九州地区仏青連盟リーダー研修会
福岡教区仏青連盟冬の聞法会
 
日時:2001年2月24日(土)、25日(日) 17:00−
会場: 本願寺福岡会館
 
 
 2月24日、九州ブロックリーダー研修会が行われました。ご講師を高石史人師にお願いし、その後、各教区の代表の方に出ていただき、ディスカッションを行いました。それぞれの教区で「認めるってどういうこと?」ということについて予め話し合いを行っていただいたこともあって、いろいろな意見が聞けてよかったと、広報部員Hとしてはとりあえず満足しています。ただ、時間の関係もあってそれぞれの意見を集約し、十分な議論をするに至るまで発展しなかったのが残念です。今回の参加者の皆様の中で、言い足りなかったことがある方や、何かご感想をお持ちの方があれば、是非お気軽にgaja2k@hotmail.com までメールを下さい。九州大会に向けての参考にして行きたいと思います。よろしくお願いします。 

[高石史人師講演の要約] 

 まずは、昨今の青少年の凶悪犯罪やいじめの問題についてお話していただきました。私達はそれらの「事件」の背景を、自分が認めることのできない他者の排除の結果として起こると捉えがちですが、どうもそうではない。例えば、A君がB君をいじめている場合、A君にとってB君が認められないのではなくて、「A君自身が自分自身を認知し得ていない。自己肯定感を持っていない」からだ、と高石先生は考えられます。「なぜ人を殺してはいけないか」という問いも、自分の命を低いものとしてしか見積もりきれていない、自己評価の低さからくるものなのです。逆にいうと、自己肯定感のない人に他者肯定感は成立しないというわけです。乙武洋匡さんも、「障害」ということをひとつの目印にして、「自分の役割」に早く気付いた、と言います。  

  また、商品化社会の発達によって、人がモノ化しているということも言えます。母が一生懸命編んでくれた手袋や、ねじが切れるたびにまた巻きなおさなくてはならない時計に対しての愛着がなくなっている今、そのような無頓着さが人に対する場合でも表れているそうです。そうした「精神の働きの空洞化」「人間関係の障害」が原因となってストーカー行為やドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)という結果を生み出しています。 
  そういう中で、宗教の役割は何なのか、このような社会にどう切りこんでいくのか、ということを仏青の人達に考えて欲しい。 

 要約すれば、こういった内容でした(文責 Y.H.)。講演の全文は何らかの形で今後公表するつもりです。 
 

[ディスカッションでの発言から] (註:発言内容と写真は一致していません) 

  --私もだいぶいじめられまして。死にたいと思った位いじめられたんですが。いじめっ子・いじめられっこというのは昔からいたんだけれども、今は傍観者・見て見ぬ振りをしている人がどうも増えている。大きく違うのは何かというと、忙しさとか精神的疲労があると、結論を求めたり、自分とは異質のものに対して排除しようとする傾向が強まるということが出ているんですよ。 
 
 
  --言ってみれば、いい学校に行く為、いい就職をする為には、やはりみんなと同じような格好をしなければいけない、考えを持たなければいけない。人は考え方とか、生活環境は違って当たり前なのに、当たり前のことを認めようとしない。どうして自分がいじめられるのか、どうして自分がここまでこうならなければいけないのか、再認識できないような状況になっているのではないかと思うんです。ですから自分が生きていく上で、自分のありのままの姿をどう受け入れていくか、その受け入れた自分を周りの人たちにどう認知させていくかというのが、大きな問題ではないかなと私は思います。 

 --今回のテーマ「認められる世界の中で」ということなんですが、実際先生お話にもありましたが、自分自身のことが理解できて相手のことも理解できる。今の子供たち、若い人たちが、自分のことがわかってないのかなという感じを受けました。 
 

 --私は小学校の時に、いじめられる側ではなくていじめをしていたんですけれども、その時いじめをしていたら、いじめる方が周りから見たら強い立場だから、周りの人は当然私についてきてくれたんですよね。それを私は小学生の時に「私は認められたんだ」というふうに勘違いしていた。でも実際それは違うということを、今日の話を聞きながら思いました。 
 

 --私は今幼稚園で働かせていただいているんですけれども、幼稚園生でもいじめをする子はいるんですよね。だけども、どうしてその子がいじめをするのか、それはその子自身にとってもわからないことであって、それに気付くのは私のように大人になってからかもしれない。だから今日の話を聞いて、子供が気付けないこと、大人が気付けることを少しでも教えてあげれればなあと思いました。 
 

 --(ある教区での話し合いの報告)価値という言葉の意味に (1)人間のよし悪しの対象になる性質 (2)個人のよし悪しに関係なく、誰もが『よい』として承認すべき普遍的な意味というものがあった。私達は最初の善いか悪いか、優れているか劣っているか、損か得かという、比較による価値観をもっていると思う。それは今回のテーマに添って高石先生が示唆された私達の社会を覆っている《一時的な価値観》について考える時、昨今の日本社会を反映していると思います。最近の青少年犯罪の問題にしても子どもたちは能力主義で成り立つ競争社会の価値観によって子どもらしく自分らしくあることを認められず、傷ついていく痛みに叫びをあげ、悲しい事件が起こっていると思います。まさにいのちを物質化して比較・差別している危険を含む価値観を持つ社会の反映にあると思います。子どもたちが必要としているのは、自分らしさを否定されずに安心して子どもとして居られる場所や自分をいのちあるものとしてしっかり受け止め認めてくれる人ではないかと思います。そこにはやさしさ、おもいやりといったゆとりの心があるように思います。『認』という文字を見て、そのつくりが『忍ぶ』の左に優しい、思いやりのある『言』葉がつくと考える。私達が阿弥陀如来の『すべてのいのちかがやけ』とよびかけられていのちをいきるとき、今回の「認められる世界の中で」というテーマを受け、共生・共存・バリアフリー・ノーマライゼーションといった社会を思う。そこには最初、述べた価値という言葉の意味に、個人の善し悪しに関係なく、誰もが『よい』として認められる普遍的な意味としての価値観を見出せるのではないだろうかという話し合いになりました。 
  

 --自己肯定の話ですけれども、私が最近感じることは「自分を認める」というところのくくりが、決して我が儘が許されるというノリではないですよね。例えば社会のルール、人間関係上のルールというのと、ごっちゃになってしまってる。ややもすると「私の言い分を聞いてくれないのは、社会が悪いんだ」という話も聞いたことがあります。それとこれとは話が根本的にずれてしまうので、言葉だけが一人歩きしてしまうと怖いなという思いがあるんですよね。 
 

 --先生のお話の中で非常に興味深かったことは、科学技術・商品文化の発達による弊害として、手袋と時計の例から『モノの経験』ということをおっしゃいました。「そういえば俺も子どもの頃の自転車ひとつにとっても、色んな思いを持って大切にしていたような気がするけれども、最近は物に対する愛情がない自分がいるなあ」ということを思わせていただきました。人に対しても、というように教えていただきましたが、自分自身の実感がないと、中々親身になって考えることができない自分がいるなと感じました。 
 

 --(ある教区での話し合いの報告)・ 「認める」ということは、無意識(その時の自分の気分)によって認めたり、認めなかったりしている。 
・ すごく難しい、認めるとか認めないとかどうでもいいこと、というような意見がでました。 
 自分の主体的立場から、認める場合とはどんな場合なのか、認めない場合とはどんな場合なのかについて話しました。 
・ 認める場合として、自分の好きな人(もの)。家族・友人・恋人・先輩・恩師・食べ物・服・歌・スポーツ等。とにかく自分の好きなもの。 
・ 逆に認めないものは、自分の嫌いなもの、という意見が出ました。 
  両方の意見を見比べてみると、認める場合も認めない場合も自分の持つ価値観次第ではないかという結論に達しました。 
  次に私達が認めない世界から、認めていく世界へ。そうしていくには、どうすればいいかという話し合いをしました。 
・ 認める対象を人に限定して、基本概念としてコミュニケーションをとることが大事ではないか。その人と話をして、嫌いな人とでもまずコミュニケーションをとることによって間にある垣根が下がっていくのではないかという意見が出ました。それが信頼関係の第一歩ではないか。 
・ しかし、それはお互いの価値観が同じになるということではなく、ある意味価値観の違いがあっても当然だから、大事な点は、お互いの間にある垣根が下がるということである。 
・ その基本概念を自分のものとできないならば、相手を嫌いになることで、相手のいい所も見えなくなってしまう。 
・ 自分の世界に入れない人は、疎外せずにはおかなくなってしまうのでは。 
・ 自分の世界が小さくなるため、気持ちが窮屈になり、またゆとりも持てなくなる。 
・ そして闘争・競争の原因も作りやすい。 
この基本概念を自分のものとすることで、自分のこころに変化が生まれてくるはずであるという前向きな意見が出ました。 
・ 価値観が違っても、自分の価値観という殻を破り、相手が存在していることの意味を考えれるようになる。価値観が違っても認められる人もいる。 
・ 価値観が違う人との付き合いも、自分にとってプラスになると考えられるようになる。 
・ 自分の価値観はその時の環境で、常に変化している。ということは自分の価値観ほど逆に頼りないものはないことに気付ける。 
・ 自分自身の世界が広くなり、気持ちにゆとりが持てる。 
  以上のような意見が出ました。このような基本概念をもとに、私達が認めない世界から、認めていく世界へ変わっていけるのではないかという話し合いとなりました。 
 

 

  以上、ディスカッションの内容でした。発言の一部を取り出したため、原意を損ねているかもしれません。
  その場合、ご面倒ですがお申し出下さい。
  ディスカッションの後は、近くのホテルで打ち上げ!!みんなで楽しく食事をしました。写真がないのが残念!!
 
 

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