒子を想像していたのに、奥様はまだ娘さんみたいで、幼い女の子が一人いらした。

ご飯準備されるのに、樹下さんがその前に風呂へと言われる。風呂場で服を脱いで、さてとタオルがない。服のポケットのハンカチを出し、顔と手足とお湯で洗ってそれで拭き知らぬ顔でいると、次に入った樹下さんに分かってか、奥さんが叱られている。 

 樹下さんの女房俳句は、実際には恐妻の真逆であった。そこを囃す人は文藝作品として見ることなく、ただ文字面を見ていたのである。

 「神わざ」というのは、人が句作りに本当に懸命になるとき超人的な力を発揮する事である。そして「フィクション」とは、森一さんの云う〈魂〉の所作ということになろうか。そうでなければならぬ。(04.05)

 

 

 

 

 

わがふるさと

 

 中川巴様より、宮本常一『私の日本地図E=瀬戸内海U(芸予の海) (未来社 二〇一一、二)を頂戴した。各地記述は三原に始まり田島・横島で終わる。私は横島で生まれ、一歳で三原に移り住み今に至るから、これはと、後ろから先ず読んだ。

 時間空間が人を作るが、その空間の横島であり、三原である。著者は横島には足を印していないようだが、田島の半分もないこの島は、田島とは少し趣を異にする。この二つの島を結んで戦後に睦橋という開閉橋が出来て、村は合併し内海町となる。

 若き日の正氣は、突然、生活の一新を期して故郷の諫早を発ち、一ヶ月余の避寒と称してこの島に足を留めた。四国高松行を期していた様だが、田島・横島のいわゆる知識人や若者たちと句会を興したりして、開業もし、結婚もし、四年間を島暮らしした。

 時間とはその歴史であり、空間とは風土である。島は、水によって陸地と断絶したものだが、ガラパゴスではないが、断絶は又一方では、俳壇などでもそうだが、新生を助するものだろう。

父はこの島が気に入って、月斗師にもご案内している。車春、王樹、寒楼、麦門冬、菜刀らが来島した。食べて美味しいと直ぐに食べてみと人に勧めるのが性で、諫早から大村中学への汽車通学の同級、下級生はみな俳句を作らされた。

島に居たのは、私は初誕生までだったが、大量の刷り込みがそこで為されたはずだ。長崎弁の祖父は着物の前を広げ私を抱っこして浜を歩いたと聞く。子守歌はオロロン、オロロンだ。母方の祖母は物静かで、私の名をトウちゃんと呼んでくれた。

句会の範囲が三原に広がり、窓からの眺めの良い川端の東町に移り住んだ。この本の三原の項は、昭和四十一年一月の東町の神明さんの様子から始まる。松本歯科建て替え以前だ。家周囲の露店の場所割は広島のそれの人がやり、きちんと掃いてくれた。

本の裏カバーにある植木市の写真は、私も巴様も通った学園の石垣で、立てかけた映画館の看板は八つ、当時の映画館はそれだけあった。激忙の私は洋画のナイトショーを欠かさず、とそれやこれや。

懐かしい母校、とは漠たる景ではなく、実はその石垣の直下の小溝の綿みたいな底にゆらゆら糸みみずの赤い束が揺れてる、みたいなデテールの集積である。俳句では、それを言えばよい。(04.06)

 

 

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