令和4年後期
松 本 島 春
太陽とお日さま
書庫の片付けで、辞書の類は古書としての引き取りはしてくれず、我が手で〈燃えるゴミ〉とはどうにも震えるし、単語帳の一枚を覚えたらちぎって丸めて口から飲み込む、には歯は残っているが。
ワープロ文章では、ネットの辞書で大抵は済ませるが、さすがに俳句作りでは、複数のそれも厚いペーパーを捲っての事となる。少し離れて遠い時代からうち眺められる辞書が、狂いが少ない。
真っ赤に燃えるあれを太陽というか、お日さまというか、日輪というか、天日というか、お天道様というかの言葉の選択があり、俳句で使う過程で、それぞれの意味合いが生まれる。慎太郎の〈お日さまの季節〉とか、横光の〈太陽〉とはならない。
言葉は、その前後の言葉との接触関係で、ポテンシャルを高めることが起こり、辞書の中に鎮座していた時の意味とは変容を遂げる。文字数の少ない俳句では、そこでやっと作品としての力が満ちるので、それでなければ成り立ちがたい。
どうしてそんなことが起きるかというと、俳句を「作る」という構えが、定型と季題とやらが為す舞台上においては常に在るからで、それが辞書から取り出した言葉を〈励起〉させるのである。
「春」の岬を「春岬」、「木の芽」を「芽木」なんか論外だが、「オタマジャクシ」を俳句で「蝌蚪(カト)」と使ったりする。いずれも読みの長さ次第だけでのことならば、あまり面白くない。
これが、明治の二将軍が激戦の合間に相会うての語らいに、一人が足元に目を落として「おお、蚯蚓(キュウイン)か」と。「ミミズか」では何とも話にはなるまいが、これがキュウインならば、〈槊を横たえて詩を賦す〉ご両人の姿になるではないか。
句作に於いて語をどう選択するかにより、場に臨んでのその人品から、装いから、会話の中身までが浮かび出すに至るのである。そうでなければ、十七字での表現は、なかなかに充ちて来ない。それにしても、俳句における漢語のありがたさを覚える。
されば、「画に描いた餅」は、辞書に〈綺麗だったり尤もらしかったりするが実際にはなんの役にも立たないものや実現しない目論見の譬え〉とあるが、ちゃんとした画ともなれば、即して、人の心を揺り動かすものとなっている筈である。
俳句を辞書の言葉の羅列に終わらせないように。(0407)
歩く、走る
私の大学受験での筆試は、英、数、理だったかと思う。高三の夏休み中は、文芸部の雑誌作りにガリを切って謄写版で刷り、みたいな事ばかりで、二学期から、晩に隆一君の家に集まって受験勉強をした。当時の進適も受けてみた。
入試で英語の出題を一問覚えている。設問も英語で例文にwalkを使い、「歩く」に類する意味合いの語の文(wanderやstrollやramble等々の用例)が幾つも列記され、問題の短文のそれぞれの空白に、各文の「歩く」の意の語に最も適切なものを選び、且つ過去形に言い換えというのであった。
英語では、「動きに関して、一般的に人の動作を〈どのように動くか〉という観点から日本語よりも細かく区別」 (今井むつみ『ことばと思考』岩波新書 2010)する。「走る」もrun、sprint、dash等、それぞれ別の語、単一の形態素からなり、ジョギング、短距離走、電車に遅れそう等の場面に使う(同書)。
スペイン語、フランス語などではこうしたことはないという。文化の上での重要性によって異なるのである。因みにこの本の帯封の「異なる言語の話し手は、世界の見え方が違う」に?と!と両者並べてあり、著者は単純に黒か白かを答えてはいない。
例文と問題文との「歩く」の類推に俳句作りは役立ち、進適(文・理で採点)でもそうだった。また〈俳句の作り手は、世界の見え方が違う〉かどうかだが、「やれ雨か、傘を」と「春雨じゃ濡れて行こうぞ」との違いはあってよい。幸福度に関わる。
現況、walk (足を使って動く)をあまりしない。もともとstrut(威張って歩く)ではないが、今やtrudge(とぼとぼ歩く)や toddle(よちよち歩く)である。それでも足が丸々になって、ポストの前で転んでしまった。遺る正氣のステッキが要りそうだ。
月斗選、正氣選の平均潮位は高く、誌面に達しない句が多かった。句作の平均年齢が上がった昨今、歩くのオノマトペは乱用せずにと「散歩道」とかで済ませてもなるまいと、誌面のゆとりで、添削を事後の共同推敲と見做し、結果、潮位を下げている。
ヒトが親密な間柄(と感じられる)になれるのは百五十人程までだそうだが、本誌雑詠欄は、切磋琢磨には最適だった。現況も、各自の陸地(入選句)としての露呈が、水没のそれとの比較検討により、プラスとなれば句作の全てが生きよう。(0408)
感謝『春星』九百號
まあ平和の日本が続いているからで、戦時下、不要不急として前身の俳誌『櫻鯛』は廃刊。誌名を変えての創刊は昭和二十一年七月一日。発行には占領軍の許可を要し、内容検閲のために毎月納本した。
俳誌の中心は、主選者による雑詠選を経た句の発表である。青木月斗先生在世時は、半紙に十句墨書してその雌黄を享けた後、各自に返稿した。先生没後も誌の継続を決し、松本正氣選となる。
平成三年八月十四日に亡くなる三日前、父の正氣主宰は、長男であり句弟子の私に、仔細に家の事と句の事を口授し、私はメモした。その中で文武、紫好の助力の上での誌の継続を言い遺した。
当時の私は外での役目も多く、宅での句会も殆どが出句のみだったが、誌の九百回の雑詠に一回の欠落もない。子ども同士の会話で、普段は〈おやっさん〉だが句に関わる話ではごく自然に〈正氣先生〉だ。
誌の継承者たる務めであると、バックナンバーを通読、正氣句と文を妹みえの助力もあって抽出し、ワープロでファイル化した。次いで『春星』以前の誌から同様にした。更に、その師たる月斗句についても遺った『同人』誌より一部ファイル化した。
ファイルは、平成九年、ジオシティーズが出来た際に、ハリウッド通りの二軒の番地に載せていたが、廃されたので、ビッグローブのHPに全て移した。更新は今のところ中断しているが。
本来、俳句の授受は〈全人的〉であるものと承知するが、それはファイル化保存できるものではない。物理的ではない長年に亘って、紙間より立ち上るモノを呼吸し続けることで感作されるのである。
前主宰による編集作業ノート(投稿の紙の裏の空白を綴じたもの)が山ほど残っているが、全頁に亘り文字数の計算と一部の書体の清記の手技を加え、且つ各ページいっぱいを使うようにしている。
この手作業は文武編集長が継承した。現在は句会の者が手分けして、文章は計算し編集し易いワープロに打ち直し、選句は清書して呉れている。大東印刷所は息子の同級でもあり、助かっている。
島春や男兒の同級生が初期より参加し、若者の多い誌というのが特徴で、裸馬師も新人育成を期待されていたと思う。若者と言ったのは年の豆の数の事だが、その精神は今も変わらない。
刻々の〈今〉は常若である。(0409)
正氣の旅と句
国家試験が済むと、まだ弟妹達が就学中なので、直ぐ三原へ帰って父の仕事を手伝った。当時、日曜午後のみが休診。戦後の虫歯の洪水で野戦病院のようで、夕食後も働いた。休日は盆と正月。でも夜なかに子供が大泣きでの急診があったり。
複数となったし、私が結婚して、当時国鉄の団体旅行が始まった頃で、父は母を連れ旅に出かけるようになる。カメラ後に八ミリが出ると両方を提げ、ガイド説明の箇所には足を運ぶ。最初は真珠婚とて夏は東北周遊、冬は八丈島だったかと思う。
やや旅慣れするとそれに加えて、文化勲章を受けられる前後の北村西望先生とよくご一緒のゆったりの旅をした。長崎の父の妹と母が同行し、先生の身上が分からぬ旅だから、それがお悦びだった。
先生は、彫刻の勉強で若いころに貧乏だったので、カレーライスや汽車弁が本当は御馳走なのだ。八ミリには風呂敷頬被りの雨宿りとか、温泉の大浴槽で自由形で泳がれる先生のお姿なんかもある。
正氣が旅の句を作り、経過を記して「小生の近来の作品は殆どが旅行吟であるが、小生には旅中での作は殆ど無い。旅中句を忘れてゐる訳ではない。嘱目吟を多数得たい欲よりも今後の作品に広さと深みを得たい欲を出してゐる訳である」。
「旅中は写真を盛んに撮る。スライドに8ミリに。写真は、器械の取扱ひ方がなかなか頭に入らぬが、数十年俳句で鍛へた頭には一つの自信をもって撮影してゐる」。
「対象との対決にはこちらが足を使はねばならぬ事が多い。お蔭で足が非常に達者になった。また、旅行地の記憶など同行の妻の数倍である。小生は旅行より戻って、幻燈や8ミリを映写して句想を練る補助にしてゐる」。
「また記念スタンプにも忙しい。小生の句帳は集印帳を兼ねてゐる。名所のスタンプや神社仏閣の朱印は句帳の挿絵代りになり、句帳が早くいっぱいになり、後日旅行吟を作るときに旅中の印象が解明になるなどの効果がある」と。
耳目を使い手足を使う。〈俳句ある人生〉を標榜する正氣の不即不離の旅行であり、又元来自称〈机上の作家〉の不即不離の旅吟であることが分かる。
俳人正氣の俳句態度は、即ちその生活態度に直結したものであった。(0410)
奇は大可なり
私が就学した当時は附属小学校尋常科であった。それが四年生になると附属國民学校初等科にかわった。「國民學校ハ皇國ノ道ニ則リテ初等普通ヘ育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」である。その十二月八日に太平洋戦争が勃発した。非常時だ。
敗戦により、昭和二十二年の六・三制の学制改革で小学校の名称に戻るが、もう「尋常」の文字はない。私は、その後、旧制中学校の四年生からそのまま新制高等学校二年生へと進級した。非常措置で、翌年修了で旧制中学校五年での卒業も可能だった。
句の方で言うと、中学四年生の時に新設の校友会学芸部「俳句班」に入った。班長は国語科の石崎 (柳石)先生で、木下隆一や角光雄や上級生新井香雨ら十数名で放課後に月二回の句会をした。
子規忌句会に、父兄の正氣前主宰の講話もあり、附属小からも参加したと晴雪君は記憶する。話は、野球と子規とのことに始まり、互選で、加藤規雄の「窓外にボールの音す子規忌かな」を褒めた。
さて「尋常」のことだが、白川静『字統』によれば、〈可〉が、祈願の成就を責め祈るに用いる刀の直なるの字義に対し、〈奇〉は、曲刀を以てするので尋常ならざるを意味するとある。
〈奇は大可〉とは、『説文』に、奇は「異なり」、また「大に従ひ、可に従ふ」とあり、月斗師仕込みかもしれぬ。来庵したこともある楠本憲吉氏が、正氣の云う〈句はまこと心とあそび心との奇しき調和〉と、伴うこれと、面白いと何かで紹介している。
句作りに際し凡を避けるに、奇も大いにいい事ではないかと正氣はいう。「誰かがもう作っておるか」が正氣の価値判断で、せめて店頭に陳列はない実用新案ぐらいの句を、というのである。「凡山凡水。凡人凡夫。何の誇か存す」(月斗)を奉じるのである。
正氣(当時は死灰)が、『同人』選者となった折の紹介欄に「(前畧)死灰は鬼才縦横。時に軽車無軌道を走る如きの観あり」云々とあるのは、自覚なのか師の言よりか、まあ同じことになるのだろうが、「尋常」を以て良しとせぬ態度であった。
今やってみて何と私はもうジャンプは五センチがやっとだが、飛び跳ねたりでんぐり返ったりなんかしてでも、少しでも他とは違うものを掴んで来てほしい。正氣の「軽車無軌道を走る如き」とは、師の掌に全托の思いがあればこそであった。(0411)
聞くべし、見るべし
おとな、とは切符が子ども料金でなくなったりで自覚するものだが、私は、街中で「何処かのう」と道を聞いた際の、路傍の二級ほど下の児童の「ハイ」の大声と不動の姿勢と口調、あれが萌芽だった。
感覚のことでは、見聞という成語のように、平べったい顔のヒトでは、視覚が認識の際の優位にあるが、『正法眼蔵随聞記』(懐奘)に於ける道元の語に「聞くべし、見るべし」とある。
自分の耳で聞きなさい。自分の目で見なさいと。又「経ずんば、見るべし。見ずんば、聞くべし」。経験していないのなら見なさい。見ていないのなら聞きなさいと。つまり話に聞くよりも直接目で見る方がよい。それよりも自分で実行し経験する方がよいと。
更に道元は、修行では「只本執を放下すべし」(先入観を捨てよ)という。「衆に随うて行道すべき」とは乗り合わせて行くこと、句会(きちんとした)に参ずればそれでよい。私は幼時お調子者で、我が家での句会での大人の口真似がスタートだった。
今は句会を兼題の持ち寄りで済ましている。席題をと時に呟くや否やウエッと一同首を横に振る。季題のモードへの切り替えが瞬時に出来かねるのか。
月斗俳句の特色は、連日の句会の席上吟であり、従って題詠が多くを占める。その出題が座作りにとっては大事であった。句会で月斗師も正氣も至って速吟であった。日常に俳句が浸潤しての故であろう。
月斗師は「知らざるものを知った風に作るのが一等よくない。知らねば知ったらよい。實見できなければ關レに知ることが肝要である。又知らねば想像して作ればよい。初めからその覺悟で作ればよい。誠らしい嘘が惡いのである。嘘は嘘でよい」と。
裸馬師の句の自註に、「蝉ありく南蠻鐵の燈籠かな 日光の作ではない。上野東照宮で、かの仙台の伊達政宗かの献上にかかる日光の有名な鐵燈籠を強く連想したのである。蝉ありくの実景に」云々と。それとても、師の〈人生の再現〉そのものの句となる。
嘱目の即景と見えても「その句のうしろに、作者の胸奥につながっている遠い深い何ものかが存在する。それが俳句の価値、否、それだけが価値といえよう」と。これほどまでに〈俳句〉を尊重される。
その作品の〈虚〉は、恒に〈実〉を相伴っている。事実ではなく、文藝としての真実がそこにある。根本は俳句態度である。(0412)