何故、声明文を発信したのか。。。。 その理由とは。。。。
 
 
大会趣旨文

  この世界にはたくさんの「いのち」が存在しています。それらは姿かたちや性格、環境などでそれぞれが違います。ちょうど○と△と□が違うように。 

 世間では善悪、優劣、損得、あるいは好き嫌いなど、様々な価値観で色分けをします。例えば「○でなければならない」とか「△はすばらしい」とか「□はつまらない」とか。 

 阿弥陀さまのみ教えを聞くとき、○も△も□もすべてが同じ世界の中に生き、支え合い、助け合い、関わり合う上で、等しく尊ばれ等しく認められるべき存在であることが明らかになります。 

 その事実に立った時、そもそも○だ△だ□だと自分の都合という色眼鏡で見ていたのは私自身であることが知らされ、すべての「いのち」をありのままに見る事が出来ない「私」があらためて問われてきます。 

 今大会は、仏教青年が集い、共に考え、問いを深めていく。そのスタートになればとの願いで開催いたします。 
 

 
この○△□に9月11日の事件以降の出来事を当てはめてみました。
 
考えてみよう「○△□」〜認められる世界の中で〜 

 この世界にはたくさんの「いのち」が存在しています。それらは姿かたちや性格、環境などでそれぞれが違います。ちょうどアフガンの人々アメリカの人々日本の人々が違うように。 

 世間では善悪、優劣、損得あるいは好き嫌いなど、様々な価値観で色分けをします。例えば「イスラムでなければならない」とか「アメリカこそ正義だ」とか「なにもできない日本はつまらない」とか。 

 阿弥陀さまのみ教えを聞くとき、すべての人々が同じ世界の中に生き、支え合い、助け合い関わり合う上で、等しく尊ばれ等しく認められるべき存在であることが明らかになります。 

 その事実に立ったとき、そもそも、ジハード(聖戦)だ、報復(正義)だ、支援(戦争協力)だと、自分の都合という色眼鏡で見ていたのは私自身であることが知らされ、すべての「いのち」をありのままに見ることができない「私」があらためて問われてきます。 

 今大会は、仏教青年が集い、共に考え、問いを深めていく。そのスタートになればとの願いで開催いたします。 

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 今回のテロ行為自体は、決して許せるものではありません。しかしこのテロは、突然起こった事件ではなく、暴力の歴史が繰り返される中から生み出されたもののはずです。なのに、その後のアメリカの報復攻撃、それに追従する日本の戦争協力は、また暴力の歴史を繰り返していくだけの流れでしかないように思えます。私たちは、ニューヨークばかりに目が行きがちですが、アフガンの人々もアメリカの人々も我々と共に「等しく尊ばれ等しく認められるべき存在」ではないでしょうか。わたしたちは、今どう考え、どう問い、どう歩めば良いのか、考えていかなくてはなりません。 
 
 
 
10月1日の西日本新聞にはこのような記事が掲載されていました。
 
 
 先日のニューヨーク・タイムズ紙に、ほとんど白地の全面広告が出た。活字は中央に一行の詩だけ。日本語に訳すと<想像してごらん すべての人々が平和な暮らしを送っていると…>▼故ジョン・レノンが作詞・作曲し、自分で歌った「イマジン」の一節。スポンサー名は書かれていない。外電によると、妻のオノ・ヨーコさんが出したものとわかった。米中枢同時テロのあと、愛国心を鼓舞する広告が目立つなか、異彩を放った▼「イマジン」には<想像してごらん>のフレーズが繰り返し出てくる。そしてこんなふうに続く。<国境なんてないんだと><殺しあう必要なんて何もないんだと>。世にでたのはちょうど30年前。ベトナム反戦運動などで若者が歌い継いできた▼テロ事件後、放送自粛の一つになったと聞いた。報復ムードにそぐわないとでも判断したのだろうか。変だと思っていたら、放送局にこの曲のリクエストが殺到している(朝日新聞)と知って、安心した。全面広告にも抗議の意味が込められていそう▼レノンは、こう問いかけてもいる。<君は言うかもしれない 僕のことを夢想家だと でも僕ひとりだけじゃないんだ いつの日か 君も加われば 世界はひとつになれる>▼想像してみよう。報復がもたらす新たな殺りくのことを。戦火から逃れるために難民化する女性や子どものことを。想像する心をなくした世界は荒涼としている。                        (西日本新聞 2001年10月1日「春秋」)
 
ジョンレノンのImagineをご存知ですか?
 
 
Imagine John Lennon 
 
Imagine there's no heaven 
It's easy if you try 
No hell below us 
Above us only sky 
Imagine all the people 
Living for today... 
 
想像してごらん 天国なんてないんだと… 
その気になれば簡単なことさ 
僕らの足下には地獄はなく 
頭上にはただ空があるだけ 
想像してごらん すべての人々が今日のために生きていると…
Imagine there's no countries 
It isn't hard to do 
Nothing to kill or die for 
And no religion too(#) 
Imagine all the people 
Living life in peace... 
 
想像してごらん 国境なんてないんだと… 
そんなに難しいことじゃない殺したり死んだりする理由もなく 
宗教さえもない 
想像してごらん すべての人々が平和な暮らしを送っていると…
You may say I'm a dreamer 
But I'm not the only one 
I hope someday you'll join us 
And the world will be as one 
 
僕を空想家だと思うかも知れないだけど 
僕ひとりじゃないはずさ 
いつの日か きみも僕らに加われば 
この世界はひとつに結ばれるんだ 
 
Imagine no possessions 
I wonder if you can 
No need for greed or hunger 
A brotherhood of man 
Imagine all the people 
Sharing all the world... 
 
想像してごらん 所有するものなんか何もないと… 
果たしてきみにできるかな 
欲張りや飢えの必要もなく 
人はみな兄弟なのさ 
想像してごらん すべての人々が世界を分かち合っていると…
You may say I'm a dreamer 
But I'm not the only one 
I hope someday you'll join us 
And the world will be as one 
 
僕を空想家だと思うかも知れないだけど 
僕ひとりじゃないはずさ 
いつの日か きみも僕らに加われば 
この世界はひとつに結ばれるんだ 
 
 
私達はこの歌から次のように考えました。
 
 
IMAGINE(JOHN  LENNON)、 
この歌は、ただ理想世界を想像してみようという歌ではありません。 
「I hope someday you'll join us」(いつの日か きみも僕らに加われば) 
と、歩みをうながす歌です。
想像した世界をただ夢見る夢想家(dreamer)になるのではなく、 
自分の日常とそれがどう違っているのか、その違いにどう取り組めばいいのか、 
そんな歩みをうながすのが 
「I hope someday you'll join us」(いつの日か きみも僕らに加われば) 
という一節ではないでしょうか。 
***
我々の身の周りのこと、私自身の行動を振り返ることはもちろん、 
現在行われているアメリカの正義≠ニイスラムの正義≠フぶつかり合いに対して、
声をあげたいと思います。
報復が報復を生み出すという暴力の連鎖の中で、今度のテロ事件は起こりました。 
そして私たちの住む日本という国家は、
その根拠も確かめないままにアメリカの正義≠ノ乗ろうとしています。 
***
テロ行為は決して許されないものです。 
しかし何とか平和的な解決に取り組み、
報復の連鎖を断ち切るという願いのもとに、歩みはじめましょう。
「できるか、できないか」という結果ではなく、歩もうという「うながし」のもとに… 
阿弥陀さまのみ教えを聞くとき、
○も△も□もすべてが同じ世界の中に生き、支え合い、助け合い関わり合う上で、 
等しく尊ばれ等しく認められるべき存在であることが明らかになります。 
(「大会趣旨」より)
I hope someday you'll join us 
いつの日か きみも僕らに加われば 
And the world will be as one 
この世界はひとつに結ばれるんだ 
 
 
この思いで、最初の一歩として、声明文を発信いたしました。
 
 
 
(#) 私たちがImagineを語ると、必ず聞かれるのが、「And  no  religion  too 宗教さえもない」という歌詞をどのように理解しているかです。    

浄土真宗の教えが、境界を作り、壁を作っていく教えであるならば、確かにそうでしょう。しかし、真宗の教えとはそのようなものなのでしょうか。そこには、人間観∞他者へのまなざし≠ニいうものが問われてきます。真宗と他宗教という境界を作りあげ、その上で他者を裁いていくならば、まさに no religion と叫びたい。    

 しかし、皆が仏に願われた存在であると他者を見ていく視点(決して独善的ではなく)、壁を越えてその人の存在の尊厳性を認めていく精神を、「摂取不捨」というのではないでしょうか。    

なかなか壁を越えることはできません。そこに壁があることさえ気づけません。しかし「なんとかならんものか」という宗祖の悲しみの上に「罪悪生死の凡夫」という叫びがあるのではなかったかと思うのです。現に今、宗教の名を借りた戦争が行われています。私達の教団も、宗教という名のもとに、壁を作り、差別を作り上げてきた(今も作り続けている)歴史があります。    

ジョン・レノンの 「And no religion too 宗教さえもない」という言葉を私たちがどう受けとめていくのかが問われているのです。

 
  

 

 
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