三浦按針の歴史散歩

横須賀市自然・人文博物館にて

 三浦按針(みうら あんじん)ことウイリアム アダムス(William dams)は、400年あまり前に命がけの航海を経て、日本に漂着したイギリス人でした。そして徳川家康にその人柄と才知をかわれ、外交顧問として、旗本並の待遇で三浦郡逸見邑(現 横須賀市)に領地を授かり、「青い目のサムライ」として浄土寺の近くに屋敷を構えた。もちろんチョンマゲを結い、裃(かみしも)に大小の刀を差し、日本式の複雑な礼儀作法を軽蔑することのない完全なサムライでした。信条的にもアダムスは、日本文化を尊重し理解を示す柔軟な思考で対処していた。

 1600年4月、アダムスはオランダ船の航海長として日本近海で航海最中難破し、皆飢餓と病気で立ちあがるのがやっとの有様で、豊後の国(今の大分県臼杵市)に漂着した。このことが五大老筆頭の徳川家康に報告され呼び寄せられた。時に関が原の合戦の5ヶ月前のことで、アダムス36歳、家康59歳であった。

 家康は、アダムスを39日間大坂(大阪)の牢に入れ日々呼び出し質問をした。しかし、

アダムスの論理的思考と科学的知識、強い愛国心が家康の心を動かした。この陰には、当時イギリスは、スペインとポルトガルと戦っていた。しかも日本において、この両国は外交上独占的立場を確立していて、アダムスに対し宣教師たちの誹謗中傷があった。その内容とは、イギリス人は盗賊かつ略奪者であると進言し。更に、早く処刑するよう再三にわたり進言していたという経緯があったからである。

 しかし家康が、些細なことを頼んでも受け入れる度量の広さの人柄のアダムスに大変好意を持ったため全員釈放された。後の英国領事の著書において「洞察力のすぐれた家康は、ポルトガル人通訳の中傷とアダムスの陳述の中から真実をえり分けた」と表現している。

 したがって、家康は戦国時代を生き延びた百戦練磨の老練で、器は大きく如何に洞察力にも優れていたか、この一件でも物語っている。家康が死亡し2代目将軍「秀忠」は家康ほどの度量も器もなく、大坂の陣においてキリスト教徒等が豊臣側についたことなどにもより、家康のときのような外交顧問としての役割は影が薄くなっていた。しかし秀忠は、アダムスに貿易を許した。そして東印度会社と契約し平戸(長崎県)にも自宅を構えた。


 アダムスが56歳の生涯を閉じたのは、1620年4月平戸の自宅で病気により亡くなったというのが信頼できる説である。息子ジョセフは、その後二世三浦按針として父の領地である逸見邑を引き継いで統治した。


追記;アダムスより100年後に生まれたアイルランドの作家ジョナサン・スウィフトの書いた「ガリバー旅行記」はアダムスがモデルだとする説がある。この本の中に確実に日本が出ている。又、アメリカのドラマ「将軍」のモデルになり大ヒットした。
参考資料 「按針に会いに」 著者 逸見道郎(浄土寺住職)         

浄土寺近くの按針屋敷跡(現鹿島神社)      塚山公園の按針塚供養塔                      
 

2008.6.1撮影        右が按針 左が妻ゆき

 

長崎県平戸の外人墓地

 家康は、この地に石高220ないし250石、農民80〜90人を与え「三浦按針」という名前まで与えた。按針は、領民に葡萄を栽培させワインを造り、パンも焼かせた。

 現在の浄土寺(当時は藁葺屋根)    江戸 史蹟 三浦按針屋敷跡

 

   (浄土真宗 現住職 逸見道郎) 日本橋室町1丁目按針道り(日本橋より3分)

 

1.この寺にアダムスが持ち歩いたといわれる「念持仏」がある。像の高さ30cmで
造の観音菩薩像 制作は南北朝時代

2.アダムスが東南アジアから持ち帰ったと思われる経文が書かれた「唄多羅葉」
(ばたらよう)もある。

3.この日、逸見住職にお会いし、事前に連絡をとり何人かで来て頂ければ、
このお宝ものをお見せすることが出来ますとの、お言葉を頂きました。


 追記; 江戸日本橋に按針の屋敷があった。家康に学問を教え、外交顧問として活躍した。「按針屋敷跡の標石」は日本橋室町1丁目 按針通りの中程に建っています。

この標石には、史蹟として以下のとおり英語とともにきざまれている。

「ウイリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生まれ、慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給ぜられた。造船・砲術・地理・数学等に業績をあげ、ついて家康・秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)4月24日平戸に没した。

日本名三浦按針は相模国三浦逸見に領地を有し、また、もと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで按針町と呼ばれた。」


            

ヤン・ヨーステンの像(東京駅八重洲地下街センタースポット)2010.3.1撮影

余談ですが、現在の東京駅付近の八重洲の由来は、アダムスと同船に乗っていたオランダ人ヤン・ヨーステンという人が砲手の経験があり、関が原の戦いに参加したのではないかと言われている。真偽は定かでないが、その功績により徳川家康が通訳としても重要され現在の日比谷あたりに屋敷を与えた。彼は通称ヤン・ヨース、日本名を耶陽子(やよす)と呼び、八重洲の地名はここに由来する。「八重洲」は、当時このあたりを「八代洲河岸」といった。その後大正3年(1914)に東京駅が開業するとこの附近の大半は東京駅となるが昭和29年(1954)には東京駅一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。

 

浄土寺・鹿島神社への経路案内  京浜急行電鉄 逸見駅より徒歩約10分 

按針塚供養塔への経路案内 鹿島神社より徒歩約30分(急な坂道・石段150位)


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