教育に関する勅語
勅語とは、旧憲法 (大日本帝国憲法) のもとで、天皇が大権について、他の機関に参与をまたずに、
直接に国民に対して発した意思表示。
我々が 「国民学校」 (昭和16年〜22年まで行われた国の小学校の名称)に通学していたころ各学校
には、「奉安殿(
ほうあんでん)」という蔵のような土蔵造り(建坪2〜3坪)があり、その中に御真影や「教育
勅語」が収められていた。 因みに、私の小学校は信州 伊那谷 泰阜村南小学校である。
奉安殿
(当時の写真が無いので他の似た写真)
そして、毎年2月11日の 【紀元節】(現在の建国記念の日) に各学校では、生徒全員と父兄も出席し、
記念式典を開催し、校長先生が1年に1回、その奉安殿から「教育勅語」を式場までお運びし、式典に
て厳粛に読み上げ、その間我々は、軽く頭をさげ拝聴したのである。
ここで「紀元節」とは、神武天皇が即位した日とされ、一月一日を太陽暦に換算した二月一一日を祝日
としたもの。この日を【皇紀元年】とした。この皇紀元年は、現在の西暦より660年多い。当時日本は、
この「皇紀」を使用していた。
更に申せば、校長先生が奉安殿から「教育勅語」を式場までお運びするときは、漆塗りのような四角の
盤に乗せ、自身の頭より高く両手で持ち上げて式場まで移動したのである。そして、その「教育勅語」の
移動のときは、我々は廊下の両脇により、通過するまで頭をさげて見送ったのである。
そして、昭和22年ころだと思うが「奉安殿」は、新憲法により不要となり、土蔵のような「奉安殿」を、我々
も手伝い(私達が小学校6年生ころ)解体したのである。
以下、「教育勅語」は、我々国民学校1年生頃から「歴代天皇の名前」(神武天皇から第124代の昭和天
皇まで)と共に意味も分からず暗記させられたのである。
因みに、我々が学んだ当時の教育勅語には、下記のような カナのルビ は無かったし、もちろん口語文
訳も無く、先生の読み上げで何回も復習したのである。