島春のこと

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昭和七年(〇歳)

二月十五日午前十時三十五分、現広島県福山市内海町横島、村上呉水宅の離れに寄寓中の歯科医師松本正喜・つゆ子の長男として誕生。

正喜は、俳人で、学生時代より、大阪の青木月斗に師事し、『同人』に拠り、当時、ローカル俳誌『魚島』を発行していた。

   備後横島の正喜、長男を擧げて命名せよ

   とあるに、島春と撰す

 島の春魚寄り波の寄するかな    月斗

(『同人第二句集』前書の部)

島春日々生長す

  春睡や乳豆鳴らして吸ひながら    正喜

  春睡や己の顔に爪立つる

  王樹子の賜ひし軸の五月鯉

島春がやがて破らん障子貼る 

(『魚島』昭和七年)

昭和八年(満一歳)

  島春も這ひ寄り来たり初鏡      正喜

三月下旬、三原市東町四五二の一、大橋東際に転居。湧原川に臨み桜山を望む山紫水明の地と卜して、歯科医院を開業、以降、昭和二十年秋まで在住した。

  浮城が見ゆる二階や若葉雨      正喜

  つばくらや潮に澱める雨の川

  汽車を見に来よと子を呼ぶ端居哉

  浮城の跡町となり五月鯉

昭和九年(二歳)

昭和十年(三歳)

朝寝する父の布団に馬乗りす     正喜

  膝立てて山にしてやる布団哉     同

残存する最初の墨跡。筆のモの曲りが難しくトを横に書いている。十月、福山駅のスタンプがある。

昭和十一年(四歳)

 岡山後楽園にて。切字のカナが付いているから、記録に残る最初の俳句である。我が家で毎週土曜日に行っていた句会にちょこちょこ顔を出して遊んでいた。

 七月、父死灰が『同人』選者に推薦された。三十三歳。「中国の探題如何に大矢数 月斗」。

栗原季観 

一週間程前から島春君と大阪の動物園に行く事を約束していたところ、その夜、島春君寝ずに待ってゐる。愈々、逃げられない。土曜会が済むとぞの足で大阪子規忌に参ずることになった。

三原発一時三分の夜行で死灰先生、島春君、小生、三人の賑やかな旅出をした。疲れ切った乘客の態の寐姿の中に、岡山を見ると云った島春君も、大阪迄には大分俳句が作れると思っていた自分も眠くなってしまった。こんな時座席の無いのもつらい。先生は「島春を網棚に寢せてやろうか」。姫路に着いて漸く座席を得て一睡した。舞子で夜が明けた。眩しい海の光に島春君がはしゃぎ出した。沿線の堀には日曜日の釣人が見える。月見草を見ては島春君が「季観さん、俳句を作りなさい」といふ。又グリコ工場の大煙突の宇を親譲りの大きな声で読む。ここから汽車はひた走りに走って大阪に入駅した。

いつ来ても大阪駅は工事中だ。爽涼の地下鉄で抜け、北山荘の同人社を訪ねた。あまり早かったので書生に來意を告げたのみで辞して動物園へ向った。正八時開園に一番に入園した元氣な島春君に三時間余り引っぱり廻された。南海高島屋で昼食。屋上園から大大阪を一望。先生の買物で和正堂に立寄り、萩の寺へ急ぐ。

十年振りの子規忌や道のうろ覚え   死灰

会場には既に三十人ばかり、月斗先生御正面に題秋の風、即事即景で粛然と始められてゐた。何しろ夜行で來て歩く事と乗る事ばかりに疲れているので靴を脱ぐ事は出來て冷し麥茶に蘇った。中央の仏壇に子規居士を祀ってあった。各席には居士の句を印した餅と萩の寺の絵はがきとが配られてあった。百人近い人数になって皆熱心に作句せられている。死灰先生は方々と挨拶に忙しく、島春君は凡水先生と盛に話している。締切から互選が済む迄に相当時間がかかった。選者の方々の披講があって終りに月斗先生がお立ちになって披講に先立ち,中國の松本死灰氏,同じく栗原季観君、死灰氏の長男島春君と紹介して下さった。思いがけない拍手を浴びて興奮せざるを得なかった。六時半、千燈先生の閉会の辞に、子規忌は無事に終った。

その後で二十余名で晩餐会が開かれた。自分も死灰先生の相伴で、参加の光榮に浴した。實に和氣藹々意氣軒昂である。千燈先生の指名テーブルスピーチがあった。我が死灰先生が一番槍に、喜一、三夜、二月堂、崇朝、一央、月村、家升(右團治)、五彩、伏兎諸先生が立たれ、最後に月斗先生のお話を拝聴した。

萩の寺を辞したのは九時過ぎ、ひんやりとした夜気に目が覚めた島春君は、凡水先生におんぶされて機嫌がいい。梅田で諸先生とお別れし、我らは時間があるので心ブラに出かけた。疲れ切って大阪発零時五十分の真夜中の汽車に眠りこけながら乗った。糸崎に着いたのは朝の七時過ぎ、先生、島春君とお別れしてそのまま出勤した。この度は島春君と動物園を見に行く約束をしたことによって年来の希望を達することが出来た。今後子規忌には毎年上阪したいものである。

(「大阪子規忌に参じて」(『桜鯛』昭和十一年))

安田万十 

(前略)島春君に初めて会ったのは昭和十(ママ)年の子規忌の会場であった萩の寺で、たまたま小生の前に細長い机を挟んで並んだ時である。

三、四歳の可愛い坊やが見るからに精悍な面構えの若い父親に世話を焼かしていた。少し慣れると会場を飛び回る。苦吟中のおやじは気が散ってならないような苛立たしさの声でたしなめるが、ちっとも驚かない。にこにこと笑いながら戻って来ては暫くすると又、ちょこちょこと会場の中を友達でも探すように歩き回る。幹事が気をきかして、当日萩の寺からの寄贈のそば饅頭をあげても、こんな菓子は食いあきているという様な顔で一つ食っただけで、もう見向きもしない。可愛い口から、ピカピカと金歯が覗く。私は、微笑ましい驚きを感じた。

月斗先生は、みんなの苦吟中を、悠々と見ながら特に地方から、わざわざ子規忌に参じた人々に、翁一流の諧謔を飛ばしながら、にこにこして、この盛大な句筵に満足されていた。

「正氣!こっちにきんかいなー」「島春君も来て居るな」。

青年パパの正氣氏は(当時は死灰と云ってられたかその辺は忘れた)例の黄色な高い声で返答されていたが、私はこの男が「同人」きっての利け者正氣かと心に動揺を感じながら、今日こそ、金的を当てなくてはと苦吟した。(以下略)

(「島春君の結婚を祝して」(第十五巻第一号))

 

昭和十二年(五歳)

一月、次男「男兒」が誕生。「竜天に日本男児生れたり 月斗」。七月、月斗先生を宅に迎える。「死灰の妻女露子さん、死灰の息子。死灰の妹くん政子さん。死灰の父君。死灰の女助手と、新調の蚊帳、新調の麻布団、新調の浴衣等々、人と物の歓待を受く。」(月斗)

 

昭和十三年(六歳)

十二月,三男「文武」誕生。「臘尾よけれ歳旦よけれ両ら 月斗」。

島春受験(三原女子師範附属小)   正氣

 大宰府の守り袋や受験の子

 受験地獄の童男童女番号に

 受験番号に吉凶ありやなし

 入学試験活溌なれと子を諭す

 受験の児緊張したり寒がらず

 風邪をひかさじ服温めて父は待つ

 吾子の番号たしかに見たる朧かな

 春睡の吾子よき夢を見てやあらむ

細胞分裂             正氣

 我に似し顔よ気性よ浴衣の子

 浴衣の子意地の喧嘩の力負け

 我に似て宿題ためぬ夏休

(『桜鯛』昭和十三年) より

腎炎にてしばらく臥床。

(島春病む)

寝よしばし看り代らん夜を長み    正氣

 

昭和十四年(七歳)

島春男兒文武の幟かな        正氣

 十一月、還暦御誕辰の日の月斗先生を迎える。

 

昭和十五年(八歳)

 以下、父に言われて作ったのであろう島春句を記す。

『桜鯛』一月号より

  雪だるま手足がないのに立ってゐる  島春

  雪だるま日がよく照るととけにけり

雪だるま雪ふる庭で作りけり

雪だるまみんながよいとほめにけり

(桜鯛俳句「久の巻」(犬塚皆春選)より。)

  かくれんぼのき下通るとつらら落ち

(三月号、土曜会句会報より)

  つつじ折りにけはしいがけを登りけり

  お天気がよくて春風吹きにけり

(六月号、本郷吟行句報より)

  海水着なくて裸で泳ぎけり

  蝉取りに行かうとすると呼ばれけり

(八月号、土曜会句会報より)

時局下、『桜鯛』はこの年秋で終刊した。

 

昭和十六年(九歳)

  少しだけ日の照る所へ集まりぬ

(『桜鯛通信句会』第二回 昭和十六年刊)

 七月、妹「みえ」誕生。「かな書きのみえこそいとど涼しけれ 月斗」。

昭和十七年(十歳)

  せと貝の殻をうかべん春の潮

  雲雀鳴く広き野原を歩きけり

  雀の子母よ母よと鳴きにけり

(桜鯛句集『東風萬里』昭和十七年八月刊)

 十一月、担任の許しを得て、父に連れられ、伊賀上野での芭蕉生誕三百年祭記念俳句大会に参加し、京都大津神戸を巡るが、あまり記憶がない。

 

昭和十八年(十一歳)

  潮流に悩まされゐるボートかな

(桜鯛句集『菖蒲』昭和十八年二月刊)

 五月、月斗先生を迎えた。正氣宛て句信の一節に「島春薄暑錬成は如何。無理なきやうあれ。」と。体格が小さく見えたのだろう。

 

昭和十九年(十二歳)

 一月、妹「千萬子」誕生。「寒凪や産屋の空に鳶の笛 正氣」。四月、県立三原中学校へ入学。『同人』は戦時廃刊となり、父は、十月より、中国同人会を発足させた。半紙に十句筆書きし、月斗先生の下へ提出すると、先生が朱筆で選評や添削をして、手元へ返送して下さるのである。以下は、月斗選に入った句を記す。

 私は、この月以来今日までの六十八年間、父のおかげでずっと句作りを続けている。

 

 右肩に月斗印。弟と相撲を取って泣かせけり、には、朱筆で「これもよいが泣かしたから◎にはならない」とある。渇いやす、のような表現は、「かしこすぎる」「上手すぎる」とある。先生は優しくて、○でないのにも半丸を付けて下さっている。

  家の中で相撲を取ってしかられぬ(十月) 島春

  遠足や案山子のそばで写真とる

美しき紅葉を本にはさみけり(十一月)

  遠く見る瀬戸の島山冬霞

  警報の鳴る十二月八日かな(十二月)

  火の消えしこたつの中にもぐりけり

  一室を埋め尽くせり餅むしろ

  縄をなふ皸の手の痛さかな

 

昭和二十年(十三歳)

  竹持ってとんどの餅をかき出しぬ(一月)

  酒の粕火箸に乗せて焼きにけり

  柾の実雪の積りてふるへけり

  朝東風や工場へ急ぐ学徒隊(二月)

  おぼろ夜や汐の満ち来る音かすか

  うぐひすや風に鳴りゐる杉林

  火を噴いて敵機墜ちけり春の海(三月)

  春雨にぬれて明るき野山かな

  春雨に滑る山路を登りけり

  我生まれし島の遠くに霞み居る

  箸取るに草摘みし手の匂ひけり

  雪のよに積る落花や石畳(四月)

  大いなる虎杖折るも惜しき哉

  春蝉や松ぐみうるる古き宮

蚊帳の中より柱時計をすかし見る(五月)

山の上まで拓きし島や除虫菊

鰻捕りにカンテラさげて行きにけり

長雨に池の鰻が逃げにけり

渦巻いて流るる川や五月雨

 付して「豚児、旦、六月十日付大尉進級、姉の百合子報じ来る。()予の正氣庵に入って六十一誕辰の写真を撮りし時、帰阪、直ぐ旦を連れて豫科陸士入学、それより満州に在る事二回、今東京に在り、日月怱々たり、島春君も今に国を負うて立つべきなり」(月斗)

 六月より空襲警報や灯火管制が相次ぎ、やがて終戦。九月十七日夜、枕崎台風で湧原川が氾濫、橋が落ちて我が家は倒壊した。四月から九月までの句帖が残っていて約百句。句会は断続し、十句出句十句選句だった。北へ半丁の東町四六二に転居し、図書館で開いていた土曜会も、我が家となる。「我が家の崩れし音ぞ身にぞ入む、こほろぎや工場の裏のごみ捨場、弟と並んで鯊を競ひ釣る、寒月に真昼の如き墓場かな」など。

   

昭和二十一年(十四歳)

 中国同人会(月斗選)の句。

祖父が作りし太箸の持ちにくき哉(一月)

書初に狼毛の筆下ろしけり

  鍬をかついで泥鰌を掘りに出かけけり(二月)

六月、月斗先生を迎え、「会場は正氣庵と背中合わせの善教寺。大降りの中を島春が案内に回った」(正氣)

  柿の花こぼれし路地の雨暗き

  蚊帳の中に試験勉強したりけり

 七月、九州吟旅の帰途の月斗先生を迎える。「午睡から覚められて、揮毫でもしよう、墨を磨ってくれ給へ、と仰る。島春を呼ぶ。島春がいつも墨磨り役である。短冊が十枚ばかり出来た頃、風呂が沸いた」(正氣)

 本郷円光寺で句会。

  雲の峰シャボンの泡とふくれけり

 二涼庵小集。

蛍籠涼しき窓につるしけり

夏足袋の汚れ気にして座りけり

正氣が『春星』を創刊。春星俳句は、中国同人会に引き続いた形式での月斗選。

  父は碁を打ちに出でたり春の宵(『春星』初号)

  茶だんすを開くれば春の蚊の出でぬ

  春の蚊がアルゴンランプめぐりゐる

水盤におたまじゃくしを飼ひにけり

  廊下走る舟蟲靴でつぶしけり(第二号)

  黒板を上る舟蟲払ひけり

  校庭の泰山木が匂ひけり

  満々と湛へし濠や夏の月(第三号)

  師の前に短冊書くや汗しとど

  三日の月物干台に眺めけり(十月号)

  水涸れし川原にとんぼ追ひにけり

  塩田の堤に沙魚を釣りにけり(十一月号)

  鯊釣や片手に重き四間竿

  魑魅居る森に木の実を拾ひけり(十二月号)

  澄む水の底に小魚の光る見ゆ

 『同人』月斗選より。

  種痘メス置きたる皿の真白き(復刊第一号)

  藁しべで釣り上げにけり烏貝

  (筆影山)中国山脈瀬戸内海の霞哉(五月号)

  若葉風大きな蚯蚓路を匍ふ

 

三俊三春         月斗

(島春)正氣の長男の島春は父の大音声の雄弁に似ず、静かな、女にもせまほしき温厚な、もの言はずの中学生である。家にあっても句会でも父の命をよく奉じて、よく立ち働く。句もすなほで中々うまい。島春は本名である。

(春半)春径の長男、幹夫に春半と撰した。父の半ばと解してもよし。三春の半、即三春の中央と解してよい。春の中央、春の真中だ。春半も撥音で溌剌たる音楽音が響く。

(春鳥)王樹の二男、東吉。昨のよかれん、昨の鳥人、海軍人事局から某日某海にて戦死の模様と報ぜられた鳥人東吉。東は春。鳥は樹の懐に。即、春鳥なり。

(『同人』復刊第五号)

 

昭和二十二年(十五歳)

  刈りて来し頭をなでつ日向ぼこ(第二巻第二号)

  熱き紅茶を喫みて語るや冬薔薇

  冬薔薇テーブル掛の新しき

「風邪の父気儘が多くなりにけり」の句について、月斗先生は、「これで句としてはよいが、父を批判する如きは予は採らない」と戒められている。これが先生の芸術態度であった。

試験勉強卓の水仙枯れしまま(第二巻第三号)

湧原の川のせせらぎ春隣

末黒野の杭に止れる烏かな(第二巻第四号)

やうやくに宿題終へぬ遠蛙(第二巻第五号)

試験勉強新緑の山窓前に

鮒釣りの戻りの堤月見草(第二巻第六号)

  広島平和祭に父と同行

片陰に義金募れり女学生(第二巻第七号)

氷屋の主人肥えたる中国人

汽車暑し海を見て目を慰むる

本流せしが我には惜しき秋出水(第二巻第八号)

豆台風過ぎたる空の夕焼す(第二巻第九号)

 豆台風街は戸ざして宵寝哉

 心澄みて句想泉と湧き出づる(第二巻第十号)

 靴脱ぎて草に坐しけり草紅葉

 『同人』月斗選より。

  りんどうの花を句帖にはさみけり (新年号)

  四畳半の俳句道場子規忌かな

月々五十句ほどが句帳にある。毎週の土曜会と小集の他に、三原中学校校友会学芸部に俳句班が新設された。班長は国語科の石崎英和(柳石)先生で、四年生同級に角光雄、木下隆一、加藤規雄、一級上に石井小筏、滝口岳水、新井香雨ら。十数名が放課後に月二回の句会をした。子規忌句会に、父兄の正氣前主宰と石崎先生の講話があった。句集『菊の香』を出した。

 

昭和二十三年(十六歳)

『春星』第三巻春星俳句(月斗選)

日向ぼこ転校したる友思ふ(第一号)

  (佛通寺)満身に落葉を浴びつ羅漢像

 映画館出れば師走の風寒き(第二号)

 煮凝りの歯の根にしみてうまき哉

 水洟落ちて我に返りし読書哉(第三号)

 読む本の頭に入らず日向ぼこ

 蜜柑の皮散らばれる路地寒の雨(第四号)

 鶯餅口に運びつ絵を評す

 枯れし供華積める寺裏蕗の薹

 空白のままの句帖や大試験(第五号)

 春の蚊や花瓶のあたりさまよへる

 靴の紐にもつるる草や山薄暑(第六号)

 堂の下でんでん虫と梅雨蕈と(第七号)

  キングスレイ「水の子物語」

 水の子は海松の林にかくれんぼ

 波のまにまに水の子の歌月涼し

『同人』同人俳句(月斗選)

 小雨枝の飯粒艶やかに(仲秋号)

五月、九州吟旅の帰路の月斗、女々御夫妻を迎える。翌日瀬戸田耕三寺行。「五月一日。三原に着く。正氣、糸崎へ迎へに来る。中国路の山には藤、つつじが盛りで、暮れ行く春を飾りたててゐる。夜句会。島春が幹事役をする。正氣の雄弁に似ず、黙々として働く。弟の男児に文武も出席する。島春や男児の友人と思はれる中学生や新制中学生が交じってゐるのは他では見られぬ風景である。島春も、十二歳になった男児も入選を見たのはよかった。五月二日。瀬戸田へ舟行。一時間位だといふ。島々を縫うて舟は進む。大小の島々は麦が青々と植ゑられてゐる。島へ着くと、祭のやうな人出で一驚を喫する(以下略)(月斗)

八月、市の夏期労働大学講師として福田清人が来訪。

「殺風景なそんな所は止せと彼の所に泊ることなって川原で月見の宴を張ろうという。ここはかつて水あふれた頃、月斗先生の水浴の場という歴史的なところ、 ()底に清水が湧いているということは、精神的にもなんとなく涼気を呼ぶ。しかも満月、茣蓙を敷いて、この雅宴に列するもの、仏文学者で疎開中図書館長をやった村上菊一郎君に、知友の山陽新聞延田敬一郎君、それに正氣君の長男高校二年生という島春君、折々、夫人心づくしの料理を運ぶ。宴たけなわなるころはるかに太鼓の音を聞く。ヤッサ踊りと称するこれは「動く盆踊り」である。()やうやく月も上り、酔いもますや、村上君某氏英訳する古池やの句を実に愉快に注釈する。十二時、雅宴を閉す」(福田清人)

 相も変わらず量産している。土曜会は十数名、ほかに数名の小集。月斗先生ご来三の句会は二十六名だった。学制改革で新制の浮城高校二年に編入。俳句班は存続し、句会も続けている。見れば当時の私の句は用語も表現も詰屈で、あまり少年らしくない。雑誌『芝蘭』を石井が編集した。島春と隆一が手伝った。

 

昭和二十四年(十七歳)

『春星』第四巻春星俳句(月斗選)

  予防注射の腕の疼きに夜学哉(新春号)

  水羊羹夜のまどゐは更けにけり

  秋の風雨後の山土匂ひけり (梅花号)

 三月号に当たる桃花号では、春星俳句(月斗選)は選者御病気により休載となった。

『同人』同人俳句(月斗選)

  針金蟲崖の崩れの水溜り(一月号)

  蟲滋く一番鶏の鳴きにけり

  冬うらら家鴨の嘴の濃き黄色(四月号)

 青木月斗先生は、三月十七日にお亡くなりになったが、以上には、月斗先生の文字通りの雌黄を頂いたほぼ百句を抜き書きしてみた。

四月十七日午後二時の大阪四天王寺本坊での本葬には、父と共に参列した。会葬者五百、月村、裸馬委員長の告別の辞があった。谷村凡水さん宅に泊まる。

 ()春陰の重き心に師を思ふ     島春

三原での追悼句会は、五月一日、所縁の善教寺で営まれた。緑雨、二京氏ら三十一名。

 同人俳句は、菅馬先生の選により継承された。やっと自分の句の形が生まれかかった時期に、裸馬先生の指導を受けることとなり、今の私の句の幹となっていると感じる。幸運であった。以下は裸馬選より。

  人類史読むに火蛾来て几をめぐる(十月号)

  火蛾つまむ指にづるりと毛の剥けし

  弄ぶ三角定規蝉の昼(十一月号)

  夕凪や試験勉強倦み来たり

  路地の空夕べとなりぬ蜘蛛の網

  星涼し頭をめぐる血を覚ゆ(十二月号)

  小さき雲に騎手のよな星涼しけれ

春星俳句は、春星作品となって松本正氣選として続けられた。春星作品、万朶集より。

  寒の水息を殺して顔浸す

  春の風茨が掻きし傷かゆき

  春蘭や木の下の土綿の如

漣に滲める影や春の月

  首筋に湯のよな日射囀れり

  日曜を煙突掃除柿若葉

  若葉風縁に腹這ひ画をかく子

  湯上りの鼻が光るよ若葉風

  夏帽や可笑しきものに人の耳

瓶の百合項とらへて活けかふる

  裸にて祖父は童話を読み給へり

  海原へ双龍下る花火かな

ポマードでづるづるするよ籠枕

蛇消えし水辺の草の茎赤し

雨の日の重き障子にいぼむしり

菊の葉陰にさがり蓑虫庵せり

白粉花の実を貯へぬマッチ箱

大いなる眉上げ下げし柿食へる

霧の中島の如くに森浮かぶ

登山杖振れば秋の日きらめきつ

崖土に突っ立ち震ふ芒の矢

火鉢熱し我が考へはこき下ろされ

停電や火鉢の灰の珊瑚色

 

毎週土曜夜の我が家での句会(正氣、男児、麦奴、翆陰、香雨、隆一、規雄、光雄、照男、和朝、与志雄、晴雪、莫云、武志、春義、積、紫煙、武司、一鼓など)と子規忌五夜吟、小集や吟行で、月五、六回、半年に五百句の多作の時期である。男女共学再編成の三原高校では俳句班はなくなり、文学班を結成して文芸誌『ひびき』を発行した。受験勉強が迫っていたが、第一号は、夏休みの終わりまで私がガリを切り、句と文を載せ、二号からプリント社にして、福田清人先生からも寄稿していただいた。十二月、斎藤滴氏来、句の上達にはライバルを作れと。

 

昭和二十五年(十八歳)

当時直島在で、同人で「天才太郎」の称がある長谷川太郎氏が三原月斗忌に来会され、市内を案内した。氏は長身なので、高校生の私は高下駄であった。

三月、誕生の地の横島の句会に父と行った。月斗一周忌句会を善教寺にて、太郎氏参会。四月二十三日、祖父亀市死去、「瓢忽と一竿春の行方へ 裸馬」。

四月二日、父の母校大阪歯科大学受験に際し、当時西寺町大林寺での大阪同人本会(湯室月村指導)に出席した。入学後もほぼ毎月出席した。句の縁で、受験時は天満の神田春耕、雪間さんに、入学後は枚方の川井かすみさんにたいへんお世話になった。川井ご一家とあちこちご一緒したが、百済寺跡へ案内して頂いたのが最初と記憶する。ご家族での句会と共に、九月にかすみさんと図り、枚方句会(後に枚方市民句会)を意賀美神社で開いた。『早春』『火星』の方らも参加された。大学同級の田中紀生君も来てくれた。彼は、入学直後、何人かで自己紹介を兼ねて焼酎で野外コンパして友達となった一人である。同県人だった。

十一月二日、父正氣と春耕庵小集に。三日、金福寺の月斗墓点眼法要に父と一緒に参した。会者百。午前に除幕、午後に句会。寺内を歩いていて裸馬先生にお会いし、先生の秋田訛は聴き取り難いのだが、「卒業したら君は東京へ出ておいでよ。偉くおなりよ」という意味のことを言って頂いた。夜、数名と旦、甲、駿、初子さんと共に街を歩いた。翌日は、父と二人で嵯峨野を歩いた。父とのこんな時間は初めてのことだった。

同人俳句(馬選)より

  金風や山の神威に打たれ佇つ(一月号)

  霧の中城の如くに阿蘇五岳

  縄跳びの縄が触れたり紅葉散る(二月号)

  笹鳴も遠のきゆきぬ鏡拭く

  焼藷屋小説読んで居たりけり

  漱石忌炬燵の中の我が天地(三月号)

  刈田道急き駆けり来て駄菓子買ふ

  磔刑の如冬の日の光線に

笹鳴や空の涯は濃みどりに(四月号)

寒卵朱膳に置けばゆゆしけれ

陽炎にほぐされ尽きし心かな

卒業の心ひそかに調ふる(五月号)

鉄棒に下がりても見てラガーらに

卒業や六年通ひし野を戻る

春潮のかなた山脈雪光り(六月号)

野火煙ふと真白く立ち昇り

花散りかかり狛犬の眼に夕日(七月号)

花の宵良き詩放ちて寝ね伏しぬ

散る花を仰ぎゐしかば瞳細く

(入学)この朝やさらさらと薔薇咲き匂ふ(八月)

 夏既に進み木の間の空白し

 風呂戻り蛙に耳をこそぐられ

 焼酎に唇青く世を呪ふ(九月号)

 焼酎の酔も覚むればわが良き友

 冷まじき落日となり黒き森(十一月号)

むらさきの森や魅魑に月垂れて

靴は跳ね夢舞ひ廃墟月しるく

寒涛の渚に踊る影を貼り

空に白き雲となり野辺の百合となり

望郷の瞳に冷まじき夜の幕や(十二月号)

秋燈は真白し闇は窓に触れ

裸馬先生『解と評』より

 霧の中城の如くに阿蘇五岳

「豪壮美は短詩型たる俳句にはなかなか取り入れ難いので、子規居士以来殊に重く取扱われて来たことであるが、豪壮雄大の客観美を直写して毫も散漫の弊に陥らなかったのはこの句の成功というべきである。中七「城の如くに」で筋金が入ったのである。「……の如くに」はただの説明に堕し易く、失敗に了ることが多いのに、此句は此難関を易々と突破している。」

(四月号)

  漱石忌炬燵の中の我が天地

「夏目さん、漱石(大正十四年十二月九日没)の忌日に当たって作者は炬燵の中に延び延びとした気持で、心静かに漱石文学を思い続けているのである。わが天地というのは作者の天地でもあり、又漱石の天地でもある。漱石の小説は自然主義が全盛を極めていた当時の文壇からは低徊派余裕派などと呼ばれて否定されていたが、漱石には漱石独自の別天地があって、近代個人主義思想を基調とした偉大な人生観を立てて居られた。そして遂に則天去私という東洋的諦観にまで到達して、新しいモーラルの追及に独特の立場を堅持されたことは人の知る通りである。今作者は楽々と炬燵に暖まりつつ、此文豪のワザと是認したる低趣味そのものを味わい、楽しみ、漱石独自の天地をわが天地として悠々と心を通わせているのである。漱石文学とその文学活動とを以て此句は自から裏付けられている。主題の漱石忌は断じて動かぬ。

(五月号)

  焼藷屋小説読んで居たりけり

「万十曰、ユーモアを解す少年作家。」

(六月号)

春星作品(正氣選)より

  ラガー等に太陽赫と日を抛ぐる

  ラガー等は水と拡がり火とまろがり

  焼藷屋英詩吟じて見せにけり

  焼藷屋ホ句もかじりし事ありと

  子の頭撫でて焼けたる藷渡す

  造花買へば東風我が胸に来る如し

  良き紙の書を読みゐるに笹鳴す

  小賢しき眼をして四月馬鹿を言ふ

  エイプリルフールと笑ふ薄き唇

  蜂乱舞金属性の日光に

  縞葦の芽に日が差して蜂一つ

  春昼の壁を写せる鏡かな

    百済寺址(四句)

  青嵐笹に腰まで埋もれ佇つ

  礎の址に腰すや青嵐

  青嵐瞑れば目に丹の伽藍

  青嵐王朝想ふ瞼吹く

  襟を剃る音が響くよ汗の背な

青田展がり赫き山肌眼に近く

向日葵に佇ち居り腹の膨れし児

カンナ燃え戦乱遠きものとせず

歓語洩れ夾竹桃は月夜かな

日射病眉を濡らして汗黒き

蛇一瞥柩を埋むる穴掘るに

白日を躊躇ひ蜥蜴硬き眼を

蜉蝣の水辺を夜の濁し来る

朝顔の門に立つ子の頬に飯粒

秋雲の間より強き日を山へ

秋雲の高き一朶は山を越え

秋暁はしばし籬に風を置く

うつし絵の面ざしきびし獺祭忌

大野分魑魅喜び舞へるかな

月今宵他郷の風は冷ゆるなり

  父と嵯峨野をゆく (三句)

嵯峨や秋愛宕は雲を振り出だし

ゑんりあんと読むに秋の日弱きこと

祇王寺の爽やかな尼御前とこそ

 

  春星作家より

長谷川太郎 

 (前略)「同人」「春星」を通じて大概の作家は既に先が見えている。が島春君は若いだけにどこまで発展するかが楽しみである。君の目標は「同人」「春星」の先輩達よりもむしろ芭蕉、蕪村というところを一つの目標とすべきだ。「寒の水息を殺して顔浸す」「秋の風雨後の山道匂ひけり」「弄ぶ三角定規蝉の昼」などはいい。「夏帽や可笑しきものに人の耳」この句は非常に好評だったが君がこんな句を作ってもつまらぬ。この句はうまいことはとてもうまいが、こういう種類の句ならあえて君をわずらわせずともよい。君は小手先の技巧よりもっと物の本質に肉薄する情熱を力一杯燃やすべきではないか。序ながら君の句には「…のよな」というのが多いが時として句を軽くし過ぎるように思う。

(一月号)

  噴水や灰色の土うちめぐり

()灰色の図形の土の触感とそれとの対照に於いて感じられる噴水の内気に細かく光る匂いとの美しさは全くすばらしい。(長谷川太郎。八月号課題吟選)

 

 島春俳句について

窪田鬼烽火 

(前略)首筋に湯のよな日射囀れり」の作者、島春君について、私は私なりの解釈を試みたいとする、この欲望と饒舌を許して貰わねばならない。まず、好評を博した右の句について風貌を描いてみよう。句は人なり。人は句なりと言われるが、よくその人が滲み出ていることに感慨一入深く、強く打たれるのである。まだ僅かに彼とは二度ばかりの面接しか持っていないが、まことに心温かき印象を受けている。一見寡黙ではあるが、さりとてその考え深いまなざしの奥には、いささかも憂鬱な詩人の陰はなく、なかなかユーモアを解し、青年らしい生気は勿論その活発な動作の中に満ち満ちており、駘蕩とした雰囲気のうちに人を温かく包んでくれる人柄であるといえる。しかしそのことより更に、高度なる感受力と把握力、独自なる表現力と象徴力、それに加えて繊細なる留意と、大胆なる発明を作家は如何に備え、いかに持ち合わせねばならないかを教えてくれる。旧套に逃避し、俳句領域の限界ということに頭を煩わし、ますます己を狭め、我とわが手で首を絞めるがごとき消極の世界に籠るの愚を叱正してくれた句であると解釈した。(後略)

 

昭和二十六年(十九歳)

 三月、東京から慶大国文に受かった隆一君が訪ねてきた。七月、夏休みに入って直ぐ友人と二人で富士山に登り、そのまま私は東京へ出て隆一君を訪ねている。『春星』に「富士登山」という文章を書いた。

大宮口の二合目まではバスで行けた。標高で一五五〇米である。ひどい風雨だった。板張りの二階で泊り、翌朝は晴れたので登ることとしたが、二合半の小屋までが一キロ半もある。小屋の老人が頂上までは無理ズラというのを、オリザニンレッド錠を噛み噛み登った。九合半の小屋を出たところで、上から降りてきたお巡りさん風の三人が止せというので、下山した。 

出発の前に、裸馬先生に第三土曜の東京同人句会が、その月は生憎日曜から始まるから残念とお便りしたら、「アイタシ ラバ」と折り返し電報を頂き、荻窪のお宅へ隆一君とお訪ねしてお話を伺うことが出来た。渋谷での『野鳩』の句会、鶉衣、忍冬、至禾さんらによる歓迎小集、万十さん宅訪問、紫栖(耀堂)さん宅にお邪魔したりで、とうとう千代田区ゴムホース協会での同人句会にも出席し、

 星出でて波重き刻を泳ぐなり

が裸馬先生選に入って、直ぐ三原へ帰省した。

三原では毎週の土曜会の他に水曜の俳句道場句会が出来ていた。大阪でも各地の句会にも出た。

同人俳句(馬選)より

  臥し仰ぎ夜寒の玻璃戸濃紫

  夢崩れ去れど寐ね得ず玻璃に星

  入り来れば枯野も常の路一つ

ひしひしと星迫りたる枯野涯

  咳けば枯野の月のまろきこと

  忘れられ冬ばら莟なほ硬く

  一抹の朝日にまみれ冬さうび

  冬ばらは石にさへ似て日々痩する

  斑ら雪踏み来て閑か銀閣寺

水底に射す日に春を待つ藻あり

梅暮れてなほ竹林のみどり哉(実朝忌投句)

つぶつぶと木の芽天空占めてゆく

青年やジイドを語り麦を踏む

麦踏のいっしん腕ぐみ風包む

春の水火を焚く影もある静か

竹径の冷えを往くとき春の雷

恋猫を三匹かかへ居てマダム

夢葬り去るとき遠く蝶が翔ぶ

吹かれゆく蝶遠き日の翳絡む

蝶去りてふたたび風の滑る園

月細し夏川堤夜も乾く

麦秋の村家昼を風膨らむ

夜の芝が涼しと出でて月とのみ

玲瓏とカットグラスにひかり舞ふ

つぶてせば岩に火花す夕納涼

歯を磨くより夏の日が生きてくる

人の影行く炎天の路平ら

人の叫びが追ひ行く蛇の真金の尾

青潮の底ひゆべらの彩引き抜き

秋雲の下ををんなの髷曲ねり

思念より迅し秋風来たり去り

弧身佇ち居れば秋風渦をなし

掌のざくろ太古の匂ひ潜め居り

瞑れば蟲が鈴振る明るさよ

春星作品(正氣選)より

岩に露山の童子は足白き

寒雲の風落とし森震へけり

大初日岬の巌を焦がしけり

初日影竹田波を打ちにけり

祖父在らぬ今年淋しき雑煮かな

羽子の音書斎の窓に日の移り

  三十三間堂弓始(四句)

残雪に幕垂らしたり弓始

青年の丹の唇や弓始

黒髪をきりりと束ね弓始

老いらくの腰の巌や弓始

世は荒海とか卒業の玻璃光る

人生に既に倦みゐて卒業す

蝶舞へば佇てり黒眼鏡の女

蝶ながれながれ心に縞刻む

林立す大幹梅雨の蝶点じ

白き皿に置きて林檎の硬き紅

草の葉に居てでで虫の角高く

扇風機の唸りには夜の深からず

庭の草矮くて夏の朝日射す

とんぼ翅収め傾斜の土渇き

覇王樹の岩なす陰に蟲すだく

山の夜はたちまち更けて蟲の闇

きりぎしの上より垂るる蟲の闇

噛み裂きてざくろの光迸る

秋の昼風は草よりやや高く

枯葉とてひたすら風と戯るる

大仏殿スケッチす冬雲も二つほど

 

昭和二十七年(二十歳)

 成人を迎えた。京阪電鉄で駅五つ目の八幡の男山八幡宮にお参りした。父が中井吟香画伯にお願いして、顔をスケッチしていただいた。新学期から学部に入り、解剖学や生理学などの講義と実習が始まる。教養課程である予科では自由勝手な時間が多くとれたから、文芸誌や本もよく読んだし、京都や奈良のあちこちへ出かけた。当時全盛の映画はもちろんだが、芝居好きの友人佐藤匠君が居て学割を使ってよく観た。菊五郎劇団や当時関西歌舞伎があってちょうど扇鶴時代だ。

魚の屍は冬浪たたく岩に反り

うねうねと寄す冬浪に見る態

ひたに世を怖る寒夜の玻璃透きて

枯野来て思はぬ水のかがやきを

蜘蛛這へる如池の面の蓮の骨

草の間の石ころのふと冬の色

窓開けて雪の白さは鼻襲ふ

黄昏の色は身近き枯木にも

マスクして硝子張の扉押して出る

北方の雲オリーブに水温む

雪晴れし朝山腹にひかる瀧

残る雪眩し働きたき身体

電線の輻輳よ雪嶺遠く置き

頂きの岩の蒼さや春の山

鶯やゆたゆた水の揺れてをり

芽立ちたる小さな翳の震へ居り

渓沿ひに石積み春田支へたる

雲雀野や瞼おし開きつつ行く

雲雀野や遮二無二汽車の走るなり

しばらくの風打ち払ふ花一樹

げんげ野の窪みに清き水充たし

土を掘る機械が置かれ葱坊主

春昼を港の波のいそがしく

瞑りて真赤な天の雲雀聴く

憂ひ居れば五月の少女眩しかり 

蝿虎日に炒られたる身を弾く

せせらぎに影せし鳥も若葉照り

揚羽蝶二三度崖にすがり得ず

汗ばみて夜空の雲を遠く見る

蛇の衣吹かれては凭る石の角

葵より低き兵士の名の墓標

墓地広く梅雨の百蟲集ひ居り

梅雨の灯に置く夕刊の大見出し

憧れもなし赤黒き夏夕日

短夜の土覚めてゐる道あるく

川蟹の砂を流れて来る黒さ

うつくしと空見てゐるや緑陰に

緑陰や雲の羅列が遥か行く

炎天の吸殻むせびけぶり居り

かうもりが出でて銅版画の月夜

夜の玻璃戸守宮のパントマイムある

扇風機赤ネクタイを弄ぶ

石ころの道なり蝉が声浴びせ

大いなる潮に泳ぎ惧れなし

炎天を来て部屋に入りざまに座し

泳ぎ疲れて砂にじわじわ沈む足

小汽艇繋がれ夏の波集め

法師蝉硬く曲がりて松の立つ

街なかの埃の松や法師蝉

カーテンの隙に秋立つ夜の黒さ

秋の日よ墓石の影の蹲り

坂登りつめ秋風の空展く

秋風の輝く坂を吾も行く

虫に似て女は梨を噛んでゐる

秋の湖曇りヨットに波重し

満月の森の暗さにこころ置く

飢えしごと月光に立ち呼吸せり

月明り音なくなれば冷えてくる

白き塀の中の樹硬き秋の風

屈託の歩み曼珠沙華折るべかり

曼珠沙華日の中に茎きよらかな

曼珠沙華少年いくさ呪へりき

地に近きあたりは濃くて冬の空

その果てを見しが枯野へ歩き出す

深秋の或る日夕焼狂へりや

肉親と行く木枯にじっと行く

木枯に立ちすくみても日は肩に

冬の雲赤きバス来て忘れらる

冬の空充たすものなし地は固し

自転車といふ機械にて枯野ゆく

冬山路来しが老いたる池を見る

空広くて涸れ沼に澱める黒さ

低き日の枯木の股を滑り居り

北風や黄ばみたる日を下半身

凍雲にただ長き坂下り来し

北風や勁き竹の根目にとまる

月寒く己蔑む舌を出す

黄嘴の弁

口素材と表現

言葉の中でも、それに対応するものが、目に泛ぶものであれば理解し易いが、抽象的なものを言い表した言葉は難しいものです。しかしどちらも一つの言葉は、或るものを指している事は明らかでしよう。

ここで、昨年の『榾火』八月號の風骨さんの「俳句性」と題する論(「中風の大飯大糞秋の蝿 正氣」についての)引用させて頂いて、私のお答へ旁々、述べてみたいと思います。風骨さんはその文中、「作者は、生々しき素材をそのまゝ述べたに過ぎないと、はっきり言われて居るにも関わらず」、私がそれを『野鳩』に書いた文章の中で、「抽象的表現であるとして、無理にこれを蔽わんとして」いると申されて居ます。しかしこれは、私の「見落し」ではなく、風骨さんの思い違いではないかと存じます。というのは、その少し前の辺りに、風骨さん自身が引用されて居る様に、私は実は「人の状態を表わす抽象的な言葉」と申した筈なのです。風骨さんの申される「抽象的表現」なるものを、具象物を抽象的に表わしたものという意味だとしますと、これは例え私の言う「人の状態を表示する言葉」の成立過程を意味するとせよ、素材を作品に仕立て上げること(即ち私の言う表現)には関わりなきものと存じます。何故ならば、表現こそが、所謂「作家活動」なのですから。更に風骨さんは「現実な素材」という語を用いられ、「抽象的表現」と對比させて居られます。これより判断しますと、風骨さんの申される「素材」とは、「具象物」の同義語のように思われます。こうして見てゆくと、この意見の対立は、「素材」とは何かということに起因している樣です。私の申している「素材」とは「作品を組み立てる材料」です。

ここで、ここの素材は「人の立ち振舞」であり、私のいう「言葉」が、その表現であるとするのも無理でありましょう。そこには個性が働かないからです。ここでいう個性とは、対象を概念的でなく、個別的に描くことです。乃ち、如何に表現するかが、特に短詩形の俳句では必要で、それが創作なのです。

更に「素材」を狭義のもの、即ち作品への表現の対象であるとすると、この句では、「人の状態を表す抽象的な言葉」と「季語」との構成によって、その素材は表現されています。「作品を組み立てる材料」の意味の「素材」ですと、二つの素材の構成により、作者の内的表象は表現されているということになります。この「抽象的な言葉」こそが「素材」であり、言葉そのままという事が「生々しき素材」に当たります。

ではこの句は如何にして創作たり得ているかを申しましたのが「表現のきびしさ」なのです。風骨さんは「単なる表現のきびしさのみを以て俳句であるとの主張は、余りにも独断ではないか」と申され、更に、「その厳しさのみが俳句の全生命ではない。その中にある美なり、ユーモアなりを摘出することにより始めて俳句と言い得るのではあるまいか」と申されますが、文芸作品たり得たか単なる文句なのかという事なのです。表現のきびしさとは、表現に対する真面目さです。最大限に突き詰めての表現は、感動を昂揚します。一切の夾雑物は払い除かれるのです。「抽象的な言葉」と季語とで構成することこそ、この句のきびしい表現でした。単なる文句でなく、作品たり得たのです。これは定型の問題とも関連があるでしょう。

最後に「美」については、この句は「有情滑稽」という美的範疇に属すると申しましょうか。風骨さんらの意味される「美」は、説明がなくわかりませんが、私の申すのは「作品の美」で、「素材の美」ではありません。この句の内的表象たる人の姿はしみじみと滑稽であり、その二つの素材の構成による表現は、「大胆」です。風骨さんは、上の文句の「表現は大胆でユーモアがあり」下の季語で「作者の真摯な人生探求を打ち壊してしまった」と申されていますが、これはおかしいと思います。なおこの句について申したことは、この句が文芸作品かどうかで、その良し悪しを言うのではないのです。黄嘴にて生意気を申しました。一層のご教示を願うものです。(四月号。次号以下の素材と表現()、俳句の制約、俳句の評価、俳句態度は略)

 

春光帖より

 藷掘りの鍬のあがれる空に鳶    蘭知

()文学作品の目的は、素材そのものではなく、それをいかに表現するかに存する。この句は秋晴れの日の或る一瞬間の空間を捉えている。写真の像のようにすべては静止しているが、その静止は今までの動作の極限の姿であって、これは上五中七の表現、即ちその発想法や調べにより示され、下五の表現は逆に鳶を一つの不動の点と置いて、反って上十二の効果を増している。今、故意に分析して考えてみたのだが、これは勿論句作に於いては意識されない。ただここで私は、手元の「詩は厳密な技術として学ぶ必要があり、な心情、思索と観察の熟練、自己の全能力を生かし働かせる器用さが必要だ」(『青い花』)という言葉を挙げようと思った。(一月号)

課題吟「マスク」選

()港口の波見てマスク掛け直す   青陽

()ふと港口の寒々とした色の波を見ると、思わずマスクに手をやり、マスクの裏に自分の身を保たずには居れなかった。(中略)

 選後に――季題なるものは、元来或る言葉が繰り返しの使用の結果、慣例はいつか規範となって、時間と空間を象徴するに至ったものであるが、この「マスク」という季題は、設定されて永くならぬので、その連想の範囲は狭い。防寒具であるから、時間的に寒い時期を示し、空間的には顔および身の回りに大体限られている。そこで寄せられた句に於いて、ほとんどは似たような観点に立つものが多いのもやむを得ない。しかしマスクを衣料として、マスクそのものを見たり、人の動作のうちに添えたりしたものは、やはり感動を受けることが少ないように感じた。(三月号)

 

「新星抄句評」より        斎藤滴萃

()みちのく旅行の帰途私が同人社を訪れた折、編集子よりこれを見よと指示されたのは、この度発表せられる新星抄の原稿一束であった。作者十二名三十句ずつ、これに裸馬翁の選による鉛筆のチェックが幾回となく繰り返されてあった。それは鉛筆の色の濃淡とタッチで解る。消しては加え、加えては消され、最後に朱筆で赤い円が印されてあるのが入選句で、それが公平に一人十句ずつであるのは、作者それぞれの全実力を読者らに比較せしめんとする取り計らいであろう。これを見て裸馬翁の選句に対する苦心のほどの並々ならぬことが偲ばれて頭の下がる思いがした。

此の度の分は、第一回の中から百楽、弥生女、鬼烽火、魚山、三猿、空々子、秋羅が残り、藁火、南江、土龍、正哲、堯月の五子に代わって新たに忍冬、風骨、桃江、島春、梧葉が加わっている。こうして私は各作者の原稿のままを眺めていると、恰も楽屋裏を覗き見したように、作者それぞれの力量や持ち味やその人柄までが解るような気がしてきた。(中略)

瞑りて真赤な天の雲雀聴く     島春

蝿虎日に炒られたる身を弾く

梅雨の灯に置く夕刊の大見出し

私は島春の少年の頃よりよく知っているが、島春は普通の子のように、やたらにはしゃいだり飛び跳ねたりして遊んでいるのを見たことがない。島春はそれらの仲間と外れて一人静かに本を見たりして楽しんでいるような少年であった。それがいつの間にか成人して同人誌上に非凡の句を発表して衆目を集めている。父親正氣の快弁闊達才気縦横の曲者と異なって、島春は温順寡言黙々として、あらゆるものの根源を探り求めようとしているその態度は、ちょっと太郎子に似通ったところがある。それは太郎子に深く傾注しているからであろう。

第一句。春の日の暮れ惜しむ赤い夕焼け空、雲雀は澄んだ声で空高く囀り昇っている。その声は何となく淋しい響きを伝えている。その他には何の騒音もない。いやあっても目を瞑って雲雀の声を聴き沈んでいる作者の耳に入ってこない。私には島春の姿が眼前にあるようである。

第二句。土塀か板塀か畳の上でもよい。作者はふと一匹の蝿虎を見つけた。盛夏の強烈に燃える陽の光を浴びて蝿虎は焼き付けられたように身じろぎもしないでいる。作者の愛情の眼は、この豆粒ほどの小さな虫に静かに注がれている。蝿虎は何を見つけたか、何を感じたか、ほんの僅かな幾ミリかの距離をぴょんと躍動した。炒られる豆が弾くように。

第三句。梅雨の陰気な燈の下に今来たばかりの夕刊を広げた途端、さっと大見出しが目に飛びついた時の只ならぬ驚きと関心である。この句を表面から見るとさらりとして何の芸も味もないようであるがなかなかそうでない。座五の「大見出し」という作者の強い叫びを認めねばならぬ。はて、何事が突発したのであろうかという驚きは、近ごろの世相の不安な恐怖感がよく描写されて深い内容を持った句である。(後略)

(『同人』十月号)

昭和二十八年(二十一歳)

 基礎医学の他に、歯科の臨床科目の講義と実習が始まる。大阪同人句会、枚方句会、桜井句会などにも出た。休暇帰省中は土曜会。前年暮れの風骨歓迎小集が機縁で『うぐひす』が発行され、初号から投句した。『同人』一月号第三回新星抄に残った。北兎、樹下が入る。七月号新星抄に残る。杯南、無蓋、萩生入る。三月金福寺月斗忌。四月岩国牛野谷句会に緑雨(万雲)居一泊。五月私市吟行。九月萩の寺子規忌。

  太き埃の日射が昼のストーブに

高くとも寒月峰と結ばるる

寒灯や小さな月がガラス戸に

曇る日の紅き雲間や春隣

人間の顔眼鏡掛けマスク掛け

畑打を見る学問に痩せし肩

ステッキの先にて椿散らさるる

下駄で来て足疲れたり蒲公英に

湿っぽき空気の底の落椿

菜の花に白濃き雲の浮かびゐる

菜の花と麦のモザイク沼囲む

春の川坂なして日を弾きつつ

遠く忘れし想ひを春の水浮かべ

滝に立てば真上の空が風降らす

滝に立つや陽射し数本身の回り

数人の少女過ぎ去り蝶飛べり

春憂しや深夜の辻に月あらぬ

野の若葉水路連なれるを示す

飛行雲曳かれ地上に蝶乱れ

しづかにも群蝶つむじ風をなす

平らなる犬のかばねよ陽炎へり

春深き夕雲のふといきどほろし

雲厚き暮春や猫の眼の他は

靴磨き頭上のビルに春日満ち

春の雑踏悠々遅れ行く老婆

交錯す春夜のネオン額に撥ね

春月に地下道を出て背伸びせる

春風の虚しく吹きて河濁る

春果つる沼の小さな波の嘆き

げんげ野に孤りなる眼を見開けり

酔うて出て春夜の雲の高う浮く

噴水の細きちからの孤立せり

命とはかくも噴水立ちのぼる

噴水を澄みし空気の支へ居り

噴水の落つる迅さは荒れて居り

噴水の秀にある微妙なる時間

身のほとり青麦を風荒く打ち

夕涼やピアノの音が甘くくだけ

夏暁よりはや空に見る虚しき色

今日の日が臨む夏暁の雲痩せて

電線の蛇群衆に腹見られ

すぢかひに渡舟走らす五月川

忍冬に立ち寄ってゐる甘い風

書に育ちかく弱きもの紙魚光る

庭の蜥蜴もの書く視野の隅偸む

寺参りの老婆の足を蜥蜴見る

墓参しに来しが蜥蜴を驚かす

はにかめる吾が胸や薄き虹仰ぎ

夕虹に情念化されたる疲れ

星が背に満ちたる玻璃の守宮かな

炎天下風は木陰を遊弋す

泳ぎ上りて西日の松の幹に凭る

沖に感ず海の力やひた泳ぐ

歓楽のボートの肉刺に風沁みる

夜の青田夢の平らかさを持ちて

沖泳ぎ鹹き眼で日を仰ぐ

星飛ぶや口の中にて思索せり

鏡中の己が残暑の眼に見らる

夕焼に樹の横顔の生きている

天の川太くて深夜がらんどう

糸瓜棚影ごつごつとして夕べ

蓼の花水まろまろと流れつぐ

秋風の谷狭まりて巧緻なる

馬の目にふと目を合はす秋風裡

秋風裡河浮き上がるごと流れ

秋風の野に立つ一樹愛しまれ

夕雲の紅くはなやぐ秋風裡

露滋き草愉しげに山明くる

露の道くねりて朝日みぎひだり

露満ちて細き流れのほこらかに

露滋きより立ちのぼる朽ちし臭ひ

跫音の蟲に埋もり去りてけり

秋夕日木立透かしてまろきかな

近々と月耀よへど蟲の闇

秋陰の地窪に苔の色滲む

秋陰やいくばくほてる日の在処

風乱れ易くて秋の沼越えし

あかんぼの質実な指秋雲へ

霧深しヒローイックに人顔浮く

夜の秋どっとラジオに笑はるる

象徴のごと雲ありて冬立ちぬ

指先の冷たく城濠に見入る

雲暗み八手の花のもつ強さ

高枯芦の上にて厚き雲割れ目

枯芦原に入りて泥土に呟かる

雑踏の地の涯冬の雲埋む

砂原を這ふかなしさの穴惑ひ

秋の日の熱さは頬の骨尖る

多彩なる雲よ秋雨なりし木々

泥濘のこの道秋日目を潰す

硬直す冬木に近く行く市電

冬は塀に梢に丘の三日月に

三日月の低く且つ濃く冬浅し

冬三日月までひたすらに透けて居り

木枯に逐はれ瀬の水弾み過ぐ

落葉踏み悔いの言葉を風へ言ふ

古き「刻」拾ひつ落葉踏んで行く

見上ぐる山の質量は落葉に続く

落葉の底の底の団栗穿つ虫

銀杏枯木金夕雲に白け立つ

冬晴の風の振舞ふ野にてあり

木枯や瀬音断ち且つ放ちつつ

霰過ぎ希薄となりし日射あり

綱の限り山羊は冬木を隔てけり

山羊の髭黒ずみて冬日は低し

炭燃ゆる紅さに見入る冬美きかな

油臭き舗道霰のぽんぽん載り

タクシーの列へ乏しき霰なり

冬木の中のユーカリにして風荒き

山羊ひそと木枯の紙食べてゐる

 

 無題

 この頃、句が出来なくなった。つまり周りのものに感動しなくなったのである。勿論、これは俳句的なという意味なので、映画などは結構面白い。だからこの現象は、ボクから「俳句」が抜け出たというわけになるのだが、ボクの診断では、どうもボクは自分の「俳句」を殆ど消費してしまったらしいのである。しばらく忙しくてその補給が尽きかねていたために、この「俳句」の栄養失調から対象への食欲不良を惹き起こしたに相違ない。そこで俳句雑誌を読み、自然を眺めて食欲を付け、外界から栄養素を取り入れてボクの「俳句」を作り上げねばならない。その為、句の締め切りが迫ると、ボクは暇をこしらえて狩猟に出ることにしている。いつも同じ道だが、一時間ほどでほぼ十句分の獲物が仕留められ同時に料理される。例えば「夕日と直線」「枯草と赤い鉄橋」のたぐいである。これを帰宅してからゆっくりと消化し、吸収するのである。

 ところで、人には食べ物に好き嫌いがあるものだ。ボクの好物には、例えば坂、森、墓地のようなものがある。即ち、ボクの「俳句」はこれらの持つ成分から出来たものであり、それらの性質を持つものと考えられる。

 「森」は重厚で神秘で郷愁があって好ましい。ところでボクの頭に浮かぶ森はあの童話の中のゲルマン風の森なのである。現実の眼で森らしい森を見たことはない。「坂」はまたその彼方に仄かな懐かしさを持ち、軽くてしかも充実している。「崖」も森と同じく缶詰になっている。ボクの頭の中の崖は高く暗く気流が激しく動いている。「石」は黙って生きている。「池」や「岩」は年老いて孤独に生きている。「夜空」はその色が、「風」はその姿が不可思議である。「墓地」の異質なところ。「黒」はすべての色の中で最も栄養価が高い。「丘」は手頃である。谷は口に合わない。機械の中では「自転車」が面白い。人体では「耳」が滑稽であり、最も興味深い。

 栄養価というのは、例えば、今の私にはヒヤシンスは菫よりも、百舌は鶯よりも栄養価が高いというが如し。これを活かすのが料理である。季題でも小春、ソーダ水などは栄養価が低い。新年の季題など栄養価はゼロに近くて、儀礼的に口に運ぶにすぎない。また料理にならないものもある。例えば雀の子、青簾のたぐいである。それに紅葉、雲の峰、春の宵などは古来の料理法以外にもはやボクたちには腕を揮う余地がない。それらこれらの題詠などは先人の発明した美味なる料理の製法に従って簡単に仕上げることになる。ところがボクなんか不器用だし若くて、ついあれこれぶっこみ引っ掻き回した料理が作りたくなるのである。とにかく季題料理は苦手である。せいぜい狩猟に出てボクの「俳句」をラクダのように貯めて置きたいものである。(『春星』一月号)

 

 春光帖より

  残菊に風来て日ざしおびえけり    彩子

()それを感じる前に佇っていた時間(即ち意識)の空虚さと、冬めいた日ざしの空虚さと。季語の大切さをしみじみと感じた。

  林檎食べゐるや鏡の中の雨      青仄

()林檎と鏡の硬さ、その艶。林檎の味と雨の日の部屋と。その対比は句のほぼ中央の「や」で融合されている。ありがたい俳句の「や」である。

泥鰌掘る四囲より午笛喚き出す    緑雨

()この句の重厚な調子は、冬の風景を思わせる以上に、泥鰌の潜む粘土質の土をも覚えさせる。緑雨さんの作品には、内容とリズムが十分に溶け合っているのを感じる。(二月号)

  芹の丈川面につかえなびきをる    岬二

()ここに自分の抱懐せる理想ありとする。ここにそれにやや近き一自然のありとする。その自然を無批判のうちに理想の状態に置き換えてこれを原形のまま写し取ったと思い込んだりはしないといえるだろうか。僕はもっと自然を、又俳句を尊重したいと思うがゆえに、このことを僕自らの陥りやすい穽として惧れなければならないと思う。この句、いわゆる客観句として、美しい。すべては自然より帰納したい。(六月号)

  闇の底にありて匂ひしバラは白   佳以女

  日にぬれて真赤な苺摘みたき朝

  静かに静かに砂丘を周り来し暑さ

()いずれの句にも時間が流れている。闇に色なきバラはまさしく白色であったし、苺には視覚より触覚へと動くものを感じている。静かに砂丘を周ってくる間のすべての意識の集積は暑さに他ならなかった。このように意識の移りにより複雑なことを言い表している。どこか皮肉な感じもあって。それが

  受話器持つ浴衣の娘の夜のポーズ  木魚

では、色を塗り重ねるようにして、或るポーズを言い表している。それは受話器を持つポーズであり、浴衣着の、しかも娘さんのポーズである。更にそれを最も決定づけているのは、それが夜のポーズであることである。

 このような表現により、取り合わせの句では見られない厚みが、これらの句に感じられる。(九月号)

 

季題小品(福田清人選)

       夏雲

 土曜日の午後のことで、このデパートの屋上に備え付けられたいろんな遊戯機械は、子供のために盛んに活動していた。快晴であった。修学旅行らしい女学生たちがたくさんいたが、柵の金網から街の景色を見渡したりしていて、ベンチは空いていた。その一つを占めて僕は腰を下ろした。ほかに用があるのだが、それまで少し時間があって、ふと思いついてこの屋上まで上ってきたのである。

 女学生たちには、それぞれにグループがあるようで、その一団のものはみな同じように行動した。僕よりは遥かに豊かな体格の彼らが金魚掬いにはしゃいでいるのを見ていると、掌がむず痒くなるような気がした。

 異様な色彩が目を引いた。今上がってきた六歳と三歳ばかりの外人の男の子である。メイドらしい日本の娘がついていた。明るい日光の下では、服装の割に男の子の眼や髪は白けた感じで、娘のほうがずっとしっかりしていた。娘は男の子に何か指示を与えて、直ぐ一緒に飛行塔へ行った。飛行機は回り始め、やがてゆっくりと元へ戻って止まった。その間中、男の子は硬い表情を変えなかった。そしてそのまま階下へ降りて行った。それまでずっと僕は眺めていた。それはまことに事務的な処理で、恰も娘がモルモットでも飼っているような具合であった。

 モルモットたちはいなくなり、夏雲の塊がしきりに頭上を通って行った。その縁の辺りは殊に痛烈な白さに輝いていて、それを見ていてもやはり掌がむず痒くなって来るようだった。僕も下りようとして立ち上がった。白シャツの日本の子供たちは、盛んに木馬や子供汽車に歓声を挙げていた。女学生の一団が、栓を抜いたラムネを一斉にラッパ飲みした。

(選評)デパートの屋上風景を描いて新鮮である。視線が若々しく鋭い。夏雲の下、一斉にラムネをラッパ飲みにする女学生ほほえまし。(福田清人)

 

昭和二十九年(二十二歳)

『同人』一月号、八月号新星抄に残る。後半から大阪大手前の付属病院での講義と実習となる。それまで、友人と京都、滋賀などへ。九月萩の寺子規忌。十一月、左大腿部血管腫手術のため帰郷。

昼冷むる湯婆の呟きなりし

吾が赤き口腔を雪へ欠び

懐手ポストの前に立ち解かれ

平明の眠りより覚め雪積みゐし

隙間風仏壇のもの鳴りしなり

孤り行く枯野にてしきりに渇く

退屈な枯野や風に背を押され

月は色に出でて枯野は靄となる

つまづき行き枯野なる日の親しめず

夕雲の節くれだちて冬極む

冬の夕焼汚れ果てしが失せにけり

ものがたるラジオ息継ぐ夜の凍

何か賭けしごとくに雪崩来りけり

垣結び終へたる口のガム苦く

春寒を白衣の肩にして励む

松丸太明るく春泥に積まれ

春泥の仏具屋の前通りけり

ひたひたと日射に浸る梅震へ

雪明かり時計夕べをかすれ告ぐ

腕時計の刻活き活きと吹雪く中

数歩踏み込み夜の雪の鮮烈さ

変電所の構成春日チカチカす

春枯木一枝づつは力見ゆ

春は土の色斑にてタクシー光り

芦の角生ひ出し金属色の水

心弱る春の川波まことに豊か

宙に見ゆる春雨に無骨なる蘇鉄

雛の宿絵本のごとくありしかな

薔薇の園鼻腔に剰るほどの風

細き魚汀に死んで湖霞む

湖の果てよりの霞が城包む

水浅く鯉なまなまし竹の秋

春水の反映まとひつくべき樹

石の間に春明るさの風充たす

夕べ黄なる春の日射を砂ほぐす

春の日の常にくろぐろ石へ沁む

苔の地を抜け出でし幹春風に

苔の中に位置され石の春日淋し

池の石の芒一本春日景

天白し春風崖の上に鳴り

何となく見定めて居り霞める野

春風の紙片が吾へ逍遥ひ来

新樹積み重ねたる頂きに雲

発たんとす鴎に春の湖淡し

ぶらんこや展がる湖に酔へるかに

靴下を脱ぎてボートや旅にあり

杉菜むしるあまりに脆し人待てば

春の夜の甘いぜんざいにて別る

タクシーの灯は灯は春の夜のリズム

サンドウィチマン春日に泳ぎ遡る

藤暮れる感じへ吾を溶け込ます

滴れる方に眩しき日ありけり

草笛の疲れたる音ぴいと鳴る

手の甲に夏の静脈浮きにけり

林立す墓石に雷の無策なり

蝿一つしづかにも舞ふ梅雨の部屋

飛行機を嫌悪す梅雨の部屋に居て

蚊帳くぐり吸はるる如く眠りけり

別れ来て蛍冷たき闇永く         

蜘蛛の手は閑な男に見られ居り

ここの蜘蛛痩せて居り唾など吐かれ

梅雨明けの眩しさよ思はず笑ふ

滝壷のたぎつ明るさを掬ひたし

電車下りたる空へ汗逃げてゆく

帰省子の肩誰彼に叩かるる

蟻の前に人差し指を聳たす

膝に扇子を立てて見るべきシネマなり

慨嘆の汗を啜りに蝿寄り来

炎天へ音太く背骨を伸ばす

髪照らす日を蟻の上にも感ず

露草やかなしきことに心張る

露草や鼻痛きまで朝清き

流れ星示ししときの言葉のみ

星流れてはしばらくの無を乱す

稲妻に抹殺されし路上の灯

車の灯星仰ぐ目をたたき過ぐ

八月の松傷ついて匂ひけり

露の野は純粋な空気を充たす

夜の秋鏡台のもの美しく

路埃新月鼻の先に暮れ

頬骨を新月照らすともなくて

人の眼鏡借りし目をふと新月へ

秋の灯や大きな影で人立ち去る

桐一葉地に影を得て直ぐ座る

窓の中で秋の雲拡散しきる

靴底の露にまみれて心足るも

鯊釣りの話となるテニスの疲れ

赤とんぼいくさでありし幼などき

赤とんぼ見上げて夢のような午後

枝豆を食ひ終へ何かやや荒ぶ

たはむれに十字切らるる秋入日

秋の雲天は地よりも豊かなる

憂ひありおどけ案山子を黙過する

秋風に小さな傷の血が丸い

曼珠沙華折り折り居るは淫ら也

顕はるる暁けの野菊の色尊と

沼の面にくっつく空気鳥渡る

秋深し何も産まない語り合い

天仰ぎ秋日輪に遇ひ怯ゆ

秋或る日河が見たくて風を行く

菊人形烈女といふはかくなるや

芒原西の芒は金色に

少年の世界の喧嘩ポプラ散る 

ブランコに酔ひたる宙やポプラ散る

ポプラ散る友なき両手幹抱き

秋冷の金具一瞥ストーブに待つ

菊芳香痛みのうしおまだ寄せてゐる

黄菊色失せぬ独りでは灯ともされず

秋の灯といふべからざる手術の灯

ガラス戸の歪な鴉そぞろ寒

木枯や部屋にあかんぼ真珠色

懐手空しっとりと青くして

冬日の出今鶏どもが町占める

冬薔薇の一片拾ひ灰皿へ

枯草に耳の孤独を手で覆ふ

冬の月胃のコーヒーに偉大なり

北風や言交はすほどは知らぬ人

北風や理髪店出て硬き髪

どかちんの焚火大きく大きく輪

焚火煙もうもうと一人の幼女

隠れ読む本に冬の日絶えにけり

中年男こんな冬野を屈み行く

 

 「わが句を語る」より

 今年の自選句とて句帖を見ましたが、秋冬の句はまだ客観物とならぬので選ぶことは困難です。選ぶ場合には、よしあしという事よりも、その時の私にとって新しい気持であったものが引っ掛かって来ます。さて眺めてみますと、私の句には春とか夏とかいう言葉が多く、したがって時候、天文の季題が多く出てきます。半分近くまでそうであるように思います。私は自然を見て句を作る場合は、火の気のないところに煙は立たぬの原則を以てします。その火を燃え上がらすのです。私を惹いた対象物の一尺後へ焦点を合わすと(つまり句を推敲しているときにふと) それを対象物たらしめた本体が現れてきます。つまり対象物に感じたものとその句の感じが一致します。またある対象物に季節を感じた場合(例えば秋の雨)その感じの依って来るものを探す方法もあります。少なくともここに掲げた句の各季節の語を取り換えること(秋雲を夏雲や春雲に)は出来ない筈です。以上はまあ、自選という事への照れ隠しであります。(一月号)

 

 春星月旦より

 春光帖ではなくて月旦です。畢竟、俳句とは二人(作者と鑑賞者)が相扶け合って作る一つの喜びに他ならぬのでありますが、その嘆賞の瞼を押し開いて、作品とその人を診なければなりません。これは春星作品より更に選をするのではなく、僕は力作と考えられる句についての僕の感じ及び考えを言うことにします。これは他の人に対する指針でもなければ批判でもありません。すべては僕自身に戻ってくるのです。

 さて俳句は技術を必要とします。従って永く作って居られる人の句が優れているのは当然です。もっともこの技術とは、あなたと呼べばなんだいと答える様な決まった刺激に対する反射ではないのであって、より高次の中枢の働きでそこに何らかの意味を見出さねばならないのです。その刺激を受容し反応する器官の働きは多年の錬磨によって研がれてくるのです。努力せざれば鈍感になるのは当然です。

 以上のことからでもすでに俳句を作る意義は、二つ見出されます。一つは喜びを与えられることであり、もう一つは常に自分を脱皮してゆくことであります。

()

秋山の焚火の低き炎かな      太郎

落葉踏みめしひは杖に世を拾ふ   鬼烽火

 前者は焚火の炎を大らかな句魂でくるんでそこに季感を晶出させています。鬼烽火さんの最近は、「知らぬ半兵衛」の句に見られるたくましさがややに薄らいだ感があるのはファンの一人として残念です。今の粘い境地より奔流へ出られることを望みますが、また一方では今の渦巻をきりきりと深く切り込むのも見たいものです。自然より意味を見出す方法では、自然によって作者から一つのものが取り出され、これは同じような生活の環境、経験を持つ鑑賞者からも作品を見ることによって取り出されます。自分の中より意味を見出す方法では、提出された作品は夾雑物が少なく力強いものですが、その意味が平凡であれば鑑賞者より取り出すものはなく、特異に過ぎる場合は難解となります。しかも前者の方法では自然より意味を見出すことによって自己より一つのものが取り出されて脱皮してゆきますが、後者の方法では、俳句以外の経験により磨いた目によって自己から取り出さねばならないのです。現在の鬼烽火さんは後者の作家であります。

()

  木枯の絶えし木の間のなほ暮れず  洛中

蜘蛛に膝越され吾が背の闇重く   亮之介

俳句は自然をそのまま写したものではありませんが、それを読むと再びその自然(もちろん作者及び鑑賞者が意味を見つけている)に戻ります。前句は、木の間の虚ろな色が浮かびます。後句はちょっと観念が途中で折れ元へ戻り難いようです。それは不要の「吾が」にあると思います。ここに構成の跡が残っており、表現に達してないように思われます。(二月号)

 

 春星月旦より

 進行的変化を見せて居られる作家の作品について述べる。

  その重さひきずり田掻牛歩む     風骨

自分を自分として確立していない者にとっては自分というものは負荷でしか有り得ない、という象徴的な姿にまで突き詰めた作である。ただしそれが上半分の観念的と言える言葉に帰納されていて、やや概念的になる危険がある。個を描いて全を示すべきだと思う。俳句は生き生きと息づいているが、警句には息がない。この作家の句は変化に富んでいるが、「税重圧」の句の如き現実の改善を叫ぶ行き方は、徹すればさらに非定型の短詩となるのが当然だろう。その中でこの句は定型的な、即ち内向的な作品である点で注目される。

()

  追憶が心をよぎる避暑十日      洛中

この作家の句は余りにも簡単に作られているような気がしていたが、この作品は異なっている。よほどの大きな経験は一日の事もその人の人生の歴史の一章となるものであるが、僅かの変化ではすぐ忘れてしまうものである。ところがそれが十日の生活にもなれば、やはりそれは人生に何らかの翳りを与えるに十分な時間となり得るのであろう。この句の「十日」はおろそかに出来ない。またそういう人生の悲しみが、その下降的なリズムに表れている。心の籠った作品である。

  主題なる向日葵に吠ゆ犬描く     鬼烽火

堅固なる俳句精神で直情を詠うこの作家の作品は、その意力にて支えられているのであるが、ここにこの句は百尺竿頭尚一尺を進めるといった姿を持っている。それより更に作者の主題とされる世界に活躍されつつなお一歩進んでその外界に目を放ち手を伸ばされんとする。即ち作者が自分の目を意識されるに至った象徴的な姿の作品とも思える。その眼を感じた。()

(九月号)

 

 季題小品(福田清人選評)

紅葉狩

 その頃、心がひどく弱っていて、この二三日カルモチンをのんで寝る有様であった。それが効いて今朝の目覚めは清しかった。

 高尾で一同バスを降りると、その足元から谷の向こうの山へかけて一面に紅葉が展がっていた。下からたくさんの人声が聞こえ、何かしら気が勇んだ。路を渓流まで下りると、私たちのぐるりは紅葉ですっかり華やかになり、人々が歌いさざめいていた。そこで自然に別れ別れとなった。朱塗りの小橋が掛かって居り、石は白く、水は澄み透っていた。酔った紅葉狩りの女達が見苦しく声を立てよろめいて渡って行った。私は二三人でそこから高い石階を登った。

 裏の高い崖の線は、災厄を払うための「かわらけ投げ」をする所であった。崖の下は渓流で、人々が小さく屯していた。ここから皿を投げるのは危険ではないかと思ったが、そこまでとても及ぶものではなく、よく飛んだ皿もたいていは崖の根へ吸い込まれて行った。それほどの高さがある崖であった。私もその中に混じって幾枚かの素焼きの小皿を掌に挟んで投げてみたが、それがなかなか難しく、空に浮かぶまでもなくすぐに力を失って谷へ吸われてしまう。ちょっとしたコツがあるらしかった。うまく飛ばす人の皿は、横へ振り下ろした手からぐいと浮かび上がって向い山へ達するかと思われるのだが、そのまま谷の空間を舞ううちに、ふと雲に隠れて見失ったと思ったときは、向い山の背景の中を一気に落ちて行き、大きく内へと崖の根へ消えるのであった。雲は静かに動き変っていて、谷の空はいつも新鮮な構図を取り、その中を次から次へと皿が渡って行った。ある傾きでは皿は激しくきらめいた。皿はいくら見ても飽かぬ時間と力の快さを持っていた。空に浮いて飛んでいる皿は、胸いっぱいに吸い込んだ息を小さく出し入れして保っている感じであり、谷へひたむきに吸われてゆく皿は、乾いた目をつぶった時に沁みるあの感じであった。災厄は次々と棄てられた。私のやや浮き立っていた心は鎮まった。

 崖の下の人々は、河原に小さく輪を作っていて、それぞれに楽しんでいる様子が判るのだった。声の聞えぬ踊りも見えた。それらの屈託のない気持が、心の弱っている私にじんじん響いた。夕べに近い秋日が強く谷間へ射し込んで、紅葉は目もくらむ程のほてりを見せた。

(選評)心の弱った日の紅葉狩の気分を良く出している。殊に瓦投げの部分の描写すこぶる鮮やかでうまい。私も昨年夏竹生島で試みたことを思い出した。また河原の「声の聞えぬ踊」など、高い所から見下ろした情景をよくとらえていてよい。(二月号)

 

昭和三十年(二十三歳)

 天満橋の付属病院にて臨床実習に入る。当時は配当患者さんが少なく、川井ご一家のお口をはじめ、江口喜一さん、中原野呂さんに総義歯を作らせてもらった。同人句会、枚方市民句会の他に紫金句会、艸の実句会などにも出た。三月金福寺月斗忌、九月萩の寺子規忌。『同人』一月、七月進境著しい弟の男兒共々新星抄作家に。十二月年間自選句作家に。二月、十年間の仮寓の湧原から、東町四○九の現在地に転居。

冬夜空何も無し甘い唾が湧く

悩む額に当てたる冬の金属は

紫のガラスのボタン少女の冬

冬暁や部屋中の影溶けてゆく

雲暗き冬田の水を舐める犬

日向ぼこ黄色な空を夢みけり

皹に泣きし幼き頃は淨かりき

コーヒーがくすぐる脈や寒の雨

生まれたるばかりの馬糞寒夕べ

大寒や鶏冠を握る手なき鶏

猫二声汽笛一声夜半の寒

目刺噛むよい歯よい指幸ひに

俳句する心ともなく目刺噛む

春寒や唇に置く指我がもの

白昼の野火を見て居て刻涜す

野火始末夕日に眼細めけり

梅日和人群がりて丘均す

駆けり来て音なき野辺の陽炎に

陽炎を感じくすぐったく歩く

ふと脇の本落し陽炎ふ野中

春の雪ためらふ如く手に乗り来

春風やネオンが点けば寒うなる

水温む喫水深き船見れば

母ぬくくぬくき子抱き春霰

樹の裏と表に人が凭り芽吹く

吾が心丸く硬くて春枯木

春眠や畳の日射煙らせて

苛立つや春雨の壁打ち湿り

春の星どこかのラジオ絶叫す

花の上烈しく鳩の羽ばたくも

身を振ってゆくハイヒール鐘霞む

捨てられて塵汚からず芦の角

つばくらや髪刈って出てやるせなし

懶惰なる爪で眉掻く麦は穂に

おたまじゃくしが擽ったい徒食の手

八重桜翳にまみれて夕寒し

眉薄れ行く老人に蝶乱舞

蜷覗く水に己がゆらりとす

身篭りて若葉の影の重き髪

椿二つ三つ落ちし間を泣きにけり

春昼や子どもの言葉迸る

雲遅し草笛を吹き嗄らしても

雄大な春の雲眉剃りこんで

人葬る営みすすむ松の花

春泥に汚れ歓ぶ女児であり

薔薇闌けて吾が若さ追ひ詰めらるゝ

葱坊主夕日は靄に溺れ居て

声高に話した後の春没日

板のやうに疲れた瞼青嵐

夏来る風走り行く鼻先に

若葉冷えて中年の固まりし貌

五月田の鷺のくちばし吾を指す

夏痩や風吸ひ込めば胸眩し

新緑の感じに吾が目玉も加ふ

新樹より抽き出でし想ひ直ぐに消ゆ

新樹の中の風の中なる胸安らぐ

声抛る子ら去にて蝙蝠高し

虹掛けてチャペルにありし新鮮さ

働いてゐる頭脳に窓の虹太し

五月晴踏切安全に白し

赤土の山の近道五月晴

昼寝覚広告塔の濡れた曲

口笛は乾き切ったり夏の蝶

夕焼に腕組みすれば鼓動あり

コーヒー店出て炎天が高うなる

瞑りて炎天に渦巻かれ居り

炎天の鷺羽ばたいて己持す

青年期の松炎昼を揺れてゐる

炎天の高さに鷺の翼努む

月見草の歓楽に疲れて戻る

海綿の如く夕立に濡れにけり

夏萩にきらめきのぼる埃かな

元来夢幻的遊園地白雨来る

手花火へ遠き山並みよりの風

崖下の道のきらめき蝉の領

晩夏天日金歯に呵々大笑せられ

炎天へ下着扁平に干し並べ

町の子に町の蜻蛉は直ぐに発つ

新開地尚虚ろなる蟲の闇

眉にある露けさに上目で星を

花野にて遇ひし神父の毛深き手

月曜は白きリボンの秋の風

葡萄吸ひし舌縮み朝日の眩し

石数個あり昼の蟲滲まする

石遠く抛り音無し秋の海

秋の海へ冷たき膝を向けてゐる

鴉群れて何事もなき秋の暮

三日月を見つめる彼に声掛けず

ポストに手食はせがてらに月仰ぐ

少年の不安にぴたり細き月

耳たぶに糸のよな風蟲名残

夕べ澄み電車非情に走り去る

谷底へ下り行くことの秋深く

空耳に木琴の音露の中

秋の蛇母高き声失はず

句帖持てば秋の蛙のうめき居り

産卵すこほろぎに感情を見る

癖つきし髪切らんとぞ秋の雨

ミルク飲みし口生臭し霧の中

霧を来て女小鳥の瞼持つ

シネマ出てこの世の夜霧亦深し

秋の沼思ひぞ篭めし礫打つ

熟柿舐め居て眠り薬の効き来り

うす煙る煙突は初冬であり

吾が胸に向き背き敗荷の伏す

銀杏散るや今居し子ども今はなし

らんらんと霜に陽射しや罪なき吾

宗教の冬とどろかす太鼓に病む

守る人の辛き人生朝焚火

坂歩く幼児木の葉降り吝まず

山眠る這はねばならぬ路ありて

冬草に降る日オルガン鳴る如し

母の吸殻子が踏んで消す寒き土

ストーブの熱線劣等感に浴び

ストーブに話題なる胃が熱過ぎる

冬の虹近く右脚のみが立つ

弟子の手が師に示しけり冬の虹

春星作品評

 実は書かねばならぬのは各作品の評であるが、近来俳句的心境に落着きがないので、いわゆる技術批評はさて置いて、新発見の有無を以て評価した理由を説明して置きたい。

 現代で俳句を作るのは、一般的にやはり生活の中の一つの楽しみとしてだろう。物質文明の発達に伴い、機械や制度の軌範の下に我々は若干の窮屈を感じている。と言って我々は逃避する事はできない。従って我々は自然を憧憬の目を持って眺める。だから俳句を楽しむという事は、自然に対し、あるいは自然に対する自分の心の動きに対して新発見をなし、驚異の眼を注ぐという喜びを得ることを言うのである。

 いわゆる求道派の人がいる。その人にはこう説明しよう。俳人は、知情意と分かつ考え方によれば現代生活の中にあってなお自然を見て驚きを感じ得る目を持つ者でなければならぬ。そして自然の奥即ち自分の目の奥にあるものに考えをめぐらす知性の持ち主でなければならぬ。更にその感動を圧縮する意志の持ち主でなければならぬ、と言えば仰々しいが、その「なければならぬ」を「になれる」と置き換えればよろしい。

(句評略)

(二月号)

  もう戻れない(月斗忌に)

 僕が月斗先生にずっと俳句を見て頂く様になったのは昭和十九年秋である。僕は中学生だった。世は戦争だった。

 やがて戦後となった。英雄たちは失せ、僕には敬仰する偉人もなく、「まず疑え」というのが銘だった。その中での例外は親と月斗先生であった。しかしそれは精神的というよりはむしろ肉体的な意味の先生全部から受ける親愛感ではなかったか。

 まだ俳句の目を開かぬうちに先生が亡くなられた。それ以後の僕の俳句はご覧の通りである。

 先生は味と調べを提唱された。それぞれ内面的外面的な俳句美であり、その両者は互いに関連している。味とは何か。それは先生の句を読んで居ると仄かに判るような気がする。しかしそれは僕の心とはどこか異質な感じがする。

 仄かに判るのは、中学校までの時間と月斗先生在世の時間に生きた僕の心であり、異質なものをもたらしたのは、敗戦であり、先生のご逝去であろう。或いは年齢というものかもしれない。

 今僕の信じられるのは僕自身の感覚である。その感覚を追うて僕は言葉を置き俳句を作る。平安な世には遍く信ずべきものがあるだろう。先生の「味」はそれだと思う。

 僕は一つ一つを考えねばならない。僕はまだ確立されたものを持たない。「われ思う」所に僕が身を置く土地はある。

 僕たちの年齢では戦前戦後の価値の変化について僅かに実感を持つにすぎない。その僅かの戦前の心も、即ち「味」も、もう僕にとっては次第に薄れゆくもののようである。

 たとえ僕が何らかの確立されたものを掴んだとしても、それはもう戦前のそれとは異なったものであるに違いない。もう僕は戻れないだろう。(三月号)

 

季題小品(福田清人選評)

青芦

 あの頃は毎日のようにこんな堤の上の道を歩いたものだ。僕たちはその細い腕の力を戦争のため、兵営作りに捧げていた。一日中モッコで土を運んで、夕方になると、また二里の道を整列して帰るのだが、歩くといっても足を前へ降り出すようにしてぞろぞろ進むのだから、途中何度もゲートルが緩んできて、その度に締め直さねばならなかった。それにみんな草履ばきなので、列の中は大変な土埃が舞い上がった…。

 久しぶりに淀川堤を歩きながら、クローバからふと目を挙げると、遠い飛行機がチラリ結像し、空に爆音が滲んでいたのを感じる。無意識の中に音は耳を通り、目に飛行機を求めさせていたのだ。中学二年で終戦を迎えた僕の、これは一つの条件反射となっているものである。高度二千、進行方向東北。最後まで見送って僕は又歩き出す。

 …あの疲れ切った堤の戻り道も、今思えば疲れたという感じはそれ程でもなかったような気がする。それは報国精神なんてものではなく、といって諦めからでもなかった。そこにはただ、物を吊り下げて伸び切ったゴム紐のような戦時の緊張があった。日課のようにB29が一機、殆ど音もない高さを通って辺りを見回しては帰った…。

 堤を下りて、青芦の間をざわざわ歩いて魚釣りの人の傍に行き、彼と少し離れて腰を下ろす。頭が重い。確かに僕はどこか深いところが疲れているようだ。河の水の横へ滑ってゆく迅さがいかめしく怖い。僕は近頃自然に没入するということが出来なくなっている。あの堤の一樹を無意味と意識することが又一つの意味を与えたことであってみれば、僕の周りはすっかり何かの意味で覆われているわけだ。魚籠を覗けば悲痛な姿に曲がって鮒が死んで居り、岸辺に打ち上げられた木製玩具の荒々しい質感…。

 どきんと一つだけ大きく僕の鼓動が鳴り、目の前へ、赤い服の幼女が青芦の中から現れた。直ぐにあとからその若い母。忽ち幼女は抱き上げられて胸いっぱいに笑いながら甘えている。そして抱き下ろされ、走り、隠れ、捕らわり、抱かれ…。甘えているのは子供だけではない。あれは母と子がお互いに甘え合っているのだ。

 すぐ先の芦陰にひっそり座っている女、それは釣っている男の連れなのだが、ぼんやり遠くを眺めながら時々うつむいては林檎を齧っている。少し離れて膝を抱いて眠るようにして釣っている人、その先の芦隠れに一人、二人、三人、まだ居る。それらの人たちはそれぞれ今日の初夏の日曜を、静かに平和に、しかしお互いに孤立して、玩味している。僕はいったい、すくすくと平均した高さに生い茂った青芦の中に立って何をいらだっているのか。何の意味もなく、ただじっと透明な日光を浴びては居れないのか。

青芦もろとも僕の浮かぬ顔を風が吹く。

 

(選評)戦時中の若い心象と重なって堤のほとりの芦と人物のスケッチが、あざやかに浮かぶいい写生文である。表現も新鮮だ。

(十二月号)

「一句鑑賞」より

青山至禾 

 月曜は白いリボンの秋の風    島春

青年は先ず青年の書を読めと藤村は後進に訓えた。青年は青年の句を作れと、これを解釈してもよいと思う。この意味で青年島春君のこの句を推す。若人は因習と束縛から離れて青春賛歌を高唱してほしい。

あまりにも俳句が老衰、枯淡に終始するとき、こうした青年の体臭から、官能から生き生きとした作品の生まれることを期待するのは、あえて老人の若い日の郷愁とは断じがたい。若人によって清新の一分野が島春君を見習って、誌上に花と咲く日を期待してやまない。(『同人』一月号より)

 

「自選句合評」より

  懶惰なる爪で眉掻く麦は穂に   松本島春

樺山苳里

 心理学のことはよく分らないが、爪で眉を掻くという女性的なある動作も、いはば焦燥せる自我の一つの表現であるかも知れない。しかもさういふ焦燥感そのものが、懶惰な生活の反射として浮び上るのである。麥はそくそくと穂に出で、生を促して止まない。然し惰性的な無爲の生活を切り換へる條件はまだ熟さないのである。かういふ女性が存在するといふことが、麥は穗にといふ物的な詠嘆を通して、一の現實として私の空想に描き出される。俳句の近代性が私たちを誘惑するのも、かうした空想さへもが単なる有りのすさびでは現実探求の心に根ざしてゐるからである。所謂俳句趣味では、この現実感は理解されないであらう。なお、懶惰なる爪といふ大膽な表現も、この句の調子に破綻を来たすほどではない。

田畑景亭

評は苳里君によって盡されてるが唯女性といふ解には異議がある。女性ならば眉を搔(描く又は引くでない)かないだらう。五月頃は皮膚の新陳代謝のはげしい候であり從つて穗麥との関連が緊密であり実感が溢れるのである。句のよさは「懶惰」を持って來て而かも之を空轉させずに具象の爪へ連結させた所にある。島春君は新鮮な秀句を多く殘してるが此句のやうに生活に踏みこんで來たのがよい。美術評論家の話に「抽象画はせいぜい二年もすれば行きづまってしまふ、之は當人のリズムとか樣式に限界があるからである。具象のものは人間發展に無限の材料を供する」といふことである。抽象畫は具象のデッサンを積みあげた後一枚のよいものが出来る。島春君が發展の道程として此作風に入ったのを喜ぶ。

鈴木鶉衣

この句の主格が女性か男性かに就いて、苳里景亭兩子の意見が分れたやうであるが、私は男性、それも若い神經質な女性的男性を直感した。私はこの句を徹頭徹尾感覺の句として鑑賞して見たい。繪でいへばアムプショニズムかフォービズムである。この句で実在するものは「爪」と「眉毛」と「麥の穗」である。そこにに觸覺上のある感覺が湧いて來るであらう。時節は四五月、暖かさを通り越して、暑さに移らうとする春初夏の候、人體も倦怠を感ずる時期。痒いといふ痒覺が伴ふ一種の焦燥感。それを爪で搔く行爲の懶惰性。搔く場所が眉毛であって一層神經的に感ずる。眼前には穗麥が立ち並んでゐる。その麥の穗にもこそばゆい一種の觸覺感があり、また逞ましく穗を伸ばす麥は、逆に人間の懶惰性をく刺戟する。苳里子ばこの「麥は穗に」を「懶惰なる」と結びつけて、親切な解釋を下してゐる。かうした解釋も當然成り立つが、私はその感覺だけで止めて置きたい。而してこれ等感覺を綜合して見て、期節的倦怠感と、痒い眉毛を爪で搔く懶惰、それと麥の出穗から來る感覺がモンタージュして、その感じを一層助長してゐると思ふ。取りとめもない評言の羅列であるが、これも感覺で行った印象批象の一つで、あとは讀む者の感覺に訴へることにする。作者島春君は弟の男兒君と共に、まだ學生であるが「同人」将来のホープである。自重して大に勉強して欲しい。

松本島春

 俳句は五七五の形の感じですからそれを散文で自分が又言ひへるなんてわけには行きません。で作者はたださうだとかいやそんな感じではなかったなどと答へる事が出来るだけです。ところが、どの句でも多少はさうですが、なかでもこの句は、現在の私には少し判らないのです。即ち作った時そのままの感じにれないのです。今ちょっと試みに瞑目して穂麥原に立ち爪で眉を搔いてみましたが、やはり判然としません。この句を作った時には上十二にも充足した無意味さの快感とでも言ひたい感じがあつたと思ふのですが、今では何か虚ろになった感じがするのです。思ふにこれは、私の生活態度が變つたのではないか、今は生的な手の爪の所有者へ近づいているのだろう。そこに感じのずれがあるのだろうと思うのです。(『同人』より)

 

昭和三十一年(二十四歳)

 三月大阪歯科大学卒業。金福寺月斗忌に父と出席し、献句の「月斗忌や父の大声子の小声」が受けた。国家試験を済ませて、枚方でお世話になった川井ご一家、大阪同人の方々とお別れし、五月三原へ帰郷した。それまでの句を記しておく。

元日の午後永かりき尚もあり

ジングルベル老婆は凍に躓きさう

句に遠き花活け卒業試験に処す

月凍てて八方へ赤子泣き細る

水鳥の挙動いちいち独り言

義務教育九年目にある懐手

宵焚火話淫らで燃え細る

少女すぐさまお調子に乗る夜の焚火

涸れ沼の尚底で日を舐めてゐる

もの言ひさして木の芽へ背伸びする

春よこいお菓子のやうな造花買ひ

石割られたり春の日はやも遊びゐる

吾が影のそっぽを向いて青き踏む

春の夜や吾が手吾が足傍白す

父の叱言椿打つ雨見つめゐる

椿落ちんとする時見しが罪めいて

若葉ピカピカする路馬糞半乾き

卒業記念樹を植う雲量は零

風光る池はどろんと上向いて

春風の鶏思ひ切り走れない

放埓の或る日眺めし水温む

芦の芽に腹這うて見ん全て悪し

春雨密かなり真上向いて泣く

春雨に耳たぶの濡れきってけり

草芳し少年老い易くして眠る

春の夜のドラム乱打す白目かな

鉄棒にくるり回れば蝶通る

パンジーに話し掛けられゐる稚さ

温室を出て春風に花かゆき

かくもしみじみ足許を見る春の花圃

道に大笑す青年春も果

 

 

 

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