福岡教区仏教青年連盟 広報部長 三好慶祐
「分け隔てていたものは、一体何だったんだ」
いきなり、何か遠い処にいた自分が呼び覚まされたような、朝にとてつもなく大きな音の目覚し時計で起こされたような、そんな思いにさせられました。「分け隔てていたものは、一体何だったんだ」。七月二十二日、「仏教青年連盟夏の聞法会」で、講師にお招きした久保山教善(真宗大谷派明願寺住職)さんの言葉です。 昨年度までの仏青の定例会は、ほとんどが連盟主催の行事に関する会議や懇親に終始しており、私も例外なくそのような事に関わってきました。その中で、「仏教青年って何だろう」「私たち以外の青年の集まりと何か違うのだろうか」という疑問は、心の奥底にずっと忍んでいました。 そんな中、昨年度「仏青冬の聞法会in韓国」でおこなった現地学生との交流会での感想を、定例会で語り合った事を機に、今年度の定例会ではテーマを持ち寄っての話し合いが始まりました。そしてこれまでのまとめとしてこの聞法会は開催されたのです。 講師依頼の際「私は答えは出せない。問いを投げかけることしかできない」と言われていた久保山さん、しかしその問いは私の想像以上に深く、大きいものでした。 「私は誰とともに生きてこなかったか」
「分け隔てていたものは、一体誰だったんだ」
常に「親鸞の処に帰りたい」という願いを持ち続け、「現状維持を持ち始めたときに、ほころびは始まっている」と歩みを止めることへの警鐘を鳴らされた上で、「仏法に生きるとは、根っこを確かめあう、課題を共有しあうということである」という久保山さんの姿に、私は「仏教青年」というのは仏教≠根本として、あるいは仏教≠目指して歩みを続ける若者達の集まりなのではないのかと考えさせられ、そして自分はその「仏教青年となりえているか」「歩み続けているのか」という問題が喉元に突きつけられたような思いがします。 「分け隔て続けているものは、私ではなかったのか」と。
『教区通信 ふくおか』(第57号、11月1日発行)より抜粋
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日時: 2000年7月22日(土)14:00‐
場所: 本願寺福岡会館 テーマ: 「認め合える世界へ」 「なぜ殺してはいけないのか」 講師: 真宗大谷派明願寺住職 久保山 教 善 さん 参加費:1,000円以上 |